02.うちの父ちゃんは日本一
この家に残ったローンはないらしい。
残ったローンも日本一だったら目も当てられない。
目を覚まして最初にそんなことを考えてしまうあたり、前世が三十代サラリーマンだった弊害は根深い。
目が覚めた場所は、柔らかい寝台の上だった。
天蓋付き。無駄に豪華。無駄に高い。
寝具は清潔で、布はやたらと肌触りがいい。
ああ、これ完全に上級貴族のベッドだな。
自分が三歳児であることを思い出しながら、僕はゆっくりと瞬きをした。身体はだるいが、頭はやけに冴えている。
……さっきの硝子窓イベント、どう考えてもフラグだったよな。
倒れたあと、大事をとって寝台に運ばれたらしい。
そのまま、いつの間にか眠ってしまったようだ。
「坊っちゃま、目を覚まされましたか」
声をかけてきたのは、さっき倒れたときに駆け寄ってきた乳母だった。年配の女性で、動きは落ち着いているが、目だけはずっと僕を追っている。
心配されてるなあ、これ。
僕は何か言おうとして、喉を鳴らした。
三歳児の喉はまだ調整が甘い。
「……だいじょぶ」
音は幼児。
中身は社畜。
乳母はほっとしたように息をつき、僕の額に手を当てた。
「お熱はありませんね。よかった……」
よかった、じゃないんだよな。
こっちは人生が二重化したんだぞ。
そう言いたかったが、言えるはずもない。
代わりに、僕は天井を見た。
……やっぱ高い。
無駄に高い。
何度見ても高い。
その天井を見上げながら考える。
確かになー。
なんかおかしいとは思ったんだよなー。
いま、前世の記憶すらある。
自分の姿を見るのが、記憶を戻す最後の条件だったのかね。
異世界転生?
それとも、輪廻転生?
まったくわかんない。
わかったのは、どうやらえっぐい金持ちに生まれたらしいってこと。
こりゃ勝ち組かな?
もしかしたら、神様がここから没落させようとルート構築してるのかわからんけど。
そのとき、扉の向こうが少し騒がしくなった。
足音。
低く、速く、迷いのない歩き方。
──あ、来たな。
理由は分からないが、そう思った。
次の瞬間、扉が開く。
背が高い。
がっしりしている。
鎧は着ていないが、立ち姿だけで「戦場のオトコ」だと分かる。
父だ。
エルヴァン・ヴェン・ザーヴェル。
この世界で、僕の父親。
「……セル」
低い声だった。
抑えているが、隠しきれていない焦りがある。
セルと呼ばれて、反射的に「ぶるぁぁぁぁ」と返したくなる衝動を必死に抑える。
セルというのは、僕の愛称。
正式な名前は、セルヴィオだ。
父は大股で近づき、寝台の脇に膝をついた。
その動作がやけに自然で、場慣れしていて──たぶん、様々な場面で似たような姿勢を何度も取ってきたのだろう。
「大丈夫か」
短い問い。
余計な言葉はない。
僕は父を見た。
でっかい。
いや、比喩じゃなくて物理的にでかい。
肩幅が広い。首が太い。胸板が厚い。
この人、服の下に筋肉が詰まってるタイプだ。
そのくせ顔が幼いのが、ギャップ甚だしい。
僕の中で、前世の知識が勝手に照合を始める。
──あ、これ完全にチート枠だ。
ステータスオープンができるわけじゃないし、鑑定スキルもないみたいだが、まあ見たらわかるよね。
きっとステータス盛りすぎのチートキャラ。
そんなことを考えているうちに、父が僕の額に手を伸ばした。
大きな手。温かい。
「……無理をさせたか」
その言葉に、僕は一瞬だけ考えた。
昨日まで前線にいた父にとって、屋敷で倒れた息子は、自分の不在の結果に見えたのだろう。
無理をした覚えはない。
勝手に記憶が流れ込んできてぶっ壊れただけだ。
でも、父はたぶん──
僕が倒れた理由を、自分のせいだと思っている。
眼差しがそう語っていた。
申し訳なさのあまりか涙さえ浮かべている。
戦場に出ているから。
屋敷を空けがちだから。
そういうやつだ、この人。
「……へいき」
僕はそう言った。
拙い発音で。
でも、ちゃんと目を見て。
かーっ、僕ってば健気だね。
父は一瞬だけ言葉を失い、それから──
笑った。
それは豪快な笑いではない。
歯を見せるでもない。
ただ、肩の力が抜けたような、安堵の笑み。
「……そうか」
それだけ言って、父は僕を抱き上げた。
高い。
一気に視界が上がる。
ああ、これ完全に高いところが好きな子供扱いだな。
でもまあ、嫌じゃない。
父の胸は硬くて、少しだけ汗の匂いがした。
戦場帰りの匂いだ。
──この人、すごい。
理屈じゃなく、そう思った。
この世界のことはまだ分からない。
国も、戦争も、立場も。
でも一つだけ確信できる。
この人は、「強い」。
そして──
この人が、僕の父だ。
それだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。
その熱の正体を、三歳の僕はまだ言語化できない。
でも前世の僕は知っている。
これは、尊敬だ。
僕には、この父の記憶はある。
でも、母の記憶はない。代わりに祖母との記憶がある。
後になって聞いた話によると、母──ソフィーナは、僕を産んですぐに亡くなったらしい。
ただ、屋敷のあちこちに、母の気配は残っている。
肖像画。
使われていない私室。
誰も触れない小物。
そして何より、父の態度。
父は母の話を、ほとんどしない。
でも、忘れているわけじゃない。
むしろ逆だ。
深く、大切に、しまい込んでいる。
理屈じゃなく、そう思った。
この家には、いないはずの母の気配が、今も、静かに残っている。
理由は分からない。
言葉にもできない。
ただ、今の僕には、この言葉しか浮かばなかった。
──うちの父ちゃんは、日本一だ。
いや、ここ日本じゃないけど。
でも、世界一でもいい。
少なくとも、僕の中では。
この人のそばにいれば、
この世界はきっと、やっていける。
そう信じて、僕は父の腕の中で、もう一度目を閉じた。
次に考えるのは──
もう少し、大きくなってからでいいや。




