第2話 高度2万5千メートルの異物
回収地点は、学校から自転車を漕いで三十分ほどの場所にある河岸段丘だった。
朝露の残る草が、靴の先を濡らす。
佐久平は空が近い。
「風が乾いている」と澪は思った。
佐久平の外れ。
千曲川の支流が長い時間をかけて削り出した崖が、年代順に積み重なった地層をそのまま空にさらしている。
舗装路を離れると、足元の砂利が音を立てた。
朝の冷気はまだ残っているが、陽射しははっきりと夏の色を帯び始めている。
「気球は順調に降下を続けています……ここが予測落下範囲のほぼ中央です」
澪はタブレットを確認しながら言った。
「誤差、二百メートル以内。風向も想定通りです」
「完璧だな」
丸山が感心したように言う。
「天野さんの計算、もう部活の域、超えてるよ」
「……たまたまです」
澪はそう答えただけだった。
「ねえねえ、この辺……夜中に怪光の目撃談、多いらしいよ」
塚田真琴が、段丘の縁に腰を下ろし、崖の下を流れる川を見下ろした。
「それって……どこかの研究所の観測気球じゃないの?」
塩原が冷静に返す。
しかし、塚田は突然、こんなことまで言い出した。
「ねえ、『甲府事件』って知ってる?」
部員たちの視線が、自然と彼女に集まる。
「1973年、山梨県の甲府市で起きたって言われてるUFO目撃事件」
塚田は、指を折りながら話し始めた。
「夜、ブドウ畑の近くに、オレンジ色に光る物体が落ちてきて……それを近所の小学生二人が見たの」
「小学生?」
塩原が訊き返す。
「うん。で、その中の一人が、『宇宙人に会った』って証言した」
塚田は少し声を落とす。まるで怪談話をするかのように。
「背が低くて、茶色っぽい服を着てて……銀色の物体のそばに立ってたって」
「銀色の物体って、完全にUFOじゃん」
丸山が笑う。
「しかもね、その子、数日間高熱出して、腕に謎の傷ができたって話」
「……それ、さすがに作り話じゃない?」
塩原が言う。
「でも当時、新聞にも載ったし、警察も一応調べてる」
塚田は言い切る。
「未確認だけど、『なかった』とは言われてない」
「ただ、それって後で当人たちが『嘘でした』って言ったって……」
スマホで記事を検索した中村が言うと、塚田は、
「ううん、最近になって『あの時はそう言わされたけど、やっぱり本当です』て言い始めたそうだよ」
と、言い出した。
このやりとりを澪は、ずっと黙って聞いていた。
「しかも甲府って、山に囲まれてて、星もきれいで、空を見上げる習慣がある場所なんだよ」
塚田は、ふと澪を見る。
「信州と、ちょっと似てない?」
澪は、その問いかけには答えなかった。
澪は、すでに結論の形を頭の中で組み立て終えていたのである。ゆっくりと口を開いた。
「それなら――」
澪は言いかけて、言葉を切った。
「説明できます」
「ほら、始まった」
丸山が楽しそうに言う。
「じゃあ天野先生、どうぞ」
澪は、少しだけ息を吸った。
「甲府事件は、目撃時刻、天候、証言の変遷を整理すると、大気中プラズマ現象と心理的補正で説明可能です」
「夢とか、勘違い?」
「集団暗示と記憶改変」
「……ロマンなくない?」
塚田がむくれる。
「事実は、ロマンを考慮しません」
澪はそう言い切った。その声は淡々としているが、迷いがなかった。
タブレットを見ながら言う。
「まず、目撃時刻は午後九時前後。当時の天文データを参照すると、その時間帯、火星が南西の低空にありました」
「えっ、火星?」
塚田が目を丸くする。
「1973年は、火星が比較的明るい年でした。地平近くでは、大気の揺らぎで赤く、瞬くように見えます」
澪は、指で空をなぞる。
「加えて、ブドウ畑周辺は気温差が大きく、陽炎が発生しやすい。低空で光源を見ると、動いているように錯覚する条件が揃っています」
「でも、落ちてきたって……」
