【第一章】男子と女子 サッカーとフットサル①
「ぎゃ!」
目の前に大きな影が現れたかと思えば、全身の骨が軋むほどの強い衝撃に、息ができなくなった。頭の中まで揺さぶられて、意識が途切れ途切れになる。苦しい。まるで水の中にいるみたい。地面を踏む感覚がないもの。
まっすぐに立っていることすらできなくなって、視界が斜めに傾いていく。その視界で捉えたのは、山のように大きい背中と坊主頭だった。久斗よりも一回りは大きなその人は、二年生ボランチの森安剛先輩だ。足元には、わたしがキープするはずだったサッカーボールがある。
「あたしのボール!」と叫びたかったけど、乾いた土のグラウンドから手荒な歓迎を受け、声を出す余裕もなくなった。
「痛ぅ、いったぁ……」
右腕がやたらと熱い。地面と擦ったせいだ。
「なんだ、阿澄、いたのか?」
痛みに耐えながら体を起こしていると、頭上から森安先輩の野太い声が降ってきた。サッカー部で一番小さなわたしを揶揄しているには明らかで、お返しに思い切り睨みつけてやっても、悪びれる様子はまったくない。むしろ、「軽すぎて、当たったのもわかんねえよ。気合いが足りねえ」と為になりそうもないアドバイスを投げ捨てて、奪ったボールを持って走り去ろうとする。
ホイッスルが鳴った。ボールを奪取した一連のプレーを、審判はファールとジャッジしたらしい。すると森安先輩は顔を真っ赤にして、右腕を大きく振り上げて抗議した。
「おい、今のはファールじゃないだろ!」
ファールではない、と思う。中盤のスペースでボールを受けようとしたわたしが、迂闊にもトラップミスをし、その隙を突かれて体を入れられただけ。サッカーの試合ではよくある競り合いだ。どちらかといえば、つまらない凡ミスをするわたしが悪い。
それでも笛が鳴ったのは、この紅白戦のジャッジを、二年生の井ノ原拓海キャプテンが裁いているからだろう。
「拓海! あの程度のチャージならノーファールだ!」
森安先輩は苛立ちを隠そうともせず、井ノ原先輩に食ってかかった。二人とも一七五センチを超す長身のせいで、地面から見上げているわたしからすれば、巨人が対峙しているような凄みがある。
わずかな睨み合いの末、井ノ原先輩は冷静に首を横に振った。
「いや。剛は少しやりすぎだ。阿澄は、うちの選手だけど女の子なんだ。当たりには気をつけたほうがいい」
「俺は、大丈夫だと思ってるからやってんだ」
「体格差を考えてくれ。これは阿澄が入部するときに監督と決めた部の方針だろ?」
「それは、阿澄のことを知らなかったからだ。確かにこいつは女だが、足元の技術はしっかりしているし、体力もある。なにより根性だけなら一年の中じゃ一番だ。半年で半分以上が辞めちまうキツい練習を耐えきった阿澄を対等に扱ってやるのは、当然だろうが」
「それでもだよ。うちは全国を目指す強豪校だ。本気でやれば、阿澄が壊れるかもしれないんだ。精神論ではどうしようもない。今だって、フィジカルの差は歴然としていただろ?」
「あ? 拓海、お前忘れたのか? 今年の県大会はベスト8止まりだったじゃねえか。堅守速攻が売りのうちが、球際で競り負けてたんだぞ。うちはいつからレクリエーションクラブになったんだよ。俺たちにはフィジカルの強化が必要だってのに、こんな甘いことをやっていたら、俺たちはどんどん弱くなる! 来年は、地区予選敗退だってあり得るぞ! 危機感を持てよ!」
「もちろん、来年こそ俺たちは全国に行く。引退した先輩たちとも約束したし、あのときの悔しさは忘れてはいない。だからって、剛。そこに阿澄を巻き込むのは、危険すぎるだろ」
周囲が息を呑む沈黙の中で、森安先輩と井ノ原先輩は視線を交わし合う。
「今は練習中だ。あとで話そう」と井ノ原先輩が言うと、森安先輩は「ああ」と苛立ちを吐き捨て、ポジションに戻っていった。
