【第一章】男子と女子 サッカーとフットサル②
部活を終えて帰宅する。古めかしい公団住宅のドアは冷たく重い。
時刻は午後七時。さっさと夕食を終えると、トレーニングウェアに着替えて外に出た。毎度、お母さんの小言に悩まされるけど、今は気にしている場合じゃない。四階から階段を使って下り、街灯の下でウォーミングアップをしながら、部活動で酷使した体の疲れをほぐしていった。
じんわり体が温まってくると、部活での出来事が徐々に蘇ってきた。無用なトラップミスをして森安先輩に呆気なく競り負けたこと。ただの競り合いをお情けでファールにしてもらったこと。それをきっかけに意見を違える先輩たち。井ノ原先輩の温かくて無慈悲な笑顔。それらが断片的に頭の中を駆け巡っていく。
「まだまだだ。もっと頑張らないと」
久斗と恭平に比べ、わたしは出だしから躓いて、出遅れてしまった。二人とも自分の長所を最大限にアピールし、二年生たちに食らいついている。結局のところ、わたしの力不足が原因なんだ。たとえ女であろうと、自分にもっと力があれば、田岡先生や井ノ原先輩だって認めざるを得ないのだから。
それに、一ヶ月後には新人戦の地区予選が控えている。高いパフォーマンスを維持する久斗と恭平は、ベンチ入りする可能性が高い。なんとしてもユニフォームを勝ち取って、二人と一緒に試合に出たかった。
しかし、歴然としたフィジカルの差を埋めるには、部活動だけでは全然足りていない。そう考えたわたしは、自主練することを思いつき、毎夜、走り込みやステップワークのトレーニングを重ねている。フィジカルで敵わなくとも、小兵ならではのアジリティやクイックネスに磨きをかければ、当たりを最小限に留めることができるはずだ。
「くふっ、ジャイアントキリングだ。久斗、恭平。待ってろ」
「なにを待ってればいいんだ?」
油断していたせいで体が竦みあがり、思わず、「ひゃい!」と声が出た。一人きりだと思い込んでいた。不敵に緩ませていた頬は、恥ずかしさのあまり熱を帯びる。
硬直したままの体をゆっくり振り向かせると、そこには見知った顔が三つもあった。
「ひ、久斗? 恭平、太一まで。な、なんでここに?」
「お前こそ、なにしてんだ?」
「な、別にぃ。さ、散歩?」
「嘘つけ。自主練してんだろ? この前、おばさんから電話で相談されたんだ。勝手に外出して、くたくたになって帰ってくるってよ。止めても全然聞かないから、俺からも言ってくれって」
「僕も見たよ。知夏姉ちゃんがファミレスの前を走っていくの」
「授業中も時々、居眠りしているだろ? おかしいと思ったんだ」
夜のトレーニングについて母親と意見が合わず、冷戦状態だったけど、まさか久斗に連絡がいくとは思いもしなかった。それに太一と恭平からも目撃証言が飛び出し、状況証拠が的確すぎて、反論なんて微塵も涌いてこない。
「お前さ。練習のしすぎなんだよ。今日だって変なところでトラップミスしただろ。疲労が溜まって体がついていってない証拠だ。これ以上やったって、逆効果だ。少しは休め」
「やだ」
「やだって……、小学生かよ」
「半年前まで小学生だったんだから、誤差の範囲でしょ」
「中学生のプライドあっさり捨てんのな。だからぺちゃんこなんだよ」
「ぺちゃ……、いいもん! ぺちゃんこでも!」
「中学男子なんて単純だから、胸があれば、試合中も油断するぞ」
「その手があったか!」
スポーツするのに邪魔だと言い聞かせてきたナイスバディに、そんな使い道があったとは。
「久斗さんよ。夫婦漫才するために来たんじゃないだろ?」
恭平が脱線しつつある会話の流れを戻しにかかった。わたしも面白くなって、つい今の状況を楽しんでしまっていた。だけど、一言、言いたい。夫婦じゃない!
