【第一章】男子と女子 サッカーとフットサル④
トレーニングウェアの上からビブスを着ると、わたしはコートへ足を踏み入れた。ソンリエンテの他のメンバーにも、比呂美さんからビブスを受け取って着用している。その輪の中に混ざり、わたしはお辞儀をした。
「よ、よろしくお願いします。阿澄知夏です」
「急に悪いな。あたし、内山静香。よろしく」
ちょっと怖そうな金髪のお姉さんが、にっと笑った。見た目よりも、ずっといい人っぽい。
「えへへ、わたしは、水野美樹。よろしくねー」
ヘアゴムの子の声は、可愛らしくおっとりしている。それなのに試合中はきびきび動いていたので、ちょっと意外な感じだ。
「ほらほら。そんな緊張しないでいいから、気楽にやりなさい。おっと、あたしは大沢和美ね」
自己紹介を終えた肝っ玉母さんのゴレイロは、「それと、あっちは、星緑子さん。緑ちゃん」とコートの脇で足首をアイシングしている緑子さんを指差した。すると、緑子さんは手を合わせて、「ごめん、少しの間、よろしくね」と微笑んで言った。
「んじゃ、自己紹介も終わったところで、ポジションだけど」
「比呂美。あたしが緑んとこ入るよ」
「そだね。静香さんが下がって……」と比呂美さんは言い、わたしを見た。「知夏は、ピヴォをお願い」
「ピヴォって、トップですか?」
「そう。で、一個だけお願いだけど、なるべくゴールのファー寄りにポジショニングして欲しいんだ。できる?」
「それくらいなら。大丈夫です。フットサルはあまり経験ないけど、頑張ります!」
審判から「試合を再開します」と声がかかる。PKを蹴るのは、比呂美さんだ。ゴール正面からおよそ五メートルにある白い点、ペナルティマークにボールを置いた。ちなみにゴールから十メートルのところにもペナルティマークがあって、累積ファールによる第二PKが行われる。
わたしがペナルティエリアに沿って位置取りしていると、審判から「ペナルティマークより前へ出ないように」と注意されてしまった。サッカーと違いフットサルのペナルティーエリアは楕円を半分に切ったような形をしているので、意識していないとマークより前へ出てしまう。ちょっと分かりにくい。
笛が鳴る。第二ペナルティマーク近くまで下がった比呂美さんは、口元をペロリと舐め、助走をつける。そして、右のインステップキックで豪快にボールを蹴った。
金属音がコートに響き渡る。ボールが、クロスバーに当たった音だった。跳ね返ってきたボールは、わたしの前に転がってきて、巡ってきたチャンスに思わず息を呑んでしまった。
しかし、一瞬の迷いが命取りだった。
大きな影がわたしの前に立つ。のっぽのフィクソがその長い足を伸ばして、素早くボールを奪ったのだ。放課後のデジャビュに捕らわれ、一瞬、頭の中が真っ白になる。
「戻れ! 戻れ!」
静香さんの指示が飛ぶ。一転して、チャンスがピンチへと変わっていた。
ズンド・コスタのカウンターだ。のっぽのフィクソは、あらかじめ走り出していた小太りなアラへ向け、浮き球のパスを送る。ソンリエンテは、わたし、比呂美さん、美樹さんの三人が相手のペナルティーエリア付近にいたから、自陣には静香さんがいるだけだ。浮き球のパスを胸でトラップした小太りなアラは、静香さんを背中でブロックすると、走り込んできた坊主頭にパスを送る。坊主頭はダイレクトで強烈なシュートを放った。
それは、ゴレイロの和美さんの手をすり抜け、ゴールネットに突き刺さってしまう。
笛が鳴る。ズンド・コスタのゴールが決まり、一対一の同点になった。
「うわあ、やっちゃったぁ!」
比呂美さんが頭を抱えながら、半べそになって自陣へ戻ってきた。そこに血管が浮き出さんばかりの形相になった静香さんが、チョップを食らわせる。
「この、すっとこどっこい!」
「痛い、痛い。なにするんですか! PKを外すことができるのは、蹴る勇気を持った者だけなんですよ」
「お前はバッジョか! だったら、もっと盛大に外せ!」
「静香さん、すっとこどっこいは、古いよー。とても、二十三歳とは思えないよー」
「え、マジ? いや、問題はそこじゃねえって!」静香さんは頬を赤らめながらも怒っている。
わたしが入ってすぐの失点。最悪の展開だった。試合に気持ちが入っていなかった。その結果がこれだ。ボールへの詰めが甘くなり、のっぽのフィクソに対するチェックも怠って、あのカウンターを招いてしまった。わたしのところで防げた失点だった。
