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できる!最強軍師  作者: 満波ケン
第一章 幼年期の終わり
5/15

05.たのしい……!だから学んじゃう!ビクンビクン

そういえば、この家って──僕に“勉強”らしい勉強をさせてこなかった。


走る。叱られる。走る。叱られる。たまに「坊ちゃま、お口を拭いてくださいまし」。

礼儀作法も、最低限。というか、「最低限の最低限」だ。

文字?まだ先。

歴史?たぶん、そのうち。

剣?父が木剣を触らせてくれたことはあるけど、あれは勉強っていうより「父との時間」だ。


だからこそ、逆に気になる。


──なんで今なんだ?


僕がその疑問を抱いたのは、朝の廊下だった。


いつものように館内の巡回に繰り出そうとしたところで、祖母──リュシアナに呼び止められた。


「セルヴィオ。今日は、こちらへ」


短い。無駄がない。

逆らう余地もない。


案内されたのは、書庫……ではない。

書庫の隣だ。


小さな部屋。机と椅子。窓。火鉢。

壁際に棚。棚には本が並ぶが、書庫ほど圧がない。圧がない分、怖い。ここは「使うための本棚」だ。


火鉢の炭が、小さくパチリと爆ぜた。


部屋には、乳母が一人。いつもより姿勢が硬い。

祖母がいるから、というだけではない。雰囲気が違う。


祖母は僕を椅子に座らせ、自分も向かいに座った。


そして、さらっと言った。


「勉強を始めましょう」


始めましょう、じゃないんだよなー。

お祖母さまが言うと、もう決定事項なんだよなー。


僕は、なるべく自然な顔で頷いた。五歳の自然な顔って難しい。


内心では、別の疑問が跳ねる。


これまで教育を施していなかった我が家で、いよいよそういう話になったということは──

何か、きっかけがあったんだろうな。


祖母は僕の目を見た。


「先日の、マリアンヌへの応対。あれは、よかったわ」


──あ。


なるほど。


あの、トイレに突撃しようとして乳母に抱えられ、「セルヴィオーーー!!」と屋敷を揺らした、あの嵐の従妹。

あの時の僕の対応が、祖母の琴線に触れた、と。


なるほど。


褒め方。距離の取り方。言葉の選び方。

幼児の情緒を壊さずに操縦する技術──いや、操縦って言うと悪いな。導く技術。


祖母は淡々と続ける。


「家庭教師は、まだ入れません。まずは私が見ます」


理由は語られないが、なんとなくわかる。


早すぎる評価を外に出さない。

ザーヴェル家の子としての型を先に入れる。

そして何より──祖母はたぶん、他人に任せる気がない。


ただし、祖母が教育のプロかと言われると……そこは別だ。


体系立っているかと言われると、たぶん違う。でも、物言いには自信があった。


祖母は机の上に、紙を一枚置いた。

羽ペン。インク壺。定規のような道具もある。


「まず、これを覚えなさい」


紙には、記号みたいな文字が並んでいた。


──あれ?


