06.異世界転生といえば
父が、また戦場へ行ってしまった。
「また」と書くと軽いけど、実際は軽くない。屋敷の空気が一段重くなる。使用人たちの足音が静かになる。食卓で、父の椅子だけが空いている。祖母の声はいつも通りなのに、言葉の間が少しだけ長くなる。
で、残された僕は何をするか。
六歳児らしく──元気に走り回る?
違う。
六歳児らしく──泣いて駄々をこねる?
それも違う。
正解は──野菜にキレる。
この世界の野菜、総じて美味しくない。
いや、正確に言うなら「素材としてのポテンシャルはある」のに、引き出し方が雑なんだ。品種改良の概念が薄い。甘みが出る方向に寄せない。苦味もえぐみも「野菜とはそういうもの」で済ませている。
しかも食卓に出てくる量が多い。
名門貴族の屋敷だぞ。肉とかチーズとかパンとか、もっとやりようがあるだろ、って思うんだけど、祖母が言うには「体調を整えるには必要」らしい。医学が未発達な世界ほど、経験則は強い。祖母の経験則は、この家ではほぼ法律だ。
結果。
僕は毎日、青臭い草を咀嚼しては「うっ」となり、幼児の顔で必死に耐えていた。
──耐えていたんだけど。
父がいなくなって、気が抜けたのか。
それとも六歳の反抗期が早いのか。
あるいは前世の社畜が「ストレス源を潰せ」と囁いたのか。
僕はある朝、思ってしまった。
……無理。
この世界で生きるなら、食は正義だ。
食が死ぬと、心が死ぬ。
というわけで、僕は厨房へ向かった。
ザーヴェル家の厨房は、広い。
火のある場所はどこもそうだけど、熱と匂いと音がある。鍋の蓋が鳴る音。包丁がまな板を叩く音。湯気。油。香草の匂い。肉を炙る煙。
ここだけ別世界だ。
僕が入ると、空気が一瞬で止まった。
「ぼ、坊っちゃま!?」
料理人が固まり、下働きの子が手を止め、誰かが慌てて布巾で手を拭いた。
そのまま、視線が斜め後ろに吸い寄せられる。
乳母だ。
僕の背後に、いつもの乳母がいる。
今日は一段と険しい顔をしている。たぶん、僕が廊下で方向転換した瞬間から、嫌な予感がしていたに違いない。
「坊ちゃま。こちらは……」
「厨房だね」
「そうではなく……!」
乳母が言いかけて飲み込んだ。言いたいことは分かる。
坊ちゃんが厨房に来るな。
手を出すな。
使用人が叱られる。
つまり、いつものやつだ。
僕はにこっと笑った。六歳の笑顔。中身三十代の交渉術。
「ねえ。僕、野菜が苦手なんだ」
料理人たちが「ああ……」という顔をする。
苦手なのは僕だけじゃない。多分。
「でも、お祖母さまが必要って言うから食べる」
全員がうんうん頷く。祖母さまは絶対。これは真理。
「だから、工夫したい」
空気が少し緩んだ。
工夫、なら、許される。たぶん。
「僕も手伝う」
空気が再び固まった。
「い、いえ坊っちゃまにそのような……!」
「ねえ、いいよね」
僕は乳母を見る。
乳母は、目を閉じた。
深呼吸して、ゆっくりと頷いた。
その瞬間、料理人たちが一斉に頭を下げた。もう覚悟を決めたらしい。
君たちの忠誠心、嫌いじゃない。
「ありがとうございます……坊っちゃま。ですが、危ないことは……」
「危ないことはしない。たぶん」
たぶん、を付けるのが僕の誠実さだ。
僕は台の上に置かれた野菜たちを見た。
青い。固い。主張が強い。噛むと苦い。
前世の脳内レシピが、勝手にページをめくり始める。
異世界転生といえば──そうだ。
石鹸?そのうち。
紙?今じゃない。
うん。そうだね、マヨネーズだね。
はいはい、ブーイングしないでください!
