05.たのしい……!だから学んじゃう!ビクンビクン
そういえば、この家って──僕に“勉強”らしい勉強をさせてこなかった。
走る。叱られる。走る。叱られる。たまに「坊ちゃま、お口を拭いてくださいまし」。
礼儀作法も、最低限。というか、「最低限の最低限」だ。
文字?まだ先。
歴史?たぶん、そのうち。
剣?父が木剣を触らせてくれたことはあるけど、あれは勉強っていうより「父との時間」だ。
だからこそ、逆に気になる。
──なんで今なんだ?
僕がその疑問を抱いたのは、朝の廊下だった。
いつものように館内の巡回に繰り出そうとしたところで、祖母──リュシアナに呼び止められた。
「セルヴィオ。今日は、こちらへ」
短い。無駄がない。
逆らう余地もない。
案内されたのは、書庫……ではない。
書庫の隣だ。
小さな部屋。机と椅子。窓。火鉢。
壁際に棚。棚には本が並ぶが、書庫ほど圧がない。圧がない分、怖い。ここは「使うための本棚」だ。
火鉢の炭が、小さくパチリと爆ぜた。
部屋には、乳母が一人。いつもより姿勢が硬い。
祖母がいるから、というだけではない。雰囲気が違う。
祖母は僕を椅子に座らせ、自分も向かいに座った。
そして、さらっと言った。
「勉強を始めましょう」
始めましょう、じゃないんだよなー。
お祖母さまが言うと、もう決定事項なんだよなー。
僕は、なるべく自然な顔で頷いた。五歳の自然な顔って難しい。
内心では、別の疑問が跳ねる。
これまで教育を施していなかった我が家で、いよいよそういう話になったということは──
何か、きっかけがあったんだろうな。
祖母は僕の目を見た。
「先日の、マリアンヌへの応対。あれは、よかったわ」
──あ。
なるほど。
あの、トイレに突撃しようとして乳母に抱えられ、「セルヴィオーーー!!」と屋敷を揺らした、あの嵐の従妹。
あの時の僕の対応が、祖母の琴線に触れた、と。
なるほど。
褒め方。距離の取り方。言葉の選び方。
幼児の情緒を壊さずに操縦する技術──いや、操縦って言うと悪いな。導く技術。
祖母は淡々と続ける。
「家庭教師は、まだ入れません。まずは私が見ます」
理由は語られないが、なんとなくわかる。
早すぎる評価を外に出さない。
ザーヴェル家の子としての型を先に入れる。
そして何より──祖母はたぶん、他人に任せる気がない。
ただし、祖母が教育のプロかと言われると……そこは別だ。
体系立っているかと言われると、たぶん違う。でも、物言いには自信があった。
祖母は机の上に、紙を一枚置いた。
羽ペン。インク壺。定規のような道具もある。
「まず、これを覚えなさい」
紙には、記号みたいな文字が並んでいた。
──あれ?
アルファベットじゃない。
日本語でもない。
漢字でもない。
見たことのない線。曲線。点。
でも、バラバラではない。規則がある。音と対応している匂いがする。
僕は内心で思考を走らせる。
もしかしたら、地球のどこかに存在する文字なのかもしれない。
古代文字とか、少数言語とか。世界は広いし、僕の知識は万能じゃない。
……いや。
これは、たぶん違うな。
確信だけが、すとんと落ちた。
ああ。
やっぱり、異世界だわ。
派手な演出はない。
天啓もない。
ただ、目の前の文字が、僕の足元を確定させた。
祖母は僕の表情の変化を見逃さない。見逃さないが、何も言わない。
たぶん「奇妙な顔をしている」程度にしか見えていない。
祖母は淡々と、音を口にし、僕に復唱させる。
「これが“セ”。こちらが“ル”。……よろしい」
発音は問題ない。
文字の形も、覚えられる。
むしろ、覚える速度が自分でも怖い。
スポンジが水を吸うみたいに、吸い込む。
前世の脳内メモリが、こっちの言語用に再配置されていく感覚。
でも──次の段階で、引っかかった。
文字は読める。
単語も読める。
なのに、意味が取れない単語が多い。
たとえば「統治」とか「権威」とか、音にすると分かった気になるのに、腹に落ちないやつ。
「読める」と「わかる」は別物だ。知ってる。社会人だから知ってる。ここでその知識が刺さるとは思わなかった。
知識は頭の中にある。
でも、それをこの世界の言葉で表現できない。
まさに翻訳の壁。
いずれ本を読もうと思ったら、これが大きなハードルになるやつだ。
祖母は、僕が止まるのを見て、ほんの少しだけ眉を動かした。
「……意味は急がなくてよい。形を覚えなさい」
祖母は、紙の端を指で軽く叩いた。
優しいのか厳しいのか分からない。
でも、押し付けてこないのは助かった。五歳児の脳みそ、そこまで万能じゃない。
ここで、乳母が息を呑む音がした。
僕が、祖母の提示した文字を、ほぼ一発で覚えはじめたからだ。
やめて。
そのリアクションやめて。
周囲の期待値が上がると、僕の胃が死ぬ。
祖母は、筆を置いた。
「次。数」
数。これは得意だ。と思った瞬間、嫌な予感もする。
この世界の数詞体系、月名由来の十二進数がある。公式の数詞がある。
つまり、僕の中の「当たり前」が、またズレる。
でも、祖母の出す問いはシンプルだった。
石を机に並べる。
分ける。比べる。増やす。減らす。
概念を叩き込むやつだ。
次に地図──と言われたとき、僕の背筋がちょっと伸びた。
祖母は小さな木板を持ってきて、そこに線を引いた。
「川。ここが道。ここが屋敷。ここが街」
近隣の地形。川の流れ。街道。領境。
