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それでも私は地球を選ぶ  作者: 喜多里夫


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第13話 白の果て、爆発

 白――ではない。


 正確には、白しか存在しない。


 空も、海も、地平線も、すべてが同じ色に塗りつぶされている。

 上下の感覚は崩れ、距離も失われていた。


「これが……」


 澪の声は、氷の世界に吸い込まれる。


「全球凍結……」


 地球は、丸ごと凍っていた。


 氷床は大陸を越え、赤道を越え、海を覆い尽くす。

 太陽は確かに昇っている。

 だが光は弱く、拡散し、暖かさを持たない。


「……ちょっと待って」


 小宮が、思わず言った。


「これ……終わってない? 生き物……?」


 言葉が途切れる。


 視界のどこにも、動くものがない。

 波も、風も、音もない。


 完全な静止。


「……静かすぎるね」


 知念が呟いた。


 澪は胸の奥が、じわじわ締めつけられるのを感じていた。


 ――知っている……理屈は、全部。


 だが、見るのは初めてだ。


 時間が進む。


 白。

 また白。


「……一回じゃない」


 澪が言う。


「二回……いや、もっと」


「スターティアン、マリノアン」


 父――天野博士の声。


「少なくとも二度、地球はここまで凍ったと考えられている」


「……正気じゃない」


 小宮が、乾いた笑いを漏らす。


 その瞬間。


「……待って」


 知念が、鋭く言った。


「下、見て」


 澪の視界が、氷を透過する。


 暗い。

 冷たい。


 だが――


「いる……」


 澪の声が、震えた。


 氷の下。

 厚い氷床に守られた、わずかな海水層。


 そこに、微細な動き。


「……生きてる」


 光合成は、ほぼ不可能。

 だが、化学反応は残っている。


「熱水噴出口だ」


 父が言う。


「地熱エネルギー。太陽が無くても、生命は……完全には止まらない」


「……しぶとすぎ」


 小宮が、呆然と呟いた。


 生命は、ほとんど進化しない。

 増えることもない。


 ただ、消えない。


 火山活動が、ゆっくりと続く。

 二酸化炭素が、氷の牢獄の外で、静かに蓄積される。


 時間が、進まない。


 正確には――進んでいるはずなのに、何も変わらない。


 澪は、しばらく黙って氷の下の世界を見つめていた。


 微かな光。

 黒に近い海水。

 熱水噴出口の周囲にだけ、かろうじて存在する色。


 そこにいるのは、細菌。

 せいぜいが、単純な多細胞。


 増えもしない。

 減りもしない。


「……これ」


 小宮が、困惑したように言う。


「時間の流れ、止まってないよな?」


「止まってない」


 父が答える。


「時間は、ちゃんと流れている」


澪は、視線を動かす。


 一年。


 百年。


 千年。



 何も変わらない。


「……進化、してない?」


 知念の声には、戸惑いが混じっていた。


 澪は、首を横に振る。


「してる、はず」


 だが――。


 目に見える違いが、何もない。


 形は同じ。

 動きも同じ。

 数も、ほとんど同じ。


 百万年が過ぎる。

 一千万年が過ぎる。


 それでも、世界は凍ったままだ。


「……長くない?」


 小宮が、冗談めかして言う。


「これ、何年……?」


「数千万年」


 父の声は淡々としている。


「場合によっては、一億年近く」


 沈黙。


「……一億?」


 知念が、思わず聞き返す。


「人類史の……何倍?」


「比べる意味がない」


 父はそう言った。


 澪の胸に、奇妙な感覚が広がっていた。


 退屈でもない。

 怖くもない。


 ただ、重い。


 時間そのものが、圧力としてのしかかってくる。


 生き物たちは、変わらない。

 変われない。


 変わる必要が、ない。


 環境が、許さない。


 酸素は少ない。

 光は届かない。

 エネルギーは、最小限。


 生き延びるだけで、精一杯。


「これってさ……」


 知念が、ポツリと言う。


「頑張っても、意味ない感じ?」


 澪は、その言葉に、少しだけ息を詰めた。


「意味は……ある」


 自分に言い聞かせるように、続ける。


「消えないこと自体が……意味」


 進化しない。

 でも、絶滅もしない。


 派手な変化はない。

 だが、系統は、途切れていない。


 小さな細胞が、ただ、そこにいる。


 澪は、ふと思った。


 ——これ、人間だったら、耐えられるだろうか。


 何も達成できない。

 何も進歩しない。

 昨日と、今日と、明日が、まったく同じ。


 評価もない。


 記録もない。


 称賛もない。


 ただ、生きているだけ。


「……すごいね」


 知念の声が、静かだった。


「諦めてない、っていうより……」


 言葉を探してから、続ける。


「最初から、諦める必要がない、みたい」


 澪は、頷いた。


 進化とは、常に前に進むことじゃない。

 選択肢が、無い時間もある。


 この時代、生命は耐えている。


