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それでも私は地球を選ぶ  作者: 喜多里夫


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第16話 帰還

 それは冬休みが終わり、1月の授業が始まった日だった。星嶺高校は二期制なので、始業式は無く、すぐに通常日課で授業が始める。


 生徒たちの一番の話題は、前日にネット上で、ちょっとした騒ぎになっていたニュースだった。


 『長野県佐久市上空にて、正体不明の飛行物体が目撃される』


 『黒い三角形状。無音で移動』


 写真は、ぼやけている。

 だが、形だけははっきりしていた。


 三角形。


 澪は、チラリと見ただけで画面を閉じた。


 昼休み、天文部の部員たちは自然と渡り廊下に集まっていた。寒さよりも、どこか落ち着かない空気があった。


「ねえ、聞いた?」


 最初に声を上げたのは塩原だった。UFOの話題ではない。


「篠原先生さ……朝、担任が言ってたんだけど……」


 一拍、言葉を溜めてから。


「一身上の都合で、急に辞められたって」


「……はあ?」


 塚田の声が、間の抜けた響きで廊下に落ちた。


「辞めたって……どういうこと?」


「年末で、辞めたんだって」


「そんなの……聞いてないよ」


 塚田は不満そうに口を尖らせながら言った。


「いや、無理でしょ。だって去年の暮れまで普通に……」


「普通でもなかったけどね」


「いや、そうだけど!」


 口々に言葉が重なる。


「天文部は?」


「顧問は?」


「代わりとか、決まってるの?」


 誰も答えを持っていなかった。

 その輪の少し後ろで、澪は黙っていた。


 驚いていないわけではない。

 ただ——。


 ——うん。


 胸の奥で、静かに確認する。


 知っていた。

 一昨日、確かに聞いていた。

 あの人は、そう言ったのだ。


「私はもう、故郷へ帰る」


 校舎の窓から差し込む冬の光が、床に白い帯を描いている。

 いつもと変わらないはずの風景が、どこか「一つ欠けた」ように見えた。


「天野さん?」


 塚田が振り返る。


「……何か知ってる?」


 一瞬、部員たちの視線が集まる。


 澪は、ほんのわずかだけ首を振った。


「何も……」


 嘘ではなかった。

 全部を、言えるわけではなかった。


 チャイムが鳴る。


 日常が、何事もなかったかのように動き出す。


 ——その中で、澪だけが、時間を少しだけ巻き戻していた。


 一昨日の昼下がりへ。


     * * *


 昼下がりの家は静かで、冬の光が障子越しに淡く揺れていた。

 澪は自室でノートを開いていたが、文字はほとんど頭に入っていなかった。


 ——ピンポォォン。


 不意に鳴ったインタホンに、肩が小さく跳ねる。


「……誰だろう?」


 この時間に来客は珍しい。

 父は書斎にいるはずだ。


 玄関へ向かうと、先に父が出ていた。

 来客を見て、澪はハッとした。


「……篠原、先生?」


 そこに立っていたのは、学校で見慣れたその人だった。

 だが、どこか違う。


 いつもの教師然とした雰囲気が薄れている。私服のせいか、それとも別の理由か、

 彼女は「学校に属していない人間」に見えた。


「突然すみません、澪さん」


 穏やかな声。

 けれど、どこか決意を含んだ響きがある。


「少し、お時間をいただけますか」


 父は一瞬だけ澪を見て、それから頷いた。


「どうぞ。応接間へ」


 三人は無言のまま、家の奥へ進んだ。

 父がコーヒーを淹れる。

 カップが三つ置かれ、湯気が立ち上る。

 その間も、篠原はほとんど周囲を見ていなかった。


 やがて、彼女は静かに口を開いた。


「……単刀直入に言います」


 澪の背筋が、わずかに緊張する。


「私は、もうこの場所を離れます」


「学校を、ですか?」


 父が訊く。


 篠原は首を振った。


「もっと根本的に、です」


 澪は一瞬、意味が掴めなかった。


 沈黙が落ちる。


 篠原は、澪をまっすぐ見つめた。


「私は、いったん故郷へ帰ります」


 澪の胸の奥で、何かが小さく音を立てた。


 ——やっぱり。


 どこかで、わかっていた。

 この人は、近いうちに、いなくなる。


「……それで」


 篠原は、少し間を置いた。


「澪さん」


 名前を呼ばれた瞬間、空気が変わる。