塚田が言いかける。
「『落下』は、視点の問題です」
澪は即座に答えた。
「遠方の光源が、雲や地形で一瞬隠れると、急降下したように見える。航空機、気象観測用の発光体、あるいは流星の断片」
言葉が、迷いなく積み重なっていく。
「それでも、『見た』って言ってるんだよ」
塚田の、感情的というより澪のあまりに手際のよい説明を茶化すような声だった。
「警察の調査記録にも、物理的痕跡は残っていません。放射線量の異常も、金属片も、足跡もない」
澪は一息ついた。
「少なくとも、『物体』としてのUFOが存在した可能性は、かなり低いです」
一瞬、誰も言葉を発せなかった。
「……すご」
丸山が、思わず漏らす。
「大学の講義みたい」
塚田も、ぽかんとした顔で頷いた。
その時だった。
「でもさ」
小宮悠人が、ゆっくりと口を開いた。
「証言の一致点は、説明できてないでしょ」
澪は、小宮を見る。
「一致点?」
「うん。小学生二人、別々に聞き取りされてるのに」
そう言って小宮は、指を一本立てた。
「光の色」
二本目。
「物体の大きさ」
三本目。
「『音がしなかった』って点」
「子供の証言は、後からすり合わされることが多いです」
澪は即答した。
「当時の報道や大人の反応が、記憶を変える」
「それ、普通はそうなんだけど」
小宮は、食い下がる。
「最近の再証言の内容も……」
澪の眉が、わずかに動いた。
「ちょっと前、地元紙に載ってた記事。『子どもの頃は嘘だって言わされたけど、やっぱり見た』って」
小宮はスマホで記事を見ながら言った。
「二人の証言は、細部まで一致してる。しかも、昔の報道をなぞってない」
塚田が息を呑む。
「えっ、それって……?」
「もちろん、証拠にはなりませんよ」
塚田の方を見ながら小宮は言った。
「でも、『完全に説明できた』とも言い切れない」
澪は、黙って考え込んだ。
しばらくして、静かに言う。
「……証言は、物理データじゃないけど」
「うん」
「でも、歴史にはなる」
小宮は少しだけ笑って言った。
「でしょ」
澪と小宮の間に、奇妙な沈黙が生まれる。
理論と、記録。
観測と、記憶。
どちらも、空を見上げている。
少し離れた場所で、そのやり取りを聞いていた部顧問の篠原澄は、何も言わず、ただ川の流れを見つめていた。
その視線は、澪にも、小宮にも向いていない。
もっと、遠く——時間の奥を見ているようだった。
その時だった。
「あっ……!」
視線を崖へ移した一年生の高遠蓮が声を上げた。
「どうした?」
「ちょっと……」
みんなは高遠に近づき、しゃがみ込む。
河岸段丘の露頭。灰白色の岩肌。石灰岩の一部に、規則的な曲線が刻まれている。
「模様?」
塚田が覗き込む。
「違います」
澪は即座に言った。
「殻です。二枚貝」
「えっ、貝?」
「ここ、昔は海だったのでしょう」
一瞬、部員たちの間に沈黙が落ちた。
「……佐久平が?」
塩原が少々間の抜けた声を出す。
「はい。古生代の」
澪は指先で、岩の断面をなぞる。
「おそらくペルム紀」
「ペルム……?」
「約二億五千万年前」
「……桁がおかしい」
丸山が苦笑する。
少し離れたところから、声がした。
「ペルム紀ってさ」
小宮が歩み寄ってくる。
「地球史上、最大の大量絶滅が起きた時代だよね」
澪は、顔を上げた。
「……知ってるんだ」
「まあ、一応。こういう話は好き」
小宮は肩をすくめる。
「生物種の九割以上が消えたってやつ」
「正確に言うと、海洋生物の約96%、陸上脊椎動物の約七割」
澪は淡々と補足した。
「原因は、まだ完全には特定されていません」
「隕石?」
塚田が言う。
「有力説ではありません」
澪は首を振った。
「シベリア・トラップと呼ばれる超大規模火山活動。二酸化炭素と硫黄酸化物の大量放出。急激な温暖化と海洋の無酸素化……」