 より良くなるためではない。

 勝つためでもない。


 ただ――。


「次が、来るまで」


 澪は、小さく呟いた。


 誰にも聞かせない声で。


澪は、氷の下の微かな生命を見つめながら、ふと、別の光景を思い出していた。


 ——学校の、昼休み。


 誰も悪くない。

 誰も怒っていない。


 でも、何も起きない時間。


 友達同士で他愛もないお喋りをしている人。

 自分の席で一人で勉強している人。

 スマホを眺めているだけの人。

 話しかける理由も、話しかけられる理由も、無い人。


 毎日が、同じような。


 変わらないから、問題も起きない。

 でも、変わらないから、何も始まらない。


 澪は、胸の奥が、少しだけ痛くなるのを感じた。


 ——頑張ってないわけじゃない。怠けているわけでもない。


 ただ、環境が、「変わる余地」を与えていない。


 全球凍結の海と、その思いが、重なる。


 光が届かない。

 酸素が足りない。

 選択肢が、最初から少ない。


 そんな場所で、「進化しろ」と言われても、それは酷だ。


「……生きてるだけで、精一杯の時間って……あるんだ……」


 澪は、誰にともなく、そう呟いた。


 評価されなくても。

 成果が見えなくても。


 消えないこと自体が、抵抗で、選択で、意志なのかもしれない。


 しばらく、誰も喋らなかった。


 氷の下の海は、相変わらず、ほとんど変わらない。

 生きているのかどうかすら、見失いそうな静けさ。


「……ねえ」


 知念が、ポツリと言った。

 澪は、視線だけで応じる。


「これって……」


 言葉を探すように、知念は一度、口を閉じた。


「進化してない、って言われるんだよね」


 誰に向けた問いでもない。

 ただの確認。


「でもさ……」


 知念は、氷の下を見つめたまま、続ける。


「生きてるよね。ちゃんと」


 声が、少し震えていた。


「何も変わってなくても……増えてなくても……」


 一拍、間が空く。


「止まってるみたいに見えるだけで」


 澪は、ハッとする。


 それは、説明ではなかった。

 感想でも、知識でもない。


 感情だった。


「……環境が、悪すぎるんだよ」


 知念は、言ってから、少し驚いた顔をした。

 自分でも、そんな言葉が出てくるとは思っていなかったように。


「この海が、悪いわけじゃない。ここにいる生き物が、ダメなわけでもない」


 拳を、ギュッと握る。


「ただ……条件が、きつすぎる」


 小宮が、そっと視線を向ける。


 澪の胸が、静かに揺れた。


「だから……」


 知念は、最後まで言い切らなかった。

 けれど。


「助ける、とか……治す、とか……」


 言葉が、途中で絡まる。


「そういう話になる前にさ……」


 知念は、息を吸う。


「まず、ちゃんと……息ができる場所、必要なんじゃないかなって」


 澪は、思い出した。


 ——そういえば、知念さんは医者志望だった。


 誰かを変えたいわけじゃない。

 進化させたいわけでもない。


 ただ、生きられる条件を取り戻したい。


 氷の下の、変わらない海が、そのことを、教えてしまったのだ。


 知念の言葉が、氷の下の海に溶けていく。


 それ以上、彼女は何も言わなかった。


 澪は、答えなかった。

 説明もしない。

 肯定も、否定も。


 ただ、知念を見た。


 その横顔は、いつもより少し硬くて、

 でも、どこか真剣で、

 自分でもまだ気づいていない何かに、触れてしまった人の顔だった。


 知念は、澪の視線に気づき、一瞬だけ、戸惑ったように目を逸らす。


「……なに?」


 軽く、いつもの調子で。


 澪は、首を振った。


「ううん」


 それだけ。


 言葉は、要らなかった。


 氷の下の海は、変わらない。

 進化しない。

 増えもしない。


 それでも、確かに——生きている。


 澪は、その「ほぼ何も起きない時間」を、もう一度だけ見つめた。


 そして、思う。


 この静止を、苦しいと感じた人間が、未来を変えようとするのだ。


 知念は、まだ知らない。

 自分が今、何を受け取ったのかを。


 けれど。


 澪には分かっていた。


 この沈黙は、

 後で、必ず意味を持つ。


 氷は、まだ厚い。

 世界は、まだ動かない。


 澪は、もう一度、氷の下を見る。


 そこには、相変わらず、ほとんど変わらない生命が、漂っていた。


 ——でも、消えていない。


 それだけで、胸の奥に、微かな熱が残った。


小宮は、目を見開いて周囲を凝視していた。


 時間は進んでいる。

 それだけは、数値が証明している。


 だが、それ以外は——何も変わらなかった。


 全球を覆う氷床の縁は、前回とほぼ同じ位置にある。

 海水温も、塩分濃度も、溶存酸素量も、誤差の範囲内。

 大気組成にも、顕著な揺らぎは見られない。


 小宮は一つひとつ確認し、同じ数値を頭の中に刻み込んでいく。


 異常なし。異常なし。異常なし。


 それが、何十回も続く。


 記録は正しい。

 観測対象も、正常なのだろう。


 ——正常、とは何だ?


 小宮はふと、思った。


 これほど長い時間、これほど大きな惑星規模で、「何も起きない」ことは、本当に正常なのか?


