地の底の決壊
地下界で何かが起こっている。少女スカラが逃げようとしても、もうとめられない。
Face2・ jaw 地の底の決壊
噂はすぐに広まった。
「きみ、妙なことが起こってるようだが、いつもこんな感じなのか」
長いツノをさらに立てるように帽子を被りなおしたボロ布男ヘッジが訊いた。振り返ると、いつの間にか、2人の後を追うように人々が付いてきている。スカラはもうパニックだ。
「わ、わからない。信じられない・・・なんで、なんで」
行きにはまったく感じなかった殺気があたりに充満し、《顔を持っていない》人々がひたひたと迫ってきている。
「走れ、もっと走れ!!」
人々の運動能力が生の人間よりも(悲しいことに)劣ることをヘッジは知っていた。ヘッジは死角になる曲がり角でスカラの手をとって全力で走り出した。おかげで、スカラの家の門まで無事に辿り着き、ゆっくりと鍵を開けることもできた。
「頑丈な鍵だな。ただのセキュリテイではなさそうだ」
「・・・すべてを守るためだって。高い壁も分厚い門も守るためだって、おじいちゃんから聞いてる」
まるで今日のことをわかっていたかのような準備じゃないか。ヘッジは笑いたかったが、門のクスの木の葉がこすれる音がしただけでもビクリと警戒してしまう。スカラの家はブロックをいくつか重ねたようなシンプルな造りで、ヘッジは地上界ではあり得ない古さとダサさだ、と思ったが、それも口にはしなかった。
「きみの出生証明書を手分けして捜そう。おじいさんとおばあさんが大事なものを隠しそうな場所の見当はつくか?」
「おじさん、もうこの家にお招きしたんだから、私のことは名前で呼んでちょうだい。私もヘッジさんって、親しみを込めて呼ぶから」
スカラが笑顔を見せたので、ヘッジの体から一気に余分な力がぬけた。逃げるように走ってきて、心身ともに鋭い緊張の中に放り込まれていたことをヘッジはしみじみ感じた。
「ヘッジさん、我が家のミルクティをどうぞ。おばあちゃん、つくったまま二階で休んでいるみたい」
シナモンと黒糖の香りが鼻先まで漂ってくる。ヘッジはスカラからカップを受け取ると、前々からずっとこんなふうに暮らしてきたような錯覚を覚えた。
「きみ・・スカラ、顔面調査隊かと私に訊いたけど、彼らがほんとうにこの家に来たことはあるのか?」
「わからない。おじいちゃんが誰かを追い返したことは最近もあったから」
「最近も? そんなに頻繁に?」
「うん。ヘッジさん、お砂糖は足す?」
ヘッジは驚いた。スカラはなにも不審に思ってないようだ。見知らぬ誰かが訪ねてきた理由も詮索してこなかったのは、スカラの祖父母がよほど慎重に暮らしているからにちがいない。壁に門に、家の扉の重厚な細工にも地上界では珍しい高い防犯意識が働いている。ここは明らかになにかを守る場所なのだ。ヘッジはじっとスカラを見た。
「ふううん、顔っていうのかな、目と鼻と口と全部、私は、そんなにおかしいの?」
「おかしい?」
「だって、今もヘッジさん私を見ていたでしょ?」
「それはスカラが美人だからだよ」
「ビジン? それ、なにかの例え?」
「ハハハ、美人は美しいってこと、すごく綺麗だってことだよ」
だから、この街の人々もあんなに必死にスカラを追いかけてくるんじゃないか、とヘッジは言いかけてやめた。顔を売ってしまって、サングラスとマスクで生きるしかなくなった人々の心情を考えることは神経をまともでいられなくする。
「ふうん。まあ、いいや。ヘッジさんがいれば、おかしな顔は街で私だけじゃなくなるってことだものね。外にももっと出たいし、これからはヘッジさんといっしょに出かけようかな」
「ずっと家の中にいたのか?」
「そう。今日はね、おばあちゃんの薬を病院までもらいに行かなくちゃならなくなって、ほんとうに特別の外出。あ、おじいちゃんも仕事から帰ってる時間だから二階で寝てるかも。ヘッジさん、今のうちに2階を探さないと!」
「そうだな。起こさないように静かにね」
ブロックの中にさらに小さなブロックの階段を組み入れたような、正しい家だとヘッジは思った。
「ヘッジさんは左の納戸を見て。私はおじいちゃんたちの寝室を見てくるから」
「わかった」
出生証明書があれば、この家の謎がわかるかもしれない。そうヘッジが思ったときだった。
「きゃあああ〜〜」
「スカラ、どうした!?」
スカラの絶叫で寝室へ駆け込んだヘッジはとにかく冷静でいよう、と反射的に胸を抑えていた。床に転がった大きな物体がスカラの祖父であることは一目でわかった。紺色のジーンズの足が痛々しい。スカラの祖母は窓側に倒れている。投げ捨てられたサングラスの破片を見ても、無残な仕事がいかに突然で、荒々しいものだったか想像できた。
