【第一章】男子と女子 サッカーとフットサル⑦
「はい、これ奢り」
比呂美さんから缶の甘酒を手渡される。手のひらに伝わる温かさを持て余しながら、わたしはお礼を言った。
「あ、ありがとうございます……。あと、着替えも」
「いえいえ。ずぶ濡れだと気持ち悪いでしょ。あーあ、それにしても本格的に降っちゃったなあ。個サルも随分とキャンセル入ってるみたいだし、きっと今日は店じまいだね」
「個サル?」
「個人フットサル。参加者で即席チームを作ってゲームするの。結構、人気なんだよ」
比呂美さんは甘酒をちびちびと啜りながら、ガラス張りのドア越しに、深緑に染まる人工芝を眺めていた。
わたしが連れてこられたのは、バイト先のフットサルコートだった。比呂美さんから店長さんに事情を説明して女子更衣室のシャワーを貸してもらい、さらにトレーニングウェアまで借りて、今はクラブハウスの一角にある休憩スペースのベンチに座って、雨が止むのを待っている。
「あ、美味しい」
「でしょ? 甘酒ってね、飲む点滴って言われてるし、体を温めるのには最っ高なんだ」
ご満悦な様子の比呂美さんは、ステップを踏むように歩み寄り、わたしの隣に腰を下ろした。
「ちんちんにされた? 男子に」
サッカー用語でコテンパン。体がびくりと反応してしまった。
「やっぱり。更衣室でちょっと見ちゃったんだよね。足なんてがっつり削られてたみたいだし」
ほんの一時間前の光景が頭に浮かんだ。「女となんて、サッカーはやらない」と言った久斗の顔を思い出すと、目元が勝手に潤み出す。そして、自ら下した判断のおぞましさに身が強張った。
わたしは初めて、サッカーに背を向けてしまった。サッカーが嫌いになりそうだった。わたしの選んだ馬鹿な行動のせいで、四人でまたサッカーをする機会を潰してしまった。なによりも、逃げることしかできなかった自分が、心から嫌いになりそう。
「相手は、背の高い仏頂面の子のほうかな?」
「ど、どうして分かるんですか!」
わたしが比呂美さんを食い入るように見つめると、ちょっとだけ困ったような、寂しそうな笑みを見せた。
「わたしにも、似たような経験があるんだー」
そう言って、比呂美さんは思いに浸りながら外を見つめ、話し始めた。
「わたしね、一個下に弟がいるの。弟もサッカーやっていて、小学生の頃から同じクラブチームでポジションも一緒。弟とはずっとライバルだった。けど、わたしの連戦連勝で、弟はいつもわたしの控えだった。でもね、わたしが中二のとき、弟も同じカテゴリに上がってきて、初めてポジションを奪われた。わたしは悔しくて弟に勝負を挑んだんだけど、どんどん勝てなくなってさ。いつだってお姉ちゃんのわたしが勝てるんだって思ってたから、すごくショックで……」
雨に濡れる人工芝の上に、昔の比呂美さんの姿が見えたような気がした。ピッチの上に何度も倒され、それでも立ち上がり、だけどどうしようもない壁に追い詰められ、最後には心まで折られて、膝を突いて泣いている。
「結局、クラブチームも辞めちゃって、中学ではそれから一度もボールを蹴ることはなかったんだ」
「……意外です。比呂美さん、そんな風には見えなかったから」
「んー、まあ、サッカーやってればいろいろあるよ。これも人生だよね。『THIS IS LIFE』。ピクシー……、ストイコビッチもよく言ってたよね」
わたしはこれまで、目の前にあった問題を、がむしゃらに走ることで忘れようとしていた。久斗や恭平がいるから、大丈夫だと思っていた。だけど、現実は違っていた。どう頑張っても、越えられない壁は、越えられない。
「今日、部のキャプテンから、マネージャーになって欲しいって言われました。男子サッカーにこれ以上、ついていけないからって。それで、わたし、結果で答えるって言い返して……」
思い出すだけで辛くなる。
「そっか、わたしたち女子フットボーラーにとって、中学校は鬼門だよね。男子と同じことができなくなる。置いていかれる。追いつけない。そう思っちゃう。上達したい、まだできるって気持ちは、男子に負けないくらいあるのにさ。それなのに、女子サッカー部はまだまだ少ないんだもの」
比呂美さんの言葉は、今のわたしには痛いほど身に染みて伝わってくる。心と体のバランスがちぐはぐで、思ったとおりに動かない体への苛立ちと焦りが募っていく。だけど、目の前にでどんどん広がっていく実力の差を、簡単に受け入れることができなかった。
「『才能なんて、その後の生き方次第で変わってしまう』」
「えっ?」
「才能ってそういうものなんだって。あ、これもピクシーの言葉ね。わたし、ロナウジーニョとかメッシとか、テクニカルな選手は大好きだけど、生き方だったらピクシーが一番好きかも」
