07.単身赴任って世知辛い
父が帰ってきた。
それは、扉が開いたとか、馬車が門塔をくぐったとか、そういう一文で済む出来事じゃない。
屋敷の空気が、変わる。
石畳を叩く蹄の音。金具の擦れる乾いた音。外気の冷たさと、革と鉄と煙の匂いが、玄関ホールまで流れ込んできて──使用人たちの足音が、いっせいに揃う。
「……帰ってきた」
頭で理解するより先に、体が反応していた。
六歳の足が勝手に前へ出る。走りたい。飛びつきたい。声を上げたい。
でも、廊下の端で乳母が目を光らせている。
そして、祖母──リュシアナが、いつもの場所にいる。
背筋が伸びて、表情は石みたいに動かない。
ただ、その視線だけが玄関へ向いていた。
……うん。走ったらめっちゃ怒られるやつだ。
僕は歩いた。六歳としては最上級に礼儀正しく。
玄関ホールの向こうに、父がいた。
エルヴァン・ヴェン・ザーヴェル。
「セル!おいで!ほら、元気だったか!」
声がでかい。帰還直後の声量じゃない。そして僕に向けて、腕を大きく広げた。
僕が近づくと、父はしゃがんで目線を合わせた。
「大きくなったな。ちゃんと食べてるか?」
「……食べてる」
「野菜も?」
「……がんばってる」
父が笑う。笑うと急に爽やかさが増す。戦場帰りの爽やかって何。
「えらいぞー」
そう言って、ぐしゃっと僕の頭を撫でた。
手がでかい。温かい。指に硬いタコがある。
──ああ。
これだ。
父がいる屋敷って、こういう感じだ。
忙しいくせに、必ず僕に触れて、必ず何か言葉を残していく。
たぶん父は、亡くなった母の面影がある僕を、愛しいと思ってくれている。
……うん。分かる。分かるけど、照れるからやめてほしい。
こちとら、内面は三十代よ。
父は立ち上がり、祖母へ向き直った。
「母上。戻りました」
「ご苦労でした」
祖母はそれだけ言った。
労いの言葉にしては短い。でも、祖母のそれは許可に近い。
帰ってきてよい。
ここに立ってよい。
お前の働きは認める。
そういう種類の「ご苦労」だ。
父はにこっと笑った。祖母に対しては、余計なことを言わないのに、笑う。
ここには僕にもわからない信頼があるのだろう。
で。
その日の夕食までの間、僕は使用人の噂話を拾い集めていた。
祖母は何も語らない。余計なことは言わない人だ。
父も、戦場の話は自分からはしない。
でも屋敷って噂好きが多い。人がいる場所は情報が流れる。止められない。
「今回も大戦果ですって」
「北の丘で、敵の矛先を折ったとか……」
「負傷者が少なかったのが、何よりよね」
……あー、はいはい。
うちの父ちゃん、またなんかやったらしい。
我が父ながら鼻が高い。さすがに気分が高揚します。
で、噂は次の段階へ進んだ。父について戦場へ行っていた護衛騎士も加わっている。
「……叙任されたんですよ」
「辺境伯、ですって」
「ザーヴェル家が……?」
辺境伯。
その単語を聞いた瞬間、前世の知識が勝手に翻訳を始める。
要するにあれだ。「国境の守りを任せるくらい偉い」ってやつだ。
普通の伯爵と、領地の性質が違う。国の盾としての色も強い。
僕は、書庫に走った。
走ったら怒られるので、早足になった。意味が分からない。六歳の努力ってそういうものだ。
書庫の地図を広げる。
王都。
そして北へ──北へ──さらに北へ。
北の国境を探す。
「……遠っ」
口から出た。出る。これは出る。
伯爵家が、子爵号や男爵号を併せて持ってる、みたいな話は聞いたことがある。
貴族あるある。
でも、今回のはそれじゃない。
新しい領地が増えて、爵位も増える。
王都を挟んで、さらに北。
つまり「この伯爵領の延長」じゃなく「別勤務地」だ。
夕刻、父が僕を呼んだ。
場所は、玄関ホールの端。
出立の準備が、すでに静かに始まっている。
馬の手入れ。荷の確認。短い指示。無駄のない動き。
父は僕の前にしゃがんだ。目線を合わせる。
「セル。少し話すぞ」
「はい」
父は一度だけ息を吸い、いつもの明るさを残したまま言った。
「俺は、北へ行く。新しく辺境伯を任された」
「……へんきょうはく」
口に出すと実感が増す。
父は頷いた。
「要塞を築く。この国のため守る場所を作ってくる」
余計なことは言わない。
何を守るか、誰から守るか、どれだけ大変か。
そこは語らない。
でも──父の目だけで分かった。
祖母の声が、後ろから落ちてきた。
「王のために身命を賭しなさい」
短い。重い。反論不可。
父は振り返り、深く頭を下げた。
「承りました」
……うわ。
うち、忠義に厚い家なんだなー。
貴族って、もっと好き勝手に独立してると思ってた。
王に仕えるけど、距離はある、みたいな。
でも、ザーヴェル家は違う。
王の命令を受けたら、家ごと動く。
それが格好いいのか、怖いのか。