語りながら、澪は自分でも不思議な感覚を覚えていた。
――遠い。
けれど、確かに「ここ」にある。
「つまりさ」
塩原が言う。
「地球って、一回ほとんどリセットされてるってこと?」
「はい」
澪は肯定した。
「『ビッグ・ファイブ』と言って、地球は今までに五度の『大絶滅』を経験しています。今、ここにいる生物は、その後に生き残った系統の末裔です」
小宮は、崖と空を交互に見た。
「……それ、怖くない?」
「怖い、というより」
澪は少し考えた。
「当たり前のことです。環境が変われば、適応できないものは消える。生物にとって、永続は前提ではありません」
その言い方は、冷静すぎるほどだった。
「でもさ」
塚田が口を挟む。
「白亜紀末の恐竜絶滅の原因は隕石か小惑星だったんでしょう? 今度、また宇宙から何か来たら?」
「私たち、恐竜と同じ……?」
沈黙。
「あっ!」
今度は中村が大声を上げて空を指さした。
「見てくださいっ! あれっ!」
中村がもう一度叫んだ。
河岸段丘の上空。
白いパラシュートが、ゆっくりと降りてくる。
「来たぁっ……!」
「すげえ、ドンピシャじゃん!」
部員たちが空を見上げて騒ぐ。
パラシュートの下に、小さなゴンドラ。星嶺高校天文部、成層圏観測用気球のゴンドラだった。
「UFOみたい……」
「『甲府事件』の正体も、こんなんだったかも」
誰かが、冗談とも本気ともつかない声で言った。
塚田が、空を見上げたまま言う。
「科学だけど、ロマンだね」
澪は、その言葉を否定しなかった。
空は、何も語らない。
けれど確かに――
何かを、隠している気がした。
「ほんとにドンピシャだなぁ」
丸山が感心したように言いながら、草むらに半分埋もれたゴンドラを拾い上げた。
「天野さんの計算、やっぱ、すげえわ」
「……たまたまです」
澪はそう答えつつ、カメラの外装を確認した。
「レンズ、無事?」
澪は駆け寄り、すぐに確認する。
「……損傷なし。ログも、正常」
それなのに。
澪の胸の奥には、説明できないざわめきが残った。
* * *
学校へ戻って、地学準備室。
部長の丸山がパソコンを操作し、その左右から塚田と澪。丸山の背後に副部長の塩原が画面を覗き込んでいる。
映像が再生される。
眼下に広がる千曲川流域……日本列島……そして……。
モニターに、成層圏の映像が映し出される。
空は青が濃くなり、紫を帯び、やがて黒に近づく。
「……きれい」
塚田が息を吐いた。
「高度2万5千メートルを越えました……正確には25,147メートル」
その時。
「――止めて!」
澪の声が、はっきりと響いた。
「10秒、戻してください」
映像が巻き戻される。
黒に近い空域。
澪は画面の端を指した。
「ここ」
小さな点。
ノイズにしては、消えない。
「ゴミじゃない?」
「違います」
澪は再生を進めた。
「……相対速度が、ほぼゼロです」
室内が静まる。
「バルーンと、同じ運動をしています」
「つまり?」
丸山が促す。澪が答える。
「同じ空間を、同じ速度で『一緒にいた』ということでは?」
それを聞いた塩原が、ふっと息を吸った。
「どういうことだ?」
ズーム。
点は、わずかに歪む。
「……三角?」
塚田が声を落とす。
彼女は椅子から身を乗り出し、指を画面に向けた。
「絶対、人工衛星じゃないよね。速度おかしいし、形も——」
「おかしくない」
即座に遮ったのは塩原だった。
視線だけを塚田に向ける。
「解析、まだ終わってない」
「でも三角形だよ? 角度変わっても形が崩れてない」
「ブレ補正と圧縮の問題」
言い切り。
まるで、それ以上の話をする価値がないと言わんばかりに。
「みんな」
今まで黙ってモニターを見ていた篠原の声に皆が顔を上げる。
「今日は、ここまでだ」
それだけ。
理由も、説明もない。
