記憶の手がかり
アリシアがカルミナの家にやって来て、一ヶ月が過ぎた。
あの夜以来、アリシアは次第に心を開くようになり、普段無表情なのは変わらないが、カルミナたちと冗談を言い合ったり(時折カルミナには拳が飛び)、何よりよく笑うようになった。
身体のほうもみるみる回復し、年頃の女の子らしい体つきになってきた。
そして少し前から、アリシアはカルミナたちの手伝いをするようになったのだ。
「まだ治ったばかりなんだし、無理する必要は無いんだよ?」
「さすがに何もせずにいるのは、私の気がおさまらない」
「まあまあ、やらせればいいじゃないか」
「お父さん……」
お昼時。三人は、カルミナたちの農園で栽培している麦の手入れをしていた。ドーン村では皆、一家族ごとに一つ以上の農園を持っているのだが、一番多いのがこの麦畑である。
アリシアは慣れない手つきで一生懸命、ヘンリーに教えられた通りに作業をこなしている。そんな健気な姿を見て、カルミナはニヘーと締まりのない顔をする。
「ああ、アリシア……ぐへへ、頑張ってるアリシアも可愛い……!」
「おい変態。手を止めてんじゃねえぞ」
「お父さんまで何てこと言うの!?」
「事実なんだからしょうがねえだろうが」
ちなみに、ヘンリーもアリシアの事情はすでに知っている。その上でヘンリーもまた、アリシアのことを認めた。曰く――――
『お前ら二人が互いを認めたんなら、俺から野暮なこと言うつもりはないよ。お前らのやりたいようにやればいい』 とのこと。
アリシアは改めて、本当に素晴らしい人たちに出会ったのだと実感し、ヘンリーにも感謝の意を示した。
それ以来、アリシアはヘンリーにも徐々に心を開き、今ではこうして気兼ねなく話す仲になったのだ。
「今年も良い麦が収穫できそうだね」
「ああ、今年は比較的天候が穏やかだったからな。こりゃ今年は大量だな!」
「やった! 久々に贅沢できる!?」
「いけるかもな」
「イエーイ、御馳走だよぉ♪ 楽しみだね、アリシア!」
「えっ、私も頂いていいのでしょうか……?」
アリシアは不安そうにヘンリーに尋ねた。
まだアリシアの心には、自分がここにいていいのかに対する不安が残っているらしく、時折二人に対して申し訳なさそうな顔をする。
ヘンリーは、アリシアの頭に大きな手を置いてくしゃくしゃとかき撫でた。ヘンリーの動かす手に従って、アリシアの頭が左右に揺れた。
「まーだそんなこと言ってんのか? いいに決まってんだろ」
「でも、私……」
「こうやって俺たちの手伝いをしてくれてる時点で、お前はもうこの家の立派な一員だ。今お前がすべきことは、御馳走食えることに素直に喜ぶことだぞ、そこの変態娘のようにな」
「誰が変態娘だこの野郎。そうそう! アリシアも楽しめば良いんだよ!」
「カルミナ、ヘンリーさん……ありがとう」
「それよりお父さんばかりアリシアの頭撫でてずるい! 私も撫でるう! さあ、アリシア私が優しく撫でてあげるからってぐはあ!?」
両手を嫌らしく動かしながら近付いてきたカルミナに対して、アリシアは容赦なくカルミナの腹に一撃を食らわせる。カルミナは殴られた腹を押さえながら、その場にバタリと倒れた。
「お、お腹は……お腹はダメだって…………」
「正当防衛だから」
「まあ、アリシアの言うとおりだわな……はぁ……」
変わり果てた自分の娘を見て、ヘンリーは深いため息をつくのだった。
~~~~~~
「えっ!? アリシアの故郷に心当たりがある?」
「ああ、確定じゃないがな」
その夜。三人はリビングで同じ食卓を囲んだ。一週間前から、アリシアにも一般的な食事を出せるようになった。アリシアは今日も、食事の作法を学びながら、皿の上の料理をゆっくり口に運んでいく。まだフォークとナイフの扱いには慣れないようで、動きにぎこちなさが目立つ。だが、いずれそれも克服することだろう。
ヘンリーが話を切り出したのは、三人が食事をほぼ終えたときだった。
カルミナとアリシアは、ヘンリーの方に顔を向けた。特に、アリシアは半ば身を乗り出していた。
「私の故郷、ですか……」