「フットボーラーたるもの、一度ピッチに送り込まれたのなら、結果を残さないまま終われない」
わたしは、両手で頬をぴしゃんと叩く。
「お、知夏。やる気満々じゃん」
「ちったあ見習え」と静香さんは。再び、比呂美さんにチョップをする。
「まだ同点だよー。あと、二、三分は残ってるから、追加点、いけるって」
「美樹の言うとおりだね。あんたら、点取っておいで!」
和美さんが発破をかけながら、ボールを投げる。それを受け取ったわたしは、センターサークルにボールを置いた。隣に、比呂美さんがやってくる。
「追加点、取るよ」
「はいっ」
笛が鳴って、試合が再開される。わたしがピヴォの位置へポジショニングすると、背の低いフィクソがマークについてきた。比呂美さんらがエイトの動きを開始する。わたしは指示どおり、彼女らの動きに合わせて、ボールから遠ざかるように、ファーへポジションを移動する。
それにしても、ズンド・コスタはサイドからの縦パスを警戒しているのは明らかで、フィクソのポジションが外側に寄っていた。とくに、再三チャンスを作り出してきた比呂美さんの動きに過敏になり、時々、わたしへのマークが甘くなる。わたしが急造メンバーで、連携に難があることを理解しているから、離しても大丈夫と思っているのだろうか。
それなら、
「こっちっ!」
指示とは違うけれど、積極的に動くべきだと思った。わたしはポジションを下げて、ボールを受けに戻る。フィクソの位置にいた静香さんは目を丸くした。けれど、すぐに口元を綻ばす。
「よっしゃ。前向けるぞ!」
静香さんがわたしに向け、縦パスをくれた。それを体を反転させながらトラップする。足にボールが触れた瞬間、サッカーボールとは異なる感触に、心の中で「わっ」と驚いてしまった。なんだか、旅行先でいつもと違う枕で眠るときみたい。でも、反発力の低い感触のおかげでトラップしても弾みにくく、ボールが扱いやすかった。理想的な位置にボールが収まって、急に上手くなったような気分になってしまう。
前を向く。背の低いフィクソが、マークするためにポジションを上げてきていた。のっぽのフィクソは比呂美さんを警戒して、右側に寄っている。
「知夏!」右アラの比呂美さんがボールを呼ぶ。のっぽのフィクソの警戒がさらに高まった。
「残念、こっち」
縦に走り込む左アラの美樹さんを捉えていたわたしは、そこにスルーパスを送る。美樹さんは足裏でトラップすると、間髪入れずにグラウンダーのシュートを放った。しかし、そのシュートは枠を大きく外れて、ゴール右側のラインへと逸れていく。精度が悪い。ミスキックだと思った。
「うりゃ!」
ファーサイドに逃げていくボールに、走り込んできた比呂美さんがスライディング気味に右足を伸ばした。スピードのあるボールにも関わらず、比呂美さんは確実に足の甲にミートさせた。美樹さんのシュートは、比呂美さんによってコースを変えられ、ゴールネットの右上隅に突き刺さっていた。
笛が鳴る。ゴールが認められ、それと同時に、試合終了の笛も鳴らされた。
結果は二対一。ソンリエンテの勝利だ。女子チームがサッカー経験者のいる男子チームに勝ってしまった。嬉しかったけど、足を引っ張らなかったことに、ホッと息が漏れた。
「美樹っち。ナイスアシスト」
「比呂美も、よく追いついたねー」
中央に整列しながら、二人はハイタッチを交わす。まるで狙ったのだと言わんばかりの口ぶりに、尋ねずにはいられなかった。
「あれ、パスだったんですか?」
「そーだよ。セグンドパウ、ファー詰めともいうんだ」
「本当は、知夏に詰めてもらうつもりだったんだけど」
「あ、ごめんなさい。勝手に動いちゃって」
すると、左隣にいた静香さんが、わたしの頭をぐしゃぐしゃ撫でた。
「いいんだよ。知夏のやったピヴォ当てだってフットサルの常套手段だ。おかげで美樹が走り込むスペースが生まれたんだ。いい判断だったって」
「そうだね。ゴールに絡むいい動きだったよ」と和美さんも笑っていた。
ゴールやアシストのような目に見える成果はなかったけど、わたしはソンリエンテの勝利に貢献できたみたいだ。みんなから向けられる感謝と笑顔がむず痒く、嬉しさを隠したくて頬を掻いた。
