第5話 二人きりという現象
翌週の火曜日から夏休みになるという前週の土曜日だった。
朝から曇りがちで、洗濯物を外に出すかどうか、澪の母は何度も空を見上げていた。
「……ほんとに、みえるの?」
玄関先で、半信半疑の声。
「来るって、言ってた」
澪はリビングのテーブルを片づけながら、淡々と答える。
「澪に、お友達が」
大げさなくらい、目を見開く。
「数学を教えてほしいって言われただけだから」
「それを『友達』って言うのよ」
玄関のインターホンが鳴った。
澪が出るより早く、母が玄関に向かう。
「はぁい!」
扉が開く音。
「こ、こんにちは。小宮です」
普段より少し高めで、緊張した声。
「あらっ、まぁ……!」
母の声が一段階上ずった。
「いっ、いらっしゃい。澪の……お友達、よね?」
母は楽しそうだった。
――いや、不必要に楽しそうすぎる。
と、澪はジト目で母を見る。
「まっ、まあ、てっきり女の子だと思ってたら……男の子だったなんて!」
「あっ、はい! あの、ぼく、数学が苦手で……澪さんに、ぜひ教えてもらえたらと……」
廊下の奥でこのやりとりを聞きながら、澪はため息をついた。
「母、声、大きすぎ……」
小宮は澪に案内されて、二階の澪の部屋へ行く。
澪の部屋は、思っていたよりも簡素だった。
小宮は、入った瞬間、どこを見ていいのか分からず、視線を彷徨わせた。実は同年代の女子の部屋へ入るのは初めてだったからだ。
ベッドは壁際に寄せられ、机と本棚が部屋の大半を占めている。
ぬいぐるみやアイドルのポスターとかいうようなものは無く、代わりに天文年鑑と数百冊はあろうかという本が並んでいた。
本好きの小宮は咄嗟に並んでいる本の背表紙に目を走らせる。
しかし、それは小宮の書棚に並んでいる本とは明らかに種類が違っていた。
五段に分かれている本棚の中身は大雑把に言って、上二段は何年か分の天文年鑑や観測記録集。背表紙の高さが揃っている。
三段目は物理学や宇宙論の入門書、論文集。付箋が何枚も挟まっている。
四段目は少し雑然としている。アシモフなどの科学読み物やSF小説、哲学の入門書、そして小説が少々。その中で、宮沢賢治の全集があるのが小宮には意外だった。
五段目は『Newton』や『ナショナルジオグラフィック日本版』といった科学雑誌のバックナンバー。観測機器の解説書。
おそらく、使う頻度と信用度で自然にそうなったように小宮には思われた。
「すごいな……」
思わず声を漏らした小宮に澪は、
「何が?」
と、訊く。
「いかにもリケジョの本棚じゃん」
「そうかな……?」
と、澪は少しだけ俯いて言った。
――女の子の部屋、というより研究室の縮小版みたいだ。
小宮はそう思い、少しだけ緊張が増した。
ここは、天野澪の「パーソナルスペース」なのだと、はっきりわかったからだ。
母はリビングで、椅子に座ってパソコンを打っている。雑誌の原稿だ。
澪の母親はサイエンスライターだった。
澪が中学生くらいになると、母はときどき書きかけの記事の草稿を渡してきた。
「ちょっと読んで、感想聞かせて」
澪は、分からないなりに目を通し、気になったところに線を引いて母親に返したのだった。
澪の部屋の座卓の上には、ノートと問題集。
澪は向かいに座り、ペンを持った。
「どこが分からない?」
「二次関数……この問題です」
小宮は思わず敬語になる。
「想定内」
澪はすぐに式を書き始める。
説明は簡潔で、感情が入らない。
小宮は必死に頷きながら、ノートを取っていた。
「ここ、平方完成」
「あっ、そうか……」
「公式を覚えるより、形で理解した方が楽」
小宮は何度も「なるほど」と呟いた。
しばらくして。
「二人とも、おやつどう?」
母が一階からおやつを持ってきた。
クッキーと英国紅茶。
まるで父の来客用のセットだった。
「ありがとうございます……」
小宮は丁寧に頭を下げる。
「澪、ちゃんとやってる?」
「教えてる」
「教えてる……て、何だか上から目線ね。ごめんね、小宮くん」
「いえっ、ほんとですから」
母はそれだけ言うと、下の階へ戻っていった。
休憩。
沈黙。
時計の音が、妙に大きく聞こえる。
小宮は紅茶を一口飲み、少し迷ってから言った。
