第11話 呼び声
十月の初め、星嶺高校の今年度後期が始まった。
信州の空気はもう完全に秋だった。
校舎の渡り廊下を吹き抜ける風が、体に当たる。
澪は思わず肩をすくめ、無意識のうちに空を見上げた。
青は高く、薄い。
夏の空とは、もう明らかに違っている。
雲の輪郭は切り取ったように鋭く、光は透明だった。
観測に向いた空――そういう言い方が、自然に浮かぶ。
* * *
放課後、掲示板の前には、いつもより人だかりが多かった。
「……天野さん、やっぱり数Ⅰ、数A、化学基礎、生物基礎、4科目満点じゃん」
「理数系、相変わらず完璧だな」
「もう、同じ人間とは思えん」
澪は少し離れた場所で、騒ぎを眺めていた。
自分の名前を探す必要はない。結果は、ほぼ分かっている。
数式や論理は、裏切らない。
正しく積み上げれば、必ず同じ答えに辿り着く。
その一方で――。
「えっ、小宮これ……?」
「国語、学年一位?」
「マジかよ」
別の方向で、どよめきが起こる。
小宮の名前の上には、確かに一番上の順位が書かれていた。
満点ではないが、国語としては異様に高い。
「天野効果じゃね?」
「最近、一緒に勉強してるらしいから」
誰かが冗談めかして言い、周囲が笑う。
澪は、その言葉に小さく首を傾げた。
――効果、って。
誰かが誰かの点数を押し上げるような影響を与える、そんな単純な話だろうか。
でも、小宮の文章を思い出すと、否定もしきれない。
観測記録をまとめる時の、無駄のない言葉。
事実と感覚の境界線を、慎重に選び取る書き方。
「小宮は『文系の城』にいるもんな……」
誰かの言葉が、ふと蘇る。才能が環境に影響されるというのなら、むしろそちら(新聞部)の方が原因では?
澪は静かに掲示板から離れ、天文部の部室へ向かった。
* * *
「火星、だいぶ明るくなってきたな」
部室で天文年鑑を見ながら、塩原が言う。
「今月末が最接近だ。条件はいい」
「お、ついに来たな」
塚田が身を乗り出す。
「今度こそ、人類が火星文明の痕跡を見つける時だよ」
「はい、はい」
塩原は慣れた調子で受け流した。
「文明は知らないけど、観測自体はやる。他校とも連携する。夏休みに一緒に月を観測した瀬戸内理科大付属の三宅くんたちだ」
「データ共有、ですね」
澪が確認する。
「ああ。せっかくだしな」
澪は小さく頷いた。
月の観測。
あの時の感覚が、胸の奥で微かに疼く。
「火星ってさ」
塚田が、珍しく真顔になる。ただ、そういう時は、かえって「要注意」である。
「月より火星の方が、なんか『生きてる』感じしない?」
「はあ?」
「昔、海があったっていうし」
「それは事実だけど」
塩原は即座に切る。
「感じる、ってのは科学じゃない」
「でもさぁ」
塚田は引き下がらない。
「感じない? 呼ばれる、みたいな……」
澪の指が、無意識に止まる。
――呼ばれる。
その言葉に、理由の分からない引っかかりを覚えた。
理屈ではない。
でも、確かに何かがあるような気がする。
* * *
その夜。
澪は、久しぶりに「夢」を見た。
それが夢だと分かるのは、音が無いからだ。
自分の足音も、呼吸も、何も聞こえない。
月の裏側。
以前、確かに来た場所。
灰色の地表。
黒く沈んだ空。
だが、前回とは違っていた。
拒まれていない。
――来たんだね。
声ではない。
直接、意識に触れてくる。
澪は立ち止まった。
「……呼ばれた気がする」
そう思った瞬間、それが答えだった。
――月の秘密を知りたいのか?
「……うん」
――なら、火星へ行くといい。
「火星?」
距離がよぎる。
遠すぎる。
「行けない。そんな……」
――今は、ね……でも、君はもう知っている。
何を?
