Ⅰ:2人の殺人鬼 ①
――5月18日、浅敷島・南区沖にて。
雲ひとつない晴天の下を、一隻のクルーザーが泳いでいた。そう大きなものではない。慎ましい真っ白な三角形は、波の少ない海面に白い2本の足跡を残しながら進んでいる。
デッキには1人の少女がいた。
襟から胸のリボンタイまで真っ黒の、喪服じみたセーラー服を着ている。腰まで真っ直ぐ伸ばした艶やかな黒髪を、ハーフアップスタイルにして青いリボンで纏めていた。
海風にさらされて顔にかかった髪の毛を払う。目元の涼やかな美人だった。だが表情は乏しく、どこか物憂げな眼差しを船の正面に送っている。
その視線の先で、小さな島が揺れていた。
「見える? あれが浅敷島よ」
操舵室から顔を覗かせた黒いスーツ姿の女が言った。黒髪をきっちりと纏めてバレッタで留めた装いは、いかにも社長秘書のような雰囲気で、赤い眼鏡フレームの奥にある面差しは、どことなく少女と似ていた。
セーラー服の少女――渡里紫陽花は、無表情のまま頷く。
――あそこが、浅敷島。
いつからあるのか、どうやってできたのか何も判っていないこの小さな浮島は、あろうことか日本海上をゆっくりと回遊しているのだという。
戦後まもなくして存在を認知されたこの島には、当時すでに近隣諸国からやって来た住人がいた。祖国に居られなくなった犯罪者たちという名の先住民である。
司法も国家権力も届かない、犯罪者たちの最後の楽園。扱いに困った近隣の国々は検討の末、島の存在自体をなかった事にした。
公には存在を認められていない島であるために、その正確な位置を知るのはよほどの情報通か、社会の裏側に精通した者達だけである。一般人はネットに流れている画質の荒い衛星写真と、都市伝説めいた噂話程度でしか島の存在を知ることができない。
「犯罪者の楽園だなんて大袈裟よぉ。実際はそんなに荒んだ場所じゃないのよ?」
黒スーツの女――菫は、ニコニコとしながら話し始める。見た目の割にお喋りらしい彼女は、紫陽花をクルーザーに乗せてからというもの、幾度もこうして話を振った。
「生活の基盤だってしっかりしてるし。島の真ん中には下水処理場や浄水場があるから、トイレやシャワーも問題なく使えるの。さすがに直接飲まない方がいいけど。お腹壊すから。ちなみに電力は風力発電と波力発電でね……個人で太陽光パネルを付けてる人もいたかな……あ、波力発電って知ってる? 波の力を利用した発電方法なんだけど、浅敷島で採用しているのは振動水柱型って言ってね、波の力で空気室の空気を押し出して隣の部屋のタービンを回すって仕組みになってるの。波力発電って太陽光発電の20~30倍の発電効率だって知ってた? ふふ、その分設置するのにコストがかかるんだけどね。特に浅敷島は回遊する浮島だから、島と一緒に移動するように設置するのが大変だった……ってお父様が言っていたわ」
「お父さんが?」
朗らかなマシンガントークを前に黙りこくっていた紫陽花が、弾かれるように顔を上げた。
「ええ、私たちのお父様はあの島の生活基盤を無償で作り上げ、立場の弱い女の子たちのために学ぶ場所と暮らすための家を提供してくれている……とってもすごい人なの」
「……そう、なんですか」
ずっと握りしめていた拳を開く。
そこにはくしゃくしゃになった1枚の紙片があった。海風に拐われないようにしっかりと端を摘まんで伸ばすと、それが名刺であることがわかる。
『旁木山茶花』
珍しい名字と、男か女か、どちらともとれる名前。裏には手書きで電話番号が記されている。
これは紫陽花の手元に残った唯一の母の遺品だった。母からはこれが父親の名前なのだと教わっていた。何か困ったことが起きたら彼を頼るように、と。正直半信半疑であった。実際に頼ってみるまでは。
「浅敷島は東西南北に居住区が分かれていてね」
ふと、菫の目が伏せられる。
「それぞれに幅を利かせてる犯罪組織があったりなかったりして、バチバチに睨み合ってる。司法も倫理も身を守ってはくれない自己責任が常の島。そんなところでか弱い女の子たちが生き残れると思う?」
その眼はどこか遠くを見ている。在りし日の自分自身だろうか。紫陽花にとって彼女は浅敷島の人間だが、もしかしたら彼女にも、本土で暮らしていた時代があったのかもしれない。