「データは、私が管理する。個人でのコピーは禁止……この件は、口外禁止だ」
篠原は同席していた小宮の方に向かって念を押しように、
「いいな」
と、言った。
「……わかりました」
皆は素直に頷いた。
篠原は、それ以上何も言わず、部屋の照明を一つ落とした。
「さあ、今日は朝から疲れただろう。もう解散だ」
生徒たちは、まるで校舎から早く出て行けとでも言われているかのように感じたのだった。
* * *
校門を出るところで、自転車を押していた塚田が「納得がいかない」とでも言うような表情で言った。
「余計怪しいんだけど。『口外禁止』だよ? 普通言う?」
すると塩原がすぐに横から言った。
「……いいか、塚田さん」
普段と声音が違う。
茶化しではない。
「これ、何の予算で飛ばしたと思ってるの?」
「えっ?」
「SSHだよ。スーパーサイエンスハイスクール」
塩原は、空を仰ぐ。
「国の金。発表会あり。成果報告あり。評価あり」
指を一本立てる。
「で、発表会で何て言うつもり?」
間。
「……UFOを発見しました?」
塚田が、そう言いかけて固まる。
「そんなこと言ったらどうなると思う?」
塩原は続ける。
「笑われる。信じてもらえない。最悪、『管理が甘い』って言われる」
もう一本、指を立てる。
「予算打ち切り」
さらに一本。
「顧問交代」
最後に、手を握る。
「——天文部、廃部」
皆は静まり返った。
塩原は、はっきり言った。
「俺たち、遊びで空見てるわけじゃない。『研究』って名前つけてる以上、信用が全てなんだ」
塚田は、唇を噛む。
「……でも、本当にUFOだったら?」
「だったとしても」
塩原は即答した。
「ぼくたちが言う話じゃない」
丸山が、ゆっくりと口を開いた。
「まあ……そういうことだから、ここはとりあえず先生に預けておこうよ。なあに、悪いようにはならないって」
澪たち一年生は、そのやりとりを黙って聞いていた。
誰もが、見たものを「どう扱うか」で、立場を選んでいる。
信じるか。
否定するか。
黙るか。
そして澪は、まだ——
どれも選べない側に、まだ立たされていた。
窓の外では、何事もなかったかのように、午後の日が差していた。
* * *
夕方。
塚田真琴は、自室のベッドにうつ伏せになり、スマホの画面を食い入るように見つめていた。
両親は外出している。
部屋の電気は点けている。
カーテンも閉めている。
なのに、どこか落ち着かなかった。
「……やっぱ、おかしいって」
小さく呟く。
検索履歴には、似たような言葉が並んでいた。
――未確認飛行物体 隠蔽
――観測データ 回収 口外禁止
――研究者 突然 失踪
昼間の映像が、何度も頭の中で再生される。
黒に近い空。
そこに、ピタリと「居た」三角形。
気象観測でもない。
人工衛星でもない。
でも、動いていた。
「……あれ、絶対……」
続きを口に出そうとして、やめた。
スマホの画面では、古いブログ記事が開かれている。
2000年代前半。
個人サイトの、今にも消えそうな文章。
――深く調べた人ほど、途中でやめている。
理由は書かれていない。
ただ、更新が止まる。
指先が、少し冷たくなった。
「……こわっ……」
別のページを開く。
――観測した側が悪いわけじゃない。
ただ、知りすぎると向こうからやって来る。
「……やって来る、って何がよ」
自分で言って、自分で怖くなる。
昼間、塩原が言っていた言葉がよみがえる。
――信用が全てなんだ。
――ぼくたちが言う話じゃない。
あの時の声は、冗談じゃなかった。
スクロールする指が、止まる。
――月は見ている。
地球を、ずっと昔から。
「……月?」
心臓が、ドクンと音を立てた。
ばかばかしい。
オカルトだ。
そう思おうとしても、昼間の映像が邪魔をする。
あれは、確かに「写っていた」。
偶然?
ノイズ?
圧縮の歪み?