 進化もない。

 絶滅もない。

 繁栄も、衰退もない。


 ただ、耐えている。


 生き物たちは、増えもしない代わりに、消えもしない。

 氷の下の海で、最低限の代謝だけを続け、世界が再び動き出す日を、待っている。


 今日も、昨日と同じ数値なのだろう。


 記録としては、退屈だ。

 研究としても、成果があるとは言いがたい。


 けれど——。


 この「退屈さ」そのものが、消えてはいけない。


 小宮はそう思った。


 派手な変化は、誰かが必ず覚えている。

 大絶滅も、大進化も、後世に語り継がれる。


 だが、何も起きなかった時間は、簡単に忘れられる。


 生命が、ただ「持ちこたえていた」だけの時代。

 勝ちも負けもなく、選択肢もなく、それでも命が途切れなかった時間。


 小宮は、その価値を、うまく言葉にできなかった。


 だが、だからこそ記憶する。


 意味が分からなくても、評価されなくても、変化がなくても。


 変わらなかった、という事実を、変わらず残すために。


 時間が、さらに流れる。


 白い氷の外で、二酸化炭素が、少しずつ、少しずつ、溜まっていく。


 誰も知らない。

 誰も期待していない。


 だが――。


 この「何も起きない時間」そのものが、

 次の爆発を、静かに準備している。


 澪は、その事実に、背筋が冷えるのを感じていた。


 進化は、いつも派手に始まるわけじゃない。


 最も重要な準備は、退屈で、長くて、誰にも気づかれない。


 白い世界は、まだ、終わらない。


 と、突然。


 白が、緩む。


 澪は、寒さが緩むのを感じていた。


 氷が、少しづつ割れていく。


「溶けてる……」


 小宮の声が、上ずる。


 海が戻る。

 風が生まれる。


 だが、それで終わりではない。


 長い、長い停滞。


「……何も起きない」


 澪が呟く。


 単細胞。

 藻類。

 変わらない世界。


「……溜めてる感じ」


 知念の言葉に、澪は息を呑んだ。


 爆発の前の沈黙。

 張りつめた、静止。


 そして――。


 世界が、弾けた。


 比喩ではない。

 実際に――爆発したように見えた。


「うわっ!?」


 小宮が叫ぶ。


 色。

 形。

 動き。


 それまで存在していなかったものが、同時多発的に、海を満たす。


 透明な体。

 硬い殻。

 節のある脚。


「なに、これ……?」


 言葉が追いつかない。


 澪の視界に、数値の気配が重なる。

 色でも、音でもない。

 それは、条件だ。

 生命が成立するための、境界条件。


「……酸素」


 彼女は、直感的に理解していた。


 大気中の酸素濃度が、

 長い時間をかけて、閾値を越えたことを。


「光合成……」


 シアノバクテリア。

 何億年も、ただ酸素を吐き続けた存在。


 それは派手な進化をしなかった。

 ただ、環境を変え続けた。


「酸素は、毒でもある」


 父の声が、遠くから補足する。


「だが同時に、高効率なエネルギー源だ。多細胞が成立するには、どうしても必要だった」


 澪は、海を見る。


 殻を持つ生物。

 硬い外骨格。


「カルシウム……」


「そうだ」


 父は短く肯定する。


「酸素が増え、海水中の化学状態が変わった。鉱物を『体』として使えるようになった」


 殻は、鎧だ。

 だが同時に――。


「記録だ!」


 小宮が、思わず口にする。


「殻って……死んだ後も、残る」


 澪は、ハッとする。


 化石。

 時間を越える痕跡。


 それまでの生命は、ほとんど痕跡を残さず消えていった。


「だから……」


 澪は、ゆっくり理解する。