「ああ、もしかしたら、そこにお前の記憶を取り戻すもんがあるかもしれない。だがさっきも言ったように、その場所がお前の故郷である確証は無いがな」
「教えて下さい。それは、どこですか?」
アリシアは待ちきれずにヘンリーの回答を急かした。一刻も早く知りたそうに、身体をソワソワと揺らす。今まで逃げることに必死だったため、手がかりなど探す余裕もなかったのだ。
「アリシアの着ていた衣服は、ここから南東に行った所に住む奴らが着ている物だと思う。俺の妻も南東地方の出身で、そういった服を着ていた」
「ヘンリーさんの奥様が……」
「そういえば、アリシアが初めて家に来たときに言ってたね。あの時はアリシアが傷だらけだったから聞き流しちゃったけど」
「多分アリシアの服は、向こうでは神官が着る服だな。あっちは神軍信仰じゃないから、奴らとはまた違う服装なんだ」
「え? そうなの?」
「だからあそこの首長も世界の敵のはずだ。アリシアのようにな」
「私と同じ、世界の敵……」
「だから、もしお前が記憶を取り戻したいならそこに行くことをオススメする。だがそこに行くまでに、お前は神軍と何度か鉢合わせすることになるだろう。しかも、そこの南東部の村、ヒノワって名前なんだが、そこが友好的かどうかもわからん。ぶっちゃけ、危険な旅だ」
「お父さんそれは……!」
「話はまだ終わってねえ。それでだアリシア……」
ヘンリーはカルミナを制止して、アリシアの方に向き直る。アリシアは背筋を伸ばして、静かに話を聞く姿勢を作る。
「後はお前次第だ。そこに行くのもいいし、ここにいるのもいい。ここは神軍の拠点からもかなり離れているから、奴らがここに押し寄せてくるのも時間がかかるだろう。だが、お前も分かっている通り、奴らはいつかはここにやって来るはずだ」
「はい……そうですね……」
「俺は、お前は一度そこに行ってみるべきだと思っている。今の状況を脱したいならな。もしかしたら、お前が世界の敵だっていう誤解も解けるかもしれないしな」
「ヘンリーさん……」
「さて、アリシア、お前はどうしたい?」
ヘンリーは挑戦的な笑みを浮かべながら、アリシアに尋ねた。
そう、あくまでも決めるのは、アリシア自身なのだ。
「私は……」
アリシアは拳をぐっと握りしめ――――
「行きます。そこに、私の記憶のヒントの可能性があるならば」
「……分かった。地図は作ってやる」
「ありがとうございます」
「なんか私を置いて話がトントン拍子で進んでるんですけど……」
カルミナは一人だけ話に取り残されたことに対して、つまらなそうに口元を尖らせて両足をブラブラ動かしている。そして、不安げな表情でアリシアを見つめる。まるで、旅立つことを決めた我が子を見つめる母親のようだ。
「……アリシア、本当に行くのね?」
「うん……私が一番怖いのは、自分が誰か分からないまま死ぬこと。どうせ死ぬなら、せめて自分の記憶を取り戻してから死にたいの。私はこの世界にとって善なのか、それとも悪なのか。どうしてもそれが知りたいから」
アリシアはカルミナを安心させるように、穏やかな笑みを浮かべる。そこには、初めて会った時のような弱々しさは感じない。むしろ、未来を見据えようとする力強さすら感じた。
カルミナはアリシアの勇ましい顔を見て、一拍置いた後、
「そう……アリシアの思いは分かった。なら私も止めないことにする! アリシア、今すっごく良い顔してるし」
「え? そ、そうかな……」
「うん! 初めて会った時に比べると、見違えるくらいだよ!! ねっ、お父さん!」
「……ああ、そうだな。アリシア、今のお前ならもう外に送り出しても大丈夫だろう。だからこの話を持ち出したんだ」
「ヘンリーさん……」
アリシアは胸の辺りをギュッと掴む。暖かく、どこか清々しい心地よさを感じる。この感覚は、きっと二人に出会わなければ得られなかっただろう。アリシアは改めて、二人に感謝する。
「カルミナ、ヘンリーさん……短い間だったけど、本当にありがとう。私、二人のことは一生忘れない」
「御安いご用だよこれくらい。ここはお前の第二の故郷だ。落ち着いたら、また戻ってこい。お前の部屋は綺麗にしておく」
