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それでも私は地球を選ぶ  作者: 喜多里夫


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第1話 空が高すぎる日

「風、北西で安定してる。今ならいける」


「ゴムの伸び率、前回より落ちてない?」


「それ、昨日計り直した。問題ない」


 生徒たちは、地面に広げた白いバルーンを見下ろしながら言った。


「目標高度は?」


「二万五千。カメラは三十秒ごとに撮影」


「……またそんな高く?」


「だからやるんでしょ。誰も見てないところを」


 ——この天候なら成層圏まで行ける。


 少女は確信していた。


     * * *


 長野県立星嶺(せいれい)高等学校の校舎は、佐久平(さくだいら)を見下ろす丘の上に建っている。

 その日は梅雨入りを目前とした週末、土曜日。

 早朝、風はまだ冷たく、田んぼの水面が空をそのまま映し出していた。

 グラウンドは、朝の光に包まれている。

 山に囲まれたこの土地では、太陽は平地より少し遅れて姿を現す。だがそのぶん、空気は澄み切っている。息を吸い込むと、肺の奥がひんやりと冷えた。


 天野(あまの)(みお)は、校庭の端に設けられた簡易テントの下で、手元のチェックリストに目を落としていた。


「風速、毎秒1.5メートル。問題なし……」


 淡々と数字を読み上げる。声は落ち着いていて、感情の起伏はほとんど感じられない。

 天文部の部員たちは、その声を合図に、それぞれの持ち場を再確認していった。


 この日5時30分、天文部は成層圏観測用気球スペースバルーンを上げる予定である。

 気球に取り付けられているのは、小型の高解像度カメラと、温度・気圧・放射線量を測定する簡易センサー。高校の部活動としては、かなり大がかりな試みだった。これも星嶺高校が文部科学省のSSHスーパーサイエンスハイスクール指定校となり、潤沢な予算が交付された結果の一つだった。


「天野、カメラの電源もう一回確認して」


 部顧問の理科教師、篠原(しのはら)(すみ)が声をかける。白衣姿の若い女性だ。年齢はアラサーに見えるが、どこか年齢不詳な雰囲気もあった。


「はい」


 澪は短く答え、カメラの端子を確かめる。

 問題はない。バッテリー残量も、記録容量も想定どおりだ。


 澪は、こういう作業が好きだった。

 感情が入り込む余地のない、数値と手順の世界。そこでは、人と人との距離を測る必要がない。


 ——東京を離れて、もう三か月になる。


 澪はふと、そんなことを思い出す。


 中学校の卒業式が終わった直後、父の急な転勤により、一家はここ、長野県佐久(さく)市に移り住むこととなった。研究者である父・天野恒一(こういち)が、この四月から国立天文科学研究機構・信州観測研究センター主任研究員に任命されたからだ。

 澪は転勤の理由を詳しく聞かされてはいない。ただ、「しばらくの間、ここが研究の拠点になる」とだけ告げられた。

 家で父は論文の話を時おり母と交わしている。母・由紀(ゆき)はサイエンスライターとして雑誌に記事を書いており、父のよき話し相手であるようだった。

 しかし、父は澪には自分の研究の詳しい話はしない。もっとも澪は、それを不満に思ったことはなかった。「わからないことがある」という状態に慣れていたからだ。


 さいわい星嶺高校の入学試験の追試験に合格し、澪の長野県での高校生活がスタートした。

 見知らぬ土地、新しい学校、新しい人間関係。

 澪はそれらを、特別な出来事とは感じなかった。どこへ行っても、空は同じように頭上に広がっている。


 星嶺高校は毎年東大合格者を出している県内でも屈指の進学校だった。

 入学式の日、体育館に集まった新入生たちは、どこか緊張した面持ちで壇上を見つめていた。澪もその一人だったが、胸の内は静かだった。


入学式の終盤、ピアノの前奏が流れた瞬間、体育館の空気が少し変わった。

 周囲の生徒たちが、ほとんど反射的に背筋を伸ばす。


 ——あれ?