コートを出ると、先に外に出ていた緑子さんが駆け寄ってきて、わたしの手を取った。
「知夏ちゃんだっけ? 本当に助かったわ。ありがとう」
「ふわ、そ、そんなことないです」
お団子頭の緑子さんは、落ち着いた物腰から、ふわりと女性らしさが漂ってくる人だった。大和撫子という言葉がしっくりきて、和服が似合いそう。それに、とてもいい匂いがしてどぎまぎしてしまうから、比呂美さんが「緑子さん、足は大丈夫なの?」と会話に混ざってくれなかったら、ドキドキで窒息しそうだった。
「ええ、ちょっと強く蹴られただけだったから。幸い捻ってもいないし、次の試合はいけるよ!」
「よかったぁ。リーグ戦に出られなくなったらって思ったら、ヒヤヒヤしたよ」
「リーグ戦? 今日の試合ってリーグ戦だったんですか?」
この大会はワンデー大会になっていたはずだったと、わたしはなんとなし問いかける。
すると、比呂美さんが施設のクラブハウスを指差した。
「ここ、わたしのバイト先でさ。今日の大会は、店長に誘われて参加しただけなんだ」
「いや、それだけじゃ分からないっしょ」と静香さんチョップが飛び出す。話の続きを緑子さんが引き取った。
「わたしたちはね。神奈川県の女子フットサル一部リーグに所属する、正式なクラブチームなのよ」
「女子のフットサルリーグ? そんなのがあるんですか?」
「そうよ。女子サッカーは、『なでしこ』だけじゃないの。フットサルにだって女子リーグがあるの。今は、上位カテゴリの関東女子リーグへの昇格を目指しているの」
「そして、関東リーグを制覇して、全国リーグに出る。Fリーグのなでしこ版。それがわたしたちの目標!」
比呂美さんは両手を大きく開いて、その目標の大きさを表現してくれた。未来を語るその瞳は、まるで星の瞬く夜空のよう。そして、流れ星がわたしにも降ってくる。
「そうだ。知夏も、うちでフットサルやってみない?」
「えっ! わたしが、フットサル?」
「知夏はすぐにチームにフィットしたでしょ。フットサルの才能があると思うんだ。足元がしっかりしているから、いいフットサラーになるよ!」
予期せぬ誘いに、目の前がチカチカする。誘ってもらえたことは正直に嬉しい。比呂美さんたちはとてもいい人だし、それにほんの数分だったけど、ソンリエンテのプレーを肌で感じて、競技としてのフットサルが面白いとも思った。
だけど、フットサルはやっぱりフットサル。わたしがやりたいサッカーとは違う。大切な約束のためにサッカーを続けているわたしには、フットサルは選べない。
久斗たちのほうを見る。どうやら恭平の携帯に電話がかかってきたらしく、対応している彼が珍しく、しどろもどろになっている。それを不安げに久斗と太一が見守っていた。
わたしにとって彼らとの日常は、何物にも代えがたい宝物だ。だからこそ、この三人と同じピッチに立つこと以外は、どうしても考えられなかった。
「ごめんなさい。わたし、その……、サッカー部だから」
わたしは小さく頭を下げると、比呂美さんは残念そうに笑う。
「そっか。でも、気が向いたらいつでも言って。わたし、練習のない日は、ここでバイトしてるからさ」
「は、はい」
「そうだ。残りの試合だけでも出てくれない? わたしたち五人だから、交代があると助かるし」
わたしが「ぜひ!」と口を開いたとき、携帯を持った恭平がやって来た。どうも顔色が悪い。
「おーい、知夏。おばさんから電話かかってきた。激おこ。飯抜き、だってよ」
「ぐ、その手できたか……」
恭平が泡食って対応していたのは、うちの母親からの捜索願いだったらしい。目的がトレーニングとはいえ、毎日、娘が夜遅く出歩いていれば心配するのも当然だ。すぐに帰るべきだけど、残り試合の約束もあるし、なによりわたし自身がプレーしたい。それに、緑子さんは軽症だったとはいえ、足を怪我している。交代メンバーはあるに越したことはないはすだ。
「わたしはもう大丈夫だから。ほら、お母さん、激おこなんでしょ?」
緑子さんにやんわりと諭されて、気持ちが家のほうに傾いていく。
「す、すいません。今日は楽しかったです。ありがとうございました!」
わたしは勢いよくお辞儀をした。
「三人とも家までダッシュ! お願い、一緒に謝って! ご飯抜きはいやあ!」