正直、前世の野菜がどれほど美味しく進化していたのか、身に染みています。
この世界の野菜、食ってみな飛ぶぞ(苦くて)
厨房へ来るに当たって下調べはしてきた。この世界でも材料は揃う。
卵。朝取りのやつ。冷蔵庫がない世界なので、むしろ鮮度は高い。
酢。穀物酢がある。小麦の香りが少しする。
塩。もちろんある。
油。大豆油はないけど、似た「豆油」というのががある。癖はあるけど、いける。
問題は工程だ。
僕は料理人に言った。
「卵、黄身だけ使いたい」
「黄身だけ……?」
「うん。白身は他に回して」
料理人が一瞬迷い、頷いた。
卵を割る手つきが上手い。さすがプロ。
黄色い黄身が木器に落ちる。
僕は塩をひとつまみ。
酢を、少し。
匙でぐるぐる混ぜる。
ここまでは順調。
料理人たちが息を止めて見ている。
たぶん、坊ちゃんが卵を台無しにする瞬間を待っている。
……分かる。僕も見たい。
六歳児の料理はだいたい事故だ。
次。油。
「これ、少しずつね。少しずつ」
口で言いながら、僕は瓶を傾けた。
そして──
どば。
うっ。出た。
出てしまった。
料理人が「ぁ……」という声を漏らした。
乳母が「坊ちゃま……!」と天井を仰いだ。
僕の中の社畜が叫ぶ。
リスケ!
リカバリ!
プロジェクト炎上!
でも、六歳の手は制御が甘い。
瓶は思ったより重い。
握力が足りない。
結果、想定よりも油が入ってしまった。
しょうがないね!
結果、器の中は「卵黄と酢」と「豆油」が分離した、怪しい黄色い液体になった。
見た目は、敗北。
だが。
僕は木匙を舐めた。
……うん。
味は、悪くない。
酸味と塩気。卵のコク。油のまったり。
完全なマヨネーズではないけど、方向性は近い。
つまり、勝ち筋はある。
僕は言った。
「よし。これは……ソースだね」
「そ、ソース……?」
「卵黄と酢のソース」
名前は大事だ。名前が付けば、物は存在し始める。
料理人が恐る恐る舐めた。
「……っ」
目が少しだけ見開かれる。
次に、もう一口。
「……美味い、です」
周りの料理人たちがざわついた。
誰かが野菜にちょんと付けて齧る。
「……おお」
別の誰かも齧る。
「……いける」
空気が変わった。
「野菜のえぐみが、酢で切れてる」
「黄身のおかげで丸い味わいだ」
事故で出来た怪液体が、厨房の希望になった瞬間だ。
僕は心の中で拳を握った。
──やった。野菜が食える。
そして、厨房のあちこちで小声が飛び交い始めた。
「坊っちゃまの……」
「発想が……」
「でもあれ、どう混ぜたら……」
そう。次はそこだ。
乳化の壁。
僕が完全に成功しなくていい。
ここから先は、料理人たちの仕事だ。
僕は、わざとらしく言った。
「これ、もっと少しずつ油を入れたら、きっと……もっと良くなるよ」
料理人たちの目が光った。
職人の目だ。
僕は満足して、厨房を後にした。
◆
翌日の昼食。
祖母が、同じソースを口にした。
祖母は一度だけ頷き、淡々と言った。
「……大変美味しいです」
それだけ。
だが、食卓の端に控えていた使用人が、耐えきれずに言った。
「実は……坊っちゃまの工夫された、卵黄と酢のソースでございます」
祖母の視線が、一瞬だけ僕に向いた。
硬い表情が──ほんの少しだけ、緩む。
「……あの子には、驚かされるわね」
にこり。
激レア祖母スマイル、再び。
やったぜ!