「あなた……私と一緒に来ませんか?」


 言葉は、あまりにも静かだった。

 冗談の調子でも、誘いの軽さでもない。


 事実を告げるような声音。


 澪は、息を呑んだ。


「……私、が?」


「ええ」


 篠原は頷く。


「あなたは、もう見てしまった。知ってしまった……地球の歴史も、星の運命も、文明の終わりも」


 父は何も言わない。

 ただ、二人を見守っている。


「私の母星は、もう何億年も文明を育んできました……戦争も、絶滅も、乗り越えた場所です」


 篠原の声には、誇りも、郷愁もあった。

 けれど、押しつける色はない。


「ここより、ずっと安全で、合理的で……澪さんの知性を、最大限に活かせる場所です」


 澪は、視線を落とした。


 落ち着いた絨毯の色。

 差し込む冬の光。

 遠くで鳴く鳥の声。


 ——こんな地球。


 篠原の言葉の続きを、澪はもう知っていた。


 応接間に、静かな時間が流れる。


 やがて、澪は顔を上げた。


 その瞳には、迷いも、恐れも、確かにあった。


 それでも。


「……ありがとうございます」


 ゆっくりと、言葉を選ぶ。


「でも、私は——」


 澪は篠原に向かって話しながら思う。




——私は、生まれる前にここを選んだわけではなかった。


 それでも、ここに生まれてきた。


 生まれた場所も、名前も、空の色も、重力も、気がついた時には、すでに決まっていた。


 幼い頃は、それを疑うことすらなかった。

 世界は最初から「こういうもの」だと思っていた。


 けれど、今ならわかる。


 それは選ばれた結果ではなく、ただ投げ込まれた場所だったのだ。


 火星が滅びるのを見た。

 星が、声を上げるのを聞いた。

 月が、黙って見続けていたことを知った。


 それでも、私はここに立っている。


 地球の空気を吸い、空を見上げ、重力に身体を引かれながら、歩いている。




 澪は、ゆっくりと瞬きをした。


 午後の光が、視界に差し込んでくる。

 窓から入る日の光が、床を照らしていた。


 応接間には、しばらく沈黙だけが残った。


 父は何も言わない。

 コーヒーカップの把手に指を添えたまま、視線を落としている。


 篠原は、それ以上言葉を重ねなかった。


 説得もしない。

 理由の補足も、未来の保証もない。


 ただ、ゆっくりと立ち上がる。


「……わかりました」


 それだけだった。


 澪の顔を一度だけ見て、穏やかに微笑む。

 その微笑みは、教師のものでも、大人のものでもなく、

 どこか——遠い旅人のようだった。


「突然、お邪魔しました」


 父に向けて軽く頭を下げ、篠原は玄関へ向かう。


 靴を履き、戸を開ける音がする。


 冬の空気が、室内に一瞬流れ込んだ。


 そして——閉まる音。


 それで、終わりだった。


 父は、振り返らなかった。

 澪も、立ち上がれなかった。


 どれくらいの時間が経ったのか、分からない。


 玄関の戸が、再び開く音がした。


「ただいまぁ」


 買い物袋の擦れる音。

 母の、いつもの声。

 応接間のコーヒーカップを見て。


「あれっ、お客様?」


 父は立ち上がり、淡々と答える。


「ああ。ちょっとね」


 それ以上、何も言わなかった。


 母も深くは訊かない。

 袋を台所に置き、夕飯の支度を始める。


 家は、いつもの午後に戻った。


 ——その夜。


 澪は自室の窓から、冬の星空を見上げていた。



 篠原の声が、胸の奥でよみがえる。


 ——こんな地球じゃなくて。


 ——私の母星は。


 ゆっくりと、澪は息を吸った。


 この家。

 この町。

 壊れやすくて、理不尽で、それでも続いてきた星。


 夜空には、もう何も見えなかった。


 星は、静かに瞬いている。


 何も答えないまま。


 澪は、誰にも聞かせない声で、呟いた。


「……それでも私は、地球を選ぶ」




 —— 完 ——

この物語は、宇宙や生命の話であると同時に、

「ここにいること」を引き受ける話でもあります。


星は選べなくても、立つ場所は選べる。

過去は変えられなくても、向き合い方は変えられる。


観測者は去り、星は何も語りません。

それでも、人はこの星に立ち続けます。


答えのない宇宙で、

それでもなお「地球を選ぶ」という決断が、

誰かの胸に、静かに残ってくれたなら幸いです。

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