――「見ること」が、どんなことかを。
胸が、キュッと縮む。
「……怖い」
――だから、今なんだ。
優しく、逃がさない声。
闇が、ゆっくりと滲んでいく。
翌朝、目が覚めても、感覚は消えていなかった。
澪は布団の中で、天井を見つめる。
夢。
でも、ただの夢ではない。
「……火星」
小さく呟く。
頭に浮かんだのは、父と――。
* * *
父の書斎には、いつもの紙とインクの匂いがあった。
「お父さん」
声をかけると、父は顔を上げる。
「どうした?」
澪は、椅子に座るまで少し間を置いた。
言葉を選んでいる。
「前に言ってたことだけど……」
父は、澪の表情を見て、すぐに察した。
「何か、見たな?」
澪は驚いて目を見開く。
「わかるんだ……」
「そりゃ、わかるさ」
父は苦笑する。
「その顔は、俺もしたことがある」
一瞬の沈黙。
「……月に呼ばれたの、また」
澪は、夢のことを話した。
月の裏に呼ばれた感覚。
そして、「火星に行け」と勧められたこと。
話し終えた時、父は深く息を吐いた。
「もう、そこまで……」
驚愕と、わずかな恐れ。
「実はな、澪」
父は、しばらく黙ってから言った。
「俺も、思春期の頃に発現した」
「えっ!?」
「リモート・ビューイング、という能力だ」
父は、「超能力」という言葉を安易に使わない。慎重に言葉を選ぶ。
「それは『超常現象』じゃない。説明できる枠組みはある」
「……あるの?」
「完全じゃないがな」
父は、本棚から一冊抜き出す。
背表紙には英語のタイトル。
「20世紀後半の冷戦時代、真面目に研究された分野がある……遠隔知覚、認知拡張、意識の空間的分離」
澪は目を瞬かせる。
「……それって」
父は淡々と言った。
「元々は軍事利用が目的だった。地形、施設、移動……実験データは、思ったより揃っている」
「じゃあ……本当に……」
「再現性が低い」
父はすぐに補足する。
「成功率は高くないし、条件依存が強すぎる。だから、主流科学からは外れた」
澪は、少し安心したような、少し不安そうな顔になる。
「でも」
父は、視線を落とす。
「思春期の被験者だけ、異様に成績が良かった」
「……」
「神経可塑性……自己と外界の境界が、まだ固定されていない時期だ」
澪の胸が、静かに高鳴る。
「距離が伸びるほど、負荷が大きくなる。月までは、まだ近い。でも、火星は……」
言葉を切る。
「戻れなくなる危険が、理論上はある」
澪は、思わず拳を握った。
「お父さんは……」
「俺も、やった」
短く、はっきり。
「高校生の頃。場所は地球上だったが、それでも怖かった」
父は、澪を真っ直ぐ見る。
「もう一度、言う……これは『超能力』じゃない」
「……」
「これは一生の能力じゃない。思春期だけだ……俺はそれ以来、二度と出来ない」
「……」
「だからこそ、強烈なんだ」
澪は、胸がいっぱいになる。
「じゃあ……今しか……」
「そうだ」
父は、静かに頷く。
その夜。
澪は、小宮に電話をかけた。
出るのが早い。
「天野さん?」
「……今、大丈夫?」
「うん」
それだけで、少し安心する。
澪は、父の話をそのまま伝えた。
自分の持っている「能力」のこと。
軍事研究のこと。
思春期だけの現象だということ。
火星が、遠すぎるということ。
小宮は、途中で遮らなかった。
「……正直」
小宮が言う。
「スケールでかすぎて、実感ない」
「だよね」
「でも」
少し間。
「天野さんが、変なこと言ってる感じはしない」
澪は息を止める。
「普通なら、引く?」
「たぶんね」
小宮は素直だった。
「でもさ」
「うん」
「天野さん、『見てきた人』の話し方してる」
胸の奥が、じんわり熱くなる。
「信じてくれるの?」
「信じるっていうか」
小宮は言葉を探す。
「否定する理由がない」
「……」
「それに」
少し照れたように続ける。
「もし、意識がどっか行ってもさ」
「うん」
「体は、ちゃんとここにあるわけだろ」
