第15話 星は死に、歌は残る
光は、音よりも先に届いた。
澪は、それを「熱」としてではなく、「終わり」として感じた。
視界いっぱいに広がるのは、雲。
分厚く、重たい雲。
——金星。
かつては海があり、風があり、生命の可能性があった惑星。
だが今、空は低く垂れ込み、雲の下では、圧力が世界を押し潰している。
「……息が……で、き、ない……」
知念が、思わず呟く。
澪も、喉の奥が詰まる感覚を覚えた。
実際に呼吸しているわけではない。それでも、肺が押される錯覚がある。
「温室効果の暴走だ」
澪の父の声は、低く、淡々としていた。
「水蒸気が増え、熱が逃げなくなり、さらに蒸発が進む。臨界点を越えた」
地表は、すでに赤黒い。
海は沸き、岩は溶け、分子結合が壊れていく。
生命の痕跡は——無い。
「……何も、残らないんですね」
小宮の声が、かすれる。
「逃げることも、出来なかった」
澪は、目を伏せた。
金星には、叫びも、都市も、戦争もない。
ただ、条件が崩れただけだ。
それだけで、すべてが終わる。
世界は、静かに閉じていった。
* * *
——次に、三人の精神は火星へ飛び、上空を静かに巡り始めた。
眼下に広がっているのは、彼女たちが知っている「赤い星」ではない。
大地は緑に覆われ、ところどころに濃淡の違う森が連なっている。谷には青い水が走り、かつて巨大だったであろう河川の跡が、今も脈のように星を巡っていた。
「……火星、だよね?」
知念が、確かめるように言う。
澪は、短くうなずいた。
父の声が聞こえる。
「大気組成、安定……水蒸気量も、地球の寒冷地帯とほぼ同じだ」
青と緑の境界が、ゆっくりと流れていく。
雲は低く、白い影を大地に落としている。そこには、「住まわれている」気配があった。
――ようやく、来たのか。
声、というよりも、感覚だった。
耳ではなく、胸の奥に直接届くような。
澪は息を止めた。
――長い時間、待っていた。
――冷え、乾き、眠り、それでも失わなかった。
火星そのものが、彼女たちを見上げている。
いや、見ているのは星ではなく、時間なのかもしれない。
「……今、何か聞こえなかった?」
澪の言葉に、知念は首を振った。
「いや。でも……なんか、落ち着く。ここ」
小宮も、わずかに眉をひそめる。
「上手く説明できないけど……妙に、静かだな」
――おまえたちは、短い。
その「声」には、優劣も評価も無かった。
ただ、事実を述べているだけだった。
――だが、私は、何度も滅びかけながら、ここまで来た。
澪は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
地球で見てきたもの――生まれては消え、繁栄しては滅びる無数の生命が、重なって見える。
「……火星は、後悔してる?」
思わず、口に出していた。
知念が驚いたようにこちらを見るが、澪は目を離さない。
――後悔は、時間を持つ者の言葉だ……私は、ただ、続けた。
緑の大陸が、ゆっくりと夜に沈んでいく。
その境界線は、まるで呼吸のように、明滅していた。
――選ぶのは、君たちだ。
澪は、その言葉を胸に刻む。
まだ、この時は――。
それが、別れの言葉ではないと思っていた。
地上に降り立つ。
最初に感じたのは、匂いだった。
土の匂い。
それも、乾いた砂ではない。雨上がりの森の奥、腐葉土を踏みしめたときに立ち上る、あの湿った匂いに近い。どこか金属を含んだ、冷たい甘さが混じっている。
「……生きてる匂いだ」
知念が、思わずそう漏らす。
澪は、一歩、外に出た。
体が、ふわりと持ち上がる。
重力は軽い。
ジャンプするつもりもなかったのに、足が地面を離れ、すぐに戻る。その動きが、まるで水の中を歩いているようだった。
「……軽い」
知念は、無意識に何度か足踏みをしている。
「息も、苦しくないな……」
胸が大きく広がる。
肺の奥まで、空気が届く感覚がある。
小宮は、しゃがみ込み、地面に手を当てた。
「振動、少ない……風の音も……」
言われて、澪は気づく。
音が、少ない。
木々はざわめかない。
鳥の声も、虫の羽音もない。
それなのに、完全な静寂ではない。
澪は、そこで初めて気づいた。