アルファベットじゃない。

日本語でもない。

漢字でもない。


見たことのない線。曲線。点。

でも、バラバラではない。規則がある。音と対応している匂いがする。


僕は内心で思考を走らせる。


もしかしたら、地球のどこかに存在する文字なのかもしれない。

古代文字とか、少数言語とか。世界は広いし、僕の知識は万能じゃない。


……いや。


これは、たぶん違うな。


確信だけが、すとんと落ちた。


ああ。

やっぱり、異世界だわ。


派手な演出はない。

天啓もない。

ただ、目の前の文字が、僕の足元を確定させた。


祖母は僕の表情の変化を見逃さない。見逃さないが、何も言わない。

たぶん「奇妙な顔をしている」程度にしか見えていない。


祖母は淡々と、音を口にし、僕に復唱させる。


「これが“セ”。こちらが“ル”。……よろしい」


発音は問題ない。

文字の形も、覚えられる。

むしろ、覚える速度が自分でも怖い。


スポンジが水を吸うみたいに、吸い込む。

前世の脳内メモリが、こっちの言語用に再配置されていく感覚。


でも──次の段階で、引っかかった。


文字は読める。

単語も読める。

なのに、意味が取れない単語が多い。


たとえば「統治」とか「権威」とか、音にすると分かった気になるのに、腹に落ちないやつ。


「読める」と「わかる」は別物だ。知ってる。社会人だから知ってる。ここでその知識が刺さるとは思わなかった。


知識は頭の中にある。

でも、それをこの世界の言葉で表現できない。


まさに翻訳の壁。

いずれ本を読もうと思ったら、これが大きなハードルになるやつだ。


祖母は、僕が止まるのを見て、ほんの少しだけ眉を動かした。


「……意味は急がなくてよい。形を覚えなさい」

祖母は、紙の端を指で軽く叩いた。


優しいのか厳しいのか分からない。

でも、押し付けてこないのは助かった。五歳児の脳みそ、そこまで万能じゃない。


ここで、乳母が息を呑む音がした。

僕が、祖母の提示した文字を、ほぼ一発で覚えはじめたからだ。


やめて。

そのリアクションやめて。

周囲の期待値が上がると、僕の胃が死ぬ。


祖母は、筆を置いた。


「次。数」


数。これは得意だ。と思った瞬間、嫌な予感もする。


この世界の数詞体系、月名由来の十二進数がある。公式の数詞がある。

つまり、僕の中の「当たり前」が、またズレる。


でも、祖母の出す問いはシンプルだった。


石を机に並べる。

分ける。比べる。増やす。減らす。

概念を叩き込むやつだ。


次に地図──と言われたとき、僕の背筋がちょっと伸びた。

祖母は小さな木板を持ってきて、そこに線を引いた。


「川。ここが道。ここが屋敷。ここが街」


近隣の地形。川の流れ。街道。領境。

家の子として必要な最低限が、静かに注ぎ込まれる。


その一連の流れの途中で、祖母がふと僕の顔を見た。


ほんの少し、口角が──動いた。


いつもの硬い表情が、わずかに崩れて、微笑みに近い形になる。


僕の胸に、それが刺さった。

胸の奥が、ひと呼吸ぶんだけ熱くなった。


たぶん、父に褒められた時と似ている。

でも質が違う。祖母の微笑みは、温度が低い分、重い。


──ああ。これ。

これ、やばいな。


僕は、思ってしまった。


もっと見たい。

もう一回、あの表情を引き出したい。


完全に、釣られている。

五歳の体で。三十代の頭で。

ザーヴェル家の“教育”に。


祖母は筆を取り直し、淡々と告げた。


「今日はここまで」


僕は、礼をして部屋を出た。

足取りは軽かった。自分でも驚くほど。


……勉強って、案外楽しい。

「できる」からじゃない。

「分かっていく」のが、楽しい。


そう思ってしまったのが、悔しいような、嬉しいような。



翌日。


僕は、昨日と同じ部屋に座っていた。

座らされている、と言ったほうが正しいかもしれない。ザーヴェル家の教育に「自発性」という概念は薄い。やる。以上。


祖母は今日も淡々としている。

だが、机の上の道具が増えている。増えてる時点で怖い。


「今日は、記憶です」


そう言って祖母が口にしたのは、短い詩だった。

内容はよく分からない。比喩が多い。抽象語が混ざる。昨日の「単語の意味が追いつかない」問題が、もう殴ってくる。


でも、音は覚えられる。

リズムがある。節がある。


祖母は一度だけ読み、僕に復唱させた。

僕が復唱すると、祖母は「もう一度」と言う。

三度目で、祖母は頷く。


ここが祖母流だ。

褒めない。

だが、頷きが許可で、次へ進む合図になる。


僕は、そこで自分の癖に気づいた。


前世の「勉強」は、成果が点数になる。

点数にならないと、やる意味が薄れる。

効率とか、目的とか、評価とか。社畜脳はそういう方向に走る。


でも、この世界の勉強は違う。

点数がない。評価が見えない。

代わりに、祖母の目がある。


その目が怖いのに、嫌じゃない。

むしろ、心地いい。


……あれ?

僕、もしかして教育されるの向いてる?


祖母は次に、木板の地図を出した。

昨日より少し複雑だ。川が二本になっている。道も増えている。街が二つある。


「ここから、どちらへ行くのが最も速い」


五歳児に出していい問いじゃない。

でも、僕は答えを出せる。


川。橋。道。距離。

線で考える。時間で考える。


そして、口に出す段で詰まる。


──説明が、できない。


頭の中では「最短経路」と「橋の重要性」が整理されているのに、それをこの世界の言葉に変換できない。


僕は、口を開いて閉じた。

祖母が見ている。乳母が息を止めている。


やばい。

ここで沈黙すると、「理解してない」と判断されかねない。


そこで僕は、戦術を変えた。


言葉を削る。

幼児の語彙でいける形に落とす。


「……こっち。はし、ある。みず、わたれる。まっすぐ」


拙い。

でも伝わる。


祖母は一拍置いて、頷いた。


「よろしい」


胸の奥が、じわっと熱くなる。

昨日の微笑みの余韻が蘇る。


祖母は続けて言った。


「ただし、言葉が足りない。意味を覚えなさい。急がなくてよい。積みなさい」


積め。石を積むみたいに。

知識を積め、ということだろう。


さらに祖母は、僕の姿勢を直した。

顎。背筋。目線。


「目は逸らさない。答える時は、間を置きすぎない」


はいはい、プロトコルプロトコル。

中身三十代としては、会議の作法と似てる。嫌な既視感。社畜の記憶が疼く。


ただ、ここで一つだけ救いがある。


祖母は、怒鳴らない。

長い説教をしない。

型を提示して、外れたら修正するだけだ。


効率がいい。

人間味がないとも言う。


でも──


ふとした瞬間に、祖母の表情が崩れる。


僕が昨日の詩を、ほぼ完璧に復唱したとき。

祖母の硬い口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


それは確かに、微笑みだった。


僕の中で、何かが「カチッ」とはまった気がした。


硝子窓の時の実績解除とは別のやつ。


《実績解除:祖母の笑み(激レア)》みたいな。


……いやまあ、そんなポップアップは出ないんだけどさ。


でも、刺さった。

ぶっ刺さった。


この家は重い。歴史も血も責任もある。

だけど、その重さの中心にいる祖母が、僕を見て微笑んだ。


それだけで、「ここでやっていける」気がしてしまうのが怖い。


勉強が終わるころ、僕は思った。


前世では、勉強はそこそこだった。

好きでも嫌いでもない。成績はまあまあ。

人生を変えるほどじゃない。


でも、この世界だと──ちょっとしたアドバンテージがある。


知識そのものじゃない。

覚える速度でもない。

「学ぶのが怖くない」っていう、心のほうだ。


祖母は机の上を片付けながら言った。


「明日も来なさい」


はい。

もう来ることになってるんだろうな。うん。


僕は部屋を出て、廊下を歩きながら小さく息を吐いた。


……勉強って、案外楽しい。


僕は、ザーヴェル家の型に、少しずつはまっていく。


それが自分にとって幸運なのか、呪いなのか。

まだ分からない。


でも──


祖母が、またあの微笑みを見せてくれるなら。


僕はたぶん、もう少し頑張ってしまう。


そういう自分が、ちょっと怖い。

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