「……月、最近どう?」
澪は一瞬、顔を上げた。
「どう、とは」
「いや、その……」
小宮は言葉を探す。
「変な光とか」
澪は少しだけ視線を落とす。
「観測してる」
「……やっぱり」
「でも、確定的なことは何も言えない」
断定しない。
それが、澪の癖だった。
会話は、そこで止まった。
ふと気がつく。
下の階で物音が聞こえない。
母の姿が、いつの間にか見えない。
夏の太陽がもうだいぶ西へ傾いていた。
家の中は、静かだ。
澪はふと気づく。
――今、家にいるのは。
自分と、小宮だけ。
理由はない。
何か起きるわけでもない。
それなのに。
「こわいくらい静か……」
「こわい?」
「うん、東京じゃ、こんな静かな夕方なんて無かった……」
胸の奥が、わずかにざわつく。
まるで、何かが出現してもおかしくないような雰囲気だ。
「……もう少し続き、する?」
「う、うん」
小宮の声も、少し硬い。
と、その時。
「天野さん!」
小宮が突然、窓の外を指さした。
「あっ、あれっ!?」
「なにっ?」
つられて澪も外を見た。
が、澪は何も見ることが出来なかった。
「小宮くんっ!?」
「みっ、見た……」
「なにを?」
「黒い三角形が……くっ、雲の間から……」
「黒い三角形……それって?」
「きっ、気球の……」
「カメラに写っていたものと……同じ?」
「うん……おそらく」
小宮の声は、確信というより、必死に自分を納得させようとしている響きだった。
澪は一瞬、言葉を失い――すぐに首を横に振った。
「そんなこと……」
反射的に、否定しかける。
「小宮くん、雲が低い。夕方は目の錯覚も起きやすいし……」
自分に言い聞かせるような口調だった。その言い方が、妙に父に似ていることに気づいて、澪は口を閉じた。
「でも……」
「三角形に見えただけかもしれない。鳥か、雲の影か……」
「うん……」
小宮は頷いたが、その目はまだ窓の外を追っている。
澪も、もう一度だけ外を見た。
曇った空。
雲が、ゆっくりと流れているだけだった。
何も、無い。
同じ空を見ていたはずなのに、見えたものが、違う。
「ごめん……」
小宮が小さく言った。
「変なこと言って。数学やってて疲れてたのかもしれない」
小宮はそう言って、頭を掻いた。
「いい」
澪は即座に答えた。
「観測と錯覚の境目は、誰にでも曖昧」
それ以上、この話はしなかった。
そのまま、数学の続きを少しだけやって、小宮は日が沈む前に帰っていった。
母はいつの間にか戻っていて、
「どうだった? ちゃんと勉強できた?」
と、何事もなかったように聞いてきた。
澪は「普通」とだけ答えた。
普通だった。
たぶん。
――そのはずだった。
* * *
その日の夜。
夕食を終えたあと、澪は父の書斎の前で足を止めた。
ドアは半開きで、父は机に向かってノートパソコンを見ている。
画面には数式とグラフが並んでいた。
「……父さん」
「ん?」
短く、しかし不機嫌ではない返事。と言うか、父が澪につらく当たることは今までも一切無かったが。
「今日さ……」
澪は少し間を置いて続けた。
「友達に、この前の月の話を、少し……」
父の指が、キーボードの上で止まった。
「また?」
声は穏やかだった。
「観測はいい。だが、想像と混同するなよ」
「わかってる」
澪は即答した。
「断定できないことは、言ってない」
「ならいい」
父はようやく椅子を回し、澪の方を見る。
「世の中で起きることは、全部、物理法則の範囲内だ」
言い切りだった。
「未知なだけで、超常じゃない」
「UFOも?」
「その、『UFO』という言い方は、やめなさい」
父は澪の方を真っ直ぐ見て言った。
「UFOという言葉には、最初から結論が混ざっている。飛んでいる物体だと、勝手に決めつけているからだ」
澪が何か言おうとすると、父は続ける。
「正しくは UAP。未確認空中現象だ。それ以上でも、それ以下でもない」
淡々とした口調だった。
「現象なら、必ず原因がある。大気、光学、電磁波、観測機器の誤差……」
「原因が分からないからといって、すぐに『何かが飛んでいた』に飛躍するのは、科学じゃない」
少しだけ、語気が強くなった。
「分からない、という事実を、分からないまま扱う。それが理性だ」