——この星では、命が「音を立てない」ことを選んでいる。
捕食のためでも、誇示のためでもない。
生き延びるために、互いを脅かさないために。
音は、敵を呼ぶ。
音は、資源を奪う。
だから、この星の命は、
叫ばず、鳴かず、ただ在る。
遠くで、水が流れている。
岩が冷え、わずかに軋む音。
大気がゆっくりと循環する、低い、低い響き。
星そのものが、呼吸しているようだった。
澪は、そっと地面に膝をついた。
掌に伝わるのは、冷たさと、かすかな温もり。
「ねえ……」
澪は、誰にともなく言った。
「この星……生きてる感じがする」
知念は、驚いたように澪を見る。
だが、すぐに視線を落とし、静かに頷いた。
「わかる……なんでかは、説明できないけど」
小宮は何も言わない。
きょろきょろと辺りを見回している。
天候のせいか、地平線は霞んでいる。
澪は、立ち上がり、空を見上げた。
薄い青。
地球ほど深くはないが、確かに「空」だった。
――ようこそ。
この声は、父のものではなかった。澪の心に直接静かに語りかけてきた。
それが誰の声なのか、澪には分からなかった。
ただ、生命が生まれるよりも前から、
ずっとそこにあった「何か」が、静かに触れてきた気がした。
「これは……生き物が住めそう、じゃないか?」
小宮が、呆然と呟く。
「いても……おかしくない」
知念も言った。
そして、その言葉を否定する必要はなかった。
澪が最初にそれに気づいた。
確かに「何か」が動いている気配だけが、視界の端を横切る。
「……いる」
知念が、小さく言った。
丈の短い草の間から、ゆっくりと姿を現したのは、四本足の生き物だった。
野ネズミとも野ウサギともとれる、小さな生き物だった。
体表は短い繊毛に覆われ、緑がかった灰色をしている。目は大きいが、黒目と白目の境界が曖昧で、どこを見ているのかわからない。
「生態系は、どうなっているのかなぁ? もしかして、この子が一番高等な生き物?」
その生き物は、怯える様子が無い。
知念は、無意識に周囲を見回す。
——啼き声が、無い。
助けを求める声も、苦痛を訴える音も、争いの気配すら、感じられない。
「私さ……」
知念は、ポツリと言った。
「医者になりたいって思ったの、誰かが『苦しんでたから』なんだよ」
その言葉が、途中で止まる。
——ここは、生き物の「苦しみ」が無い世界。
その時、不意に。
「あったぁ!」
小宮の声がした。
森の向こう、地平線の彼方に都市らしきものが見えた。
規模はそれほど大きくはなさそうだったが、整然としている。
光があり、移動体があり、通信網のようなものが張り巡らされている。
——知性。
——社会。
——文明。
「でも……」
澪は、すでに胸の奥で、違和感を掴んでいた。
寒い。
わずかだが、確実に、冷えている。
「火星は、小さすぎた」
父の声が重なる。
「重力が弱く、大気を保てなかった。磁場も衰えた。水は、失われていく」
文明は、それに抗っている。
ドーム。
半地下都市。
軌道施設。
「頑張ってるのに……」
知念が、悔しそうに言う。
その時だった。
「うわっ、まただあっ!」
小宮が悲鳴を上げた。
「情報が一気に頭に入ってくるっ!……紛争……交渉……対立……なに、これっ? もしかして……戦争っ!?」
ほどなくして、白い閃光が大地を切り裂いた。
「こっ、今度は何だ!?」
小宮が身をすくめる。
次の瞬間、遅れて衝撃が来る。
それまで無音だった世界に、遅れて破壊の音だけが追いついてきた。
立ち上る巨大なキノコ雲。
地平線に見えていた都市が消えていた。
「……核爆発!?」
小宮の声が、信じられないものを見る人間のそれになる。
閃光。
爆発。
連鎖。
都市が、燃える。
逃げ惑う影。
空を裂くミサイル。
「核戦争……!」
知念が、声を失う。
説明は、いらなかった。
——これは、事故ではない、選択だ。
文明が、文明を殺している。
生命が地上で焼かれていく。
「あ、あ、あ、あ、あっ……」
小宮は小さな悲鳴を上げることしか出来ない。
眼の前で閃光が炸裂するたびに人型の生命体が倒れ、焼かれ、息絶える。
幼児を背負ってシェルターに逃げ込もうとした母親は、たちまち親子ごと業火に焼かれ。