でも――。
「……もし、さ」
塚田は、声を落とした。
「深掘りしたら……消される、とか?」
自分で言って、思わず肩をすくめる。
その瞬間。
――ピンポォォン。
「ひえっ……!?」
塚田は、ベッドの上で飛び上がった。
スマホが手から落ちる。
心臓が、さっきの倍の速さで鳴る。
「えっ、なに、今の……」
時計を見る。
夕方、6時過ぎ。
黄昏時――この世とあの世の境界が一番淡くなる時間。
もう一度。
――ピンポォォン。
息を殺す。
耳が、インタホンの方に集中する。
塚田の頭の中で、さっき読んだ文章がぐるぐる回る。
――向こうから来る。
――更新が止まる。
――月は見ている。
「……まっ、まさかっ?」
ゴクリと唾を飲み込んだ、その時。
インタホン越しに、やけに明るく、間の抜けた声が響いた。
「ちわぁぁっ、宅配便でぇす!」
「…………」
数秒の沈黙。
「……え?」
塚田は、力が抜けたようにベッドにへたり込んだ。
「……びっくりさせないでよ……」
心臓を押さえながら、深く息を吐く。
スマホを拾い上げると、画面にはさっきの検索結果。
しばらく見つめてから、画面を伏せた。
「……今日は、もう、やめとこ」
インタホンが、もう一度鳴る。
「すみませぇん、不在票入れちゃうんですけどぉ!」
「今行きまぁぁすっ!!」
塚田は慌てて立ち上がり、部屋を出た。
その背中を、白い月だけが黙って見ていた。
* * *
日が暮れた。
屋上の夜気は、澄み切っていた。
月は高く、白く、まるで古い観測者の眼のように、地上を見下ろしている。
篠原は端末を起動し、静かに姿勢を正した。
この通信は、会話ではない。
報告であり、照応であり、更新である。
「地上観測点αより、月位相体へ」
言葉を発した瞬間、
空気が、わずかに「張る」。
端末の画面に、漢字とも記号ともつかぬ文字列が流れ始めた。
『観測受理ス。照応座標、合致セリ』
音声は無い。
だが、意味だけが、直接、意識に刻まれる。
「本日、予定外映像を捕捉」
篠原は淡々と続ける。
「三角形状飛行体。高度、推力、軌道、いずれも地球技術体系に不整合」
一拍、置く。
「学生集団、映像を視認」
月からの応答は、少し遅れて届いた。
『視認者数、幾何?』
「複数」
『感応兆候アリヤ?』
「あり」
短い応答の往復。
だが、その裏で、膨大な情報が擦り合わされている。
『感応個体、未名ノママ存ス』
篠原は、わずかに目を伏せた。
「未だ名を与えていません」
その言葉に、月側の信号が一瞬だけ乱れる。
『名ハ、重シ。名ハ、縛リトナル』
「承知しています」
篠原の声は、静かだった。
「ゆえに、今は――観測のみ」
風が、屋上を横切る。
月光が、端末の文字を白く浮かび上がらせる。
『火星位相、已ニ終章ニ入レリ』
その一文だけ、
異様に重かった。
篠原は、目を閉じる。
「……確認済みです」
『星体モ亦、生ク。死スル時、声ヲ発ス』
篠原の胸に、かすかな痛みが走る。
「彼らは、聞いてしまいました」
『聞キシ者、戻レズ』
「それでも」
篠原は、はっきりと言った。
「彼らには、まだ選択肢があります」
しばし、沈黙。
月は、すぐには答えない。
だが、その沈黙は、拒絶ではなかった。
『地球位相、猶ホ流動』
『然レド観測対象、更新スベシ』
端末に、新たな文字列が走る。
それは命令でも、忠告でもない。
ただの事実の提示だった。
「更新、受領」
篠原は小さく息を吐く。
「介入は、私が管理します」
『地上個体、汝ニ預ク』
その一文は、ほとんど「委任」に近かった。
通信が、静かに収束していく。
文字列が消え、画面は黒に戻る。
だが、月は、そこにある。
篠原は端末を畳み、夜空を仰いだ。
「……見ているだけ、というのも」
一瞬、言葉を探す。
「ずいぶん残酷ですね」
月は答えない。
答えないこと自体が、役割なのだと知りながら。
篠原は背を向け、屋上を後にした。
月は、太古からそうしてきたように、ただ黙って、地球を観測し続けていた。
* * *
夜の自室。
机の上のスタンドライトだけが点いている。
小宮悠人は、ノートパソコンのキーボードを淡々と叩いていた。
画面の上部には、学校新聞の見出し案。
《天文部、成層圏観測に成功》
その下に、事実だけが並ぶ。
高度。
気温。
気圧。
気流データ。
撮影された成層圏の青。
