第38話 当たり前じゃない日常
そうして件の事件(?)から数週間がたち、一月も下旬に入った。
「ただいま」
「おかえりー」
扉を開けて帰りを告げると、タオルを首に巻いた奏が玄関まで出てくる。
ご飯机に置いてあるよ、と言われた言葉にお礼をいいながら、俺は家へと足を踏み入れた。
「お風呂入った?」
「うん。寒いからあったまらせてもらいました」
「そりゃよかった。風邪ひくなよ」
コートを玄関に吊り下げながら奏に声をかけると、軽い相槌が返される。
そのまま手を洗ってダイニングテーブルに向かうと、そこに置いてあるおかずはまだ温かく、温める必要はなさそうだと手を合わせた。
「いただきます」
「はーい」
家事はもともと俺と奏で分担していたけれど、最近は俺の仕事が遅いのもあって任せきりな気がする。
明日は休日だし朝は俺が準備しよう、と思いながら、俺はリビングでくつろいでいる奏に声をかけた。
「奏。明日の朝ごはん何がいい?」
「フレンチトーストでしょう」
「また面倒なものを」
卵あったけ、と眉をしかめた俺に構わず、彼女はリビングでテレビの音声をBGMに雑誌を広げている。
そしてそれが結婚に関する雑誌だと気づいたとき、俺は思わず口を開いた。
「奏」
「んー?」
「あ、いや...........なんにもない」
「何よそれ」
本当にいいのか、と。
そんなことを聞きそうになって思いとどまった俺に、彼女はおかしそうにけらけら笑う。
まだ不思議そうにしつつもはにかんだ奏の顔を見ながら、俺は拳を握りしめる。
(当たり前なんて、思ってはいけない)
これは奏が待っていたからこそ————そして俺を受け入れてくれたからこそ起こっている奇跡であって、決してあって当たり前の日常なんかじゃない。
本当にいいのかなんてそんな俺が聞いていい質問なんかじゃないのだって、わかっている。
(...........わかっている、はずなのに)
ふと箸を握っている手が震えているのに気づき、苦笑いをしようとして失敗する。
そんな自分にすら嫌気がさしながらも、俺は食べ終わった食器を片付けた。
「ごちそうさま、美味しかった。明日はフレンチトーストな」
「やったー」
果たして俺はいつも通り笑えているだろうか、と考えながら、リビングにいる奏の隣に座る。
お風呂入ってきなよー、と言った奏に頷きながら、俺は彼女の顔をじっと見つめた。
『早く、してあげてください』
以前、恋敵に言われた言葉が、言われたあの日からずっと...........ずっと、頭の隅にある。
俺はいつだって踏み出す勇気がなくて、そうやって十二年前も失敗した。
だから今度こそは、ちゃんと彼女に、
『私も、大嫌いよ』
(違う)
それは、ずっとずっと昔の話で。
本当に大嫌いなのなら今こうやって何もないように話してくれないはずだし、結婚すらしてくれないだろう。
そう頭ではわかっているけれど、けれどまた、違う考えが脳を支配する。
――――本当に?
本当に彼女は俺のことが嫌いではないのかと。
今までの彼女は全て偽物で、実際は俺のことが今も嫌いで、憎んでいるのではないかと。
(大丈夫。...........大丈夫)
隣にいる奏を見て、小さく息を吐く。
そんなことをしてメリットはないはずだし、今までの行動からして彼女に嫌われてはいないはずだ。..........好かれているとも、限らないけれど。
――――だけど、でも。
「奏」
「ん」
「今、幸せか?」
俺の問いは本当に唐突で、奏は一瞬きょとんとして目を丸くする。
そして次の瞬間、彼女は花が咲くようにふわりと笑った。
「うん、すごく」
「...........そっか」
彼女には、彼女の大切な人がたくさんいる。彼女を、大切にしてくれる人がいる。
そして、―—――彼女を、幸せにしてくれる人も。
俺はかつて、彼女が幸せになるまでそばにいると彼女に言った。
「早く」しなければいけない。もう、終わらせなければいけないのだ。
十八年間追いかけて、そして十二年間待たせた大切な人とのもう一つの約束を、ようやく終わりにする時が来たのだから。