「……っ! はい!」
アリシアは年頃の女の子らしい、元気な声で返事をした。その声に、ヘンリーは満足そうに頷いた。
カルミナもその光景を微笑ましく見つめる。そして――――
「よし! それじゃあ、早速準備しますか! お父さん、留守番よろしくね!」
「おう、安心しな。お前の部屋も綺麗にしとく。だから、無事にアリシアと帰って来い」
「当ったりまえでしょ! ねっ、アリシア!」
「うん、カルミ……ナ……」
あまりにも自然な流れに錯覚しかけたが、アリシアは違和感に気付き、目をパチパチさせながらカルミナを見た。
カルミナは、アリシアの反応に首を傾げる。
「うん? どうしたの、アリシア?」
「いや、あの……どうしたの、じゃなくて……えっ? カルミナ、あなたついてくるの?」
「当然」
「いやいや当然じゃないでしょ。これ、私の旅だよ? カルミナ関係ないじゃない」
「関係ありありのありだよ!! 愛しのアリシアにもしものことがあったらと思うと私、不安すぎて夜も眠れないよ! それに……、一人より二人で力を合わせた方が絶対良いって! ……それとも、私は嫌?」
「そんな今にも泣き出しそうな顔で言わないでよ……カルミナのことは友達だと思ってるから……ってそうじゃなくて! 私と一緒に旅するってことはカルミナまで危ない目に……!」
「アリシア。そういうのは無しって話をこの前したでしょ♪ 私は、アリシアと一緒にいたいから行くの。危険なんてへっちゃらへっちゃら! それに、私これでも武術の心得があるんだから! アリシアのことも守ってあげられるよ! ボディーガードってやつだよ!」
「それでも……! 私の旅にあなたを巻き込むのは……!」
「無駄だぜアリシア。そいつは、一度決めたら絶対に覆さない。ましてや、お前のことならなおさらだ」
「ヘンリーさん……でも……!」
「お前の気持ちも分かる。自分の都合にカルミナを巻き込みたくない、それは良いやつなら誰でも思うことだ。だがな、お前には戦う力が無い。いつかは手に入れることができるかもしれないが、それは今日明日で身に付くモノでもない。ならば、しばらくはお前をサポートする奴がいたほうが、お前の生存率も目標達成率もぐんと上がる」
「ヘンリーさんはそれでいいんですか……!? 娘が私のせいで危険な目に遭うかもしれないんですよ!?」
「大なり小なり、ヒトには生きている限り、命の危険に晒されるようなことが起こるものだ。それなら、早めに経験しておいたほうがいい。カルミナにも、世界を見るというのは良い勉強になるだろうしな。あと、何度も言うが危険な目に遭うのはお前のせいじゃない。お前を狙う、アホな神のせいだ」
「でも……! でも……!」
「アリシア……お前は何でも一人で背負いすぎなんだよ」
そう言って、ヘンリーはアリシアの頭にポンと自分の手を置いた。アリシアを落ち着かせる時に、ヘンリーがいつもやる手法だ。カルミナが幼いときも、よくこうしてヘンリーはカルミナを落ち着かせていた。
「お前はもう、独りじゃねえ。いいじゃないか、多少迷惑かけたって。別に俺たちはそんなことでお前を嫌いになったりしねえよ。それとも、お前には俺たちがまだそんな奴らに見えるかい? それなら謝るが」
「そんなこと……あるわけないじゃないですか……二人には、返しきれないほどのご恩を頂いて……その上まだ恩に預かるなんて虫の良い話です……」
「アリシア、私は別に恩返しなんて望んで……!」
「まあ待てカルミナ」
ヘンリーがカルミナを制止する。そして、ここは任せろと言わんばかりにカルミナにニコリと笑いかけた。カルミナも、ヘンリーに従って口をつぐむ。こういう時のヘンリーは頼もしい。
「なあ、アリシア」
「はい……」
「お前は、人を頼る術を身に付けるべきだ。独りで生きてきたからしょうがないが、さっきも言った通り、お前はもう独りじゃない。人はなアリシア、独りじゃ生きていけないし、そもそも独りで生きてないんだ。自分の知らねえところで、必ず誰かと繋がってる。つまりだな、俺たちは生きてるだけで誰かに迷惑かけてんだよ。少なからずな」
