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【第一章】男子と女子 サッカーとフットサル⑤

 菓子パンをかじりながら、わたしは「ふああ」と溜め息を吐いた。今なら、校舎の窓から覗く低く垂れ込めた雲だって、吐き出せそう。

「どしたの知夏?」

 お弁当をついばみながら問いかけた眼鏡の女の子は、クラスメイトの井上凛子(いのうえりんこ)だ。出席番号がお隣同士な凛子とは席もお隣同士で、中学になって最初にできた友達だった。お昼は互いの机をくっつけて、彼女とお弁当を食べるのが日課になっていた。

「うう、白米が食べたいよ。力が出ない」

「それが溜め息するほどの悩み? そういや、今日もお弁当じゃないよね。お母さん、まだ怒ってるんだ?」

「酷くない? ご飯を人質して、菓子パンと牛乳を渡してくるんだよ?」

「すごい効果的だと思う。現に夜にトレーニングはしてないんでしょ?」

「あと三日で釈放だって。そしたら、許してお弁当作ってくれるって」

「まるで罪人だね。コンビニでおにぎりとか買えばいいのに」

「レシートは全部出せって言われた。お小遣いの差額調べられたら、逃げ場がない……」

「なるほど、釈迦の手の上ってわけだ」

 比呂美さんたちとフットサルをしたあの日、再三の注意を無視されて激怒した母は、夜のトレーニング禁止を言い渡してきた。当然、わたしは突っぱねたのだけど、そこで母が持ち出したのが、ほかほかご飯が大好物なわたしへのお米抜き攻撃だった。家から白米を一掃(太一の家で美味しく食べられている)してパン食にして、昼のお弁当も菓子パンを渡す徹底ぶり。

 おかげでわたしの士気はめっきり下がり、毎夜、枕を濡らして、白米の夢を見る日々だ。米の夢と書いて、マイムマイム悪夢と呼んでいる。

 そんな悪夢を思い出してげんなりしているところに、恭平が近づいてきた。パックのオレンジジュースにストローを刺しながら、わたしたちの机の真ん中辺りにしゃがみ込んだ。

「ヤッホー、凛子ちゃん。知夏、どんな具合?」

「一週間、米抜きにした知夏がこちらです」

「うん、いい感じに萎びてるなあ」

「うー、人を料理番組の工程みたいに言わないでよ」

 ああ、お米が食べたい。自主練習もしたい。どちらもできないから、フラストレーションばかりが溜まっていく。

「まあ、ようやく大人しくなって、よかったよ」

「なによ。練習手伝ってくれるって言ってたじゃない」

「そうは言ったけどさ。やっぱり、知夏は練習しすぎ。そこまでやらなくたって、お前ならレギュラーになれる。また、俺らと同じピッチに立てるって」

 恭平はオレンジジュースを吸いながら、「気楽に構えろ」と言う。恭平らしいアドバイスだし、言いたいことはもちろん理解できる。けれど、恭平は気づいていない。太陽に照らされて、ぐんぐん伸びる草花の中に、成長の止まった雑草がいることに。栄養さえも周囲に奪われ、日に日に弱くなり、二度と肩を並べることなく、枯れていく。そんな嫌なイメージが、わたしの心を引っかき回すんだ。

「やっぱりこのままじゃダメだ。恭平、お願い。お母さんを説得するの手伝って」

「なんだよ、そんなに米が食いたいのか? ちょっとくらいなら、金、貸してやろうか?」

「わたしも不憫に思えてきた。おにぎり作ってくるよ」

「そうじゃなくて、トレーニングのほう」

「無茶言うなよ……。お前の母ちゃん、マジ怖いもん」

「お願い! 説得できたら、なんでも言うこと聞くから」

 わたしは神頼みのごとく手を合わせた。昔から恭平は味方になってくれることが多く、現に今も迷っているように見えた。ここはごり押しするしかない。しかしそこに「恭平!」と声がかかった。わたしは眉間に皺を寄せて、小さく舌打ちする。文句ばかり多くて、一番手伝ってくれないやつが現れたからだ。恭平はホッとした顔をして、わたしとの会話を「また今度」の一言で打ち切ると、久斗のいる廊下へと行ってしまった。