「お父様の作った中央区女学院はそんな女の子たちの駆け込み寺。浅敷島の中央に位置し、東西南北のどこの区からも許可なく入る事はできない。どこの組織にも支配されない乙女の花園よ。……紫陽花ちゃんもそこで暮らす事になるわ。お父様は自分の子どもをとても大事にしているの。何不自由なく暮らせるし……お義兄さんの事もどうにかしてくれるわ」
「……はい」
紫陽花の涼やかな視線が足元に落ちる。
そこには彼女の細腕には些か不釣り合いな、大きなスーツケースがごろりと寝かされている。見た目以上に重たい物が入っているようだ。揺れるクルーザーのデッキにあってもぴくりとも動かない。
紫陽花は日本で生まれ育ち、ごく普通の女子高生として生活するはずだった。それがどうしてこうなってしまったのか。あの時、自分はどうすべきだったのか、今の紫陽花には考えつかない。ただ確かなのは、
「……自業自得、なんでしょうね」
自嘲するような笑みを浮かべる。
これから行き着く先がどこであれ、もう本土へ帰ることはできないだろう。それだけの事をしでかしてしまった自覚だけは十分にあった。
これから顔も知らない父親に会いに行く。――殺した義兄の死体を携えて。
クルーザーが停められた港は、木製の桟橋がいくつも掛けられており、大小様々な船でごちゃごちゃと込み合っていた。白とオレンジのまばらな煉瓦道の向こうに、同じ色の建物が不規則に連なっているのが見える。人気はまばらで居たとしても襤褸を纏った猫背のものばかり。全体的に活気のない閑散とした雰囲気であるのに、建物の間に通された紐に洗濯物がはためいているのが、妙に生活感があって不思議だった。
「……外国の港みたい」
「見たことあるの?」
「いえ、ないですけど」
ぼんやりとした感想をもって頷いた紫陽花は、スーツの女――菫に促されて船を降りる。ガコガコと重たいスーツケースを角に引っかけながらもなんとか降り立つと、周囲から視線を向けられている事に気がついた。
――なんだろう? やっぱり外の人間は目立つのかな。
「すぐそこに車を停めてあるから……」
倉庫の影にある黒いベンツを指差した菫が、何かに気づいたように言葉を止める。
「紫陽花ちゃん、走るのは得意?」
「え? ひ、人並みには?」
目を白黒とさせる紫陽花の言葉を聞いて、
「それなら良かった」
にっこりと綺麗な笑みで頷いた。そうして紫陽花の手からスーツケースを取り上げると、
「走って!」
代わりにその手を握って駆け出した。
紫陽花では引き摺るのがやっとというスーツケースを担いでいても菫は涼しい顔をしている。それでいて健脚だ。紫陽花も運動は得意な方だったが、引き摺られるようにして走るのがやっとだった。
菫は真っ直ぐ車を目指していたが、ふと足を止めて、近くの路地に逃れる。彼女の肩越しに車の前に立ちふさがる男の姿が見えた。
「待てや女コラァ!」
「ひっ」
背中から聞こえてくる怒号に体をすくませた。バタバタと煉瓦道を蹴る足音は複数ある。何故かはわからないが、彼らは自分達を追っている事はわかった。捕まればロクな目に逢わないだろう、ということも。
「な、なんなんですか!?」
「ただの追い剥ぎよ」
「ただのって何!?」
混乱して叫ぶ紫陽花に、のんきな声で菫は答える。半分泣き出している少女とは対称的に、汗ひとつ滲まない涼しい顔で「表港では駄目って言ってるのに」などとぼやいている。追い剥ぎしていい港でもあるのだろうか。
「おっとっと」
「ふぎゃ」
菫が突然立ち止まった。勢い余ってその背中に頭からぶつかるが、不思議なことにその華奢な体はびくともしない。体幹が恐ろしく強いのだ。背中の筋肉が鋼鉄のように硬い。驚いていると、スーツケースごと真横の小路に押し込まれた。
「少し、先に行っててちょうだい」
「えっ」
冷たく正面を見据えたまま懐に手を入れる彼女を見て、紫陽花は挟み撃ちにされたのだと悟った。その白い手が、黒光りする小型の拳銃を取り出したのは慌てて見ないふりをして、巻き込まれないように小路を駆ける。背後から乾いた破裂音が聞こえてきて、どっと嫌な汗が噴き出てきた。
――嘘つき! 嘘つき!犯罪者の楽園なんて大袈裟とか! 日本なら上陸して三秒でチンピラに絡まれたりしないし、追い剥ぎしていい港なんてないし、街中で銃撃戦なんて起こらない!