 澪は、配られた式次第を見下ろした。

 〈長野県民歌『信濃の国』 斉唱〉


 歌詞カードは、ない。


 歌が始まる。

 澪の左右から、当たり前のように声が上がった。


 ♪ 信濃の国は十州に 境連ぬる国にして


   聳ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し——


 澪は、口を開きかけて、閉じた。

 旋律も、言葉も、まったく知らない。


 彼女はその瞬間、自分がこの場所では「よそ者」なのだと理解した。


 授業は、想像していたよりも意外と速いペースで進んだ。

 だが、澪の理解力の方がもっと速かった。

 特に数学と理科。教師が板書する前に、その後に書きたいであろうことが頭の中に浮かんでしまうことが多かった。


 一学期中間テストの成績上位者名が渡り廊下にある掲示板に張り出された日、廊下がざわついていた。


「数Ⅰも数Aも満点……誰だよ?」


「化学基礎も生物基礎も満点だって……信じられない!」


 名前を探す視線が、やがて一か所に集まる。


「……天野澪、って」


「もしかして、この春に東京から来たっていう……?」


「なんでも、お父さんは天文学者だそうだよ」


「すっごい! 血は争えないってことだよね」


 澪は、その会話を少し離れた場所で聞いていた。

 自分の名前が、いつの間にか自分自身とは別の意味を帯びていることに、軽い違和感を覚えた。


 ——私は、私なんだけどな……。


 そう思ったが、口には出さなかった。いつの間にか、澪の机の周りには半径1メートルの空白が出来ていた。進学校とはいえ、さすがに「出来すぎるリケジョ」には声が掛けにくいらしい。


