第10話 言葉は足りなくても
文化祭が終わった翌週の三限目。
九月とはいえ、教室に差し込む日差しはまだ夏の名残を留めている。
黒板の前に立つ漢文の老教師は、チョークを持ったまま振り返る。
「じゃあ、この一文。小宮、読んで」
「はい」
小宮が指名されて立ち上がると、なぜか数人の視線が澪に集まった。
澪は一瞬だけ首を傾げる。
――何か、変だ。
小宮は、少し芝居がかっているような朗々とした声で読む。
漢文の教師は小宮の朗読がお気に入りだった。
「いかにも漢文訓読に向いている」と、皆の前でも褒めた。
「人皆人に忍びざるの心あり……今人乍ち孺子の将に井に入らんとするを見れば……」
「はい、ありがとう」
小宮が一回も詰まらずに最後まで読んだことを確認すると、教師は満足そうに頷いた。
「孟子の有名な一節だな。意味は?」
「ええと……人はみな、他人の不幸を見過ごせない心を持っている、です」
「そう」
教師はチョークで黒板に簡単な図を描く。
井戸と、そこに落ちそうな小さな子ども。
「孟子はこう言う――もし目の前で子どもが井戸に落ちそうになっていたら、見返りを考える前に、誰でも咄嗟に手を伸ばすだろう」
教室で、ぽつりぽつりと軽く頷く気配がする。
「名誉が欲しいからでもない。親に褒められたいからでもない。ただ、思わず助ける。そこにこそ、人間の本性がある、と孟子は考えた」
教師は黒板に「性善説」と書き、丸で囲む。
「人間の本性は善である、という考え方だな」
澪は、教科書のその一文を指でなぞっていた。
――人皆人に忍びざるの心あり。
字面は静かなのに、どこか引っかかる。
それが「正しい」かどうかではなく、知っている感覚に近い何かがあった。
三限目終了のチャイムが鳴ると、教室は一気にざわつく。
星嶺高校の一日は65分授業×5限なので、3限終了後に昼食休憩となる。
「でもさぁ」
後ろの席の男子が、椅子を斜めにしながら言った。
「性善説って、正直きれいごとじゃない?」
「だよな」
別の生徒がすぐに同意する。
「世界には犯罪とか戦争とか、普通にあるし。ニュース見てれば分かるじゃん」
「人って、放っといたら自分のことしか考えないでしょ」
「性悪説の方が、現実に合ってる気がする」
あちこちから、似たような声が上がる。
澪は黙って聞いていた。
確かに、言っていることはわかる。
あながち間違っているとも思えない。
けど――。
「……そんなこと、ない」
気づいたら、澪は口を開いていた。
教室が一瞬、静かになる。
「えっ?」
言った本人が、一番驚いていた。
「どういう意味?」
視線が集まる。
澪は言葉を探す。
「その……」
助ける、って。
考える前に、手が出ることがある。
理由なんて、後からしか出てこないことも。
でも、それをどう言えばいいのか分からない。
「犯罪とか戦争があるからって……それが人の全て、じゃない」
声が、少し弱くなる。
「人は……」
呼吸が一瞬詰まる。
――人は、もっと……。
そこから先が、続かない。
教室の空気が、少しだけ気まずくなる。
「いや、天野さんの言いたいことも分かるけどさ」
誰かがフォローするように言う。しかも、その視線を澪ではなく小宮に向けている者もいる。
「でも現実問題として――」
苦笑い混じりの議論は、いつの間にか別の話題に流れていく。
澪はそれ以上、何も言わなかった。
窓の外では、雲がゆっくり流れている。
澪は自分の掌を見る。
人が人を助ける理由を、説明出来ない。
けれど、「無い」と言われると、はっきり違うと思う。
――まだ、言葉が足りない。
それだけは、はっきりしていた。
* * *
夕食時。
食卓には、脂ののった秋刀魚と、湯気の立つ味噌汁。
焼けた皮の匂いが、部屋に残っている。
天野家は食事時にテレビを見る習慣は無い。時計の秒針だけが小さく動いている。
「今日ね」
澪は箸を止め、何気ない調子で切り出した。
「漢文で『孟子』やったの」
「ほう」
父が、少しだけ眉を上げる。
「性善説の話」
「ああ、井戸に落ちそうな子どもを助ける、ってやつ?」
母が横から言う。
「そう。それで……クラスでさ」
澪は言葉を選びながら続けた。
「みんな、やっぱり性悪説のほうが現実的だって言ってて。犯罪とか戦争とかがあるからって」
父は黙って聞いている。
否定も肯定もせず、ただ箸を置いた。
「澪は?」
「……そんなことないって言った」
澪は少し困ったように笑う。
「でも、理由が上手く言えなかった」
一瞬の沈黙。
「それでいいんじゃないか」
父が言った。
「えっ?」
「理由が後から出てこないことって、ある」
父はゆっくり言葉を選ぶ。
「進化心理学的に言えば、人間には『考える前に動く仕組み』が組み込まれてる」
母が横から口を挟む。
「また始まった」
父は気にせず続けた。
「仲間の危機に反応する能力。弱い個体――特に子供――を守る傾向。それは道徳教育の結果じゃない。本能だ」