「くそお。あと一歩だったのに」

「いやいや、男子になんでも言うこと聞くなんて、言っちゃダメでしょ。あの七見くんだよ。絶対にえっちいことしてくるって」

「んー、いや、それはないよ。わたしたち、兄弟みたいなものだから」

「そうかなあ」

「それに、意外とあいつは紳士だよ。それより久斗だよ。あいつ、なにしに来たんだろ? 普段、全然こっちに来ないのに」

 訝りながら廊下を見ると、久斗の後ろに井ノ原先輩と森安先輩がいるのが見えた。

「キャプテンと森安先輩が、久斗と一緒? あ、どっか行った」

 三人が、恭平を連れて教室の前から消えていく。四人ともサッカー部なのだから、わたしにだって声がかかってもおかしくないのに、恭平だけ呼び出されたのは、なぜだろう。

「怪しい……」

 わたしは残りの菓子パンを牛乳で流し込むと、彼らのあとをつけることにした。

 一年生のクラスがある一階からひとつ上がり、やって来たのは職員室の隣にある生徒指導室だった。井ノ原先輩がノックをして扉を開けると、四人はその中に入っていく。

「生徒指導室? って、まさか……」

 生徒指導室に呼び出しなんて相場が決まっている。生徒の成績か進路、もしくは素行に問題があったときだ。そこにサッカー部の部員が入るとなると、わたしだって無関係ではいられない。しかも、久斗と恭平が呼び出されたのだから、二人が関わっている。トラブルに巻き込まれた素振りなんて、微塵も見せていなかったのに。

「隠し事はしないって言ってたじゃない……」

 二人が、わたしに内緒でなにをしでかしたのか、分からない。隠し事をしていたことにも、腹が立つ。けれど、仮に二人が退部なんてことになったらと思うと、不安でたまらない。

 わたしは扉をほんの少しだけ開けて、中を覗く。

 細長い部屋の真ん中に長机があり、そこに久斗と恭平、対面に森安先輩と井ノ原先輩が腰を下ろしていた。そして、一番奥の椅子に座っているのは、我らがサッカー部の監督だった。

「田岡先生」

 三十年前は実業団でプレーしていた田岡先生は、この間のおじさんフットサラーより高齢なのに、お腹が出っ張ることもなく、背筋が伸びている。

 睨んだとおり、サッカー部に関わる問題で間違いない。普段からそれほど笑う先生ではないけれど、部活動を指導しているときより皺が刻まれ、厳しい顔をしているようだった。

「井ノ原、進めてくれ」

 田岡先生は、キャプテンの名を口にする。それを合図に井ノ原先輩が話し始めた。

「昼休み中に集まってもらってすまないね。実は、サッカー部の今後について、意見を聞かせてもらいたいと思っているんだ」

「サッカー部の今後ですか? なんで、一年の俺たちに?」

 恭平が首を傾げていると、久斗が淡々と口を開いた。

「知夏……、阿澄のことですね」

「えっ?」という声が、わたしの口元まで出かかった。

「知夏? 久斗、どゆこと?」

 わたしも恭平と同じく、どういうこと? と問いただしたい気持ちでいっぱいだった。

「お前ら、阿澄とは幼なじみなんだよな?」

 森安先輩の問いに二人は頷く。まるで刑事ドラマの敏腕刑事ような凄みがある。

「阿澄のこと、どう思っている?」

「ど、どうって……」恭平が戸惑うと、森安先輩の眼光はさらに鋭くなった。

「別に男女の仲を聞いてるわけじゃねえんだ。部員として、どうだって話だよ」

「あー……、上手くやってると思いますよ。まあ、初の女子部員ですから、最初は色々トラブルもありましたけど。でも、がむしゃらで前向きなのが取り柄ですから、先輩だって認めてるんじゃないですか?」