 そんな澪が部活動で天文部に入ったのは、自然な流れだった。

 星を見ることは、昔から好きだった。


 幼い頃、三鷹(みたか)市にある父の勤務先での一般公開日で、一緒に夜空を見上げた記憶がある。

 周囲の子供たちが「夜空は暗くて怖い」と言う中で、澪だけは、星の向こう側にある何かを想像していた。


 ——きっと、あっちのほうが広い。


 天文部の部室は、特別教室棟4階の端にあった。

 昔は地学講義室だった場所だが、今はカリキュラムが変更されて「地学」の授業そのものが無くなっている。屋上の天体観測ドームもしばらく使われていない。

 天文部では入部当初は「頭いい子が来た」と、少し距離を置かれた気配もあったが、澪は気にしなかった。準備を手伝い、観測記録を整理し、黙々と作業を続けた。


 今日の観測も、その延長線上にある。


「……あれ?」


 準備中、篠原が澪の手元を見て、ふと口を開いた。


「それは——」


 一瞬、言葉が途切れる。

 篠原は、何かを考えるように視線を逸らし、すぐに微笑んだ。


「……ううん。問題ないわ」


 澪は首をかしげたが、それ以上は何も言わなかった。


 少し離れた場所では、部外者の見学者が一人、空を見上げていた。

 澪のクラスメイトで新聞部員の小宮(こみや)悠人(ゆうと)だ。


「小宮くん、何でいるの?」


 一年生部員の中村(なかむら)健太(けんた)が屈託のない声で訊くと、彼は肩をすくめた。


「取材だよ。新聞部だからね。ちゃんと篠原先生の許可はもらってあるよ」


 そう言いながら小宮は片腕を示して「新聞部」と書かれた腕章を見せびらかした。


「なるほどね」


と、中村。


 澪は、そのやり取りを横目で見ながら、不思議とその言葉を記憶に留めた。


 澪にとって小宮は一番最初に名前を覚えたクラスメイトだった。


 入学式の直後、小宮はおもむろに澪に近づいてきて、「よそ者」を放っておけないというような顔をして言った。


「あっ、天野さん、だっけ? さっき『信濃の国』歌ってなかったよね。もしかして引っ越してきたばかり?」


「うん。知らなかっただけ」


「そっか。長野県民なら知ってるはずだもんね。じゃあ、今度教えてあげる」


 ちなみにこれは社交辞令ではなく後日、小宮は本当に澪の前で『信濃の国』を1番から6番までそらで歌ってみせた。


 ♪ ——みち一筋(ひとすじ)に学びなば 昔の人にや劣るべき


   古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い


「——と、いう感じで、意味はね……」


と小宮が講釈しようとしたところで澪は、


「あっ、大丈夫。だいたいわかるから」


と、澪にしては丁重に断ったのだった。


 でも、旋律は、頭に残った。言葉よりも先に。


 その後も小宮はよっぽど「よそ者」が珍しいのか、何かと澪に話しかけてくる。


 中間テスト後の成績発表の時もそうだった。


「天野さん、数学さ、ちょっとだけでいいから教えてほしいんだけど」


 澪は、一瞬だけ言葉を探した。


「……どこを?」


「最初から」


 あっさり言われて、澪は思わず小さく息を吐いた。


「今までやったとこ、全部、ってこと?」


「うん。全部」


 照れも、遠慮もない。

 澪はその態度に、わずかに驚いた。なぜなら、


「中間テスト、すごかったよね」


 続くと思っていたその言葉が、来なかったからだ。

 小宮は、澪の成績には触れない。


「ぼくさ、年表とか活用表は覚えられるんだけど、数式がどうしても頭に残らなくて。ていうか、何でこの問いにこの公式を当てはめたらいいのかがわからない」


「そう?……そんなに難しいことじゃないと思うけど……」


「そこがもう無理」


 小宮は苦笑した。


 澪は、ノートパソコンを閉じ、少し考えた。


「じゃあ、今度、時間がある時に」


「ほんと? 助かるぅ。よろしくお願いします」


 それだけ言うと、小宮は空を見上げた。


「でもさ、天野さんって、空、見てる時の方がずっと楽しそうだよね」


 澪は、自分の顔がどうなっているか、考えたことがなかった。


「……そう?」


「うん。授業中より」


 澪は否定しなかった。

 それが、自分に初めて「評価」ではない言葉を向けられた瞬間だった。


 澪の意識が目の前の現実に戻る。


 スペースバルーンは、澪が当初思っていたよりもずっと大きい。

 グラウンドの真ん中に寝かされた白い球体は、生き物の肺のように静かに膨らみ、朝の冷えた空気を飲み込んでいく。


「浮力、問題なし。カメラ起動確認」

 

 天野澪はタブレットを見下ろしたまま、淡々と告げた。

 成層圏観測用の小型カメラ。GPS、気圧センサー、温度ログ。数値はすべて想定内に収まっている。


「さすが天野さん、仕事早いな」

 

 三年生の部長・丸山(まるやま)直樹(なおき)が感心したように言う。彼は法学部志望の常識家で、何でもそつなく回す。

 

「計算通りです」

 

 澪はそれだけ答えた。褒められるのは嫌いではないが、どう返せばいいかはいまだによくわからない。


「風向、大丈夫そう?」

 

 二年生の副部長・塩原(しおばら)亮介(りょうすけ)が空を見上げる。雲は高く、動きも緩やかだ。

 

「この時間帯なら、回収地点は想定通り。問題ありません」

 

 澪は即答した。計算は頭の中ですでに終わっている。


「……ほんと、天文部向きだよね」

 

 二年生の塚田(つかだ)真琴(まこと)が少し羨ましそうに言った。星座や神話が好きな彼女は、数式よりも夜空の物語を語るタイプだ。


 やがて、準備は整った。


 丸山が落ち着いた口調で手を上げた。


「……じゃあ、カウントダウン開始。十、九、八、七、六、五、四、三、二、一、ゼロッ!」


 丸山がサッと手を下げると同時に、バルーンが解き放たれる。


 白い気球は、ゆっくりと、しかし確実に空へ向かって浮かび上がっていった。重力から解放されるというより、まるで最初からそこへ行く場所が決まっていたかのように。


 生徒たちの歓声が上がる。


 澪は、その様子を無言で見つめていた。

 胸の奥で、言葉にならない感覚がわずかに揺れた。


 ――空が、遠ざからない。


 むしろ、こちらに迫ってくる。

 信州の空は、東京で見上げていたものよりも、ずっと高く、ずっと広い。その広さが、胸の奥をざわつかせた。


「成功だな」


 丸山が安堵したように言う。


「回収まで二時間半」


 空はあまりに静かだった。


 だが、その静けさが、澪にはなぜか不自然に思えた。


 気球は、青の中へと溶けていく。


 この時は、まだ誰も空の異物のことに気づいてはいなかった。

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