「じゃあ、性善説って……」
「善とか悪とか、その言葉が後付けなんだ」
父は言う。
「人間は『助け合うように出来ている』。だからこそ、社会が成り立ってきた」
澪は、昼間に見た自分の掌を思い出す。
「でも」
母が、少しトーンを落として言った。
「それが壊れる時もあるわよ」
父が、チラリと母を見る。
「恐怖とか、憎しみとか」
母は続ける。
「特に集団になると、簡単にね。戦争なんて、まさにそうでしょう?」
澪は黙って頷く。
「だから人は、放っておくと善になるわけじゃない」
母は現実的だった。
「壊れる条件も、ちゃんとある」
父は少し考えてから、静かに言う。
「でも逆に言えばだ」
「壊れなければ、助ける……恐怖や分断がなければ、人は人を見捨てない」
澪は二人の言葉を、胸の奥で並べていた。
本能としての「助ける」。
条件次第で壊れる「社会」。
「今日さ……」
澪が小さく言う。
「理由は言えなかったけど、『無い』って言われるのは違うって思った」
父は微笑んだ。
「それはたぶん、正しい感覚だ」
母も、少しだけ頷く。
「言葉にするのは、後でいいんじゃない? 大事なのは、忘れないこと」
食卓の上で、湯気が消えていく。
澪は、もう一度、自分の掌を見る。
理由は、まだ分からない。
でも――確かに、何かがそこにある。
それだけは、昼間よりもはっきりしていた。
夜遅く。
澪は自分の部屋の窓を少しだけ開けて、ベランダに出ていた。
九月の風は、昼間の名残をほんのわずかに残しながらも、確実に秋の匂いを運んでくる。
空は澄んでいて、星が多い。
そこで澪はスマホを手に取った。
通知欄に、クラスのグループトークが表示されていたが、澪は開かなかった。
今は、それよりもまず――。
発信。
数回のコール音のあと、すぐに繋がった。
「……もしもし?」
少し驚いたような、小宮の声。
「ごめん、遅い時間に」
「いや、大丈夫。どうしたの?」
それだけで、少し肩の力が抜けた。
「今……星、見てて」
「星?」
電話の向こうで、何かが動く音がする。
たぶん小宮も、窓の方に行ったのだろう。
「秋の星、もう結構出てる」
「えっと……どれ?」
「南のほう。あれ、たぶん土星」
「……あ、本当だ。なんか、地味に光ってる」
少し間があく。
沈黙が気まずくならないのが、不思議だった。
「今日さ」
澪が言う。
「孟子の話、したでしょ」
「ああ、性善説」
「うん」
澪は空を見上げたまま、言葉を探す。
「人って、生まれつき善いのか悪いのかって話。でも……善とか悪とか以前に、助けちゃう瞬間ってあると思うんだ」
「考える前に?」
「そう」
小宮はすぐには返さない。
それが、澪にはありがたかった。
「……あると思う」
やがて、ゆっくり言う。
「ちゃんと説明できないけど」
「うん」
「でも、助けた後で理由を考えることって、ある気がする」
澪は、少しだけ微笑んだ。
「それ、今晩お父さんも言ってた」
「へえ。さすが」
軽い冗談めいた声。
「天野さんってさ」
小宮が続ける。
「理屈で考えてるようでいて、たぶん最初は感覚で掴んでるよね」
「……そうかな?」
「うん。ぼくには無い感じ」
その言い方に、妬みも卑下もなかった。
ただ、違いをそのまま認めている。
「ぼくはさ、わからないとすぐわからないって言うし」
「それ、悪いことじゃない」
「うん。でも、天野さんはわからないままでも、ちゃんと考え続ける」
澪は、少し驚いて瞬きをした。
「……そんなふうに見える?」
「見える」
即答だった。
空気が、少しだけ変わる。
言葉にされると、照れくさい。
「ねえ」
澪が言う。
「もし、人が本当に善でも悪でもなくて……ただ、壊れやすい存在だとしたら」
「うん」
「それでも、信じていいのかな?」
小宮は、しばらく黙った。
そして、穏やかに言う。
「信じるって、正しいかどうかじゃないんじゃない?」
「……」
「天野さんが信じたいなら、それでいいと思う」
澪は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
夜空の星は、何も答えない。
けれど、否定もしない。
「ありがとう」
「何が?」
「……話、聞いてくれて」
「どういたしまして」
通話の向こうで、風の音がした。
「じゃあ、そろそろ切るね」
「うん。風邪ひかないでね」
「小宮君も」
通話が切れる。
澪はしばらく、スマホを下ろさずに星を見ていた。
文化祭の喫茶店で聞いたざわめきが、ふと脳裏をよぎったが、すぐに夜空に溶けた。
この世界に、同じ空を見ているかもしれない誰かがいる。
それだけで、世界は少しだけ広がった気がした。
秋の星空は、静かに澪を包んでいた。
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