「ふん。あいつは俺に対しても平然と歯向かってくるからな。ああいう負けず嫌いなところは、嫌いじゃない」

 森安先輩は、腕を組んで椅子に深く腰掛けた。なにか言いたげに口を開くが、すぐに閉じてしまう。

「でも、選手としては物足りない」

「おい、久斗!」

 恭平が声を荒げて、久斗のほうを向いた。恭平の本気の怒りがわたしにも伝わってくる。わたしだって怒るべきだ。なのに、手が微かに震えていた。この話は聞いてはいけない。今すぐ、この場を去らなくてはいけない。だけど、足が貼りついたように動かなかった。みるみる渇く咽に、粘っこい唾液をごくりと流し込んで、ただ、話を聞くことしかできなかった。

「もう気づいているんだろ? 知夏が、男子サッカーのレベルついていけないってこと」

「そんなことない! 紅白戦でゴールやアシストだって決めて、結果は出してるだろ?」

「それは、俺たちが手加減しているからだ。うちじゃ、あいつに本気で当たる部員は、数えるくらいだからな」

「そ、それは……。そうだけどよ」

「俺たちは、少なからずあいつに手心を加えている。だけど、公式戦になったらそうはいかない。相手は全力で潰しにくる。あいつは、うちの弱点になってしまうんだよ」

「弱点……」久斗の言葉が耳の中で鳴り響いていた。視界が狭まり、細長い生徒指導室が、さらに細く伸びていく。手の震えも酷く、寒気までしてきた。気が遠くなりそうなのに、聞こえる声はいつまでもクリアで、気持ちが悪い。

「だ、だからって。こんな話をしてどうするんだよ? 知夏に伝えるのか? ショックは受けるだろうけど、あいつ、今以上にもっと頑張るに決まってるって」

「だな。あいつは挫けない。もっと、努力する。だけど、体は悲鳴を上げる。そして、いつか壊れる。あいつは今でさえ部活後に練習をしてるんだ」

「お、おい、それ、知夏から口止め……」

「大丈夫。それは僕も知ってるよ。剛も、先生もだ」

「キャプテンも知ってるって……、まさか」

「俺が話した。阿澄の選手生命をここで終わりにしたくないから」

 そこでようやく田岡先生が口を開いた。

「彼女は努力の塊だが、いかんせん女の子だ。他校の監督とも意見交換したが、やはり学年が上がるにつれ、男子のレベルでやるのは難しくなるらしい」先生は続ける。「ここ数年、我々の全国への扉は堅く閉まっている。二年生からは、全国に返り咲くために、これまで以上に厳しい練習を希望する声が高まっている。わたしとしても全国へ導くのが義務だと思っている。みんなの期待に応えたい。だが、その前に、阿澄のことはちゃんと考えねばならん」

 先生の言葉に、全員が黙った。その中で、精一杯の勇気を振り絞って恭平が口を開く。

「そ、それって、サッカー部を辞めさせるってことですか?」

「そうではない」と田岡先生は首を振る。「彼女に合ったやり方を見つけなければならないということだ」

「キャプテンの立場からも同意見です。阿澄が女の子で、男子サッカーに適応できていないからといって、部を辞めさせるのは、違うと思うんです」

「じゃあ、どうするんですか?」

 恭平の問いに、井ノ原先輩は答えを用意していた。

「阿澄には、選手兼マネージャーになってもらおうと思っている。これまでどおり、基礎練習やミニゲームには参加してもらうけど、本番を想定した紅白戦、それに公式戦ではマネージャーに徹してもらうというのが、僕の考えだ。それなら、激しい当たりを回避できるし怪我の心配も最小限になる」

 わたしの体は、血の一滴すら流れ出してしまったのだろうか。息が氷の粒子を吐き出すかのように冷たく、生きている心地がしなかった。

 わたしがマネージャーになる。練習には参加できるけど、試合には出られない。

 それはつまり、「選手としてのわたしは、終わる」ということにならないだろうか。

「な、なんすかそれ……。そんなの知夏が可哀想だって。知夏は、俺と久斗と、あと太一の四人で同じピッチに立つのが夢なんですよ! 公式戦に出られないなら、意味ないじゃないですか!」

