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それでも私は地球を選ぶ  作者: 喜多里夫


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第15話 星は死に、歌は残る

 光は、音よりも先に届いた。


 澪は、それを「熱」としてではなく、「終わり」として感じた。


 視界いっぱいに広がるのは、雲。

 分厚く、重たい雲。


 ——金星。


 かつては海があり、風があり、生命の可能性があった惑星。

 だが今、空は低く垂れ込み、雲の下では、圧力が世界を押し潰している。


「……息が……で、き、ない……」


 知念が、思わず呟く。


 澪も、喉の奥が詰まる感覚を覚えた。

 実際に呼吸しているわけではない。それでも、肺が押される錯覚がある。


「温室効果の暴走だ」


 澪の父の声は、低く、淡々としていた。


「水蒸気が増え、熱が逃げなくなり、さらに蒸発が進む。臨界点を越えた」


 地表は、すでに赤黒い。

 海は沸き、岩は溶け、分子結合が壊れていく。


 生命の痕跡は——無い。


「……何も、残らないんですね」


 小宮の声が、かすれる。


「逃げることも、出来なかった」


 澪は、目を伏せた。


 金星には、叫びも、都市も、戦争もない。

 ただ、条件が崩れただけだ。


 それだけで、すべてが終わる。


 世界は、静かに閉じていった。


     * * *


 ——次に、三人の精神は火星へ飛び、上空を静かに巡り始めた。


 眼下に広がっているのは、彼女たちが知っている「赤い星」ではない。


 大地は緑に覆われ、ところどころに濃淡の違う森が連なっている。谷には青い水が走り、かつて巨大だったであろう河川の跡が、今も脈のように星を巡っていた。


「……火星、だよね?」


 知念が、確かめるように言う。

 澪は、短くうなずいた。

 父の声が聞こえる。


「大気組成、安定……水蒸気量も、地球の寒冷地帯とほぼ同じだ」


 青と緑の境界が、ゆっくりと流れていく。

 雲は低く、白い影を大地に落としている。そこには、「住まわれている」気配があった。


 ――ようやく、来たのか。


 声、というよりも、感覚だった。

 耳ではなく、胸の奥に直接届くような。


 澪は息を止めた。


 ――長い時間、待っていた。


 ――冷え、乾き、眠り、それでも失わなかった。


 火星そのものが、彼女たちを見上げている。

 いや、見ているのは星ではなく、時間なのかもしれない。


「……今、何か聞こえなかった?」


 澪の言葉に、知念は首を振った。


「いや。でも……なんか、落ち着く。ここ」


 小宮も、わずかに眉をひそめる。


「上手く説明できないけど……妙に、静かだな」


 ――おまえたちは、短い。


 その「声」には、優劣も評価も無かった。

 ただ、事実を述べているだけだった。


 ――だが、私は、何度も滅びかけながら、ここまで来た。


 澪は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。

 地球で見てきたもの――生まれては消え、繁栄しては滅びる無数の生命が、重なって見える。


「……火星は、後悔してる?」


 思わず、口に出していた。


 知念が驚いたようにこちらを見るが、澪は目を離さない。


 ――後悔は、時間を持つ者の言葉だ……私は、ただ、続けた。


 緑の大陸が、ゆっくりと夜に沈んでいく。

 その境界線は、まるで呼吸のように、明滅していた。


 ――選ぶのは、君たちだ。


 澪は、その言葉を胸に刻む。

 まだ、この時は――。

 それが、別れの言葉ではないと思っていた。


 地上に降り立つ。


 最初に感じたのは、匂いだった。


 土の匂い。

 それも、乾いた砂ではない。雨上がりの森の奥、腐葉土を踏みしめたときに立ち上る、あの湿った匂いに近い。どこか金属を含んだ、冷たい甘さが混じっている。


「……生きてる匂いだ」


 知念が、思わずそう漏らす。


 澪は、一歩、外に出た。


 体が、ふわりと持ち上がる。


 重力は軽い。

 ジャンプするつもりもなかったのに、足が地面を離れ、すぐに戻る。その動きが、まるで水の中を歩いているようだった。


「……軽い」


 知念は、無意識に何度か足踏みをしている。


「息も、苦しくないな……」


 胸が大きく広がる。

 肺の奥まで、空気が届く感覚がある。


 小宮は、しゃがみ込み、地面に手を当てた。


「振動、少ない……風の音も……」


 言われて、澪は気づく。


 音が、少ない。


 木々はざわめかない。

 鳥の声も、虫の羽音もない。

