【第一章】男子と女子 サッカーとフットサル⑥
放課後になると、雲はさらにどんよりと垂れ下がり、暗雲立ち込める天候になった。心の代弁をありがとう。だけど、こんな雲を作った大自然に、不正解だと言ってやりたい気分だ。
「ふんだ。こんな雲なんか、一掃してやるんだから。そして、試合終了後は、快晴だ!」
紅白戦を前にして、わたしは入念にストレッチをおこなっていた。契約を切られ、トライアウトに挑むプロサッカー選手になった気分だった。残された最後のチャンスにすべてを懸ける。しかし、チャレンジに失敗した瞬間、プロであることを剥奪されるのだ。
まさに天国と地獄。
キャプテンからわたしの置かれた状況について説明を受けているせいで、みんな気を遣っているのか、近づいてこない。いや、後ろめたいだけだろう。彼らはわたしに手心を加えていて、チームのお荷物と思っているのだから。
それでも、性懲りもなく近づいてきたのは、恭平だった。
「なあ、知夏」
「裏切り者め。こっちくんな」
「いや、紅白戦、同じチームだろ」
紅白戦は、恭平と井ノ原キャプテンと同じチームとなった。田岡先生が無作為に選んだ人選だが、悪くない。いつもフルパワーの森安先輩が相手だし、ディフェンダーには久斗がいる。同じ一年生で、レギュラーに最も近い久斗から点を奪えば、効果的なアピールになるはずだ。それに楽しみでもあった。久斗とのガチンコ勝負は幾度となくやってきたけど、今日の久斗とは本気でやりたくてたまらない。わたしに負けて、悔しがる顔を見てやりたい。
「全員、集合!」
わたしは、紅白戦のチームメンバーを呼びつけた。二年生もいるけど、気にする必要なんてない。
「この試合、わたしにボールを集めるのよ。いい?」
「お前、キャプテンを差し置いて仕切ってんじゃねえって」
「シャラップ! 恭平も、守ってよね」
「まあ、僕は構わないよ。この試合は、阿澄がキャプテンだ」
「というわけで、今日はわたしの天王山。勝って、久斗にわたしの靴を舐めさせてやるぞ!」
わたしが拳を振り上げると、周囲から、ちらほらと「お、おお?」と声が上がる。
選手がグラウンドに散らばり、審判を買って出た田岡先生の笛で、試合が開始される。
浜西中の基本フォーメーションは、4ー4ー2で、わたしは右の攻撃的MFに入った。左サイドは恭平だ。本来ならFWに入りたいところだけど、監督の指示だから、今は我慢するしかない。
浜西中サッカー部は、ディフェンダー出身の田岡先生が積み上げてきたノウハウにより構築された堅守速攻型のチームだ。選手は球際の強さを求められることが多く、紅白戦でもウノゼロ(一対〇)の試合が少なくない。そして、前線には足の速さや背の高さといった、身体能力の際立つ選手がよく起用される。わたしとの戦術的相性は、あまり良いとはいえない。
それでも、今、求められているのは結果だ。サッカー部にとって、他に替えのきかない武器であることを、前後半合わせた六十分の間に、わたし自身の力で証明しなければならない。
だから、今日はなんとしても点が欲しい。
しかし、中々、わたしにボールが回ってこない。試合が開始して、一〇分が経っているのにも関わらずだ。その原因は分かっている。久斗だ。センターバックであるはずの久斗が、高い位置までわたしのマークについて、離れないのだ。久斗のいるべき最終ラインには森安先輩が入っている。それが監督の指示なのか分からないけど、久斗のマークはネチネチとしつこく、このままではアピールなんて、できやしない。
「恭平ぃ! パァス! よこせ!」
とにかくチャンスが欲しかったわたしは、ボールを持っていた恭平を怒鳴りつけた。
「おま、マークついてるだろ! それ、剥がせって」
「だって、邪魔! 面倒くさい!」
「いちいち相手にすんなって。体格じゃ負けるんだから、俺と連携して崩せばいい。サイドに開け!」
文句を言われながら、右サイドの高い位置にポジショニングする。しばらくの間、逆サイドでボールが回されていたが、そこから、恭平のロングパスが横断してきた。
「流石、いいパスね」