「ここから、歴史が『見える』ようになる」


 生物が増えたからではない。

 残る形を、手に入れたからだ。


 知念は、その説明を聞きながら、ふと呟いた。


「……世界が、自分を記録し始めたみたい」


 その言葉に、澪は、強く頷いた。


 そして、今までとは別のルールで動く生命が現れる。


 捕食。

 逃走。

 競争。


「……食ってる」


 澪が、呆然と呟く。


 アノマロカリス。

 巨大な複眼。

 節のある前肢。


 それは、迷いなく獲物に向かい、

 迷いなく噛み砕いた。


「……こわっ」


 小宮が、思わず後ずさる。


「今まで……こんなの、いなかっただろ……」


「捕食は、革命なんだよ」


 澪の父の声は、淡々としている。


「逃げる必要が生まれ、隠れる必要が生まれ、速さと硬さと知恵が……進化を加速させる」


 世界が、騒がしくなる。


 爆発という言葉では、もう足りなかった。

 これは誕生ではない。

 選別が、始まったのだ。


 ほんのわずかな地質学的瞬間のうちに、世界は突然「賑やか」になった。


 泳ぐ。

 這う。

 漂う。

 噛みつく。

 逃げる。


 それまで、静かだった海底が、ざわめき始める。


「……すごい」


 思わず、知念が声を漏らした。


「いきなり、こんなに……生き物が……」


 三葉虫が、海底を覆い尽くす。

 節足動物が、爆発的に増える。


 殻。

 棘。

 眼。


「目がある……」


 澪は、それに強い違和感を覚えた。


「『見る』って……こんなに、急に?」


「光が、使えるようになったからね」


 父が答える。


「氷が溶け、酸素が増え、世界が……見えるようになった」


 知念は、声を失っていた。


 ただ、漂いながら、その光景を全身で浴びている。


「すごい……」


 ようやく、言葉が漏れた。


「怖いけど……でも……すごく、綺麗」


 捕食の瞬間。

 逃げ切る瞬間。

 失敗して、消える瞬間。


 それらすべてが、無駄なく、必然のように繋がっている。


「……楽しい」


 知念は、笑っていた。


「生きるって……こんな感じなんだ」


「ちょっ、知念さん……」


 小宮は必死に視界を追っている。


「待って、待って……情報量が……!」


 だが、その目は輝いていた。


「……やばいな、これっ!」


 彼の指が、無意識に動く。


「全部……全部、記録したい……」


 澪は、その二人を見ながら、一歩、引いていた。


 美しい。

 確かに、美しい。


 だが――。


「でも……」


 ぽつりと、呟く。


「この中の、ほとんどは……」


 言葉が、続かない。


 知っている。

 未来を。


 この多様性が、ほぼ全滅することを。


 知念が感じている「美しさ」を、澪も確かに感じている。


 だが――。


 同時に、終わりが見えてしまう。


 未来が、重なってしまう。


 この海。


 この色。


 この形。


 すべてが、やがて、消える。


「どうして……?」


 澪は、心の中で問う。


 なぜ、自分は――始まりと終わりを、同時に受け取ってしまうのか?


 知念は、今を生きている。

 小宮は、今を残そうとしている。


 自分だけが、「これが終わる」ことを知っている。


 それは、祝福だろうか?

 それとも――呪いだろうか?


「……天野さん」


 知念の声が、届く。


 振り返ると、

 彼女は、心配そうに見ていた。


「大丈夫……?」


 澪は、少し迷ってから、答える。


「……うん」


 嘘ではない。

 ただ、全部ではない。


 澪は、思う。


 もし、終わりを知らなければ――もっと、無邪気に、この光を祝福できただろうか?