比呂美さんは、往年の名選手の言葉を引用して、わたしを励まそうとしてくれている。それも今のわたしには、とても響く言葉を選んでくれていた。今はなきユーゴスラビア(現在のセルビア)出身のストイコビッチは、日本代表監督にもなったイビツァ・オシムとともに一九九〇年イタリアW杯でチームをベスト8に導いた英雄だ。しかし、バルカンの火薬庫と揶揄された母国の内戦に翻弄され、度重なる怪我やクラブチームの八百長事件も翻弄され、それでもサッカーを諦めず、日本で輝きを取り戻した本当に妖精のように華麗な選手だった。
そんな選手だからこそ残せた言葉が胸に染みる。それまでぐちゃぐちゃだった心に、ささやかな火を灯してくれた。
「あの、わたし知りたいんです。どうやってこの気持ちと向き合えばいいかを」
比呂美さんは「よっ」と勢いをつけて立ち上がると、くるっと反転してわたしを見た。
「さて、問題です。サッカーをサッカー足らしめる、唯一普遍のルールはなんでしょう?」
「えっ? ええと。手を使っちゃいけないこと?」
「うん、正解。ボールがあって手を使わなければ、それだけでサッカーになる。特別な道具なんてなくてもいい。人種や国籍も関係ないし、性別や年齢だって関係ない。サッカーはやろうと思えば、どこでだって誰とだってできる。もう一度、言うよ。サッカーができる場所は、どこにでもあるんだよ」
比呂美さんは屈託なく言う。
「だったら、自分の一番輝ける場所で蹴ろうよ」
「輝ける、場所?」
「フットボーラーにとって一番の幸せは、自分が最高だと思える舞台で、最高の瞬間を迎えることなんだって、わたしは思うんだ。そして、わたしにとってそれは、ソンリエンテを日本一にすること。わたしはね、知夏も一緒にその瞬間を感じて欲しいって思ってる」
「わたしが、ソンリエンテでフットサルを?」
「知夏は、サッカーよりフットサルのほうが向いてると思う。初めて一緒にプレイしたとき、ピンときたの。ねえ、知夏。一緒にソンリエンテを日本一にしようよ!」
比呂美さんは突拍子のないことばかりするから驚いてばかりだ。こんなわたしを誘ってくれることが、素直に嬉しくもあった。けれど、心の奥にある痼りが、嬉しいって感情を乱れさせてくる。
手を使わない点では、サッカーとフットサルはよく似たスポーツだ。だけど、ソンリエンテのフットサルは競技として組み立てられたフットサルで、そこには競技フットサル独自の戦術があり、サッカー動きとは、根本的に質が違う。
それに、サッカーからフットサルに転向することの意味が、わたしにはよく分からなかった。日本にプロアマ混合のFリーグができたとはいえ、それは男子の話だ。
それに日本におけるフットサルは、サッカーと比べればマイナーなスポーツにすぎず、しかも女子フットサルとなれば、知っている人のほうが少ない。そんなプロもないマイナースポーツへ転向することが、今のわたしには、また逃げているような気がした。男子に屈し、さらにサッカーに屈したというレッテルは貼られるくらいなら、なでしこリーグのある女子サッカーへ転向するほうが、まだ自分を納得させられそうだった。
「わたしは……。逃げちゃったんですよ。また逃げるみたいなこと……」
「知夏はね、今、岐路に立ってるんだ。どうしようもない現実に向き合おうとしているの。それは逃げじゃない。挑戦だよ。逃げてるって苦しんじゃダメ。飛び立つ勇気がちょっと足りないだけって思うの。だって、選手が最高に輝ける舞台を求めて移籍するのは、当たり前のことじゃない?」
「でも、わたしは、久斗たちと……」
自分だけ違う道を選ぶことが、真っ暗闇に飛び込むようで怖くてたまらなかった。それにわたしはまだ、久斗や恭平、そして太一と一緒に、小学校の頃のような楽しい時間を過ごしたいって思っている。かけがえのない友達を失ったばかりで、離ればなれになるなんて考えられない。そのためなら、選手でいられなくてもいいとさえ思う。
もう、充分すぎるくらい頑張ったんだ。マネージャーになるのだっていいじゃない。そう思ったとき、比呂美さんはわたしの手を取った。
「わたしは、知夏の上達したい、まだできるって気持ち、消したくないよ!」
黒い瞳の中で、真摯な気持ちが流れ星みたいに力強く揺れていて、「まだ飛べるよ」と訴えかけてくる。真剣な眼差しに、また心が乱される。眠らせてしまいたい気持ちが、愚図り出す。
「わ、わたしは……」
比呂美さんから目を反らせない。星に願いを託したくなってしまう。胸の奥で大切な気持ちが「わたしを出せ」と叫んでる。「ピッチに出せ」と叫んでる。我慢しようとしても、押し止めることなんてできやしなかった。鼻の奥がツンと痛くなって、言葉とともに、溢れるように涙が零れた。
「まだ……、まだうまぐっ、なりだいっ、です」
「うん、知ってた」とはにかんだ比呂美さんは、わたしを優しく抱きしめてくれた。
「大丈夫。上手くなれるよ。知夏は上手くなれる」
甘酒のほのかな香りがした。