03.厳しいおばあちゃん
壁は石で出来ている。
足元は厚い絨毯。
窓は一定の間隔で配置され、外光が入る時間帯も計算されている。
ちゃんと計算されている。角度とか。
ザーヴェル家の屋敷は、広い。
いや、正確に言うなら──長い。
廊下がとにかく長い。
三歳児の足で歩くと、途中で確実に飽きる。
廊下の途中には、肖像画が掛かっている。
鎧を着た祖先。
儀礼服姿の男女。
聞くところによると、ザーヴェル家、めちゃくちゃ歴史が長いらしい。
このあたりの土豪だった頃から数えると三百年超え。
たまげたなあ。
そんな我が家の歴史をたどる廊下の、まあ長いことと言ったら。
……もう、途中から、走っていた。
後ろから「坊ちゃま、走らないでくださいまし」と乳母から声がかかるのにお構い無しだ。
三歳児に「走るな」は、「もっと走れ」とほぼ同義だ。
前世が三十代でも、そこは抗えない。
肉体年齢が主権を握っている。
廊下を曲がると、階段が見えた。
玄関ホールへ続く大階段だ。
ちなみに豆知識なんだが。
中世ヨーロッパ風の世界だと、パーティーのときに当主とかお姫様が二階の大階段から降りてくる演出、よくあるやん?
あれ見るたびに「だから玄関ホールで夜会やるんだな」って思いがちなんだけど。
……実は、ああいうのって、もうちょっと後の時代なんだよな。
少なくとも、夜会用の大広間に“主役が降りてくるための階段”は、基本ついてない。
たいていは廊下とか前室を通って、普通に入ってくる。
フィクションだと夜会の扉を開けたら玄関になっててすぐ外、みたいな構造も多いし、そのへんは、まあ演出優先なんだろうけど。
で。うちの玄関ホールの大階段。
見た目の豪奢さより、実用が先に来ている。
幅が広く、段差は低め、段数多め。
踏板は厚く、音が響きにくい。
戦場帰りで疲れていても、安全に昇り降りできる設計なのだろう。
三歳児の僕は、そんなことを気にせず当然のように駆け下りた。
途中、踊り場に一枚の肖像画が掛かっている。
美しい女性だ。
柔らかな表情。
控えめな微笑み。
──母だな。
記憶はない。
感情も、まだ湧かない。
それでもなんとなく分かった。
玄関ホールは、広い。
吹き抜けで、上階の回廊が見える。
壁際には儀礼用の槍や盾。
磨かれた石の床が、よく手入れされている。
来客が最初に「家格」を理解する場所だ。
そして一階の大広間へ。
玄関ホールから大広間までは、短い前室と廊下を挟んでいる。
天井が高く、梁が見える。
長卓が置かれ、両脇に椅子。
壁際には燭台と装飾布。
一等大きな壁には何やら宗教画らしい絵が描かれている。
その絵の上には大きな明り取りの窓があり、絵の雰囲気とあいまってちょっと神々しい。
名門貴族えっぐ。
とにかく無駄に広い。
だが、その広さは無駄ではない。
宴。
会議。
儀礼。
非常時には兵の集合場所にもなる。
多用途を前提にした空間なのだ。
さらに奥へ進む。
執務室の前で、足が止まった。
扉の向こうから、低い声。
父だ。
……仕事中だな。
三歳児の衝動で飛び込みたい気持ちを、三十代の理性で押さえ込む。
きっと父は喜んで迎えてくれるだろうが、ここは邪魔しない方がいいだろう。身体も納得してくれた。
そして最後に──書庫。
扉の向こうに、気配だけで分かる。
本。
大量の本。
……ああ、これはヤバい。
紙の匂い。
革装丁。
棚の高さ。
だが、この世界の僕は、まだ文字を知らない。
きっと前世の僕なら、三日は籠もれるに違いない。
数年先、文字を勉強するのが楽しみになった。
え。なんですぐに文字を勉強しないのか、って?
なぜベストを尽くさないのか、って?
あのね。
三歳児が急にそんなこと言い出したら、家族としたら嬉しいよりも先に心配がくるだろ?
こういうのは自然な風に覚えられる流れを、着実に組み立てていったほうがいいの。僕は賢いんだ。
書庫から出る。三歳だと扉の開閉できないからね。
乳母が開け閉めしてくれる。うむ、よきにはからえ。
──もう少し先に行ってみるか。
ここまでは毎日の巡回ルートだ。巡回ルートってなんだよ、って感じだけど、まあ幼児のやることだ。意味はなくても毎日繰り返しちゃうことなんてたくさんあるよね。
そう思った、その時だった。
廊下の脇に置かれた、小さな卓。
その上にある器が目に入った。
うっひょー。超綺麗な銀細工。銀なのかは知らんけど。
細かな彫刻。
儀礼用か、あるいは戦勝記念か。
杯の形状をしている。
触るな、と書いていない。
だが、触っていいとも書いていない。
なんとなく危険な香りがするのか、三十代の理性が警告を出す。
三歳児の好奇心が、それを踏み越える。
触った。乳母が息を呑むのが聞こえた。
「……セルヴィオ」
次に、凛とした声がした。
怒鳴り声ではない。
感情も、乗っていない。
だが、その一言で空気が変わった。
振り向く。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
背筋がピンと伸びている。
服装は控えめ。
装飾は最小限。
だが、視線が違う。
──ひえっ、こわっ。
祖母だ。
リュシアナ・ヴェン・ザーヴェルである。
僕の乳母は、祖母をおそれてか壁際で畏まっていた。
「それは、触ってはいけません」
理由は言わない。
声を荒げもしない。
事実だけを告げる。
僕は反射的に手を引っ込めた。
祖母はそれを確認すると、銀器を元の位置に戻した。
動作は静かで、無駄がない。
周囲の使用人たちは、息を潜めている。
誰もフォローしない。
誰も笑わない。
「走るのも、いけません」
淡々と、追加。
それだけ。
「はい」
自然に、そう答えていた。
祖母は一度だけ頷き、踵を返す。
それで終わり。
説教はない。
理由の説明もない。
この家の統治者はきっとこの人なのだろう。
その夜、廊下の影から、父と祖母が話しているのを見た。
声は聞こえない。
だが、父の態度で分かる。
父は、祖母の前では余計なことを言わない。
よく聞き、よく話し、そして判断を仰いでいる。
──なるほど。
僕が父を尊敬するように、父は祖母を尊敬しているんだな。
そんなことを考えながら、その夜、僕はいつもより静かに眠った。
三歳の体で。
三十代の頭で。
ザーヴェル家という場所を、ほんの少しだけ理解した夜だった。