 だが。


 終わると知っているからこそ、この瞬間は、かけがえがない。


 消える。

 だから、尊い。


 澪は、拳を、そっと緩めた。


 自分の役割が、少しだけ、見えた気がした。


 ――私は、「始まり」と「終わり」を、同時に伝える存在なのだ。


 それが、苦しくても。


 時間が、加速する。


 種が増え、系統が分かれ、そして――消える。


 澪の視界には、未来の影が重なって見えていた。


 眼の前には、見たこともない形の生物たちが次々に現れては消えていく。

 殻を持つもの、持たないもの。

 節があるもの、ないもの。

 左右対称ですらない存在。


 小宮は、半ば独り言のように声を上げていた。


「分類……ええと……待って、これ、今の系統樹に当てはまらない……!」


 指が止まらない。

 記録しなければ、という強迫観念に突き動かされているようだった。


 澪は、言葉を失っていた。


 美しい、と思った。


 それは装飾された美しさではない。

 意味も目的も、まだ定まっていない、剥き出しの形の奔流。

 可能性そのものが、海の中を泳いでいるようだった。


 次の瞬間——。


 視界が、ふっと切り替わる。


 澪は、ふと思った。


 ——これから見るものは、きっと、私を少し変える。


 そこに現れたのは、五つの目を持つ奇妙な生物だった。


「……なに、これ」


 澪が呟く。


 頭部らしき場所から、短い触手が伸び、左右非対称の身体が、水中を不器用に進んでいる。


「オパビニア」


 父が淡々とした声で説明する。


「カンブリア紀前期に生きていた節足動物の近縁。五眼、前方の吻、そして——」


 澪はその動きに目を奪われた。

 細長い吻がクイッと伸びて、海底の何かをつまみ取る。

 捕食というより、探っているような仕草だった。


 澪は、理由もなく思った。


 ——かわいい。


 目が多いからでも、珍しいからでもない。

 ただ、その生き物が「慎重に生きている」感じがした。


 周囲を警戒し、無駄な動きをせず、自分の体の使い方を、ちゃんと知っている。

 間違えないように、ゆっくり動く。

 澪は、その仕草に、自分を重ねてしまった。


 ——この子、賢い。


 そう思った瞬間だった。


 視界の端で、時間が跳ぶ。


 オパビニアの姿が、ふっと消えた。


「えっ……?」


 澪は、思わず瞬きをした。

 映像が飛んだわけじゃない。

 世界は続いている。

 ただ、その系統だけが、次の瞬間には存在しなかった。


 理由は示されない。

 敗北も、破滅も、悲鳴もない。


 ——いなかったことになる。


 胸の奥が、キュッと縮んだ。


 次に現れたのは、さらに奇妙な姿だった。


 棒のような胴体。

 背中からは、棘のような突起。

 どちらが上で、どちらが下なのか、一瞬わからない。


「ハルキゲニア」


 名前の通り、幻覚じみた姿。

 それなのに、その歩みはひどく慎重で、ゆっくりだった。


 棘のある背中を海底に向け、

 柔らかな脚で、少しずつ前に進む。


 澪は、思った。


 ——間違えたんだ。


 進化の途中で、上下を。

 あるいは、守り方を。


 でも、その「間違い」は、誰にとっての間違いなのか。


 ハルキゲニアは、何も知らない。

 自分が奇妙だとも、不完全だとも、思っていない。


 ただ、そこにいて、

 食べて、

 生きている。


 澪は、その姿から目を離せなかった。


 ——これ、すごく……綺麗だ。


 整っていないからこそ、

 目的が透けて見える。