キレイな放物線を描くボールを胸トラップし、足に納めた瞬間、横から太い足が、ぬっと出た。
「うわっ、もう来たっ」
ボールは久斗の足にがっちりと捕まり、前につんのめってしまった。そのままボールを奪われ、相手のボールになる。ボールを奪取しておいて平然と去っていく背中が腹立たしくなって、わたしは声を荒げた。
「あんた、センターバックでしょ!」
「森安先輩がポジション下げてくれている。お前の相手は俺がする」
「上等よ。泣かすから!」
「やってみろよ」
それから十分後、再び、チャンスがやってきた。わたしたちのカウンターアタックだ。相手のサイドバックが上がったスペースに走り込むと、そこに再び、恭平から精度の高いパスが通る。わたしのトラップも申し分ない。
このままゴール前に持ち込めると思いきや、道をふさいだのはまたしても久斗だった。すぐに判断を切り替え、重心移動とシザースで揺さぶり、縦に突破を図る。しかし、久斗は事もなげについてきて、強引にわたしとボールの間に割り込もうとする。そのプレッシャーたるや凄まじく、咄嗟に相手を背中でブロックし、ボールをキープするしかなかった。
「うっ」
しかし、体をぶつけたわたしのほうが、バランスを保つことができないでいた。体の重さが段違い。まるで重戦車だ。加えてガリガリと足を削られ、頭にカッと血が上った。
「ふざけんな、ちょっとは手加……」
わたしを「弱点」と言った久斗の顔が浮かび、うっかり出かかった言葉を飲み込む。そして、この後味の悪さを力一杯、奥歯で磨り潰した。ぬるま湯に馴染んでいた自分に、苛立ちもした。このプレッシャーは第一関門だ。自力で突破しないと意味がない。
体を当ててキープした状態から、タイミングを見計らってボールを足裏で転がして、久斗の股を抜く。
どうだ! と心の中で叫んだ。これで一勝一敗。わたしだって負けてない。ほら、やっぱり手加減なしでも対等に戦えるじゃない。分厚い灰色雲に覆われたグラウンドに、一筋の光が差した。そんな幻が見えた。気づけば目の前に、久斗の大きな背中が割り込んでいた。
「んぐっ!」
強い圧力で体が押しつけられる。反動で顎が上がり、仰け反るように尻餅をつかされた。
ボールを蹴り上げる久斗の背中が大きく、まるで別人に見えた。中学生になってさらに伸びた身長は一七〇センチを越えて、体の強さや当たりの激しさも、森安先輩に匹敵するくらいになっていた。久斗が、わたしの知っている以上に、屈強なディフェンダーに成長していたことを、今さらになって思い知る。
遠ざかる久斗の背中を見上げていると、鼻先で水滴が撥ねた。土のグラウンドに、水玉模様をいくつも作りだしていく。とうとう、雨が降ってきた。
雨はしとしと降り続け、時間は刻々と過ぎていった。互いに点の入らないまま前半が終わり、後半も試合は動くことなく終盤に差しかかる。その間、わたしは久斗と再三に渡ってマッチアップし、練習着は泥水を吸って、ぐしゃぐしゃになっていった。
体中が痛いよ。ふくらはぎの張り詰め具合も限界に近い。息を整えることすら、体力を使う。体力自慢が馬鹿を言うなと笑うと、肺が空回りして、ヒューと喉が鳴った。それでも、ピッチの上にいられる限りは走り続け、結果を残すしかなかった。
しかし、残された時間はあとわずかだ。それなのに、まだ一度も勝てていない。一年前は互角だったはずの久斗に、たったの一度も。目頭に熱いものが込み上げてくる。
自陣キーパーからの放り込まれたゴールキックのこぼれ球を拾う。久斗とのマッチアップは、何度目だっけ。もう、数えるのも馬鹿らしくなってきた。だけど、これがラストチャンスかもしれない。
「知夏、こっち戻せ! 意地になるな!」
恭平が叫んでいるのが聞こえる。だけど、なにを言っているのか、意味が分からない。
わたしは背は高くないし、体も強くない。天性の閃きもなければ、強烈なシュートだって打てやしない。そんなフットボーラーだ。それでも、ドリブルだけは自分の武器だと信じている。それを証明しなければいけない。久斗に勝たないといけない。そうしないと、サッカー部どころか、久斗や恭平、太一のそばにもいられないような気がした。
