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それでも私は地球を選ぶ  作者: 喜多里夫


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第4話 アリスタルコスの光

 翌朝。


 生徒昇降口の掲示板に貼られた学校新聞の前に、生徒が何人か集まっていた。


「天文部特集だってさ」


「へえ……」


 紙面の中央に、写真が一枚、大きく載っている。

 スペースバルーンを上げる前、ゴンドラに搭載されている計器の点検をしている少女の姿。


「……この人、誰?」


「知らないのぉ? 3組の天野さんじゃん」


「えっ、あの優等生の!?」


「ずるぅぅいっ。頭もいいし、見た目もこんなに美人だなんて」


「写真、やけに気合入ってない?」


 女子たちが喧しい。


 誰かが指で示す。

 確かに、構図が妙に整っていた。

 横顔に近い角度。視線はファインダーの先。無意識の集中。


「誰が撮ったんだ、これ?」


「どうせ小宮だろ」


「だよな。なんか被写体への『愛』を感じるもん」


 男子生徒が笑いながら紙面の下を読み上げると、素っ頓狂な声を上げた。


「『他の写真はWEB版にて(有料)』って、なんだよ、これぇ!」


「はあぁぁっ?」


「有料?」


「新聞部、いつの間に商売始めたんだよ」


 笑いが起きる。


「というかさ」


 誰かが、もう一度写真を見る。


「この写真、普通にかっこよくない?」


「それな」


「知らなかったけど、天文部って目立つんだな」


 写真は、もう勝手に独り歩きを始めていた。


 昇降口の前で、澪は一瞬、足を止めた。


 掲示板に貼られた学校新聞。

 その中央にある写真を見た瞬間、思考が一拍、遅れる。


「……?」


 自分だ、と理解するまでに、ほんの少し時間がかかった。


 写っているのは、計器の点検をしている少女。

 横顔で、表情は硬い。けれど、視線だけが異様に澄んでいる。


「誰が……」


 小さく呟いてから、澪は気づく。

 この写真の中の自分は、自分が思っている自分より、ずっと他人の目にさらされる存在だということを。


 写真に写っている自分は、長い髪をポニーテールにしていた。

 屋外にもかかわらず、肌は驚くほど白い。日に焼けた痕跡がない。

 かと言って、病弱そうなわけでもない。

 むしろ余計な装飾を削ぎ落とした、理科室の標本みたいな清潔さがあった。

 つぶらな二重の瞳は、レンズの先を正確に捉えている。

 鼻筋はやや高く、唇はやや薄い。感情が読み取りにくい顔立ちだ。


「……天野さんて、こんな顔してたんだ」


 誰かのそんな声が、澪の耳に届いた気がして、彼女は反射的に肩をすくめた。


 ——見られる、というのは、観測とは違う。


 そのことを、澪は初めて実感していた。

 澪は無言で掲示板から目を逸らし、少しだけ歩調を早めた。


     * * *


 この年の七月七日。

 天気予報では、数日前に「梅雨明けしたとみられる」と言っていた。

 七夕の前に前線が消えるのは、近年では珍しくないらしい。


 佐久の空はすでに夏の顔をしていた。

 日中の熱を残した空気が、夜になると一気に軽くなる。澪はそれを、肌でではなく、星の見え方で判断する。


 ベランダに据えた反射望遠鏡に、澪は慣れた手つきで目を近づけた。

 照準は月。満ちかけの、少し欠けた月だった。