 「生きる」ためだけに組み上げられた形。


 次の瞬間。


 時間が、また、跳ねた。


 すると、ハルキゲニアの系統も説明なく歴史から落ちた。


 澪の喉が、ひくりと鳴る。


「……待って」


 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。


 世界は止まらない。

 次、次、と、形が現れては、消えていく。


 最後に、澪の前に広がったのは、どこか「完成している」ように見える生き物だった。


 体表を覆う、瓦のような鱗。

 その隙間から、柔らかな体が覗いている。


「ウィワクシア」


 守りと柔軟性を、同時に持っている。

 危ういけれど、賢い折衷案。


 澪は、思わず息を吸った。


 ——これ、残る。


 理由はない。

 ただ、そう感じた。


「なんだか、これ、未来に何かに進化してそうだよね」


「うん、わたしもそう思う」


 小宮と知念も口々にそう言っている。


 攻撃も、防御も、逃げる余地もある。

 世界に適応している。


 でも——。


 次の瞬間、澪は知る。


 残らない。


 ウィワクシアの系統も、やがて、完全に途切れる。


 子孫を残さない。

 恐竜にも、哺乳類にも、何も繋がらない。


 ただ、ここにいただけ。


 澪の胸の奥に、重たいものが落ちた。


 ——どうして?


 答えは、どこにもない。


 強かったからでも、

 美しかったからでも、

 合理的だったからでもない。


 残るかどうかは、

 成功したかどうかとは、別だった。


 澪は、はっきりと理解してしまった。


 進化は、報酬じゃない。

 歴史は、評価じゃない。


 ただの結果だ。


 そして——。


 自分が今、こうして見ている世界も、「残った側」の偶然に過ぎないのだと。


 澪は、無意識に、自分の腕を抱いた。


 好きになった。

 美しいと思った。

 意味があると感じた。


 それでも、それらは、何一つ、残る理由にはならなかった。


「……怖い」


 小さく呟いた声は、

 誰にも届かなかった。


 澪は、その瞬間から、

 何かを好きになることを、

 ほんの少しだけ、怖くなった。


 ——美しいって思った瞬間に、もう滅びてる。


 その事実が、冷たい波のように胸を打つ。


 小宮は、必死に記録を続けていた。

 だが、次第にその速度が落ちていく。


「……無理だ……」


 ポツリと漏れた声。


「消えるのが……早すぎる……」


 知念は、映像を見つめたまま、言葉を失っていた。


 最初は楽しかった。

 奇妙で、賑やかで、生命に満ちているように見えた。


 でも今は。


「……これってさ」


 知念が、恐る恐る言う。


「進化、なんだよね?」


 沈黙。


「進化って……成功、じゃないの?」


 澪は、答えられなかった。


 進化は、前進ではない。

 選別だ。


 生き延びたものが「正しかった」のではない。

 たまたま、条件に合っただけだ。


 美しかったかどうか。

 優れていたかどうか。

 面白かったかどうか。


 そんなことは、何ひとつ関係ない。


 眼の前で、海はなおも変化を続けている。

 やがて、現代につながる系統が、ゆっくりと姿を現し始める。


 だが、それは勝者の行進ではなかった。


 むしろ——無数の失敗と消失の上に、偶然残った「残り物」の列。


 ——進化とは、選ばれることではなく、残ることだった。


 澪は、そっと拳を握りしめた。


 生き延びること。

 それは、祝福なのだろうか?