わからないことが多すぎて、まだ言葉にできない。
ただ一つ確かなのは。
父がいなくなる。
その事実が、胸の奥にじわっと沈んでいくことだった。
◆
父は、北へ赴任していった。
「赴任」なんて言葉が似合わないくらい、出立は静かだった。
朝。空気が冷たい。
玄関前の石畳に、馬の息が白く浮かぶ。
荷が積まれ、鞍が締められ、使用人たちが頭を下げる。
父は最後まで、明るかった。
「セル、いいか。俺がいない間は、お祖母さまの言うことを聞け」
「……うん」
「勉強もな」
「……うん」
「俺の代わりに、家を頼む。……いや、頼むは変だな。お前はお前で大きくなれ。ちゃんと、食べろ」
言い方が雑になってる。照れてるのか焦ってるのか、どっちだろう。
父は僕の頭を撫で、肩を叩いた。
「また戻る。王都に報告があるからな。……その時、時間があれば、お前の顔も見に来る」
“時間があれば”。
その一言が、刺さった。
戦場。要塞。北方。
父の世界は、もう僕の手の届かないところへ広がっている。
僕は笑った。六歳として、笑った。
「……まってる」
それ以上言うと、泣きそうだった。
六歳の精神が、強く出ている。三十代の理性が「泣くな」と言っても、胸の奥の何かが勝手にぐらつく。
父は馬に乗った。
背が高いから、馬の上でもなお高い。
そして、行ってしまう。
蹄の音が遠ざかる。
革の匂いが薄れる。
門が閉まる。
屋敷に、父がいない音が満ちた。
その日の昼、父の席が空いていた。
それだけで、胃がちょっと痛い。
夕方、木剣が壁に掛かったままだった。
触ってもいい。父はいない。でも触ると、逆に寂しくなる。
だから触らなかった。
六歳の僕にしては、すごい自制だ。
祖母はいつも通りだった。
声も、歩き方も、視線も。
変わらない。
でも、変わらないからこそ分かる。
祖母は祖母で、父を送り出すことに慣れている。
慣れているというより、覚悟が常にある。
……強い。
自分はまだ達観できない。父がいなくなるのは寂しいのだ。
夜になると、屋敷は静かすぎた。
風の音と、遠くの見回りの足音だけが聞こえる。
父がいない夜は、音まで減るらしい。
◆
では、このザーヴェル伯爵領はどうなるのか?
伯爵領は、父がいない間は祖母が見る。
どうも父が伯爵になる前は、祖母が女伯爵だったらしい。
正直、このへんの仕組みはよく分からない。貴族の制度、複雑すぎる。
「お祖母さまには弟がいるのに?」とか思うけど──そうではないらしい。
弟、つまり僕の大叔父さんは、来るときはお菓子を持ってくるだけの人だ。
オットマー大叔父さん。
丸々としていて、いつもにこにこして、朗らかで、こっそり僕に甘い菓子を渡して、乳母に怒られている。ありがたい親戚。癒し枠的存在だ。
「セルヴィオ、ほーら。甘いのだ」
「乳母がこわい」
「大丈夫大丈夫。わたしが盾になってあげるから」
で、いつも盾になれてない。秒で乳母に回収されてる。
でも、この人がザーヴェル伯爵領内で男爵をやっているらしい。
従属爵位ってやつ。男爵位を持って領内の一部を任されている。
父が北で要塞を作るなら、祖母はここで屋敷を動かす。
大叔父さんは領内のどこかを見ている。
じゃあ、僕は?
六歳の僕は、夜、ひとりで書庫の隅に座った。
本はまだ難しい。読む速度は上がった。でも単語の意味が追いつかない。翻訳の壁がある。
それでも、地図だけは読める。
北。
辺境伯領。
要塞。
父がそこにいる。
僕は思った。
──ああなるほど。
この世界、エルヴァンが主人公なんだ。
戦功を立てて、役目を背負って、北へ行く。
要塞を築く。国境を守る。
完全に主人公ムーブだ。
そして僕は……たぶん脇役。
でも、脇役って悪くない。
主人公を支える軍師。
補給線を整える参謀。
地図の上で「ここは無理筋」と言って、主人公を救う役。
……そうだ。
僕はこの超優秀なお父さんを支えるための『軍師』として、この世に遣わされたのだな!
そうに違いない。
勝手な憶測?うん、知ってる。
でもな、こちとら、ウォーシムマニアの前世持ちだ。何度も天下統一してきたんだ。
絶対にそうなってやるんだ!
父がいないのは寂しい。
めちゃくちゃ寂しい。
でも、寂しいからこそ──勉強する理由ができる。
将来、父を扶けて働くためにも。
北へ行くためにも。
僕は、机の上に指を置いた。
覚えた文字を、なぞる。
父の背中が遠くなるのを感じながら、
僕は、追いつく側になると決めた。
……いや、決めたっていうか。
それが、この世界の貴族ってやつなんだろう。
そして僕は、小さく息を吐いて笑った。
この世界にも単身赴任があるなんて、ほんと世知辛い。
でも──
うちの父ちゃんは、辺境伯だ。
辺境伯って、すごくない?
ちょっと誇らしくて。
ちょっとだけ、泣きたくなる夜だった。