 それなのに、完全な静寂ではない。


 澪は、そこで初めて気づいた。


 ——この星では、命が「音を立てない」ことを選んでいる。


 捕食のためでも、誇示のためでもない。

 生き延びるために、互いを脅かさないために。


 音は、敵を呼ぶ。

 音は、資源を奪う。


 だから、この星の命は、

 叫ばず、鳴かず、ただ在る。


 遠くで、水が流れている。

 岩が冷え、わずかに軋む音。

 大気がゆっくりと循環する、低い、低い響き。


 星そのものが、呼吸しているようだった。


 澪は、そっと地面に膝をついた。

 掌に伝わるのは、冷たさと、かすかな温もり。


「ねえ……」


 澪は、誰にともなく言った。


「この星……生きてる感じがする」


 知念は、驚いたように澪を見る。

 だが、すぐに視線を落とし、静かに頷いた。


「わかる……なんでかは、説明できないけど」


 小宮は何も言わない。

 きょろきょろと辺りを見回している。

 天候のせいか、地平線は霞んでいる。


 澪は、立ち上がり、空を見上げた。


 薄い青。

 地球ほど深くはないが、確かに「空」だった。


 ――ようこそ。


 この声は、父のものではなかった。澪の心に直接静かに語りかけてきた。

 それが誰の声なのか、澪には分からなかった。

 ただ、生命が生まれるよりも前から、

 ずっとそこにあった「何か」が、静かに触れてきた気がした。


「これは……生き物が住めそう、じゃないか?」


 小宮が、呆然と呟く。


「いても……おかしくない」


 知念も言った。


 そして、その言葉を否定する必要はなかった。


 澪が最初にそれに気づいた。


 確かに「何か」が動いている気配だけが、視界の端を横切る。


「……いる」


 知念が、小さく言った。


 丈の短い草の間から、ゆっくりと姿を現したのは、四本足の生き物だった。


 野ネズミとも野ウサギともとれる、小さな生き物だった。


 体表は短い繊毛に覆われ、緑がかった灰色をしている。目は大きいが、黒目と白目の境界が曖昧で、どこを見ているのかわからない。


「生態系は、どうなっているのかなぁ? もしかして、この子が一番高等な生き物?」


 その生き物は、怯える様子が無い。


 知念は、無意識に周囲を見回す。


 ——啼き声が、無い。


 助けを求める声も、苦痛を訴える音も、争いの気配すら、感じられない。


「私さ……」


 知念は、ポツリと言った。


「医者になりたいって思ったの、誰かが『苦しんでたから』なんだよ」


 その言葉が、途中で止まる。


 ——ここは、生き物の「苦しみ」が無い世界。


 その時、不意に。


「あったぁ!」


 小宮の声がした。


 森の向こう、地平線の彼方に都市らしきものが見えた。

 規模はそれほど大きくはなさそうだったが、整然としている。

 光があり、移動体があり、通信網のようなものが張り巡らされている。


 ——知性。


 ——社会。


 ——文明。


「でも……」


 澪は、すでに胸の奥で、違和感を掴んでいた。


 寒い。


 わずかだが、確実に、冷えている。


「火星は、小さすぎた」


 父の声が重なる。


「重力が弱く、大気を保てなかった。磁場も衰えた。水は、失われていく」


 文明は、それに抗っている。


 ドーム。


 半地下都市。


 軌道施設。


「頑張ってるのに……」


 知念が、悔しそうに言う。


 その時だった。


「うわっ、まただあっ!」


 小宮が悲鳴を上げた。


「情報が一気に頭に入ってくるっ!……紛争……交渉……対立……なに、これっ? もしかして……戦争っ!?」


 ほどなくして、白い閃光が大地を切り裂いた。


「こっ、今度は何だ!?」


 小宮が身をすくめる。


 次の瞬間、遅れて衝撃が来る。


 それまで無音だった世界に、遅れて破壊の音だけが追いついてきた。


 立ち上る巨大なキノコ雲。


 地平線に見えていた都市が消えていた。


「……核爆発!?」


 小宮の声が、信じられないものを見る人間のそれになる。


 閃光。


 爆発。


 連鎖。


 都市が、燃える。

 逃げ惑う影。

 空を裂くミサイル。


「核戦争……!」


 知念が、声を失う。


 説明は、いらなかった。


 ——これは、事故ではない、選択だ。


 文明が、文明を殺している。


 生命が地上で焼かれていく。


「あ、あ、あ、あ、あっ……」


 小宮は小さな悲鳴を上げることしか出来ない。


 眼の前で閃光が炸裂するたびに人型の生命体が倒れ、焼かれ、息絶える。


 幼児を背負ってシェルターに逃げ込もうとした母親は、たちまち親子ごと業火に焼かれ。


 子供だけでも助けようと抱き締めた父親は、親子もろとも瞬時に蒸発する。