家の子として必要な最低限が、静かに注ぎ込まれる。
その一連の流れの途中で、祖母がふと僕の顔を見た。
ほんの少し、口角が──動いた。
いつもの硬い表情が、わずかに崩れて、微笑みに近い形になる。
僕の胸に、それが刺さった。
胸の奥が、ひと呼吸ぶんだけ熱くなった。
たぶん、父に褒められた時と似ている。
でも質が違う。祖母の微笑みは、温度が低い分、重い。
──ああ。これ。
これ、やばいな。
僕は、思ってしまった。
もっと見たい。
もう一回、あの表情を引き出したい。
完全に、釣られている。
五歳の体で。三十代の頭で。
ザーヴェル家の“教育”に。
祖母は筆を取り直し、淡々と告げた。
「今日はここまで」
僕は、礼をして部屋を出た。
足取りは軽かった。自分でも驚くほど。
……勉強って、案外楽しい。
「できる」からじゃない。
「分かっていく」のが、楽しい。
そう思ってしまったのが、悔しいような、嬉しいような。
◆
翌日。
僕は、昨日と同じ部屋に座っていた。
座らされている、と言ったほうが正しいかもしれない。ザーヴェル家の教育に「自発性」という概念は薄い。やる。以上。
祖母は今日も淡々としている。
だが、机の上の道具が増えている。増えてる時点で怖い。
「今日は、記憶です」
そう言って祖母が口にしたのは、短い詩だった。
内容はよく分からない。比喩が多い。抽象語が混ざる。昨日の「単語の意味が追いつかない」問題が、もう殴ってくる。
でも、音は覚えられる。
リズムがある。節がある。
祖母は一度だけ読み、僕に復唱させた。
僕が復唱すると、祖母は「もう一度」と言う。
三度目で、祖母は頷く。
ここが祖母流だ。
褒めない。
だが、頷きが許可で、次へ進む合図になる。
僕は、そこで自分の癖に気づいた。
前世の「勉強」は、成果が点数になる。
点数にならないと、やる意味が薄れる。
効率とか、目的とか、評価とか。社畜脳はそういう方向に走る。
でも、この世界の勉強は違う。
点数がない。評価が見えない。
代わりに、祖母の目がある。
その目が怖いのに、嫌じゃない。
むしろ、心地いい。
……あれ?
僕、もしかして教育されるの向いてる?
祖母は次に、木板の地図を出した。
昨日より少し複雑だ。川が二本になっている。道も増えている。街が二つある。
「ここから、どちらへ行くのが最も速い」
五歳児に出していい問いじゃない。
でも、僕は答えを出せる。
川。橋。道。距離。
線で考える。時間で考える。
そして、口に出す段で詰まる。
──説明が、できない。
頭の中では「最短経路」と「橋の重要性」が整理されているのに、それをこの世界の言葉に変換できない。
僕は、口を開いて閉じた。
祖母が見ている。乳母が息を止めている。
やばい。
ここで沈黙すると、「理解してない」と判断されかねない。
そこで僕は、戦術を変えた。
言葉を削る。
幼児の語彙でいける形に落とす。
「……こっち。はし、ある。みず、わたれる。まっすぐ」
拙い。
でも伝わる。
祖母は一拍置いて、頷いた。
「よろしい」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
昨日の微笑みの余韻が蘇る。
祖母は続けて言った。
「ただし、言葉が足りない。意味を覚えなさい。急がなくてよい。積みなさい」
積め。石を積むみたいに。
知識を積め、ということだろう。
さらに祖母は、僕の姿勢を直した。
顎。背筋。目線。
「目は逸らさない。答える時は、間を置きすぎない」
はいはい、プロトコルプロトコル。
中身三十代としては、会議の作法と似てる。嫌な既視感。社畜の記憶が疼く。
ただ、ここで一つだけ救いがある。
祖母は、怒鳴らない。
長い説教をしない。
型を提示して、外れたら修正するだけだ。
効率がいい。
人間味がないとも言う。
でも──
ふとした瞬間に、祖母の表情が崩れる。
僕が昨日の詩を、ほぼ完璧に復唱したとき。
祖母の硬い口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
それは確かに、微笑みだった。
僕の中で、何かが「カチッ」とはまった気がした。
硝子窓の時の実績解除とは別のやつ。
《実績解除:祖母の笑み(激レア)》みたいな。
……いやまあ、そんなポップアップは出ないんだけどさ。
でも、刺さった。
ぶっ刺さった。
この家は重い。歴史も血も責任もある。
だけど、その重さの中心にいる祖母が、僕を見て微笑んだ。
それだけで、「ここでやっていける」気がしてしまうのが怖い。
勉強が終わるころ、僕は思った。
前世では、勉強はそこそこだった。
好きでも嫌いでもない。成績はまあまあ。
人生を変えるほどじゃない。
でも、この世界だと──ちょっとしたアドバンテージがある。
知識そのものじゃない。
覚える速度でもない。
「学ぶのが怖くない」っていう、心のほうだ。
祖母は机の上を片付けながら言った。
「明日も来なさい」
はい。
もう来ることになってるんだろうな。うん。
僕は部屋を出て、廊下を歩きながら小さく息を吐いた。
……勉強って、案外楽しい。
僕は、ザーヴェル家の型に、少しずつはまっていく。
それが自分にとって幸運なのか、呪いなのか。
まだ分からない。
でも──
祖母が、またあの微笑みを見せてくれるなら。
僕はたぶん、もう少し頑張ってしまう。
そういう自分が、ちょっと怖い。