とんでもない所に来てしまった……と、傍らのスーツケースを睨む。当たり前だが、無機質な彼からは謝罪も弁明も返ってこない。いっそ棄ててしまおうかと思うくらいには腹立たしかった。
「おい」
目の前に人影が躍り出てきて慌てて足を止める。
小路の終わりに痩せぎすの中年が立ち塞がっていた。武器は持っていないが、襤褸を纏って聳える姿は妖怪のようにも見えて恐ろしい。
「に、にににに、にもつ、お、おいてけよぅ」
しゃがれた舌ったらずな声が鼓膜をねぶる。ネズミを捕まえた猫のような意地の悪い笑みが、胸の奥が震え上がる程に不快だった。
「よ、よこせ」
じりじりと後退する少女に焦れた男が喚く。
その枯れた小枝のような指がスーツケースに伸びるのを見て、紫陽花は目の奥がカッと熱くなった。
「さわらないで!!」
叫びながらスーツケースを振り回した。まるで子どもの癇癪のような、稚拙な反撃。咄嗟に飛び退いた男に当たることはなく、ガコンと鈍い音をたてて壁にぶつかった。
ぐじゃ。
ぱかりと開いたプラスチックの口から、ゴロンとまろびでたそれに、男は思わず目を見開いた。
それは赤黒い汚れの目立つ白い布にくるまれていた。金髪の若い、頭が原型を留めぬ程につぶれているために判別が難しいが――恐らく若い男。
消臭剤では誤魔化しきれない酷い匂いに相応しい、あまりに醜悪なその中身。そしてそれを運んでいたのが、どこにでもいそうな、平凡な少女であったという事実。
背筋を冷やしたのは男の方だった。
目の前にいた少女が、哀れなネズミから得体の知れない化物に変容したような不安に襲われ言葉が出ない。
「見ましたね?」
ぞっとするほど冷たい声だ。視線を上げると黒いセーラー服の少女が、涙を堪えてこちらを見ている。
そう、少女の顔は、今にも泣き出しそうだった。
しかしながら、その目に浮かんでいるのは明確な殺意だ。絶望も怯えもなく、男の次の行動によっては躊躇なく殺しにかかるだろうと確信させるような目。この島では良く目にする類いの――そう、人殺しの目だ。彼女のぎらつく瞳と震える唇が称えているのは、煮えたぎるような怒りである。
「どうしてこうなるんでしょう。私はただ、平穏に、慎ましく、幸せに暮らしたいだけなのに」
ざり、と少女の革靴が音をたてる。男の喉奥がひゅう、と悲鳴をあげた。
「ひ、人殺し」
男はそう絞り出すので精一杯だった。怯えの滲んだ表情を隠しもせずに、わあわあと喚く。
「人殺し! 人殺し! ひとごろしぃぃあぇ」
パン、と破裂音がして男の額に穴が空いた。ずろりと膝から崩れ落ちる男を前に、紫陽花は小さく悲鳴をあげる。
「紫陽花ちゃん、無事?」
拳銃を構えてパタパタと駆けてくる菫に頷いて見せ、地面にまろびでた義兄の死体を手早くスーツケースに戻す。その動きは機械的で、何を思っているのかを推し量ることはできなかった。
「……私、人殺しなんですって」
憂いを帯びた切れ長の瞳が、先ほどまで喚いていた男を見る。ぽかんと口を開いて虚空を凝視するそれは、怯えたままの表情で固まっていた。
「こんな島の、こんな人達すら、人殺しは忌避すべきものだって思ってるんですね」
ふふ、と紫陽花は力なく笑う。肩を抱くその生白い手は、小刻みに震えている。何かに耐えるように戦慄く唇は凍えたように青い。
「そりゃそうよぉ」
菫はあっけらかんと頷いた。
「生き物って共食いを本能的に嫌悪するようにできてるもの。人を殺してなんとも思わない人間は、どこかおかしな所がある欠陥品。排斥されて当然。死ねばいいとまでは言わないけどね。少なくとも群れに居ていい存在じゃないわ」
からりと言いきった人殺しは、右手に拳銃を持ったまま死体の入ったスーツケースを担いで歩きだした。黒いヒールが血だまりに浸かってべちゃりと音をたてる。スタンプみたいに小路の先まで続く赤い足跡を、紫陽花は重たい足を引きずって追いかけた。
「だから皆、ここに集まるのよ。貴女も、私も……お父様もね」
小路の終わりには黒いベンツが停められていた。こんなごみ溜めのような路地には不釣り合いな、傷ひとつないピカピカの高級車。車の前に控えた初老の運転手が、恭しく一礼した。
「改めまして浅敷島へようこそ、紫陽花ちゃん」
後部座席のドアを開けた菫が小さく微笑む。
何度も見たはずの笑顔なのに、まるで悪魔のような笑みだと思った。