「なんでぇ!?……なんでぇ!?」


 知念はもう涙声だった。


 ——ああ……。


 澪は、喉の奥で息を詰まらせた。


「これ、知ってる」


 かろうじて宇宙港に逃げ込んだ人々。

 緊急発進する宇宙船。

 だが——。


 空へ浮かび上がった直後、レーザー兵器の直撃を受けて爆散する。


「ひどい……」


 小宮が、唇を噛む。


 辛うじて発進した別の宇宙船団が、外惑星方面へ脱出を試みる。

 だが、軌道は歪み、巨大な引力に引き寄せられていく。


「木星だ」


 父が言う。


「重力井戸から、逃げられない」


 光の点が、一つ、またひとつと、木星へ吸い寄せられて最後には消えていく。


 一方で。

 いびつな形をした小さな天体が見える。


「……小惑星?」


 博士は、わずかに間を置いた。


「小惑星自体を『兵器』として、地表にぶつけようとしている」


 澪は、もう見ていられなかった。


 その結果——大気は剝ぎ取られ、水は蒸発し、火星は荒涼な大地と化した。


 都市の残骸。

 生命体の死骸。


「これは……」


 知念は一瞬絶句したが、続けた。


「おばあから聞いた……沖縄戦の光景と同じさ……」


 しかも。


 火星の大地には放射能が充満し、すべての生命がここで息絶えようとしていた。


 文明の残骸を砂嵐が消し去っていく。


 ——それでも。


 すべてが、終わったわけではなかった。


 暗黒の宇宙空間を潜り抜け、わずかな船影が、別の青い星へ向かっている。


 地球へ——。


 三機が着陸態勢に入ったが——。


 一機は大気圏突入の際に進入角度を誤り摩擦熱で燃え尽き、別の一機は制御不能の状態で地表へ激突、四散した。


 それでも。


 一機の宇宙船が煙を吐きながら陸地の沖合の海面に不時着水し、そのまま砂浜に乗り上げた。


 壊れた船体。


 海と陸の境目で、機内から脱出しようとした火星人たちは、倒れ伏していた。


 澪はまるでそこに倒れている少女に同期するように感じていた。


 ——呼吸が、苦しい。


 ——大気が違う。


 ——重力が重い。


 そこへ——一人の人影が走り寄ってきた。


 地球人の少年だ。火星人と見た目はそう変わらなかった。


 警戒しながらも、倒れていた少女に水の入った筒を差し出す。


「……ソレ、飲メル?」


 少女が、掠れた声で訊く。


 しかし、言葉が通じない。


 それでも——。


「飲め」


 少年は、そう言っているように思えた。


 まず少年が飲む。


 少女がそれを真似た。


 ほどなく、少年が何人もの大人を連れてきた。


 大人たちは、少女たち火星人を砂浜近くの自分たちの村へと運んだ。


 不時着の際、ほとんどの乗員、乗客——その少女の母親も含めて——は死亡していた。

 結局、ほぼ無傷で生き残ったのは少女とその父親の二人だけだった。


 地球人たちは、自分たちとそっくりな火星人たちの遺骸を丁重に葬った。あたりに咲いていた野菊をたくさん添えて——。


 巫女らしい少女が、祈りの言葉らしいものを捧げている。心なしか知念に似た顔立ちだと、澪は思った。


 ——コノ人タチモ「死ヲ悼ム」気持チヲ持ッテイル。


 夜になった。


 村人たちは村の中央の広場に集まる。


 焚火。


「私タチ、ドウナルノ?」


「ドウヤラ、彼ラニ敵意ハナサソウダ」


 火星人には何かわからないが、動物の肉が火で焼かれていた。


 少女が浜辺で初めて出会った少年が、彼女と父親に近づいてきて、串に刺された焼き肉を差し出した。


「何カワカランガ『食ベロ』ト言ッテイルヨウダ」


 父親は、そう言った。


「オ父サン、ソンナノ食ベテ大丈夫?」


「ナアニ、彼ラモ食ベテイル。ソレニ……食ベナキャ飢エテ死ヌ」


 父親は肉にかぶりついた。


 少女もそれに倣った。


「……美味シイ」


 その一言で、世界が、わずかに繋がった。


 その様子を少年は満足そうな顔をして眺めていた。


 すると今度は、少年が仲間の子供たちと共に、少女と父親の前に立った。


 歌。


 歌詞の意味はわからないが、澪はその旋律に、なぜか聞き覚えがあった。

 子守歌なのか、祈りなのか、それとも——まだ思い出していない未来の歌なのか。

 それは死者を弔うようにも、自分たちを静かに歓迎しているようにも、澪には思われた。


 少女は胸を押さえ、夜空を見上げた。


 火星はどこに?


「私タチノ母星ハ、一木一草ニ至ルマデ総テ焼カレタヨウダ……」


「ドウシテ、コンナコトニ……」


 残酷だ、と少女は思った。


 自分は、まるで「選ばれて」生き残ったようだ。


 では、死んだ者たちは生きることを「選ばれなかった」のか?