不穏な熱気を孕む背中を見届けた井ノ原先輩は、小さく息を吐いてからわたしを見ると、手を差し伸べてきた。
「立てるかい?」
大人びた面持ちからは緊張が解けて、落ち着きを醸し出す知的で優しい笑みが零れていた。
井ノ原先輩は、わたしが所属する浜西中サッカー部のキャプテンで、部員の信頼も厚いチームの大黒柱だ。一七六センチの長身から繰り出されるヘディングは強力で、三年生が主体だった今年の大会でも、二年生ながらセンターバックとしてフル出場した。
引退した三年生からの推薦ではあったけれど、井ノ原先輩こそキャプテンに相応しい人格の持ち主だと、ここにいる誰もが思っているはずだ。
だけど、わたしはこの先輩が、少しばかり苦手だった。
夏の大会を最後に三年生が引退し、新しい体制となった部では、目下、熾烈なレギュラー争いが繰り広げられている。もちろん、わたしだって本気でレギュラーを狙っている。にもかかわらず、今日のように「女の子だから」という理由で扱いが変わるのは、水を差されたような気分になってしまう。
サッカー部創設初の女子部員となったものの、男子の部と思われてきた部に女子が入るなど、他の運動系部活動でも前例のない事態だった。顧問の田岡先生も、わたしが久斗たちに混ざって入部届けを持ってきたときは、あんぐりと口を開けて固まったくらいだ。
職員会議に起案され、喧喧諤諤の議論の結果、生徒の自主性を重んじるという大義名分を得て、ようやく受理された入部だった。しかし、ここはサッカーの強豪校だ。一五〇センチにも満たない小さな体は、さぞかし、か弱く見えたことだろう。そこで田岡先生は、わたしへの過度な当たりを禁止したのだった。
もちろんわたしは不満だったけど、その方針は男子部員にすんなりと受け入れられた。どうせ、きつい練習に耐えかねて、早々に部を去ると高を括っていたのだろう。しかし、辞めていく大勢の一年生をよそに、わたしはしゃにむに走り続け、試合でも全力で勝負した。次第に手を抜いていい相手じゃないと理解されるようになり、少しずつだけど、青あざの勲章とともに認めてくれる人は増えていった。
それでも、わたしを認めない部員はいる。毛嫌いするだけならまだいい。でも、ピッチ上で手心を加えられるのは、どうしても納得がいかない。とくに井ノ原先輩は、その純粋で真面目な性格とキャプテンとしての責任感がそうさせるのか、わたしことは未だにお客様扱いで、なかなか理解してもらえていない。悪気はないと思えるだけにたちが悪く、むしろ、暑苦しく向かってくる森安先輩のほうが、ずっと好感が持てる。
わたしは井ノ原先輩の手を借りずに立ち上がると、ムッとしたまま、頬についた泥を腕で乱暴に拭った。
「その、女の子扱い、やめてもらえませんか?」
井ノ原先輩は少し困ったように肩をすくめる。
「肘を擦りむいて血が出ているね。それに、頬を擦って赤くなっている。一旦、ピッチから出て治療したほうがいい」
右肘には、泥と血がこびりついていた。出血はほとんど止まっている。
「大丈夫です。これくらい」
「出血している選手をピッチに立たせるわけにはいかない」
サッカーの試合中、主審は負傷によって出血した競技者を見つけた場合、その競技者をピッチの外に出し、治療を受けさせなければならない。これは男女に関係なく、選手なら従わなければならないルールだ。
それは分かっている。分かっているはずなのに、この先輩に言われるとなぜか釈然としない。
「阿澄。これは審判の指示だよ」
目をぎゅっと閉じ、胸の奥のわだかまりを押さえ込む。
「わかりました」と答えると、重くなった足を持ち上げて踵を返した。交代が告げられ、その日、わたしがピッチに立つことはなかった。