「夫婦じゃねえし。まあ、いい。自主トレはなしだ。さっさと帰って、歯を磨いて寝ろ」
「だから、やだって言ってるでしょ! こんな時間に寝る? 小学生じゃあるまいし」
「誤差の範囲なんだろ?」
「知らん!」
久斗は呆れ顔で頭を掻いた。わたしの母に頼まれたから、引き下がるわけにはいかないのだろう。もちろん、わたしだって諦める気はない。日に日に開いていく差を前にして、休んでいるなんてできっこない。責め立てるように襲う焦燥を鎮められるのは、唯一自分の努力だけなのだから。
ここは徹底抗戦の構えだと思っていたら、太一がおもむろに口を開いた。
「知夏姉ちゃんは、やっぱり凄いよね。真っ直ぐなところ、中学生になっても変わらないね」
「えっ?」
「でもね。悩んでいるなら、話してほしいんだ」
「そうだぜ、俺たちの仲じゃんよ。これまでもどんなことだって話してきただろ? 知夏の力になりたいんだ」
「太一。恭平……」
「そうだ、隠し事はなしだ。知夏、腹を割って話そうぜ」
「久斗」
中学生になって生活もがらりと変わって、わたしは随分と意固地になっていたのかもしれない。恭平とはクラスメイトだけど、別のクラスになった久斗とは部活でしか話す機会はないし、太一とはメールでやり取りするくらいになってしまった。互いの距離感が変わってしまって、昔と変わらない大切な友達がいることすら忘れてしまっていた。体中が火照ってくる。むずむずする。頬を引き締めていないと、にやけてしまいそうだ。
「そう、だね。隠し事はなしだ」
わたしは胸の内をすべて打ち明けることにした。小学生の頃から、中学サッカーについていけるか不安だったことや、中学校に入ってからの環境の変化、とくに部活動でフィジカルの差に押し潰されそうになっていることを、辿々しく言葉に紡ぐ。そんな言葉を、三人とも最後まで聞いてくれていた。
「凄い。知夏姉ちゃんも悩むことあるんだね!」
「太一ぃ。それ、馬鹿にしてる?」わたしは太一の柔らかなお腹を摘まんで伸ばす遊びをする。
「や、やめてよぉ」
「でもさ、そこまで気にすることなくね? 俺だって背は小さいほうだし、先輩たちに潰されることいっぱいあるぜ」
「恭平と知夏じゃプレースタイルが全然違うだろ。恭平はパサーだ。それにコーナーキックやフリーキックっていう強力な武器がある。対して知夏はドリブラー。ドリブルで仕掛けるほうがディフェンスと近いだけ、フィジカルが求められる」
「俺がフォローしてるのに、久斗はどうしてそういうことを言うかな?」
「事実を言ったまでだろ?」
「真実をすべて話すことが正しいとは限らないんだよ。とくに女の子にはな。そんなんじゃモテないぞ」
「うるせ。この前、フラれたんだろ? 説得力がない」
「ご心配なく。もう、別の子と付き合ってますんで」
「うわあ……、恭平、それで何人目?」
相変わらずの手の早さに、わたしは思わず感嘆してしまった。
「まだ二人目だって。あ、小学校時代を含めると四人目かな」
「女の敵め。やっぱり恭平の言うことは信用ならん」
「俺のことはいいだろー。知夏の話じゃん。で、男子のフィジカルに対抗するにはどうすればいいか、だったよな?」
度々脱線する会話を、恭平は再び、元のレールに戻す。すると、久斗がとんでもないことを言い出した。
「別に部活にこだわる必要はないだろ。なでしこジャパンのおかげで女子のいるクラブチームだって増えてきてるんだ。十五歳以下の女子チームに入ればフィジカルは対等になるから、お前のドリブルだって生きるだろ?」
「それはダメ! 絶対にダメ!」
「なんでだよ? これが一番手っ取り早いじゃねえか」
わたしは即座に反発していた。それだけは絶対に譲れない。わたしは、ただサッカーがしたいわけじゃない。また四人でサッカーがしたい。そのために男子サッカー部に入ったのだから、わたしが辞めてしまったら本滅転倒になる。
久斗は一年前に交わした約束を忘れている。そしてその約束が、わたしとってどれだけ大切なものなのか、分かっていないのだ。
「知夏姉ちゃん。もしかして、一年前の約束を守ろうとしているの?」
「た、太一! お、覚えてるの?」
「おい、太一。約束って?」
「久斗くんは、『ずっとこの四人でサッカーをしよう』って指切りしたの、覚えてない?」
「覚えてない」
「ああ、そんなことあったよな。放課後の校庭サッカーの帰りだっけ?」
久斗は平然と否定するけれど、恭平は状況も含めて思い出したようだ。そして勘のいい恭平は、わたしの本心まで嗅ぎ当ててきた。
「えっ? じゃあ、知夏がこんなに頑張ってるのって、俺たちとずっと一緒にいるためってこと?」
今が夜でよかったと心から思う。明るかったら耳まで赤くなっているのが見つかってしまう。心の中に思い留めていた言葉を、人の口から聞かされる。これほど恥ずかしいことがあるだろうか。
「そうなのか?」と久斗が言う。
「そ、そうだけど……。悪い?」
せめてもの抵抗として、口をとがらせ強がってみせる。すると、恭平は目を大きく見開いて、久斗の脇を小突いた。
「久斗。俺、今、初めて知夏が可愛いと思った」
「お前、頭大丈夫か?」
「二人とも大概ね!」
平然と失礼なことを言ってくるのは、きっと隠し事なしの弊害だ。
「まあ、でもしゃーないな。知夏の頑張る理由が俺たちなら、協力するしかないよな?」
「もちろん!」
太一が賛同し、恭平とともに久斗を見た。久斗は眉間に皺を寄せ、難しい顔をして二人の視線を受け流していたが、無言の圧力に押し出されるように、大きく息を吐いた。
「分かったよ。協力すればいいんだろ?」
「じゃあ、自主練を続けてもいいってことだよね!」
「ただし、俺らの監視付きな。知夏ひとりだと危険だし、それにガス欠するまでやりかねない」
恭平はわたしの自主練に付き合ってくれると言う。
「えっ? 本当?」
「言い出したら聞かないんだ。付き合うしかないっしょ」
太一も、「当然」と頷いている。久斗は、「くそ、面倒くさいことになっちまった」と頭を掻いていた。
四人でいると生まれる賑やかで和やかな空気。それを大切に吸い込む。やっぱり心地いいとわたしは思ってしまう。