子供だけでも助けようと抱き締めた父親は、親子もろとも瞬時に蒸発する。
「なんでぇ!?……なんでぇ!?」
知念はもう涙声だった。
——ああ……。
澪は、喉の奥で息を詰まらせた。
「これ、知ってる」
かろうじて宇宙港に逃げ込んだ人々。
緊急発進する宇宙船。
だが——。
空へ浮かび上がった直後、レーザー兵器の直撃を受けて爆散する。
「ひどい……」
小宮が、唇を噛む。
辛うじて発進した別の宇宙船団が、外惑星方面へ脱出を試みる。
だが、軌道は歪み、巨大な引力に引き寄せられていく。
「木星だ」
父が言う。
「重力井戸から、逃げられない」
光の点が、一つ、またひとつと、木星へ吸い寄せられて最後には消えていく。
一方で。
いびつな形をした小さな天体が見える。
「……小惑星?」
博士は、わずかに間を置いた。
「小惑星自体を『兵器』として、地表にぶつけようとしている」
澪は、もう見ていられなかった。
その結果——大気は剝ぎ取られ、水は蒸発し、火星は荒涼な大地と化した。
都市の残骸。
生命体の死骸。
「これは……」
知念は一瞬絶句したが、続けた。
「おばあから聞いた……沖縄戦の光景と同じさ……」
しかも。
火星の大地には放射能が充満し、すべての生命がここで息絶えようとしていた。
文明の残骸を砂嵐が消し去っていく。
——それでも。
すべてが、終わったわけではなかった。
暗黒の宇宙空間を潜り抜け、わずかな船影が、別の青い星へ向かっている。
地球へ——。
三機が着陸態勢に入ったが——。
一機は大気圏突入の際に進入角度を誤り摩擦熱で燃え尽き、別の一機は制御不能の状態で地表へ激突、四散した。
それでも。
一機の宇宙船が煙を吐きながら陸地の沖合の海面に不時着水し、そのまま砂浜に乗り上げた。
壊れた船体。
海と陸の境目で、機内から脱出しようとした火星人たちは、倒れ伏していた。
澪はまるでそこに倒れている少女に同期するように感じていた。
——呼吸が、苦しい。
——大気が違う。
——重力が重い。
そこへ——一人の人影が走り寄ってきた。
地球人の少年だ。火星人と見た目はそう変わらなかった。
警戒しながらも、倒れていた少女に水の入った筒を差し出す。
「……ソレ、飲メル?」
少女が、掠れた声で訊く。
しかし、言葉が通じない。
それでも——。
「飲め」
少年は、そう言っているように思えた。
まず少年が飲む。
少女がそれを真似た。
ほどなく、少年が何人もの大人を連れてきた。
大人たちは、少女たち火星人を砂浜近くの自分たちの村へと運んだ。
不時着の際、ほとんどの乗員、乗客——その少女の母親も含めて——は死亡していた。
結局、ほぼ無傷で生き残ったのは少女とその父親の二人だけだった。
地球人たちは、自分たちとそっくりな火星人たちの遺骸を丁重に葬った。あたりに咲いていた野菊をたくさん添えて——。
巫女らしい少女が、祈りの言葉らしいものを捧げている。心なしか知念に似た顔立ちだと、澪は思った。
——コノ人タチモ「死ヲ悼ム」気持チヲ持ッテイル。
夜になった。
村人たちは村の中央の広場に集まる。
焚火。
「私タチ、ドウナルノ?」
「ドウヤラ、彼ラニ敵意ハナサソウダ」
火星人には何かわからないが、動物の肉が火で焼かれていた。
少女が浜辺で初めて出会った少年が、彼女と父親に近づいてきて、串に刺された焼き肉を差し出した。
「何カワカランガ『食ベロ』ト言ッテイルヨウダ」
父親は、そう言った。
「オ父サン、ソンナノ食ベテ大丈夫?」
「ナアニ、彼ラモ食ベテイル。ソレニ……食ベナキャ飢エテ死ヌ」
父親は肉にかぶりついた。
少女もそれに倣った。
「……美味シイ」
その一言で、世界が、わずかに繋がった。
その様子を少年は満足そうな顔をして眺めていた。
すると今度は、少年が仲間の子供たちと共に、少女と父親の前に立った。
歌。
歌詞の意味はわからないが、澪はその旋律に、なぜか聞き覚えがあった。
子守歌なのか、祈りなのか、それとも——まだ思い出していない未来の歌なのか。
それは死者を弔うようにも、自分たちを静かに歓迎しているようにも、澪には思われた。
少女は胸を押さえ、夜空を見上げた。
火星はどこに?