 大気の揺らぎが少ない。

 ピントを詰めると、クレーターの縁が、まるで線を引いたようにくっきりと浮かび上がる。


「……いい条件」


 独り言は、数値にならない感想だった。


 月面の影が、昼と夜の境界――ターミネーター――を強調している。

 澪は、目で追いながら、頭の中で地形を分類していく。

 衝突痕、溶岩流、古い高地。

 ここは静かだ。少なくとも、今は。


 ふと、学校の授業が脳裏をかすめた。


 言語文化――。

 先週やった教材。『竹取物語』。


 月から来たかぐや姫。

 迎えに来る月の使者。

 人の手の届かない世界。


「……昔の人は、月を見て、そう考えたんだ」


 澪は、感心とも納得ともつかない気持ちで、もう一度月を覗いた。


 科学的に言えば、月は地球の衛星である。

 生命は確認されていない。

 音も、空気もない。


 それでも――。


 あの時代に望遠鏡もスペクトル解析もなかった人間が、夜空に浮かぶあの光を見て、「物語」を作ったこと自体は、合理的だと思う。


 わからないものは、意味を与えられる。

 意味は、言葉になる。


 澪はちょっと望遠鏡から目を離し、肉眼で空を見上げた。


 月の横に、こと座のベガ。

 東の低い空には、わし座のアルタイル。

 間に、薄く天の川。


 星座の名前が、ほとんど反射的に浮かぶ。

 覚えようとしたわけではない。

 好きだから、覚えただけだ。


 再び月を見る。


 そういえば――澪は部室での塚田の声が、自然と頭に浮かんだ。


「だからさぁ、月の中って空洞なんだって」


 塚田が、いつもの調子で言っていた。


「だっておかしくない? 地震計の記録。アポロの時さ、月震が何時間も続いたって話」


「ベルが鳴るみたい、ってやつだね」


 塩原が薄笑いで相槌を打つ。


「それは誇張です」


 澪は、即座に訂正した。


「月は地殻が厚く、減衰が遅いだけ。内部が空洞である必要はありません」


「でもさあ……」


 塚田は簡単には引き下がらない。


「重力異常もあるじゃん。マスコンとか」


「質量集中です。溶岩流の名残」


「じゃあ怪光現象は?」


「一時的なガス噴出。ラドン。帯電粒子」


 澪は、淡々と答えた。


 そんなやりとりを思い出した。


「科学的に説明出来る」


と、澪は呟いた。


 ――アリスタルコス。


 月面では珍しいほど明るいクレーター。

 アルベドが高く、周囲の海とは明らかに色調が違う。

 反射率の違いは、成分の違いを示している。


 澪はピントを詰め、呼吸を整えた。


 クレーターの縁。中央丘。

 影の落ち方は正常。地形の歪みもない。


「……異常なし」


 小さく呟く。


 その時。


 澪は視野の端に、わずかな変化を感じた。


 ――明るさ。


 一瞬、ほんの一瞬だけ。

 アリスタルコスの内部が、脈打つように光った。


「……」


 澪は息を止めた。


 見間違いではない。

 少なくとも、そう判断できるだけの観測経験はある。


 再び、光。


 今度はわずかに青白い。

 クレーターの中央丘付近から、滲むように。


「ガス放出……?」


 口をついて出た仮説。


 月内部からラドンなどのガスが噴出し、太陽風や紫外線で発光する。

 理論上は成立する。

 実際、アリスタルコス周辺はTLPの報告が多い。


 だが。


 澪はタイマーを確認した。

 月は夜側。太陽光は当たっていない。


 ――発光源は、内部?