大きく息を吐き、久斗に向かってドリブルを開始する。シザーズはもう、牽制にもならない。これまで見せたことのないプレーで意表を突かなければ、今の久斗は抜けない。そう考えたとき、黒髪のポニーテールが、頭の片隅でなびいた。
重心をぐっと低く落とす。右足を大きく伸ばしながら、アウトサイドでボールを蹴った。右サイドを抜くと、全力で思わせるんだ。久斗の視線がボールを追って、重心がわずかに移動した。その瞬間を逃さない。右足のインサイドで急激に切り返し、ボールを左へ押し返した。
「ちっ、エラシコかよ!」
完全に久斗の逆を取った。実戦で一度も試したことのない技だったけど、比呂美さんの動きが焼きついていたおかげだ。今度、お礼をしにバイト先まで行ってみよう。もう一度、フットサルをやるのも悪くない。
とにかく、久斗の左スペースは見事なほど、がら空きになった。抜ける。そう確信しながら右足を着地させ、踏み込む。足の裏が、ズルリと滑った。
「あっ」
ぬかるんだ地面になすがまま、足を持っていかれてしまう。下半身に力を込めて右足を引き戻そうとするけれど、とうとう、右ふくらはぎの筋肉が痙攣を起こしてしまった。
「イダっ!」わたしは崩れるように膝をついて、痛みに耐えながらボールの行方を見ることしかできない。所有者のいないボールは水滴を跳ねながら転がり、久斗は難なくそれを自分のものにした。
笛が鳴った。田岡先生が試合をストップさせ、近づいてきた。
「阿澄。どうした?」
「大丈夫です。ちょっと攣っただけで」
「頃合いか。阿澄、ベンチに下がれ。交代だ」
呆気ない終わりに、開いた口が塞がらない。血の気も引いて、立ち上がる気力も起こらなかった。むしろそのほうがいい。交代なんてしたくない。
一向に立ち上がろうとしないわたしの元へ、乱暴に近づいて来る足音があった。恭平はわたしの正面にしゃがむと、攣った足を持って伸ばしてくれた。
「イタタ。あ、ありがと」
「知夏、お前、なにしてんだよ! どうして俺を頼らなかった!」
思いも寄らぬ怒声に驚いて顔を上げると、苦しそうに顔を歪める久斗の顔があった。
「自分でどうにかしようなんて、もう無理だって気づけよ!」
「なっ! 最後、抜けたでしょ! そしたら、足が滑って……」
人を下に見た物言いに思わず反発するけど、雨が降ったせいなんて、言い訳もいいところだ。
「俺はさ。この試合、知夏のために、頑張ろうって思っていたんだよ。知夏の『また四人で』って約束、俺も守りたくてさ。だけど、知夏は俺のこと、途中から全然見てくれなくなった」
「そんなことない。恭平からのパス、待ってたよ。ちゃんと見てた」
「嘘つけ! ずっと久斗ばかり見ていただろ!」
「そりゃあ、久斗がしつこくマークするから!」
「だから相手にするなって言ったよな? 連携して崩そうって言ったよな? 俺たちずっとそうやってきたよな? 俺なら知夏のどんな動き出しにだって合わせてやれるのに、今日は全然違った。知夏とやるサッカー、楽しくないって感じた。こんなの初めてだよ」
「違う……、わたし、そんなつもりじゃ……」
言葉が続かない。昔から背が低く華奢だったわたしと恭平は、体格の大きな選手が相手のときは、互いに協力しあって崩してきた。もちろん、それは今も忘れていない。
わたしは、また四人で楽しくサッカーがしたかった。そのために、わたしの力がチームに必要だって証明したかっただけ。なのに、どうして。
「久斗。お前も変だよ。わざわざ、知夏のマークにつくなんて。知夏とこれからも一緒にプレーしたくないのかよ?」
「俺に手を抜けって言ってるのか?」
「違う。知夏がマネージャーになって、公式戦出られなくてもいいのかってことだよ!」
「そうなるかは知夏次第だろ。だけど、もしそうなるなら、最後の相手は俺がいいと思った」
「勝手に引導渡してんじゃねえ! ふざけんな!」
恭平が久斗の胸倉を掴んだ。一触即発のふたりを井ノ原先輩と森安先輩が引き剥がす。「落ち着くんだ! 試合中だぞ!」と井ノ原先輩の声が飛ぶ。わたしはそんな状況の中、胸の中を引っ掻き回すもやもやが、大きくなっているのを感じていた。もう、我慢できない。
