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できる!最強軍師  作者: 満波ケン
第一章 幼年期の終わり
7/15

07.単身赴任って世知辛い

父が帰ってきた。


それは、扉が開いたとか、馬車が門塔をくぐったとか、そういう一文で済む出来事じゃない。


屋敷の空気が、変わる。


石畳を叩く蹄の音。金具の擦れる乾いた音。外気の冷たさと、革と鉄と煙の匂いが、玄関ホールまで流れ込んできて──使用人たちの足音が、いっせいに揃う。


「……帰ってきた」


頭で理解するより先に、体が反応していた。


六歳の足が勝手に前へ出る。走りたい。飛びつきたい。声を上げたい。


でも、廊下の端で乳母が目を光らせている。

そして、祖母──リュシアナが、いつもの場所にいる。


背筋が伸びて、表情は石みたいに動かない。

ただ、その視線だけが玄関へ向いていた。


……うん。走ったらめっちゃ怒られるやつだ。


僕は歩いた。六歳としては最上級に礼儀正しく。


玄関ホールの向こうに、父がいた。


エルヴァン・ヴェン・ザーヴェル。


「セル!おいで!ほら、元気だったか!」


声がでかい。帰還直後の声量じゃない。そして僕に向けて、腕を大きく広げた。


僕が近づくと、父はしゃがんで目線を合わせた。


「大きくなったな。ちゃんと食べてるか?」

「……食べてる」

「野菜も?」

「……がんばってる」


父が笑う。笑うと急に爽やかさが増す。戦場帰りの爽やかって何。


「えらいぞー」


そう言って、ぐしゃっと僕の頭を撫でた。

手がでかい。温かい。指に硬いタコがある。


──ああ。


これだ。


父がいる屋敷って、こういう感じだ。

忙しいくせに、必ず僕に触れて、必ず何か言葉を残していく。

たぶん父は、亡くなった母の面影がある僕を、愛しいと思ってくれている。


……うん。分かる。分かるけど、照れるからやめてほしい。

こちとら、内面は三十代よ。


父は立ち上がり、祖母へ向き直った。


「母上。戻りました」

「ご苦労でした」


祖母はそれだけ言った。

労いの言葉にしては短い。でも、祖母のそれは許可に近い。


帰ってきてよい。

ここに立ってよい。

お前の働きは認める。


そういう種類の「ご苦労」だ。


父はにこっと笑った。祖母に対しては、余計なことを言わないのに、笑う。

ここには僕にもわからない信頼があるのだろう。


で。


その日の夕食までの間、僕は使用人の噂話を拾い集めていた。


祖母は何も語らない。余計なことは言わない人だ。

父も、戦場の話は自分からはしない。

でも屋敷って噂好きが多い。人がいる場所は情報が流れる。止められない。


「今回も大戦果ですって」

「北の丘で、敵の矛先を折ったとか……」

「負傷者が少なかったのが、何よりよね」


……あー、はいはい。


うちの父ちゃん、またなんかやったらしい。

我が父ながら鼻が高い。さすがに気分が高揚します。


で、噂は次の段階へ進んだ。父について戦場へ行っていた護衛騎士も加わっている。


「……叙任されたんですよ」

「辺境伯、ですって」

「ザーヴェル家が……?」


辺境伯。


その単語を聞いた瞬間、前世の知識が勝手に翻訳を始める。


要するにあれだ。「国境の守りを任せるくらい偉い」ってやつだ。

普通の伯爵と、領地の性質が違う。国の盾としての色も強い。


僕は、書庫に走った。


走ったら怒られるので、早足になった。意味が分からない。六歳の努力ってそういうものだ。


書庫の地図を広げる。


王都。

そして北へ──北へ──さらに北へ。

北の国境を探す。


「……遠っ」


口から出た。出る。これは出る。


伯爵家が、子爵号や男爵号を併せて持ってる、みたいな話は聞いたことがある。

貴族あるある。


でも、今回のはそれじゃない。

新しい領地が増えて、爵位も増える。


王都を挟んで、さらに北。

つまり「この伯爵領の延長」じゃなく「別勤務地」だ。


夕刻、父が僕を呼んだ。


場所は、玄関ホールの端。

出立の準備が、すでに静かに始まっている。

馬の手入れ。荷の確認。短い指示。無駄のない動き。


父は僕の前にしゃがんだ。目線を合わせる。


「セル。少し話すぞ」

「はい」


父は一度だけ息を吸い、いつもの明るさを残したまま言った。


「俺は、北へ行く。新しく辺境伯を任された」

「……へんきょうはく」


口に出すと実感が増す。

父は頷いた。


「要塞を築く。この国のため守る場所を作ってくる」


余計なことは言わない。

何を守るか、誰から守るか、どれだけ大変か。

そこは語らない。


でも──父の目だけで分かった。


祖母の声が、後ろから落ちてきた。


「王のために身命を賭しなさい」


短い。重い。反論不可。


父は振り返り、深く頭を下げた。


「承りました」


……うわ。


うち、忠義に厚い家なんだなー。

貴族って、もっと好き勝手に独立してると思ってた。

王に仕えるけど、距離はある、みたいな。


でも、ザーヴェル家は違う。


王の命令を受けたら、家ごと動く。