 澪は、ゆっくりと接眼レンズから目を離した。


 心拍が、はっきりと速くなっている。


 理屈を探せ。

 必ずある。


 人間は、理解できないものを「異常」と呼ぶ。

 理解できないからといって、超自然になるわけではない。


 澪はノートを開き、震えないように意識しながら書き込む。


 ・観測時刻

 ・視野条件

 ・光度変化


 数字に落とし込めば、現象は現象になる。


 けれど。


 書きながら、澪は気づいていた。


 ――説明は、いくつも思いつく。


 だが、そのどれもが「仮説」で、どれ一つとして「確定」ではない。


 しかも、最も単純な説明が、どれにも含まれていない。


 「錯覚」。


 その可能性を、澪は意識的に除外していた。


 自分の観測を、自分で否定すること。

 それは科学者にとって必要だが、同時に最後の手段だ。


 もう一度、望遠鏡を覗く。


 アリスタルコスは、何事もなかったかのように静まり返っていた。

 白く、冷たく、死んだ天体の顔。


 澪は、月を見ながら思う。


 ――月は、何も語らない。


 だが、何も起きていないふりをするには、

 さっきの光は、あまりに具体的だった。


 理屈はある。

 説明もできる。


 それでも。


 澪の中に、一つだけ残る感覚があった。


 ――説明のつかないものを見てしまった。


 その考えを、澪はすぐに否定する。


 世の中に「不思議」は存在しない。


 存在するのは、「まだ説明出来ない」現象だけだ。


 澪は、望遠鏡から目を離して夜空を見上げた。


 月は、何も答えなかった。


     * * *


 その夜遅く、父は書斎で資料を読んでいた。


 トン、トン、トン。


 澪はドアをノックする。


「お父さん」


「ん?」


「さっき、月を観測していて……」


 澪は、出来るだけ客観的に説明した。

 感情を挟まず、事実だけを。


 父は、最後まで聞いてから、眼鏡を外した。


「錯覚だろう」


 即答だった。


「夜の観測は、集中力を消耗する。疲れていると、ありもしないものが見える」


「でも――」


野辺山(のべやま)に訊いてみたらどうだ?」


「うん……」


 父は、穏やかな口調で続ける。


「科学は、再現性がない現象を扱わない」


 正論だった。


 澪は、それ以上言わなかった。


 言えなかった、のかもしれない。


     * * *


 その翌日。


 放課後のチャイムが鳴った。


 教室の空気が、一段階緩む。

 部活へ向かう声、帰宅の準備、椅子を引く音。


 澪は、ノートを閉じたまま、しばらく席を立たなかった。


 スマホを取り出し、メールをチェックする。


 《野辺山宇宙電波観測所》より。


 澪からの問い合わせに対する返答は、予想通りだった。


『該当時間帯に、特筆すべき観測異常は確認されておりません』


 澪は、画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。


 ――でも。


 頭の中で納得出来ていない。


 澪は立ち上がると、つかつかと小宮の席まで歩いていった。


「……小宮くん」


 自分でも少し意外なほど、声ははっきり出た。


 小宮は、顔を上げて澪を見た。


「えっ?」


「ちょっと、時間ある?」


 一瞬、周囲の視線が集まるのを、澪は感じた。澪の方からクラスメイトに話しかけることは珍しい。しかも、小宮に――。


「もちろん」


 即答だった。


「聞いてほしいことがあるの」


「なっ、なに?」


 澪は一拍、間を置いた。


「ここでは……ちょっと……」


 そう言うと、自分でも驚くほど自然に、廊下を示した。


 小宮は目を瞬かせ、それから小さく笑う。


「了解」


 二人が教室を出ると、背後で何人かの声が弾む。


「えっ、また?」


「やっぱり、あの二人……」


「意外だなぁ」


 澪は歩きながら、聞こえないふりをした。

 いつもなら、気にしない。

 けれど今日は、ほんの少しだけ、胸の奥がざわつく。


 廊下は、午後の光で満たされていた。


「昨日の夜、月を観測していた」


「天体望遠鏡で?」


「うん」


 それだけで、小宮は察したらしい。


「何か、見えたの?」


 澪は、頷いた。


「アリスタルコスというクレーター付近で、発光現象」


 小宮の表情が、少し引き締まる。


「……謎の光、ってこと?」


「そう呼ばれるものかもしれない」


 澪は、出来るだけ正確に説明した。

 光の位置、色の変化、継続時間。


 小宮は、無意識に腕を組んでいた。


「それで?」


「野辺山の観測所に問い合わせたけど、異常なし」


「お父さんは?」


「錯覚だと」


 澪は、そこで少し言葉を区切った。


「……でも、錯覚だとしても」


「記録が残ってる?」


「残してる」


 小宮は、ふっと息を吐いた。


「その……月の発光現象って、さ」


 声を落として言う。


「日本上空のUFO目撃記事と、時々リンクするんだよ」


「どういう意味?」