「私タチノ母星ハ、一木一草ニ至ルマデ総テ焼カレタヨウダ……」
「ドウシテ、コンナコトニ……」
残酷だ、と少女は思った。
自分は、まるで「選ばれて」生き残ったようだ。
では、死んだ者たちは生きることを「選ばれなかった」のか?
少年たちの歌声を聴きながら、少女は星空を仰ぎ、涙を流した。
こうして、赤い星の記憶は、青い星の夜へと、静かに受け渡された。
それは、一つの文明の終わりであり、一つの星の記憶が、別の星へ渡った瞬間だった。
澪は悟っていた。
これは、知ってしまった以上、戻れない種類の記憶だと。
* * *
現在時刻・月面基地
篠原は、古いログを閉じる。
指先が、わずかに止まる。
地球は今、再び揺れている。
火星が死に、人類が空を見上げ、澪たちが「見えてしまった」今――。
観測しているだけだと思っていた。
だが、そうではなかったのかもしれない。
篠原は月の裏側から、青い惑星を見つめる。
そこには、泣く少女がいて、手を出せない少年がいて、祈る巫女がいる。
そして――星そのものが、かすかに声を上げている。
――まだ、終わっていない。
その声を、月は、太古からずっと聞いていた。
* * *
その後、三人は、長い旅から帰ってきた。
冬休みの間、澪の鮮明な記憶は消えなかった。
澪の中では、二つの光景が重なっていた。
黒く死んだペルム紀の海。
白い閃光に焼かれた火星の都市。
原因は違う。
時代も、文明も、存在の段階すら違う。
それでも——。
終わりの風景は、驚くほど似ていた。
音が消え、動きが止まり、選ばれなかった命が、理由もなく地に伏す。
自然でも。
文明でも。
「全部が壊れる瞬間」は、同じ顔をしている。
目を閉じると、文明が滅びる前の火星の空が浮かぶ。
薄い青。軽すぎる重力。音を立てない森。
そして、燃える都市と、歌。
どれも同じ重さで、胸の奥に沈んでいる。
思い出そうとしなくても、勝手に浮かび上がる。
拒めない種類の記憶だった。
――忘れてはいけない、とは思わなかった……忘れられない、とも違う。
ただ、持ち続けるしかないのだと、澪にはわかっていた。
誰かに話せば、薄まる気がした。
言葉にすれば、整ってしまう気がした。
だが、あれは整えてはいけない。
火星で見たものは、「こういう話だった」とまとめてしまえる種類の出来事ではない。
選ばれ、生き残り、歌を受け取り、地球に辿り着いた少女。
それは奇跡でも救済でもなく、ただの連続だった。
滅びと、生と、生の受け渡し。
澪は胸に手を当てる。
心臓は、普段と同じ速さで動いている。
それが、怖かった。
あの世界は壊れても、自分は学校へ行き、授業を受け、笑う。
そのこと自体が、耐えがたいほど、重い。
それでも。
澪は、窓の外に広がる夜を見つめながら、静かに思った。
——ここで生きる。ここで、抱える。
選ぶ、というのは、何かを得ることではなく、手放さないと決めることなのだと。
澪は、はっきりと悟った。
これは、過去の話でも、遠い星の話でもない。
未来が、すでに見えてしまったのだと。
そしてその未来を、自分たちは「知ってしまった側」なのだと。
澪は、そのまま朝を待った。
* * *
知念は、ベッドの上で膝を抱えたまま、動けずにいた。
火星で感じた「軽さ」が、まだ体に残っている気がする。
深く息が吸えて、胸が広がる、あの感覚。
——苦しくなかった。
それが、どうしても引っかかっていた。
火星では、泣き声がなかった。
叫びも、助けを求める声もなかった。
それなのに、滅びた。
医者がいなかったからではない。
治療法が足りなかったからでもない。
星が、小さすぎた。