父はそこで言葉を切り、静かに付け足した。
「――だから私は、『UFO』という言葉を信用しない」
「でも――」
この時、澪は珍しく父に返した。
「それで説明できないものが残ったら?」
「観測が足りない」
迷いのない声。
「人間は、自分の理解を超えたものに物語を与えたがる。オカルトは、その最たる例だ」
澪は黙って聞いていた。
父の言うことは、正しい。
父の理屈は、世界を説明してくれる。
けれど、世界を「納得」させてはくれない。
「……今日ね」
澪は、ふと口にした。
「小宮くんは、空に何かを見たって言ってた」
「澪は?」
「見てない」
「なら、それが答だ」
父はそれ以上、掘り下げなかった。
「澪は冷静だ。母さんに似ず」
それは、褒め言葉だった。
「だが」
父は一瞬だけ、言葉を選んだ。
「観測者が複数になった時、同じ錯覚を見ることもある」
「……集団幻覚?」
「そう呼ばれるものも、物理学と心理学で説明できる」
父は立ち上がり、澪の肩に軽く手を置いた。
「君は、事実だけを見ろ……分からないことは、分からないままでいい。それを、宇宙人や怪異で埋めるな」
澪は小さく頷いた。
「うん……」
書斎を出て、自分の部屋に戻る。
机の上には、ノートと、小型の観測カメラ。
澪はカーテンを少しだけ開け、夜空を見上げた。
雲が、月を隠している。
父の言うことは、いつも正しい。
澪は、子供の頃を思い出していた。
父と話すと、決まって問い返された。
「それは、どういうことかな?」
「定義を言ってごらん」
理系に進んでほしい、という気持ちがあったのだろう。そうした問いかけは、澪にとって当たり前だった。
――物理法則で、説明できるはずだ。それでも……。
「見てない、だけ……」
澪は、小さく呟いた。
見ていないことと、存在しないことは、同じではない。
断定しない。
それが、澪の癖であり、父から受け継いだ理性でもあった。
しかし、その理性の奥で。
何かが、まだ、引っかかっていた。
雲の向こう。
空の、さらに向こう。
世界は、本当に――それだけで説明できるのだろうか。
澪は答えを出さないまま、カーテンを閉めた。
* * *
翌週、月曜日。
明日からの夏休みを控え、朝の教室は、ざわついていた。
「土曜日は、ありがとう」
小宮が澪に話しかけてきた。
「うん」
澪は短く答えた。
「あれ、こわかった……?」
小宮が、思わず付け足す。
「えっ?」
周囲の空気が、ピタリと止まった。
「こわかった?」
「なに、それ?」
「二人で、何かしてたの?」
視線が一斉に集まる。
「いや、だから……」
小宮は慌てて言葉を探す。
「静かで……その……」
「静かなところ?」
「え、なに? お化け屋敷?」
「天野さん、小宮とどっかに出かけたの?」
「ちがっ……」
澪は否定しようとして、言葉を切った。
事実を説明しようとすればするほど、話が歪んで伝わる予感がした。
「家で……」
ボソッと言う。
「家?」
「二人で?」
即座に、ざわめきが一段階上がる。事実を言ったところで、想像が想像を生む。
「ええっ!?」
「それって!?」
「なにそれ、進展早くない!?」
さすがの小宮も顔が赤くなっていた。澪が慌てて言った。
「ちっ、違います! 勉強です!」
「また、またぁ」
「勉強と称して家に遊びに行ったの?」
澪は机に視線を落とした。
小宮が家に来た、ということは事実である。しかし、それ以上、憶測でものを言われても……。
――UFO騒動も、そんなものかも知れない。
何かを見たことが、UFOを見たとなり、空飛ぶ円盤を見たという「事実」として拡散される。
ふと、視線を上げる。
教室の前の廊下。
篠原が、無言で歩いて行った。
澪の胸の奥が、わずかにざわついた。
「……なるほど」
篠原は誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
チャイムが鳴る。
朝のホームルームが、始まる。
何も変わったことは起きていない。
けれど。
確実に、何かは動き始めていた。
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