「月がよく見える夜」


「……」


「流星群でもない。ロケットでもない。なのに、UFO目撃事例が増える」


 澪は、この前、新聞部室で見せられた新聞記事を思い出した。


 アポロ帰還直後の、あの紙面。


「錯覚って言い切れない? ほら、月を見る人が増えれば錯覚も増えるとか」


「少なくとも、全部が全部、それで説明出来るとも思えないよ」


 渡り廊下の先で、部活へ向かう生徒の声が遠ざかる。


 二人の間に、静かな間が生まれた。


 澪は、しばらく考え込む。


「……2020年代に入って、各国の月探査は再び活発化しています」


 小宮が少し声を落として言う。


「だよね……例の『三角形』とも関係あるかも」


「全部、関連性があると思う?」


「相関関係があるだけで、因果関係は不明です」


 それから、少しだけ声を落とす。


「でも……偶然にしては、整いすぎています」


 澪の胸の奥で、何かが静かに繋がった。


「月……」


 小宮が、ぽつりと言う。


「月に、何かがあると思う?」


 澪は、すぐには答えなかった。


 理屈はある。

 説明も、仮説も立てられる。


 それでも。


「可能性は……ゼロではありません」


 澪は、慎重に言った。


「観測データが不足しています」


 小宮は、その答えを聞いて、少しだけ笑った。


「それ、天野さん的には『かなりある』て意味でしょ」


 澪は否定しなかった。


 廊下の向こうで、誰かの笑い声が響く。

 日常は、何事もなかったように続いている。


 けれど、二人の間には、

 もう戻れない線が、静かに引かれていた。


 ――月に、何かがある。


 その考えを、澪は初めて、誰かと共有してしまったのだから。


 澪と小宮が廊下の角を曲がり、階段の方へ歩いていく。


 廊下の窓から、午後の青空が見えていた。


「ねえ、小宮くん」


 唐突に澪が言った。


「アリスタルコス・クレーターの名前の由来って、知ってる?」


「えっ?」


 そんなことを訊かれるとは思っていなかった小宮は、答えに詰まった。


「ええと、由来?」


「そう」


 澪は頷いて、それから少しだけ間を置いた。


「アリスタルコスは古代ギリシアの哲学者でね、地球が動いてるって考えた人」


「……そんな昔に?」


「うん。少なくとも、そういう記録が残ってる」


 澪の口調は淡々としていた。

 誰かに何かを教えようというより、自分の中で確認しているみたいだった。


「でも、その考えは受け入れられなかった……正しいかどうかとは、別の理由で」


「別の理由……?」


「世界の前提を壊すから」


 澪はそう言って、窓の外に視線を向けた。


「正しいことでも、都合が悪ければ否定される……逆に、間違ってても、安心できるなら信じられる」


 小宮は、言葉を探して口を開きかけ、結局何も言えなかった。


「だから」


 澪は、ほんの少しだけ声を落とす。


「正しいことが、すぐ世の中に受け入れられるとは限らない」


 その言い方は、諭すでも、愚痴るでもなかった。

 事実を述べているだけの声音だった。


「小宮くん」


 澪が、再び小宮の名を口にした。


「月に……何かがあると思う?」


 小宮は、すぐには答えなかった。


 天井の照明を見上げ、少し考える。


「『いる』って言うと、オカルトっぽくなるけど」


 そう前置きしてから。


「『ある』なら、あり得ると思う」


「ある?」


「基地とか、構造物とか、観測装置とか」


 澪の心拍が、わずかに速くなる。


「誰の?」


「……誰かの」


 小宮は、苦笑した。


「人類か、誰か」


 澪は頭ごなしに否定しなかった。


「もし、月に何かがあるなら……」


 澪は言う。


「地球を、見ている? わたしたちが月を見ているのと同じように」


「可能性はある」


 小宮は、まっすぐに澪を見た。


「ずっと前から」


 その言葉に、澪の胸の奥が、かすかに震えた。


 理屈では、まだ何も証明できない。


 けれど。


 この世界に、自分たちの知らない視線がある。


 そう考えると、不思議と――怖くはなかった。


 むしろ。


「……確かめたい」


 澪は、そう呟いていた。


 小宮は、少しだけ笑った。


「だよね」


* * *


 二人が廊下を曲がったところで、会話の声は聞こえなくなった。


 篠原澄は、壁に寄りかかったまま、動かなかった。


 足音が遠ざかる。

 それを、最後まで確かめるように、静かに耳を澄ます。


 ――月に、何かがある。


 確かに、そう言っていた。


 篠原は、目を閉じた。


 ため息でもなく、諦めでもない。

 ただ、長い時間を思い出すような、短い沈黙。


「やはり……」


 誰に聞かせるでもなく、呟く。


 校舎の窓から見える空は、まだ明るい。

 月は、まだ見えない。


 それでも、篠原の視線は、自然とその方向へ向いていた。


 何かが、確かに動き始めていた。

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