「……うん」
「なら、俺が守る」
澪の喉が詰まる。
「戻ってくるまで。ちゃんと、地球にいる天野さんを守る」
しばらく、二人とも黙った。
「小宮くん」
「なに」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
* * *
土曜日の昼間――澪の部屋。
父と小宮が同席している。
澪はベッドに横になり、目を閉じた。
リラックスする。
意識が、ゆっくり遠ざかる。
意識が、静かに引き伸ばされる。
漆黒の空間を越え――。
赤色が見えた。
火星。
最初に見えたのは、シルチス・メジャー。
黒ずんだ台地が、赤褐色の大地に鋭く食い込んでいる。
その縁。
イシディス平原が、浅く、広く横たわっていた。
平坦なのに、死んでいない。
土は細かく砕け、
風の痕跡が、幾重にも走っている。
澪は、さらに南へ意識を滑らせる。
巨大な裂け目。
マリネリス峡谷。
地球のどんな谷よりも深く、長い。
影の中に、時間が沈殿している。
「……水」
かつて、流れた。
それが、分かる。
文明かどうかは、分からない。
構造物は、見えない。
けれど――。
「生きてた」
確かに。
微生物か。
過去の生態系か。
あるいは、もっと別のものか。
その瞬間。
峡谷の奥、
「何か」が、澪の存在に気づいた。
見る、というより――。
向き合う。
意識が、強く引き寄せられる。
――こっちへ、来なさい。
声ではない。
火星の静寂そのものが、語りかけてくる。
澪の心が、揺れる。
その時――。
「危ない! 戻ってこいっ!」
父の大声が――聞こえたような気がした。
澪が戻った直後、部屋はしんと静まり返っていた。
時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
澪はベッドの上で、浅く息をしていた。
胸が上下するのを、誰も言葉にしないまま見つめている。
「……よかった」
沈黙を破ったのは、小宮だった。
「戻ってこないかと思った」
声が、少しだけ震えていた。
澪は、ゆっくりと瞬きをする。
「そんな……」
それだけ言って、視線を落とす。
「そのまま火星に引きずり込まれるところだった……」
父はそれだけ言って、腕を組んだまま立っていた。
その表情は、安堵と警戒が混じっている。
「……火星に?」
澪が、かすれた声で言う。
「さっき火星の『声』と、話した」
小宮が息を呑む。
「『こっちへ、来なさい』って……言われた……気がした」
父が、静かに口を開く。
「もう一度、行きたいか?」
澪は、少しだけ迷ってから頷いた。
「……お願い。もう一度だけ」
父は目を閉じる。
「これ以上は、危ない」
それから、澪を見据えた。
「一人では、行かせられない。協力者が必要だ」
澪と小宮の視線が、自然に重なる。
「……同年代じゃないと、同期が取れない」
その言葉を待っていたかのように、小宮が一歩前に出た。
「ぼくが、一緒に行きます」
即答だった。
「天野さんの見たものを……一緒に、見たい」
澪は、小宮を見る。
「小宮くん……」
父は、小宮を真っ直ぐに見た。
「危険かもしれない……それでも、やるか?」
「はい」
迷いはなかった。
父は、短く息を吐く。
「……出来れば、もう一人、必要だ」
澪の脳裏に、心当たりの少女の顔が浮かんだ。
その晩――。
澪は、自室の机にノートPCを置き、Zoomを立ち上げた。
夜の机の上は、モニターの光だけが静かに照らしていた。
澪はヘッドセットをかけ、Zoomの接続音を聞きながら、窓の外を一度だけ見た。秋の空は高く、星が少し滲んで見える。
接続音の後、画面に沖縄の夜が映る。
開け放たれた窓。
波の音が、わずかに混じる。
「……聞こえる?」
『うん。大丈夫』
知念琉香の声は、いつもより少し低かった。背後にはカーテン越しの街灯の明かりがある。
「もうすぐ中間テスト?」
『うん。そっちは?』