 少年たちの歌声を聴きながら、少女は星空を仰ぎ、涙を流した。


 こうして、赤い星の記憶は、青い星の夜へと、静かに受け渡された。


 それは、一つの文明の終わりであり、一つの星の記憶が、別の星へ渡った瞬間だった。


 澪は悟っていた。

 これは、知ってしまった以上、戻れない種類の記憶だと。


     * * *


 現在時刻・月面基地


 篠原は、古いログを閉じる。

 指先が、わずかに止まる。


 地球は今、再び揺れている。

 火星が死に、人類が空を見上げ、澪たちが「見えてしまった」今――。


 観測しているだけだと思っていた。

 だが、そうではなかったのかもしれない。


 篠原は月の裏側から、青い惑星を見つめる。


 そこには、泣く少女がいて、手を出せない少年がいて、祈る巫女がいる。


 そして――星そのものが、かすかに声を上げている。


 ――まだ、終わっていない。


 その声を、月は、太古からずっと聞いていた。


     * * *


 その後、三人は、長い旅から帰ってきた。


 冬休みの間、澪の鮮明な記憶は消えなかった。


 澪の中では、二つの光景が重なっていた。


 黒く死んだペルム紀の海。

 白い閃光に焼かれた火星の都市。


 原因は違う。

 時代も、文明も、存在の段階すら違う。


 それでも——。


 終わりの風景は、驚くほど似ていた。


 音が消え、動きが止まり、選ばれなかった命が、理由もなく地に伏す。


 自然でも。

 文明でも。


 「全部が壊れる瞬間」は、同じ顔をしている。


 目を閉じると、文明が滅びる前の火星の空が浮かぶ。

 薄い青。軽すぎる重力。音を立てない森。

 そして、燃える都市と、歌。


 どれも同じ重さで、胸の奥に沈んでいる。


 思い出そうとしなくても、勝手に浮かび上がる。

 拒めない種類の記憶だった。


 ――忘れてはいけない、とは思わなかった……忘れられない、とも違う。


 ただ、持ち続けるしかないのだと、澪にはわかっていた。


 誰かに話せば、薄まる気がした。

 言葉にすれば、整ってしまう気がした。


 だが、あれは整えてはいけない。


 火星で見たものは、「こういう話だった」とまとめてしまえる種類の出来事ではない。


 選ばれ、生き残り、歌を受け取り、地球に辿り着いた少女。

 それは奇跡でも救済でもなく、ただの連続だった。


 滅びと、生と、生の受け渡し。


 澪は胸に手を当てる。

 心臓は、普段と同じ速さで動いている。


 それが、怖かった。


 あの世界は壊れても、自分は学校へ行き、授業を受け、笑う。


 そのこと自体が、耐えがたいほど、重い。


 それでも。


 澪は、窓の外に広がる夜を見つめながら、静かに思った。


 ——ここで生きる。ここで、抱える。


 選ぶ、というのは、何かを得ることではなく、手放さないと決めることなのだと。


 澪は、はっきりと悟った。


 これは、過去の話でも、遠い星の話でもない。


 未来が、すでに見えてしまったのだと。


 そしてその未来を、自分たちは「知ってしまった側」なのだと。


 澪は、そのまま朝を待った。


     * * *


 知念は、ベッドの上で膝を抱えたまま、動けずにいた。