父はいない。
でも、父がいない日に僕は一つ、家の中で役に立った。
それが、嬉しかった。
◆
マリアンヌが、来た。
もう、定例のイベントか何かだと思うことにしている。
「来る」のではない。「発生する」。
そして今回は、いつもよりやばかった。
──マルティン叔父さんが、父エルヴァンと共に戦地へ行っている。
つまり、マリアンヌの家も「父不在」だ。寂しさが溜まっている。情緒のバフが乗っている。
そんな状態で屋敷に来た従妹は、僕を見るなり突進してきた。
「セルヴィオーーー!」
抱きつき。
服の裾を掴み。
離れない。
相変わらずだな!って笑いたいが、六歳の体は普通に押される。
重い。幼女の全体重は意外と重い。
乳母がすっと間に入ろうとするが、マリアンヌの乳母が先に手で制した。
慣れている。セレニア家の乳母、プロだ。
「お嬢様、坊っちゃまから──」
「いやだ!セルヴィオがいい!」
はいはい。いつもの。
僕は一応、祖母の方を見た。
祖母は遠くから、淡々と見ている。
介入しない。判断を任せる。教育の目だ。
……なるほど。僕に処理しろってことね。
僕はしゃがんで、マリアンヌの目線に合わせた。
「いらっしゃい。マリアンヌ」
「こんにちは、セルヴィオ!」
声でっか。
返事が元気ですね。
「今日ね、いいものがある」
僕がそう言うと、マリアンヌの目がきらっと光った。
幼女は「いいもの」に弱い。僕も弱い。
案内したのは、昼食の席──ではなく、その手前。
食堂の近くの小卓だ。使用人が運んできた蒸した野菜の皿と、小さな器。
器の中には、あのソース。
卵黄と酢のソース。
最近は、料理人が工夫したのか、前より少しだけ滑らかになっている。乳化しかけている。努力の味がする。
マリアンヌは皿を見て、露骨に顔をしかめた。
「やさい……いや」
ですよねー。
僕も嫌だった。今はソースで誤魔化している。
僕は言った。
「これを、ちょっとだけ付けてみて」
「やだ」
「ちょっとだけ。ほんとにちょっとだけ。すてきなマリアンヌなら、一口くらいはできるよ」
最後の一文が刺さった。
「……すてき?」
「うん。すてき」
自己肯定感を叩く。ここ一年で学んだ技術だ。
幼女は褒めると動く。世界の真理。
マリアンヌは警戒しながら、野菜の端にソースをちょん、と付けた。
それを口に入れる。
もぐ。
次の瞬間。
目が見開かれた。
「……なあにこれ」
声が変わった。
幼女の声なのに、真剣。
「おいしい……!」
そう言った瞬間、彼女はもう一口食べた。
そしてさらに。
「もっと!」
はい来た。
僕は器を持ち上げて、少しだけマヨを追加してあげる。
ここは焦らすと逆効果だ。飢えた幼女は暴れる。
マリアンヌは野菜を食べた。
野菜を、食べている。
それだけで、僕はちょっと感動した。
僕が笑っていると、マリアンヌが急に真顔になった。
「セルヴィオ」
「ん?」
彼女は、僕の手をぎゅっと掴んだ。
「セルヴィオ、すごい」
その言い方が、妙に重かった。
ただ褒めてるだけじゃない。
尊敬というより、信仰に近い。
僕の背中に、嫌な汗が浮かぶ。
──やばい。これは。
何がやばいって、この後の展開が読める。
あっ、これ異世界転生もので知った展開だ!である。
僕は今まで、マリアンヌに「褒める」「導く」で距離を作っていた。
でも今回は、「美味い」という幸福を僕が与えた。
幼児の幸福は、直結する。
そして案の定。
今日も、マリアンヌは僕から離れなくなった。
そして夕方。
帰る時間。
「かえらない!」
「やだやだやだやだ!」
「セルヴィオと、いっしょにいるー!」
わんわん大泣き。
これ、毎回繰り返されてるよね?
マリアンヌの乳母が汗だくで宥め、使用人が右往左往する。
マルティン叔父さんはいない。父もいない。現場の負担が、乳母たちにのしかかる。
ザーヴェル家の使用人たちは、またかと、困りながらも苦笑している。
祖母は遠くから、静かに見ている。
最終的に、乳母だけでなく御者まで出てきてマリアンヌは、馬車に押し込まれた。
「セルヴィオーーー!!」
泣き声が遠ざかる。
馬車の車輪の音が、屋敷の石畳を叩いて消えていく。
異世界転生といえばマヨネーズ。
そう思ってた。
まさかマヨネーズの出来損ないで、従妹の情緒まで乳化させるとは思わなかった。
次に僕が作るべきものは、たぶん──
ソースじゃなくて、距離感だ。
……難易度高くない?