「そんな……」
「だが逆も然りだ。誰かの存在が、他の誰かを幸せにすることだって大いにある。俺たちはお前には生きていてほしい。その思いを叶えるには、お前を絶対に一人で行かせるわけにはいかねえ。そこで、カルミナの出番だ」
「そういうこと! 奴隷のようにこき使ってくれていいからね! アリシア、ぐへへぐへへ」
「………」
「無言でそんなゴミを見るような目で見ないで!」
「まあ、こいつの変態ぷりは改めなくちゃいけないが……こいつは俺よりも強いからな。護衛には適任だ」
「えっ……そうなの?」
「ふふーん、そうだよー♪ お母さんの仕込みだけどね」
「こいつの母親、つまり俺の妻がかなりの使い手でな。カルミナに自分の武術を教えてたんだよ。キツメにな」
「懐かしいな……あのときは本当に死ぬかと思った……てか死にかけた」
「え、ええ……」
アリシアは今度は違う意味でカルミナから遠ざかった。
確かにカルミナは、一瞬で神軍を倒していたから、強いのは確実だ。一緒にいれば、心強いのは間違いない。だが―――
それでも、誰かを自分のせいで命の危険に晒すのは、アリシアにはどうしても気が引けた。
「わ、私は……私は……」
アリシアは悩む。自分の記憶は何としても取り戻したい。そして、カルミナと一緒にいれば、それも叶う確率がぐんと高くなる。
そんなとき、カルミナが後ろからアリシアの肩にそっと手を置いた。
「カルミナ……?」
「………」
次の瞬間カルミナは――――
モミモミモミモミモミモミ!!!
アリシアの肩を激しく揉みだした。
「ふにゃああああああ!!??」
アリシアは小動物のような悲鳴を出して、その場で崩れ落ちた。
そして、カルミナに困惑した表情を向ける。
「な、何するのよ……こっちは真剣に考えてるのに」
「肩、すっごい凝ってたよアリシア」
「それとこれとは関係ないでしょ!」
「でも、心なしか気持ちが楽にならない?」
「え、そ、そういえば……」
確かにカルミナの言うとおり、心なしか少し気が楽になった感覚を覚える。
ヘンリーは、フッと笑い、話の続きを始めた。
「アリシア、言っておくが人に頼るのも立派な生存術だ。恥では無いんだぜ」
「ヘンリーさん……でも……」
「いいからもっと自分に素直になれ! お前が今最も達成したいことは何だ? 記憶を取り戻すことだろ? それはな、厳しいことを言うがお前一人の力じゃ絶対に無理だ。仮にお前が一人で出たら、また同じ道を辿るぞ」
「……!!」
アリシアの頭に、逃亡生活の時の記憶がフラッシュバックする。一気に恐怖に染まり、アリシアは寒気を覚えてガタガタと震え出した。そんな様子を見たカルミナがアリシアに駆け寄り、身体をさすりながらヨシヨシと落ち着かせる。
ヘンリーはため息をついて、アリシアに語りかける。
「な? そんな調子で独りは無理だぜ? よっぽど心が強くなくちゃな」
「ご、ごめんなさい……」
「何を謝ることがある。その反応が普通なんだ。独りってのは怖いからな。俺もごめんだ」
ヘンリーは、もう一度アリシアに尋ねた。
「アリシア、お前はどうしたい? 素直になって考えろ」
アリシアはギクリとした表情をして、しばらく考える。そして、カルミナの方に向き直り、おそるおそる尋ねた。
「ほ、本当に、ついてきてくれるの?」
「もちろん」
「危ない旅だよ?」
「アリシアがいるから平気。あと危険には慣れてる」
「迷惑かけちゃうよ?」
「それはどちらかというと、私がかけてる気がする」
「……カルミナ」
「うん?」
「い、一緒に、来てくれ、る?」
「うん! もちろんだよ!! やった!! ようやくアリシアの許可下りた!」
カルミナはピョンピョン跳び跳ねながら、子供のようにはしゃぎ出す。アリシアはまだ後ろめたいのか、身体を縮こまらせてもじもじさせている。
そんなアリシアに、カルミナはこの前のように手を伸ばした。
「大変かもしれないけど、私たちなら大丈夫だよ! だから頑張ろう、アリシア! 二人で!」
「うん……! よ、よろしく、カルミナ……」
二人は、互いの手をガシッと握りしめて、旅に出る決意を固めるのであった。