双葉かのんSS『真実のFAIRY TALE』(中編)
あの日、震える指で送信ボタンをクリックしてから、地獄のような三日間が過ぎた。
私の生活は、何一つ変わることなく灰色の停滞の中にあった。新しいバイトを探さなければならない、ハローワークに行かなければならない。
頭では分かっているのに、身体が鉛のように重くて動かない。カーテンを閉め切った六畳一間の隅で、膝を抱えてましろ姫のアーカイブをぼんやりと眺める。それだけが、私の細い呼吸を繋ぎ止める唯一の手段だった。
ふとした瞬間に、あの夜のことがフラッシュバックして激しい自己嫌悪に襲われる。
――『盾になりたい』。
何を血迷って、あんな気味の悪い「本音」を送ってしまったのだろう。あれは志望動機などではない。ただの執着心の強いオタクが書き連ねた、独りよがりの怪文書だ。まともな大人があんなものを読んで、採用しようなんて思うはずがない。
読み返せば読み返せるほど、自意識が悲鳴を上げ、顔から火が出るような恥ずかしさが込み上げる。私は何度も枕に顔を埋めて悶絶し、自分の愚かさを呪った。不合格という名の「正解」が届くのを、怯えながら待つ日々だった。
――ピロリン。
四日目の朝。ましろ姫の朝配信がない、静まり返った部屋にスマートフォンの通知音が響いた。
どうせまた、通販サイトの広告か、迷惑メールだろう。そう思いながら、力なく伸ばした手で画面を覗き込む。
『Fmすたーらいぶ オーディション事務局』
『件名:【重要】3期生オーディション書類選考結果のお知らせ』
「……っ!」
指先から一気に血の気が引き、心臓が肋骨を突き破らんばかりに早鐘を打ち始めた。
過去四回、私はこの件名のメールを呪いのように受け取ってきた。そしてその全てが、『慎重に選考を重ねました結果、今回は誠に残念ながら――』という、冷たい定型文の絶望で終わっていた。
今回も同じだ。あんな剥き出しの言葉をぶつけたのだから、呆れられておしまいだ。嫌悪感すら抱かれたかもしれない。
けれど、祈るような、あるいは処刑台へ向かうような心地で、私は震える指を動かし、メールを開封した。
『鈴町彩芽様。厳正なる選考の結果、貴殿を書類選考通過とさせていただきます。つきましては……』
「……え?」
視界が、ぐにゃりと歪んだ。脳が、目の前の日本語を正しく処理することを拒否している。
通過。
つうか。
TSU-U-KA。
何度も、何度もスマートフォンの画面を指で擦り、一文字ずつ凝視する。青白い液晶の光が、網膜に焼き付く。
夢じゃない。
見間違いでもない。
5回目にして初めて、私は「お祈り」をされなかった。あんな、泥沼の底から叫ぶような履歴書を、誰かが、あのキラキラした世界側の誰かが、拾い上げてくれたのだ。
「……う、うわああああああ……っ!」
私は叫び声を上げ、布団に突っ伏した。
嬉しい。けれど、それ以上に恐ろしい。通過したということは、会いに行かなければならないのだ。画面の向こう側の住人ではなく、現実の、救いようのない「コミュ障陰キャ女」である私を、白日の下に晒さなければならないのだから。
◇
「あら、彩芽。どうしたの、そんなに慌てて」
昼食の時間。私は重力さえ忘れたような足取りで階段を駆け下り、台所にいた母にスマホを突き出した。
「お母さん、あの……面接。決まったの。今度こそ、ちゃんとしたところで」
「まあ!よかったわねぇ。何の面接なの?」
「え、えっと……事務。事務所の、事務の仕事。都内にある、結構大きいところで……」
嘘をつくたびに心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴る。Vtuberのオーディションなんて、今の父や母に説明できるはずがない。ましてや、何回もバイトをクビになり、働くことすらままならない娘が「ネットでお姫様になる」なんて言ったら、今度こそ病院を勧められるかもしれない。
「事務所の事務……いいじゃない。座ってお仕事できるし、彩芽に向いてるかもね」
母は手放しで喜んでくれた。けれど、リビングのソファでテレビを見ていた父が、低く重い声でこちらを振り返った。
「……面接、いつだ」
「あ、明後日……東京の、駅の近くのビルで」
「そうか。……みっともない格好で行くなよ」
父はそれだけ言うと、またテレビに目を戻した。いつもの厳しい口調。けれど、その日の夜。私が部屋で、明後日着ていくリクルートスーツの皺を必死に伸ばしていると、ドアが控えめにノックされた。
「……お父さん」
入ってきた父の手には、使い込まれた靴クリームと、汚れを拭うための古布が握られていた。
「靴を、出せ」
「えっ、いいよ、自分で……」
「いいから、出せ」
父は、玄関から持ってきた私の安物のリクルートパンプスを、新聞紙の上に置いた。そして、節くれだった大きな手で、丁寧にクリームを塗り込み始めた。
父の手は、工務店の仕事でいつもどこかが汚れている。爪の間には落ちない土が詰まり、指先はタコだらけで硬い。そんな武骨な手が、私の冴えない靴を、まるで宝物でも扱うかのように慈しんで磨いている。鼻をつく、独特な油の匂い。その静かな作業の音だけが、部屋に響く。
「……靴を磨いておけ。足元がだらしない奴は、信用されん」
父は顔を上げず、独り言のように続けた。