 火星で感じた「軽さ」が、まだ体に残っている気がする。

 深く息が吸えて、胸が広がる、あの感覚。


 ——苦しくなかった。


 それが、どうしても引っかかっていた。


 火星では、泣き声がなかった。

 叫びも、助けを求める声もなかった。


 それなのに、滅びた。


 医者がいなかったからではない。

 治療法が足りなかったからでもない。


 星が、小さすぎた。


 条件が崩れただけ。

 父の声が、繰り返し頭に響く。


 じゃあ——。

 自分がなりたいと思ってきた「医師」は、どこまで届くんだろう。


 今までの知念は、単純だった。


 苦しんでいる人がいる。

 だから、治したい。

 救いたい。


 それで、よかった。


 でも火星では、

 苦しみが、ほとんど無かった世界ですら、

 終わった。


 知念は、ギュッと目を閉じる。


 ——治せないものがある……努力や善意では、どうにもならないものがある。


 それを、初めて、感情として理解してしまった。


 だからといって、「じゃあ、医者なんて意味がない」とは、思えなかった。


 むしろ逆だった。


 治せないものがあるからこそ、治せる範囲を、絶対に手放したくない。


 壊れきる前。

 戻れなくなる前。

 「まだ大丈夫だ」と思えるうちに。


 知念は、自分でもはっきりしないまま、そんな考えを胸の奥に押し込んだ。


 言葉にはしない。

 まだ、名前をつけるには早すぎる。


 ただ一つ、確かなのは——もう、「目の前の苦しさだけ」を見ていればいい人間では、いられなくなった、ということだった。


     * * *


 小宮は、机に向かっていた。


 ノートパソコンの画面には、開いたままの資料と、途中で止まったメモ。


 指が、動かない。


 火星文明の崩壊。

 核兵器。

 重力井戸。

 脱出失敗。


 全部、理解できる。

 因果関係も、技術的背景も、推測できる。


 それが、一番きつかった。


 もし意味がわからなければ、「怖い」だけで済んだかもしれない。


 でも、小宮はわかってしまう。


 あれは選択だった。


 恐怖から。

 疑心から。

 自分たちが正しいと信じるために。


 地球で、何度も繰り返されてきたのと、同じ構造だ。


 小宮は、ゆっくりとノートを閉じる。


 ——知らなければよかった、とは思わなかった。


 ただ、知ってしまった以上、知らなかったふりは出来ない。

 それだけだった。


 だから、忘れない。


 美談にも、教訓にも、

 「だから人類は愚かだ」という結論にも、しない。


 ただ、記録する。

 覚えておく。


 世界がまた同じところへ近づいた時、「それ、前にも見た」と言えるために。


 小宮は深く息を吐き、新しいファイルを一つ、作った。


 タイトルは、まだ付けない。


 それは、いつか必要になるかもしれない記憶だった。


     * * *


 年末の午後、佐久の住宅地は音が少ない。


 除雪車が通ったあとに残る、道の端へ押しやられた雪の山。踏み固められた歩道は白ではなく、灰色に近い。澪はマフラーを少し引き上げ、肩をすくめて歩いた。息を吐くたびに、空気の冷たさが胸の奥まで届く。


