Ⅱ:強くて自由で素敵な女の子 ③
「ホント人使い荒いんだからあの若頭ァ」
ガタガタと揺れるオンボロタクシーに乗り込むや否や、うんざりしたような声色で運転手が言い放った。折角の客を放り出してかっ飛ばして来たっていうのに、到着するなり「5秒で来いっつったろ」と小突かれては、そう言いたくもなる。
「まあ、気持ちはわかるけど。女の子が出歩くには物騒だし、流石にちょっと広いしさあ」
わめきながらも車はするすると滑るように発進した。道も悪くて車もオンボロなのに、思ったほど揺れない。
痛んだ金髪といい、外耳を彩るピアスの量といい、一見するとチンピラのような運転手は、見た目の柄の悪さに反して丁寧な運転をするようだ。龍縁組、それも珠世川智近はお得意様なので、この程度の配慮は当然だともいえる。先ほども胸ポケットに特急料金をねじ込まれたばかり。文句を言いながらも口元が緩んでいる。
「お兄ちゃんに呼ばれたら何をしてても来るくせに」
「だって金払いがいいから……」
「じゃあ何に対しての言い訳なのよ」
「はした金で動く安い男だと思われたくないじゃん」
「動くでしょ」
「動くけどね」
助手席の緋世子と軽快に会話を重ねる運転手――楠原呉羽と、バックミラー越しに目があった。イタズラ好きの猫のような目が物珍しそうに紫陽花を眺めている。
「暑かったら窓開けてくださいねぇ」
「は、はい」
窓の方を見る。窓を開けるためのボタンがない。見た目どおりすごく古い車なのだ。代わりにハンドルがあった。回してみるとソリソリと古めかしい音を立てて汚れた窓が下がっていく。
「わ……」
窓を開けると奇妙な匂いがした。お酒と煙草と香水の交じりあった大人の匂いがする。紫陽花は何となく夜の街の匂いだと思った。青空の下、白昼堂々と栄える夜の街が近づいてくる。
「なんだか賑やかな場所に出ましたね」
タクシーから降りてきょろきょろと辺りを見渡す。「この辺で待ってるわ」と煙草をふかしに行った運転手を置いて、ぞろぞろと街道を進む。
南区は港に面した町だった。港周辺は外国の船着き場のような外観をしているが、中央に向かっていくとその様相は混沌としたものになってくる。
大きな竜の巻き付いた赤い柱の看板の先には、人通りの多い歓楽街があった。肌着のような服を来た長い爪の女が、猫なで声で客引きをしているかと思えば、中華まんの屋台の主人が威勢よく声を張っていたりする。イタリアの町並みと横浜の中華街と新宿の歌舞伎町を足して割ったような、奇妙な空間だった。
「なんというか、すごく……活気がありますね」
「そんなに言葉を選ばなくていいのよ?」
多言語が飛び交い、香水とタバコ、食べもの……それからよく分からない薬の匂いが充満する人混みを前に、紫陽花は表情の乏しい顔を珍しく不快そうに歪める。隣では林檎がまったく同じ表情をしていた。野生児らしいところのある彼女は、五感がとても鋭いのだ。いつ来てもこの臭いが苦手だった。
そんな2人を見て緋世子はクスクスと笑う。
「ここ南区は浅敷島最大の歓楽街。色んな国の人間が店を建てては失敗し、建てては失敗した結果、妙な感じの町並みになった……と言われている。飲食店と風俗とカジノが多いのが特徴。平たくいうと遊ぶところ。南は決まった代表がいないからか縄張り意識が殆んどなくて、他の区の組織も店を出してたりするのよ」
「代表、というのは?」
初めて聞く存在に、紫陽花は首を傾げる。
「5つの区には区を代表する顔役がいるの。区を代表して島の問題を解決したり、話し合ったり、区のルールを取り決めたり……区長って言えばわかりやすいかな。中央は中央女学院理事長の旁木山茶花、北区は麻薬カルテル『シャマール』のボス、マヌエル・サンチェス、東区は『龍縁組』若頭の珠世川智近……私の大好きな大好きなお兄ちゃんね……で、西区はコロコロ変わるんだけど、今は『ゆうとぴあ』のオーナー、仁和崎あぶくさんがやってるって聞いたな」
「人の名前が多くて混乱してきました……そもそも、この島にルールを守る人ってどれくらいいるんです?」
急に出てきた固有名詞に目を白黒させながら皮肉を言う紫陽花に、緋世子は「マ、そう思うよねえ」と笑う。
「そゆときは、これよ」
林檎が差し出したのは握り拳。
――なるほど、暴力。
納得したように頷いた。緋世子は「そこまで細かいルールもないしね。覚えられないから」と肩をすくめる。
「でも、そんな中で、南区だけは顔役がいない、と」