 恭平が立ち上がって、机を叩いた。それに釣られ、森安先輩も立ち上がって恭平を睨みつける。

「選手経験のある阿澄なら、俺たちのサポート役には適任だ」

「でも、森安先輩だって知夏を認めてくれていたじゃないっすか!」

「あいつの人となりは認めているさ。ここが弱小サッカー部なら、それでもいい。でもな、ここは浜西中男子サッカー部だ。ここは、俺たちがガキの頃から憧れた、上を目指すための場所だ。阿澄のためだけに、諦めきれるようなものじゃない」

「で、でも。久斗ぉ、お前はこれでいいのかよ?」

「俺は……」と久斗は言葉を探す。「俺も上に行きたい。俺の夢はプロだから。ここで結果を残して、高校サッカーの名門校へ進学する。そのためにここに入った」

 わたしは扉の傍にへたり込んだまま、部屋の中の一点を見つめていた。でも、なにを見ているのか判然としない。そのせいか、生徒指導室の扉が、ガラガラと音を立てて開いたのにも気づけなかった。

「阿澄……。聞いていたのか……」

 井ノ原先輩の気まずさの混じった声が降ってくる。

「先輩……、嘘、ですよね?」

 今起きた出来事が夢だと思いたかった。顔を上げれば、これまでと変わらないみんながいて、「冗談だ」と笑ってくれるような気がしていた。

「すまないけど、もう昼休みが終わる。放課後にゆっくりと話をしよう」

 井ノ原先輩は笑ってくれたが、否定してはくれなかった。田岡先生、森安先輩とともに部屋を出て行く。ぞろぞろと去っていく中で、恭平と久斗が立ち止まっていた。

「知夏……、あのな」

「わたしは、弱点、なの?」

「あ……、いや……」

 恭平は視線を彷徨わせた。おしゃべり好きな恭平が言葉選びで迷っている。わたしを傷つけないように気を配っている。けど、その隣にいるやつはお構いなしだった。

「そうだな」

「っ!」

 全身の産毛が逆立って、その上を電気が走っているかのようだった。それでも、遠慮のない久斗の言葉には、清々しさすら感じてしまうから不思議だった。わたしはそれでようやく、先ほどの密談が、事実であることを受け止められた気がした。

「ははっ、そっか……」

 乾いた笑いが、漏れた。わたしが男子に負けないよう、サッカー部の一員になれるよう努力していたことは、どうやら、とても滑稽なものだったらしい。端から戦力に見られていなかったなんて、思いもしなかった。

「マネージャーね、そっか、うん」

 世界を制したなでしこジャパンだって、男子高校生との練習試合でボロボロに負けることがある。女子サッカーの最高峰ですらそうなのだから、わたしが男子相手に歯が立たないと思われているなんて、当たり前のことなのだ。

 そんなにもチームのお荷物なら、井ノ原先輩がマネージャーにしようとするのも頷ける。わたしの実力は、なでしこジャパンには遠く及ばない。これからだって、きっとそうだ。久斗たちには追いつけない。だから、所詮、こんなものだと割り切れば、マネージャーになるのも悪くない……。

「って、そんなの認めるわけ、ねえだろうが!」

 昼休み終わりの廊下を行き交う生徒や教師、その全員を振り向かせるほどの声が出た。

 わたしはその場で立ち上がった。足が震えていた。油断すると、またへたり込みそうだった。

 思い切り太ももを叩いた。「これは武者震いだ」と自分に言い聞かせ、また声を張り上げる。

「選手の未来は、会議室で決めるもんじゃないです!」

 空っぽになった肺に空気を送り込む。拳を握り、言い放った。

「ピッチの上で決めてください!」

 田岡先生はしばらく目を丸くしていたが、「そのとおりだな」と言った。

「今日の部活の最後に紅白戦を組む。阿澄。結果を残してみせろ」

「はいっ!」掴んだチャンスに心が震えていた。これが本当の武者震いだ。

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