 買うものは牛乳だけだ。

 それだけ決めて家を出たはずなのに、スーパーを出たあと、足は自然にもう一つ先へ向かっていた。


 Nishizawa Book Store。


 大きな書店ではない。ガラス張りでもなく、外から中の様子がよく見えるわけでもない。看板は控えめで、知らなければ通り過ぎてしまうような店だ。澪は一瞬だけ立ち止まり、特に理由もなくドアを押した。


 鈴の音が、小さく鳴った。


 中は、少し暖房が弱い。

 外よりは暖かいが、コートを脱ぐほどではない。紙とインクと、古い木の匂いが混じった空気が、静かに肺に入ってくる。足音を立てないように歩いているつもりはないのに、自然と音は小さくなった。


 棚は高くない。

 背伸びをすれば一番上まで手が届く。新刊もあるが、どこか時間の流れが遅い。澪は牛乳の入った袋を持ち替え、通路の端に立った。


 今日は、探しに来たわけじゃない。

 そう自分に言い聞かせるまでもなく、目的が無いことは、はっきりしていた。何かを調べたいわけでも、必要な本があるわけでもない。ただ、ここに入ってしまった。それだけだ。


 最初に目に入ったのは、新書の棚だった。

 科学、歴史、社会。見慣れた背表紙が並んでいる。澪は反射的に、自然科学——古生物や宇宙——に関係するあたりを探しそうになり、途中でやめた。


 今日は違う。

 そういう日があることを、澪はもう知っている。


 棚を一つ、また一つと移動する。

 エッセイ、随筆、少し古い文庫本。タイトルだけを追いながら、指で背をなぞる。文字は意味になる前に、ただの形として目に入ってくる。


 ——美しいって思った瞬間に、もう滅びてる。


 不意に、あの言葉が浮かんだ。

 カンブリアの海で見た、奇妙で、整っていなくて、それでも確かに美しかった生き物たち。オパビニアの五つの目、ハルキゲニアの逆さまの体、ウィワクシアの鱗のような外皮。


 ここには、そんなものは載っていない。

 この棚にあるのは、人が書いた言葉だけだ。人が見て、人が考えて、人が残そうとしたもの。


 それなのに、澪の胸の奥では、あの映像と同じ感覚が、静かに揺れていた。


 ——残ったものだけが、語る。


 生き延びた系統だけが、歴史になる。

 滅びたものは、記録がなければ、無かったことになる。


 澪は一冊の文庫本を手に取った。

 題名は、特別なものではない。何度も見たことがある作家の、短編集だった。ぱらりと開くと、紙が少し黄ばんでいる。新刊の張りつめた白さではなく、時間を吸った色。


 最初の一行を読む。

 意味はすぐに頭に入ってこなかった。それでも、ページを閉じる気にはならない。


 ——人は、どうして残すのだろう。


 自分が見たものを。

 自分が感じたことを。


 火星で、澪は「声」を聞いた。

 言葉ではなかったが、確かに対話だった。そこには「守る」も「直す」もなかった。ただ、存在して、移り変わって、終わるという事実だけがあった。


 それに比べて、ここにある本は、必死だ。

 忘れられないように、流されないように、形を与えようとしている。


 澪は、急にその必死さが愛おしくなった。


 知念なら、どう思うだろう。

 美しいものが消えることを、彼女は医師志望としてどう受け止めるのか。救えないものを前にして、それでも手を伸ばす理由を、彼女はもう見つけ始めている。


 小宮なら。

 知ってしまったことを、どう整理するのか。記録することが追いつかない現実を前にして、彼はそれでも書こうとするだろう。


 澪は、自分の立ち位置を考える。

 選ぶこと。


 この棚の前に立っている自分は、確かに地球にいる。

 佐久の小さな書店で、牛乳を片手に、本を選んでいる。


 それは、とても些細で、宇宙的な意味では取るに足らない光景だ。

 それでも、澪は思う。


 ——これを、失いたくない。


 手に取った文庫を、もう一度開く。

 今度は、数行読めた。内容よりも、言葉が「残ろうとしている」こと自体が、胸に響く。


 澪はその本を閉じ、しばらく迷ってから、レジへ向かった。


 買う予定ではなかった。

 けれど、今日は、それでいいような気がした。


 鈴の音が、また小さく鳴る。

 外に出ると、空はもう夕方の色に変わり始めていた。


 帰り道、足元の雪がきしむ。