条件が崩れただけ。
父の声が、繰り返し頭に響く。
じゃあ——。
自分がなりたいと思ってきた「医師」は、どこまで届くんだろう。
今までの知念は、単純だった。
苦しんでいる人がいる。
だから、治したい。
救いたい。
それで、よかった。
でも火星では、
苦しみが、ほとんど無かった世界ですら、
終わった。
知念は、ギュッと目を閉じる。
——治せないものがある……努力や善意では、どうにもならないものがある。
それを、初めて、感情として理解してしまった。
だからといって、「じゃあ、医者なんて意味がない」とは、思えなかった。
むしろ逆だった。
治せないものがあるからこそ、治せる範囲を、絶対に手放したくない。
壊れきる前。
戻れなくなる前。
「まだ大丈夫だ」と思えるうちに。
知念は、自分でもはっきりしないまま、そんな考えを胸の奥に押し込んだ。
言葉にはしない。
まだ、名前をつけるには早すぎる。
ただ一つ、確かなのは——もう、「目の前の苦しさだけ」を見ていればいい人間では、いられなくなった、ということだった。
* * *
小宮は、机に向かっていた。
ノートパソコンの画面には、開いたままの資料と、途中で止まったメモ。
指が、動かない。
火星文明の崩壊。
核兵器。
重力井戸。
脱出失敗。
全部、理解できる。
因果関係も、技術的背景も、推測できる。
それが、一番きつかった。
もし意味がわからなければ、「怖い」だけで済んだかもしれない。
でも、小宮はわかってしまう。
あれは選択だった。
恐怖から。
疑心から。
自分たちが正しいと信じるために。
地球で、何度も繰り返されてきたのと、同じ構造だ。
小宮は、ゆっくりとノートを閉じる。
——知らなければよかった、とは思わなかった。
ただ、知ってしまった以上、知らなかったふりは出来ない。
それだけだった。
だから、忘れない。
美談にも、教訓にも、
「だから人類は愚かだ」という結論にも、しない。
ただ、記録する。
覚えておく。
世界がまた同じところへ近づいた時、「それ、前にも見た」と言えるために。
小宮は深く息を吐き、新しいファイルを一つ、作った。
タイトルは、まだ付けない。
それは、いつか必要になるかもしれない記憶だった。
* * *
年末の午後、佐久の住宅地は音が少ない。
除雪車が通ったあとに残る、道の端へ押しやられた雪の山。踏み固められた歩道は白ではなく、灰色に近い。澪はマフラーを少し引き上げ、肩をすくめて歩いた。息を吐くたびに、空気の冷たさが胸の奥まで届く。
買うものは牛乳だけだ。
それだけ決めて家を出たはずなのに、スーパーを出たあと、足は自然にもう一つ先へ向かっていた。
Nishizawa Book Store。
大きな書店ではない。ガラス張りでもなく、外から中の様子がよく見えるわけでもない。看板は控えめで、知らなければ通り過ぎてしまうような店だ。澪は一瞬だけ立ち止まり、特に理由もなくドアを押した。
鈴の音が、小さく鳴った。
中は、少し暖房が弱い。
外よりは暖かいが、コートを脱ぐほどではない。紙とインクと、古い木の匂いが混じった空気が、静かに肺に入ってくる。足音を立てないように歩いているつもりはないのに、自然と音は小さくなった。
棚は高くない。
背伸びをすれば一番上まで手が届く。新刊もあるが、どこか時間の流れが遅い。澪は牛乳の入った袋を持ち替え、通路の端に立った。
今日は、探しに来たわけじゃない。
そう自分に言い聞かせるまでもなく、目的が無いことは、はっきりしていた。何かを調べたいわけでも、必要な本があるわけでもない。ただ、ここに入ってしまった。それだけだ。