ぐるりと町並みを見渡した――その割には荒んでいない。疑問に思う。南区の人の表情は明るく、剣呑とした雰囲気はない。町並みは混沌としているが。心なしかゴミも少ない気がする。
「……それにしては、なんというか」
「明るい?」
「そう、それです」
「代表がいないっていうのは事実なんだけど、それに準ずる人はいるのね。誰もが認める〜ってやつが。……その人が平和主義で綺麗好きだからって理由で、この区の人は自主的に区を綺麗に保ち、出来るだけ揉め事を起こさずに暮らしてるってわけ。マ、浅敷島の基準だから日本人からすれば世紀末の掃き溜めも良いところだろうけど」
「凄い人なんですね……どんな方なんですか?」
「うーん、無責任顔だけ男?」
「狂人量産機」
「掃き溜めの鶴」
「枕詞は『傾国』」
「キャッチコピーは『美しすぎてごめん』」
「星がもう輝くなと囁いている」
「ギャル系月下美人」
「……顔がものすごく綺麗ということは伝わりました」
大喜利のようにとめどなく言葉を連ねる2人に「待った」をかける。つまり、思わず言うことを聞きたくなるほど美しい男の人、ということだろうか。
「ああ、そんで、ここの経営者でもある」
こん、と林檎が木製の扉を叩いて示した。
いつの間にか歓楽街の喧騒から離れた郊外に来ていた。海の見える小高い場所にある、こじんまりとした喫茶店。
「喫茶ネバーランド?」
寄せ木細工のようなデザインの看板を読み上げる横で、「薬師寺さーん! お届けものでーす!」と林檎が声を張りあげた。すると奥の方から男性の声が返ってくる。何やらばたばたと慌ただしい物音が聞こえた後、やっと開いた扉の隙間から窶れた表情の青年がそっと顔を覗かせた。
癖の目立つ茶髪を、目を隠すほどに伸ばしており、その下にある大きな目の下には隠しきれない濃い隈がある。色のないかさついた唇といい、骨ばった身体といい、いかにも不健康を体現したかのような見た目をしていた。しかし、その容貌にはどこか退廃的な美しさがある。窶れてわかりづらいが、よくよく見れば整った造形をしていた。
「この方がギャル系月下美人……?」
「えっ」
ぽそりと溢れた疑問に目の前の青年が驚いた声をあげる。林檎が「ちがうちがう」と笑いながら手を振った。
「この人は、喫茶ネバーランドの店主、薬師寺光来さん。昼は喫茶店だけど、夜の間はバーになんだよ。さっき言ってた人は、バーの方のマスター」
「なんだ如音のことか」
納得した、という顔で光来が頷く。
「たしかにうちの如音は花も恥じらう程に美しいからね」
嬉しそうに薄い唇で笑みを浮かべる光来を前に、紫陽花は一歩後ずさった。同性の同居人に対する言葉にしては、妙に熱のこもったものを感じたからだ。
「恋人同士なのよ」
見透かすような緋世子の言葉に「男性同士じゃないですか」と小声で返す。林檎が「なぁに言ってんだよ」とあきれたように声をあげた。
「人間なんて一皮剥けば同じクソ袋じゃないか。男とか女とか、そこまで重要なことかよ?」
「…………確かに、」
そうですね。表情を変えぬまま頷く。
紫陽花の母は父のことを心から愛していたようだったけれど、最期まで父には再会できなかった。男女でもうまくいかないカップルがいる中、想い合ったもの同士が共にいれるなら、それ以上のことはあるまい。
この島において、そんなことは些事なのだ。法律、倫理、そして宗教……すべてここでは無意味で無価値だ。先立つものは心である。他人の心を否定する権利は紫陽花には、いや、本当は誰にもないんだろう。それはきっとどこでも。
「大変失礼いたしました」
深々と頭を下げる少女に「ええ〜……すごくいい子」と光来は感激したように口許を押さえた。
この島において自分から頭を下げて謝るような人間はほとんどいない。頭を下げる時はだいたい他人からの強制である。膝と顎を砕かれてから行われる土下座という名の。すっかり浅敷島の価値観に染まりきっている光来の目に、彼女の仕草はとても新鮮に映った。
「そんなに気にしないで。荷物も配達ありがとうね。……本当ならお茶でもご馳走したいところなんだけど……」
ちらりと店の方を見てため息をつく。
「ちょっと厄介なお客さんが来ててね。片付けがまだ済んでないんだ」
「えー残念。ここの紅茶、楽しみにしてたのに」
「ごめんね。また皆で来てよ」
「……はあい」
不満げな声をあげる少女達を見送って光来は店内へと戻る。
「さーて、お片付けお片付けっと……」
受け取った荷物を仕舞いに行く光来の足下には、ほんの十数分前にチェーンソーでバラバラに分解したばかりの死体が転がっていた。