それが格好いいのか、怖いのか。

わからないことが多すぎて、まだ言葉にできない。


ただ一つ確かなのは。


父がいなくなる。


その事実が、胸の奥にじわっと沈んでいくことだった。



父は、北へ赴任していった。


「赴任」なんて言葉が似合わないくらい、出立は静かだった。


朝。空気が冷たい。

玄関前の石畳に、馬の息が白く浮かぶ。

荷が積まれ、鞍が締められ、使用人たちが頭を下げる。


父は最後まで、明るかった。


「セル、いいか。俺がいない間は、お祖母さまの言うことを聞け」

「……うん」

「勉強もな」

「……うん」

「俺の代わりに、家を頼む。……いや、頼むは変だな。お前はお前で大きくなれ。ちゃんと、食べろ」


言い方が雑になってる。照れてるのか焦ってるのか、どっちだろう。

父は僕の頭を撫で、肩を叩いた。


「また戻る。王都に報告があるからな。……その時、時間があれば、お前の顔も見に来る」


“時間があれば”。


その一言が、刺さった。


戦場。要塞。北方。

父の世界は、もう僕の手の届かないところへ広がっている。


僕は笑った。六歳として、笑った。


「……まってる」


それ以上言うと、泣きそうだった。

六歳の精神が、強く出ている。三十代の理性が「泣くな」と言っても、胸の奥の何かが勝手にぐらつく。


父は馬に乗った。

背が高いから、馬の上でもなお高い。


そして、行ってしまう。


蹄の音が遠ざかる。

革の匂いが薄れる。

門が閉まる。


屋敷に、父がいない音が満ちた。


その日の昼、父の席が空いていた。

それだけで、胃がちょっと痛い。


夕方、木剣が壁に掛かったままだった。

触ってもいい。父はいない。でも触ると、逆に寂しくなる。


だから触らなかった。

六歳の僕にしては、すごい自制だ。


祖母はいつも通りだった。


声も、歩き方も、視線も。

変わらない。


でも、変わらないからこそ分かる。

祖母は祖母で、父を送り出すことに慣れている。

慣れているというより、覚悟が常にある。


……強い。


自分はまだ達観できない。父がいなくなるのは寂しいのだ。


夜になると、屋敷は静かすぎた。

風の音と、遠くの見回りの足音だけが聞こえる。

父がいない夜は、音まで減るらしい。



では、このザーヴェル伯爵領はどうなるのか?

伯爵領は、父がいない間は祖母が見る。

どうも父が伯爵になる前は、祖母が女伯爵だったらしい。

正直、このへんの仕組みはよく分からない。貴族の制度、複雑すぎる。


「お祖母さまには弟がいるのに?」とか思うけど──そうではないらしい。

弟、つまり僕の大叔父さんは、来るときはお菓子を持ってくるだけの人だ。


オットマー大叔父さん。


丸々としていて、いつもにこにこして、朗らかで、こっそり僕に甘い菓子を渡して、乳母に怒られている。ありがたい親戚。癒し枠的存在だ。


「セルヴィオ、ほーら。甘いのだ」

「乳母がこわい」

「大丈夫大丈夫。わたしが盾になってあげるから」


で、いつも盾になれてない。秒で乳母に回収されてる。


でも、この人がザーヴェル伯爵領内で男爵をやっているらしい。

従属爵位ってやつ。男爵位を持って領内の一部を任されている。


父が北で要塞を作るなら、祖母はここで屋敷を動かす。

大叔父さんは領内のどこかを見ている。


じゃあ、僕は?


六歳の僕は、夜、ひとりで書庫の隅に座った。

本はまだ難しい。読む速度は上がった。でも単語の意味が追いつかない。翻訳の壁がある。


それでも、地図だけは読める。


北。

辺境伯領。

要塞。


父がそこにいる。


僕は思った。


──ああなるほど。


この世界、エルヴァンが主人公なんだ。


戦功を立てて、役目を背負って、北へ行く。

要塞を築く。国境を守る。


完全に主人公ムーブだ。

そして僕は……たぶん脇役。


でも、脇役って悪くない。


主人公を支える軍師。

補給線を整える参謀。

地図の上で「ここは無理筋」と言って、主人公を救う役。


……そうだ。


僕はこの超優秀なお父さんを支えるための『軍師』として、この世に遣わされたのだな!

そうに違いない。


勝手な憶測?うん、知ってる。

でもな、こちとら、ウォーシムマニアの前世持ちだ。何度も天下統一してきたんだ。

絶対にそうなってやるんだ!


父がいないのは寂しい。

めちゃくちゃ寂しい。


でも、寂しいからこそ──勉強する理由ができる。


将来、父を(たす)けて働くためにも。

北へ行くためにも。


僕は、机の上に指を置いた。

覚えた文字を、なぞる。


父の背中が遠くなるのを感じながら、

僕は、追いつく側になると決めた。


……いや、決めたっていうか。


それが、この世界の貴族ってやつなんだろう。


そして僕は、小さく息を吐いて笑った。


この世界にも単身赴任があるなんて、ほんと世知辛い。


でも──


うちの父ちゃんは、辺境伯だ。


辺境伯って、すごくない?


ちょっと誇らしくて。

ちょっとだけ、泣きたくなる夜だった。

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