 袋の中の牛乳と、本の重さが、同じ手に伝わってくる。


 家に着くころ、空気はさらに冷えていた。

 澪は玄関で靴を脱ぎ、窓を開ける。


 星が、いくつか見え始めている。


 遠くで起きた進化と絶滅。

 別の惑星の静かな世界。

 そして、ここで続いている、ありふれた生活。


 澪は星を見上げながら、小宮と知念のことを思った。

 言葉にしなくても、つながっている感覚だけが、静かに残っていた。


 その日の晩は、思ったより澄んでいた。

 昼間の雪が空気中の塵を落としたのか、佐久の空は冬らしい硬さを取り戻している。澪はベランダに出て、三脚を広げた。金属が冷えていて、指先が一瞬だけひやりとする。


 望遠鏡を覗くのは、久しぶりだった。

 忙しかったわけでも、嫌になっていたわけでもない。ただ、見る意味が変わってしまった気がして、少し距離を置いていた。


 ファインダーを合わせる。

 冬の星座は輪郭がはっきりしている。オリオン、シリウス、プレアデス。どれも、子どものころから何度も見てきた光だ。


 澪は、ゆっくりと接眼レンズに目を当てた。


 星は、何も変わらない。

 少なくとも、人間の時間感覚では。


 それが、今日は妙に安心だった。

 全球凍結も、カンブリア爆発も、ペルム紀の終わりも、そのすべてを経たあとで、それでも夜空はここにある。


 ——待っているように見える。


 星は静かに存在している。ただ存在しているだけではなく、何かを。


 澪は、ゆっくりと息を吐いた。


 澪は望遠鏡から顔を上げ、空をそのまま見た。

 肉眼で見る星は、輪郭が曖昧で、少しだけ頼りない。それでも、確かにそこにある。


 ——これでいい。


 そう思えたことが、今夜の一番の収穫だった。


     * * *


 同じ頃、小宮は机に向かっていた。


 部屋の明かりは落とし気味で、デスクライトだけがノートを照らしている。パソコンは閉じたままだ。 今日は、キーボードを打つ気になれなかった。


 ノートには、いくつかの単語が書かれている。


 「無酸素海」


 「硫化水素」


 「黒い水塊」


 それ以上、文章にはなっていない。

 書こうとすると、どうしても、あの光景が先に来る。言葉が、追いつかない。


 小宮は、ペンを置いた。

 記録することが、自分の役割だと思ってきた。見たものを整理し、残す。それができるから、天文部にいる意味があると思っていた。


 けれど、知ってしまったことの中には、記録する前に、人を黙らせてしまうものがある。


 ——全部は、残せない。


 その事実を、ようやく悟った。


 窓の外を見る。

 星空が見える。


 小宮は、ノートの端に、小さく書いた。


 「それでも、書く」


 理由は、まだはっきりしない。

 ただ、何も書かないという選択だけは、したくなかった。


 澪は、選んだ。

 知念は、きっと進む。


 なら、自分は。

 追いつけなくても、途中で止まらなくてもいい。ただ、見たという事実を、どこかに置いておく。


 それでいい気がした。


     * * *


 知念は、ベッドに仰向けになっていた。

 部屋の灯りは消してある。天井の染みが、ぼんやりと浮かんで見える。


 医師になりたい。

 そう言い切れなくなったわけではない。


 けれど、理由は変わった。


 助けられないものがある。

 直すという概念すら存在しない世界がある。


 それを知ったうえで、それでも人の体に手を伸ばす意味は、何だろう?


 知念は、あの火星で見た草食動物を思い出す。

 音もなく、争いもなく、ただ生きて、終わっていく存在。


 美しかった。

 そして、医者は要らなかった。


 ——それでも。


 地球では、痛みがある。

 間違いがある。助けを求める声がある。


 知念は、胸の奥で、静かに答えを見つけつつあった。


 完璧じゃなくてもいい。

 全てを救えなくてもいい。


 それでも、手を出す。

 それが、自分の選び方だ。


 目を閉じると、星の光が浮かぶ。

 澪も、小宮も、きっと同じ夜を見ている。


 知念は、小さく息を吐いた。


 同じ夜。

 同じ空。


 それぞれが、違う仕方で、選んでいる。

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