最初に目に入ったのは、新書の棚だった。
科学、歴史、社会。見慣れた背表紙が並んでいる。澪は反射的に、自然科学——古生物や宇宙——に関係するあたりを探しそうになり、途中でやめた。
今日は違う。
そういう日があることを、澪はもう知っている。
棚を一つ、また一つと移動する。
エッセイ、随筆、少し古い文庫本。タイトルだけを追いながら、指で背をなぞる。文字は意味になる前に、ただの形として目に入ってくる。
——美しいって思った瞬間に、もう滅びてる。
不意に、あの言葉が浮かんだ。
カンブリアの海で見た、奇妙で、整っていなくて、それでも確かに美しかった生き物たち。オパビニアの五つの目、ハルキゲニアの逆さまの体、ウィワクシアの鱗のような外皮。
ここには、そんなものは載っていない。
この棚にあるのは、人が書いた言葉だけだ。人が見て、人が考えて、人が残そうとしたもの。
それなのに、澪の胸の奥では、あの映像と同じ感覚が、静かに揺れていた。
——残ったものだけが、語る。
生き延びた系統だけが、歴史になる。
滅びたものは、記録がなければ、無かったことになる。
澪は一冊の文庫本を手に取った。
題名は、特別なものではない。何度も見たことがある作家の、短編集だった。ぱらりと開くと、紙が少し黄ばんでいる。新刊の張りつめた白さではなく、時間を吸った色。
最初の一行を読む。
意味はすぐに頭に入ってこなかった。それでも、ページを閉じる気にはならない。
——人は、どうして残すのだろう。
自分が見たものを。
自分が感じたことを。
火星で、澪は「声」を聞いた。
言葉ではなかったが、確かに対話だった。そこには「守る」も「直す」もなかった。ただ、存在して、移り変わって、終わるという事実だけがあった。
それに比べて、ここにある本は、必死だ。
忘れられないように、流されないように、形を与えようとしている。
澪は、急にその必死さが愛おしくなった。
知念なら、どう思うだろう。
美しいものが消えることを、彼女は医師志望としてどう受け止めるのか。救えないものを前にして、それでも手を伸ばす理由を、彼女はもう見つけ始めている。
小宮なら。
知ってしまったことを、どう整理するのか。記録することが追いつかない現実を前にして、彼はそれでも書こうとするだろう。
澪は、自分の立ち位置を考える。
選ぶこと。
この棚の前に立っている自分は、確かに地球にいる。
佐久の小さな書店で、牛乳を片手に、本を選んでいる。
それは、とても些細で、宇宙的な意味では取るに足らない光景だ。
それでも、澪は思う。
——これを、失いたくない。
手に取った文庫を、もう一度開く。
今度は、数行読めた。内容よりも、言葉が「残ろうとしている」こと自体が、胸に響く。
澪はその本を閉じ、しばらく迷ってから、レジへ向かった。
買う予定ではなかった。
けれど、今日は、それでいいような気がした。
鈴の音が、また小さく鳴る。
外に出ると、空はもう夕方の色に変わり始めていた。
帰り道、足元の雪がきしむ。
袋の中の牛乳と、本の重さが、同じ手に伝わってくる。
家に着くころ、空気はさらに冷えていた。
澪は玄関で靴を脱ぎ、窓を開ける。
星が、いくつか見え始めている。
遠くで起きた進化と絶滅。
別の惑星の静かな世界。
そして、ここで続いている、ありふれた生活。
澪は星を見上げながら、小宮と知念のことを思った。
言葉にしなくても、つながっている感覚だけが、静かに残っていた。
その日の晩は、思ったより澄んでいた。
昼間の雪が空気中の塵を落としたのか、佐久の空は冬らしい硬さを取り戻している。澪はベランダに出て、三脚を広げた。金属が冷えていて、指先が一瞬だけひやりとする。