わたしは攣った足を引きずり立ち上がる。そして、久斗の元まで歩み寄ると、思い切り頭で久斗の胸をど突いた。
「いてえな。ジダンかよ。お前は」
二○○六年のFIFAワールドカップ決勝戦で、フランス代表のジネディーヌ・ジダンがイタリア代表のマルコ・マテラッツィを頭突きし、退場になった事件は有名だ。あのとき、ジダンは怒りにまかせて暴力を振るった。だけど、わたしのは嫉妬が引き金になった。男の子として生まれ、運動神経にも体格にも恵まれた久斗が、妬ましかったのだ。
しかし、久斗は頭突きを受けても微動だにしなかった。わたしは久斗に頭をぶつけたまま、その場に立ち尽くしていた。
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……」
顔が上げられない。わたしは、抑えきれなくなった涙をポロポロと零していた。小学生の頃は試合に負けたって、「次は勝つ!」と言い聞かせて悔し涙を我慢することができた。泣き顔なんて見せたことなかった。だけど、今のわたしには、その次はない。
悔しくて、悔しくて、悔しくて、たまらない。どうして自分は女の子なんだろう。どうして、サッカーの才能に恵まれなかったんだろう。どうして、どうして。
泣いていることを悟らせまいと、嗚咽だけは咽の奥で堪えることができた。
「泣くなよ」
「泣い、て、ない」
久斗の胸が大きく膨らみ、溜め息を吐いた。
「別にマネージャーでもいいだろ? それでも、四人でまたサッカーができる。お前の約束は、とりあえず叶えられる」
「いやだ……」
「もう、お前の力じゃどうしようもないところまで来てるんだ」
「いやだ!」
「小学生じゃないんだ。分かれよ!」
「やだ! 久斗にはわたしの気持ちなんて分かるわけない。才能のあるやつに、男に生まれた久斗なんかに! 分かるもんか! お前となんか……、お前となんか、もう一緒にプレーしたくない! 消えてしまえ! バカ!」
自分の口から放たれた言葉に驚き、顔を上げた途端、久斗の軽蔑するような視線が突き刺さる。
「そんなことを思っていたのか。俺のこと、そんな風に見ていたのか……」
「いや、違うの……」
目の前が揺らぎ、久斗の顔が沈んでいく。頬に、涙が伝い落ちた。
「そうだな。俺も、女とサッカーなんて、もうやりたくない」
拒絶の言葉は、切れ味鋭いナイフのように胸に突き立てられた。これまで築き上げたものが吹き出し、ナイフを伝って消えていく。
家族のように固い絆だと信じていた。それを今、わたしが壊したのだ。
友達を失った。気が狂いそうなほどの恐怖に駆られたわたしは、気づけば、練習着のまま学校を飛び出していた。
「はっ! はあっ! んぐっ、はあっ!」
走っているのに、前に進んでいる気がまるでしない。目の前が霞むのは、きっと本格的に降り出してきた雨のせいだ。
「はっ! んぐっ、痛っ!」
大きな道路を越えたところで、伸ばしたはずのふくらはぎに激痛が走る。どうやら、無理矢理に動かしたせいで再び痙攣し始めたようだ。攣った足を庇いながら道端に寄ると、その場にしゃがみ込んだ。
あの瞬間、わたしは大切な人を深く傷つけた。絶対に言ってはいけないことを言ってしまった。決定的な溝を作ってしまった。
道行く人が不審そうにわたしを見ては去っていく。
もう、部活には戻れない。もう、あの三人の元には戻れない。なにも考えたくなかった。けど、もうどうでもよくなった。わたしは、頭の重さにも負けて俯いた。世界が雨音だけになっていく。
「あの、大丈夫?」
傘で雨が遮られた。若い女性の心配そうな声に、わずかに顔を上げる。上下にウインドブレーカーを着て、買い物袋を下げている。
「えっ、知夏? なにしてんの、ずぶ濡れじゃん!」
顔を上げると比呂美さんのわたしを気遣う顔が見えた。
「どうしたの? なにがあったの?」
「比呂美さん……、ふ、うぐっ!」
比呂美さんにしがみつくと、わたしは声を大にして、泣きじゃくっていた。