——そして、回収成功。
文章は簡潔で、感情の入り込む余地がない。
小宮は、一度手を止めた。
カーソルが、空白の行で瞬いている。
書こうと思えば、書けた。
黒に近い空。
相対速度ゼロの点。
三角形に歪んだ影。
だが、小宮はその行に、何も打ち込まなかった。
代わりに、こう続ける。
「なお、取得した映像データについては現在解析中であり、今後の観測計画に活用される予定である。」
それだけ。
画面を見つめながら、小宮は小さく息を吐いた。
「……これでいい」
誰に言うでもなく、そう呟く。
面白いかどうかじゃない。
真実かどうかでもない。
「今、何を書くべきか」だ。
学校新聞は、報告書じゃない。
仮説発表の場でもない。
ましてや、確証のない「異物」を投げ込む場所でもない。
小宮は、そういう線引きができる人間だった。
保存。
ファイル名は、淡々としたもの。
「天文部成層圏観測報告・第一次草稿」
ノートパソコンを閉じると、部屋は急に静かになった。
窓の外。
校舎とは反対の空に、月が浮かんでいる。
小宮はそれを一瞬だけ見て、カーテンを引いた。
「……来週、先生に見せよう」
それが、今の自分にできる、いちばん常識的な選択だった。
* * *
夜更け。
澪も、自室の机に向かっていた。
ノートは開かれているが、文字は少ない。
数式と、箇条書きのメモがいくつかあるだけだ。
――成層圏映像
――相対速度ゼロ
――人工衛星の可能性
――バルーン随伴物?
――カメラ圧縮ノイズ?
澪はシャーペンを握ったまま、考え込んでいた。
理屈なら、いくらでも組み立てられる。
現象を分解し、仮説を立て、確率を並べることは得意だった。
「あり得ない、とは言えないけど……」
小さく呟く。
「わからない」という結論は、科学では敗北ではない。
ただの途中経過だ。
澪は、それをよく知っている。
気分転換を兼ねてベランダに出た。
佐久の夜は、静かだ。
車の音も遠く、街灯はあるが、空を押し流すほど強くはない。
澪は、無意識に空を見上げた。
――見える。
まず、東の低い空。
さそり座。
赤く光るアンタレスが、すぐに目に入る。
その少し西側。
てんびん座。
派手さはないが、配置のバランスでわかる。
さらに南寄り。
おとめ座。
スピカは、白く、鋭い。
澪の視線は、ほとんど考える前に動いていた。
名前を思い出す、というより――
形と位置が、そのまま意味を持って浮かび上がる。
春から夏へ移る、この時期の空。
黄道十二星座が、順番に並んでいる。
惑星は……?
澪は、しばらく空を探した。
火星は、今日は目立たない位置にある。
低く、赤みも弱い。
――見えなくて、当然だ。
そう、理性は告げている。
澪は部屋に戻ると、机に向かい、ノートを開いた。
気球の高度。
カメラの仕様。
レンズの歪み補正。
圧縮率。
今日、見た「三角形」を、どうすれば既知の現象に分解できるか。
人工物。
大気中の氷晶。
画像処理のアーティファクト。
候補はいくつもある。
澪は、それらを一つずつ書き出していく。
線を引き、否定し、残す。
――科学的に考えればいい。
割り切ればいい。
それが、自分のやり方だ。
けれど。
ノートの余白に、いつの間にか、こんな言葉が書かれていた。
「同じ速度で、同じ空間にいた」
澪は、ペンを止める。
それは、まだ説明の途中の仮説。
結論ではない。
なのに、胸の奥が、わずかにざわついた。
澪は、もう一度、窓の外を見る。
星座は、何も変わっていない。
空は、昨日と同じように続いている。
それでも。
澪は思った。
――空は、知っている。
今日、あの映像に映ったものを。
自分たちが、何を見たのかを。
空は、語らない。
だが、隠しもしない。
ただ、そこに在り続けている。
澪は、窓のカーテンを引いた。
説明は、必ずつける。
科学で、割り切る。
――そのはずなのに。
頭のどこかで、
空を見上げる「別の自分」が、まだ立ち尽くしていた。
「面白かった!」「続きが気になる、読みたい!」「今後どうなるの……?」と思ったら、下にある☆☆☆☆☆欄から、作品への応援をお願いいたします。面白かったら☆5つ、つまらなかったら☆1つ、正直に感じた気持ちで大丈夫です!
ブックマークもいただけると本当に嬉しいです。
なにとぞよろしくお願いいたします。