「スカラ、スカラ、さあ、こっちへ、こっちに来るんだ」
ヘッジはスカラを抱き上げ、廊下に出した。
「ここで待っていて」
ヘッジは覚悟して部屋に入る。マスクの端が散らばっている。専用のナイフで刻まないと、これほどのちぎれはあり得ない。犯人は何かを探していたのか。創られていたデジタルフェイスはバラバラになって、元にもどせそうもなかった。
「スカラ、つらいだろうが、きみのおじいちゃんとおばあちゃんは亡くなっているようだ。私がスカラの代わりに部屋の中を確認してもいいかな」
スカラは泣きながら、首をなんでも縦に振った。ヘッジは数日前の出来事つまり地上界での脱出劇をフラッシュバックのように思い出したが、すべてこのために起こったことか、と天を仰いだ。すると、天井に薄く光る星が見える。
「これは・・・」
薄いまたたきをさぐっていくと、ジーンズのシャツの腕にぶちあたった。握りしめられた手の中には何かがあった。
「そうだ、これだ!」
スカラの出生証明書。カーテンの隙間から入る日差しを証明書の鏡面が見事にはじいていたのである。
「スカラ、きみの出生を証明する証だ。鏡面が付いているから、まちがいなくきみは地上で生まれたんだ。おじいさんは自分の身でこれを守ったんだろう」
ヘッジはスカラの祖父母の過去を確信し、首から上の部分を探した。おじいさんは明らかに《顔を売った》者で、売買から15年は経っているように思われた。だが、破壊されたサングラスとマスクではもう輪郭も創れない。デジタルフェイスはもう整えられないのだ。
「せめて道具があれば、以前の顔に復元することも可能なんだが」
ヘッジはヒビを支えるようにして、おじいさんの頭をうつ伏せにした。こうすると寝ているように見えるからだ。
「ヘッジさん、おじいちゃんの顔は・・・」
「うん、ないな」
「おじいちゃんはいつもやさしいの。おじいちゃんの前の顔は写真でしか見たことないけど、スカラはおじいちゃんに似てるって言ってたもの」
さぞ高い値段で売れた顔だったのだろう、とヘッジは思った。美しい顔が通貨のようにやり取りされる嫌悪感を、ヘッジの祖先たちはずっと感じてきた。ヘッジもいい気分はしなかったが、顔の品定めはそんな稼業もあってかプロ並にできるのだった。ピンク色のガウンのそばには、もうひとつ転がっている。
「ほんとうに道具がないことがもどかしいです。私は女性にはとくに腕がいいと褒められたものなんですが」
敬意を表しながら、ヘッジはスカラのおばあさんを撫でた。サングラスを接着していた部分におかしな腐食と変色がある。取り付けが急だったのか、雑な仕事が予想できた。下手な売医の手にかかると、後に強い痛みがでることもあるから、技術の高い売医を選ぶ必要があるのだが、スカラの祖父母には複雑な事情があったのかもしれない。ヘッジはポケットにあったハンカチで腐食の泡を払い、静かにうつ伏せにした。そして、手を合わせた。
「ヘッジさん・・・おばあちゃんの顔も」
「うん。ない。スカラ、きみのおじいさんとおばあさんは完全にデジタルファイスだったことはわかってるか」
「デジタル? ファイス?」
「そうだ。おじいさんたちにはスカラに“前の顔”のことは話してたかもしれないが、今の顔、スカラが見ていた顔は“デジタルフェイス”と呼ばれている」
スカラは考えた。一体、なにが変わろうとしているのか。ヘッジはスカラの証明書の鏡面をハンカチで拭きながら続けた。
「私の家系の仕事は死化粧が専門でね。顔を売った人の最期をよく化粧したらしい。売る以前の顔で亡くなりたいと希望があったときには写真を見ながら再現して、顔を嵌め込んでやる。今はもうそんな殊勝な死はなくなって、好きな顔で棺桶に入るためだけに繰り返される道楽の手助けに堕ちてしまった仕事だが。金持ちの欲には終わりがない。最期の最期まで、顔を買いたいとしつこいんだなあ」
スカラは泣いていた。ヘッジはスカラの手を祖父母の亡骸に近づけた。
「ほら、ここをそっと触ってごらん」
うつ伏せになった祖父母の上顎の部分だった。
「デジタルフェイスでもいくつか生のままの箇所がある。顎のあたりもそう」
「あ・・・」
「ね、温かいだろ。よく覚えておくんだ」
「なんで、殺されるの? なんで?」
これも、金持ちの道楽助けの仕事のひとつかもしれない。とは言えずに、ヘッジはスカラに言った。
「逃げよう」
「逃げる?」
「この家から、この街からすぐに出るんだ」
「出るってどこへ?」
「もしかして、スカラの顔が狙われているのかもしれない」
Face3へ続く