 それとも——ただの、結果なのだろうか?


 答えは、まだ無かった。


 奇妙で、美しく、二度と戻らない形。


「99%……」


 澪が、静かに言った。


「地球に生まれた生物種の……99%は、もう絶滅してる」


 知念が、動きを止める。


「えっ?」


「今、ここで泳いでる子たちも……ほとんど、残らない」


 沈黙。


 海は、変わらず賑やかだ。

 だが、澪にはそれが――一瞬の花火のように見えていた。

 色は鮮やかで、音も満ちている。

 それでも、澪には——遠ざかっていく光のように見えた。


「じゃあ……」


 小宮が、ゆっくりとした口調で問いかける。


「無駄、だったの?」


 澪は、即答できなかった。


     * * *


 観測室。


 モニターに映る海は、色と動きで溢れている。

 だが室内は、異様なほど静かだった。


 篠原は、表示される数値を見つめながら、ゆっくり口を開いた。


「……想定より、深く入っていますね」


 天野博士は、モニターから目を離さない。


「ええ。全球凍結からカンブリア紀まで……通常なら、ここは『資料』で済ませる領域です」


「それを……体験として、見せている、と」


 篠原の声には、わずかな躊躇が混じる。


「見せている、というより……澪が、見てしまっている」


 天野博士は、淡々と訂正した。


「我々が制御しているのは、同期の枠だけです。内容までは……」


 言葉を切る。


「……及びません」


 篠原は、短く息を吐いた。


 ――生命種の99パーセントは絶滅する。


 ――進化は、無駄の連続だ。


「……普通は、そんな事実を、感情と切り離して理解します」


「ええ」


「ですが、彼女は……」


 篠原は、モニターに映る澪の脳波を見た。


 数値は安定している。

 だが、どこか異質だった。


「理解と同時に、感情が落ちている」


 天野博士は、わずかに眉を動かした。


「……それが問題ですか?」


「問題、というより……」


 篠原は、言葉を探す。


「耐えられるのか、という疑問です」


 天野博士は、少しだけ黙った。


「……私は、澪の父親です」


 それは、科学者としてではない答えだった。


「娘に、世界の残酷さを見せたいわけじゃない」


 だが、と続ける。


「同時に……見ないまま生きることが、必ずしも幸福だとも思えない」


 篠原は、静かに頷いた。


「……ですね」


 再び、モニターを見る。


 そこでは、奇妙な生物たちが、必死に生きている。


 ――消えると分かっていても、生まれる。


 ――残らないと分かっていても、増える。


 篠原は、小さく呟いた。


「……人間と、同じですね」


 天野博士は、否定しなかった。


「ええ」


「だからこそ……」


 篠原は、視線を澪のデータに戻す。


「彼女を、ただの『観測者』として扱うのは……危険だ」


「同意します」


 天野博士は、即答した。


「澪は……すでに、当事者です」


 その言葉が、観測室に、静かに落ちた。


     * * *


「無駄じゃない」


 小宮の問いに答えたのは、澪ではなく知念だった。


 彼女は、まだ海を見ている。


「全部、消えても……」


 言葉を選びながら、続ける。


「今の世界は……この『失敗』の上にある」


 澪は、はっとする。


「消えたからこそ……次が、ある」


 知念は、澪を見る。


「そうでしょ?」


 澪は、ゆっくり頷いた。


「……うん」


 生命は、効率的じゃない。

 無駄だらけだ。


 だが――。


 残ったものだけが、次を作る。


 小宮は、深く息を吸った。


「……だから、記録するんだな」


「え?」


「消えるから」


 彼は、笑った。


「消えるから……残さないと、意味がなくなる」


 澪は、その言葉に、胸を打たれた。


 世界は、まだ続く。


 大量絶滅。

 氷河期。

 隕石衝突。


 それでも――。


 この瞬間、生命は、確かに――。


「……生きてる」


 澪は、そう呟いた。


 光は、あふれすぎるほどに満ち、やがて――また、選別が始まる。


 次の時代へ。


 次の章へ。


 静かに、だが確実に。

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