望遠鏡を覗くのは、久しぶりだった。
忙しかったわけでも、嫌になっていたわけでもない。ただ、見る意味が変わってしまった気がして、少し距離を置いていた。
ファインダーを合わせる。
冬の星座は輪郭がはっきりしている。オリオン、シリウス、プレアデス。どれも、子どものころから何度も見てきた光だ。
澪は、ゆっくりと接眼レンズに目を当てた。
星は、何も変わらない。
少なくとも、人間の時間感覚では。
それが、今日は妙に安心だった。
全球凍結も、カンブリア爆発も、ペルム紀の終わりも、そのすべてを経たあとで、それでも夜空はここにある。
——待っているように見える。
星は静かに存在している。ただ存在しているだけではなく、何かを。
澪は、ゆっくりと息を吐いた。
澪は望遠鏡から顔を上げ、空をそのまま見た。
肉眼で見る星は、輪郭が曖昧で、少しだけ頼りない。それでも、確かにそこにある。
——これでいい。
そう思えたことが、今夜の一番の収穫だった。
* * *
同じ頃、小宮は机に向かっていた。
部屋の明かりは落とし気味で、デスクライトだけがノートを照らしている。パソコンは閉じたままだ。 今日は、キーボードを打つ気になれなかった。
ノートには、いくつかの単語が書かれている。
「無酸素海」
「硫化水素」
「黒い水塊」
それ以上、文章にはなっていない。
書こうとすると、どうしても、あの光景が先に来る。言葉が、追いつかない。
小宮は、ペンを置いた。
記録することが、自分の役割だと思ってきた。見たものを整理し、残す。それができるから、天文部にいる意味があると思っていた。
けれど、知ってしまったことの中には、記録する前に、人を黙らせてしまうものがある。
——全部は、残せない。
その事実を、ようやく悟った。
窓の外を見る。
星空が見える。
小宮は、ノートの端に、小さく書いた。
「それでも、書く」
理由は、まだはっきりしない。
ただ、何も書かないという選択だけは、したくなかった。
澪は、選んだ。
知念は、きっと進む。
なら、自分は。
追いつけなくても、途中で止まらなくてもいい。ただ、見たという事実を、どこかに置いておく。
それでいい気がした。
* * *
知念は、ベッドに仰向けになっていた。
部屋の灯りは消してある。天井の染みが、ぼんやりと浮かんで見える。
医師になりたい。
そう言い切れなくなったわけではない。
けれど、理由は変わった。
助けられないものがある。
直すという概念すら存在しない世界がある。
それを知ったうえで、それでも人の体に手を伸ばす意味は、何だろう?
知念は、あの火星で見た草食動物を思い出す。
音もなく、争いもなく、ただ生きて、終わっていく存在。
美しかった。
そして、医者は要らなかった。
——それでも。
地球では、痛みがある。
間違いがある。助けを求める声がある。
知念は、胸の奥で、静かに答えを見つけつつあった。
完璧じゃなくてもいい。
全てを救えなくてもいい。
それでも、手を出す。
それが、自分の選び方だ。
目を閉じると、星の光が浮かぶ。
澪も、小宮も、きっと同じ夜を見ている。
知念は、小さく息を吐いた。
同じ夜。
同じ空。
それぞれが、違う仕方で、選んでいる。
「面白かった!」「続きが気になる、読みたい!」「今後どうなるの……?」と思ったら、下にある☆☆☆☆☆欄から、作品への応援をお願いいたします。面白かったら☆5つ、つまらなかったら☆1つ、正直に感じた気持ちで大丈夫です!
ブックマークもいただけると本当に嬉しいです。
なにとぞよろしくお願いいたします。