「お前は、昔から言葉が下手だった。……何を考えているのか、親の俺でも分からんことがあった。でも、準備だけは裏切らん。しっかり磨かれた靴を履いていけば、そこにお前の『本気』が宿る。……シンデレラだって、最後に王子様に見つかったのは、綺麗な靴を履いていたからだろう」
「お父さん……」
「……片方はお前がやれ。納得するまで磨け」
「うん」
父の、あまりにも不器用で、けれど深い愛情。
私を煌びやかなお城へ送り出す魔法使いは、キラキラした杖を持ったお婆さんではなく、泥にまみれた手で靴を磨く、この頑固な父親だった。
私はその夜、父から教わった通りに、何度も、何度も靴を磨いた。自分の冴えない顔が映り込むくらいまで。この靴を履く時だけは、私は「コミュ障陰キャ女な自分」を脱ぎ捨てて、戦うための鎧を纏えるような気がした。
◇
面接当日。都内某所の高層ビル。
首が痛くなるほど高いビルを見上げ、私は自分の矮小さを思い知らされていた。
エレベーターを降りると、そこには『Fmすたーらいぶ』という洗練されたロゴが輝いていた。
……ましろ姫がいる場所。そう思っただけで、肺が押し潰されそうになる。
受付を済ませ、廊下の椅子で待っている間、私は膝の上に置いた手を強く握りしめていた。周りの候補者たちは、皆一等星のようにキラキラして見えた。発声練習をする声さえ、私とは違う。彼女たちは魔法にかかる前からお姫様で、私一人が、ガラスの靴を借りただけの偽物のように思えた。
(やっぱり、私じゃダメだ。間違いだったんだ……)
逃げ出したくなる足を、父が磨いてくれた靴の重みが繋ぎ止める。
「鈴町彩芽さん。どうぞ、お入りください」
無慈悲にも名前が呼ばれる。案内された部屋の中央には、ゆったりとしたソファが置かれていた。
そこに座っていたのは、穏やかな笑顔を浮かべた女性。
「初めまして。Fmすたーらいぶの代表取締役社長、星乃よ。今日はよろしくお願いしますね」
「あ……は、はい。鈴町、彩芽……ですっ……。よろしく……お願い……いたします……!」
案の定、噛んだ。視線は泳ぎ、指先は小刻みに震えている。
経歴や特技を問われ、私は震える声でこれまでの失敗を話した。スーパーでの挫折、ファミレスをクビになったこと。そしてこれと言って特技はないけど、出来ることを話していく。
面接が進んでいくと、面接官の何人かが眉をひそめるのが分かった。現実で何もできない人間に、何ができるのか。その冷たい空気に、私はまた消えてしまいたくなった。
けれど、星乃社長だけは、私の震える顔ではなく、じっと私の足元を見つめていた。
「鈴町さん」
「はっ……はい……」
「それ。……綺麗な靴ね。まるでガラスの靴みたい。でも、魔法使いに与えられたものじゃないわ。何度も何度も、自分の手を汚して、時間を削って手に入れた……執念のような輝き。言葉はいくらでも嘘をつけるけれど、足元だけはその人の『今日までの歩み』を映し出すものよ。これだけ丁寧に磨かれた靴を履いている人が、中途半端な気持ちでここへ来たとは、私は思ってないわ。……自分で磨いたのかしら?」
「あ……はい。父に、教わりながら……。どんなに言葉が下手でも、準備だけは、しろって……」
星乃社長は、ふふ、と優しく微笑んだ。
「素敵な、お父様ね。……鈴町さん、話すのが苦手ならゆっくりで構わないわ。あなたの志望動機……『盾になりたい』という言葉、とても印象的だったわ。特定のライバー、姫宮ましろを守るために。あれは、本心かしら?」
社長の瞳が、私の心の奥底を覗き込むように鋭くなった。
喉が詰まり、一瞬、呼吸を忘れる。私は、覚悟を決めた。もう、嘘を吐いて取り繕うことはできない。
「ましろ姫は……私の光、なんです。彼女が笑っている世界だけは、絶対に壊したくないんです。現実の私は、何もできなくて……家族を心配させてばかりの、コミュ障陰キャおつな女です。でも……っ」
溢れ出した言葉は、もう止まらなかった。
「ましろ姫を見ている時だけ、私は、生きていていいと思える。彼女が、お清楚なお姫様として輝き続けられるように。リスナーが、箱を汚すようなことがないように。私が……私が風紀を守る盾になりたいんです! 有名になりたいわけじゃありません。ましろ姫が、……誰よりも、幸せに配信できるように、動ける場所が、欲しいんです!」
支離滅裂な、重いオタクの独白。面接官たちは困惑していたが、星乃社長だけは、私をまっすぐに見つめ、最後の問いを投げかけてきた。
「……そう。鈴町さん。あなたにとって、『一等星』は何かしら?」
「……分かりません」
私は正直に答えた。
「私、明日どうなるかも、分からないから。一等星なんて、そんな遠いもの……見えません。でも……暗闇に一筋だけ、光が見えるんです。私をここまで引っ張ってくれた、ピンク色の光。それが何星なのかなんて知りません。でも、私はその光の隣にいたいんです。たとえ私が星になれなくても、その光を支えるためなら、……何だって、一生懸命やるつもりです」
静寂。
終わった、と確信した。けれど、星乃社長は、満足そうに頷いた。
◇
一週間後。
自宅のポストに届いた一通の封筒を、私は廊下で抱きしめて泣き崩れた。
『採用通知書』。
駆け寄ってきた母が私を抱きしめ、父は無言で通知を奪い取った。
「……辞めるなよ。せっかく靴を磨いたんだ。一生懸命やってこい」
父の言葉に、鼻の奥がツンとした。磨き上げられた靴は、もう魔法がなくても輝いていた。
灰色の世界が、今、鮮やかなピンク色に塗り替えられていた。