「うちは二期制だから、前期期末が終わったとこ」
それ以上は言わない。点数の話をする気は、澪にはなかった。
一瞬、沈黙が落ちる。
気まずさではなく、考えるための間。
澪が切り出す。
「……ねえ、宮沢賢治の『よだかの星』ってあるよね」
『うん』
「よだかは死んで、星になる」
画面越しに、夜空を見上げる。
「人が死んで星になる、って……誰が考え出したんだろうね」
知念はすぐに答えなかった。
『一人じゃないと思う』
「どういう意味?」
『同じことを、別々の場所で、何度も考えた人々がいたんだと思う』
「科学的には、星にはならない」
『うん』
「原子が散ることはあっても、それを『星になる』とは言わない」
『言わないね』
少し間。
『……おととし』
知念が、ぽつりと言う。
『おばあの葬式があって』
澪は黙って聞く。
『夜、外に出たら星がすごく綺麗だった』
「沖縄の星は、明るいですよね」
『うん。明るい……誰かが言った。おばあは、あの中にいるかもしれないねって』
「……」
『冗談みたいに。でも、誰も否定しなかった』
澪は、胸の奥が静かに動くのを感じた。
「否定しなかった、って……」
『消えた、よりも自然だった』
「送る、ってことですね」
『たぶん』
知念は言葉を探しながら話していた。
『人はどこかへ行く、っていう前提なんだと思う』
「どこか」
『空かもしれないし、海の向こうかもしれないし……星、って言われても、不思議じゃない』
澪は画面の中の知念を見つめたまま、ゆっくり頷いた。
「合理的だね」
『そう?』
「少なくとも、消えるよりは」
知念が小さく笑った。
『天野は、人は死んだらどうなると思う?』
「わからない」
即答だった。
「でも」
『でも?』
「観測できないだけで、どこかへ行くかもしれない」
知念は、その言葉を反芻するように黙った。
『観測の外にある、ってこと?』
「そう」
『それ、天文っぽい』
「全部、そういう話だと思ってる」
宇宙も、人も。
画面の向こうで、知念が少し姿勢を正した。
『……天野ってさ』
「なに」
『人の心とか魂とか、信じてないのかと思ってた』
澪は首を横に振った。
「信じてないわけじゃない」
『じゃあ?』
「測れないだけ」
測れないから、否定しない。
「じゃあ、知念は……人の心は化学反応と電気信号で全て説明出来ると思う?」
知念は首を横に振って短く答えた。
「ううん」
また沈黙が落ちる。
今度は、二人ともそのままにしていた。
「あのさ?」
『うん』
「もし、どこかへ行けるなら……行きたい?」
知念は少し考えた。
『天野と一緒に行けるなら』
その言葉を聞いて、澪は初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
翌、日曜日の朝。
再びzoomの画面に映った知念は、いつもより口数が少なかった。
冗談めいた笑顔もない。
真面目な顔。
それだけで、十分だった。
『……考えた』
知念はゆっくり言った。
『昨日の夜ね』
知念は、少し視線を落とす。
『おばあの言葉を、思い出した』
それ以上は語らない。
『それで……』
一拍。
『行こう』
画面越しに、空気が変わる。
澪は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じながら、ひとことだけ言った。
「……ありがとう」
知念は、小さく頷いた。
こうして。
三人は、まだ誰も見たことのない時間へ向かう準備を始めた。
それは――太陽系の星巡りの旅になるはずだった。
「面白かった!」「続きが気になる、読みたい!」「今後どうなるの……?」と思ったら、下にある☆☆☆☆☆欄から、作品への応援をお願いいたします。面白かったら☆5つ、つまらなかったら☆1つ、正直に感じた気持ちで大丈夫です!
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