第十三話:日常に溶け込む悪魔
ターチャ「ふんふーん、ふふーん!」
緑色に輝く瞳を持った褐色の少年は、夜空に浮かぶ月が明るく照らす中鼻歌交じりで歩いていた。
人っ子一人見当たらない住宅街…その道の真ん中を堂々と歩く少年の足取りはどこか軽やかで弾むようだった。
そんな少年がご機嫌で夜中の散歩を楽しんでいると、ふと頭の中を誰かに乗っ取られたかのような感覚に陥る。
しかし少年はそんな唐突な出来事に動じることなく、対話を求めてきたであろう『彼女』に話しかける。
ターチャ「…ねえリヴィ、分かってはいるんだけどこのやり方やめない?なんか力が変に拮抗し合ってるから気持ち悪いんだよね。」
開幕しかめっ面で文句を垂れる少年に対し、リヴィと呼ばれる彼女はそれに対し改善する意思など全く見せず…むしろ勝手にこちらの領分に入ってきたのだからこれくらいのことは我慢しろと告げる。
ターチャ「まーそれはそーなんだけどさぁ。…それで、僕に何か用?」
今見えている景色は自分のものであるはずなのに、ここにはいない誰か別の人物が見ている景色のように錯覚しそうになる。
今までも、そしてこれからも慣れることのないその感覚に不快感を覚えつつも彼女にそう問うと…なんてことはない、単純にターチャの様子が気になったからであった。
ターチャ「んー、まあそうだね。ここ最近、僕の事を嗅ぎまわっていた連中がいたのは知ってるでしょ?そいつらがどこまで僕についてこられるか試してたんだけど。」
ターチャ「思いの外優秀みたいでさ、お気に入りの寝床が見つかっちゃったんだっ。」
お気に入りの寝床…それが一体どこを指しているのか詳細を把握しているわけではないが、おおよその見当は付く。
キラキラと目を輝かせる少年に、呆れた様子の彼女はため息混じりに『下らない』と吐き捨てる。
しかしターチャは呆れ顔を彼女をよそにこれまた嬉しそうに内心を語り始める。
ターチャ「似たようなことは僕の国でもあったけど、大体は私情が挟まってそれが透けて見えてたからねー。正体不明の相手に探られるとか、ちょっとワクワクしてくるよね!」
ターチャ「こんなワクワクがあるなんて、わざわざリヴィの国に来た甲斐があったもんだよ!」
ターチャ「まー多分、僕がなにかよからぬこと企んでるんじゃないかって警戒して話しかけてきたんだと思うけど…安心して、今のところ僕はこの国を控えめに満喫するだけのつもりだから。」
ターチャ「それに、僕の存在がスパイスになるかもしれないって、前に言ったでしょ?実際僕はこうして何者かに探られているわけだし…。」
ターチャ「おもしろそーなことになってきてるでしょ!」
屈託のない無邪気な笑顔でそう語る少年に対し、不機嫌そうに鼻を鳴らす彼女。
確かにターチャがこの国に来たことによって変わる何かがあるのかもしれない。
…いや、ターチャが何者であるかを知る彼女にはどこか確信があるのだろう…そしてそれはターチャ自身も確信しているはず。
しかしその確信をあえて自覚しないことによって状況を楽しんでいるのだ…彼らは何よりも『未知』を求めているのだから。
彼女も、ターチャの存在によって起こりうる『何かしら』には期待している。
…が、それ以上に彼女は恐れている…これまで綿密に、慎重に行ってきた細工の数々をターチャが台無しにしてしまう可能性を。
ターチャもその辺りのことは配慮すると言ったものの…ターチャのことをよく知る彼女にとって、その言葉は安直に受け取れるものではない。
上っ面だけは本物なのだろう…その言葉が決して偽りだけではないことは理解しているが、それでもここでの生活で彼にとっての『面白いこと』が続かなければそれも意味がない。
なにせ彼がこの国に来た理由がそれだからである…最低限彼女に配慮した行動を取るだろうが、自分の欲を満たそうとすることに躊躇いはないのだ。
まあ今のところは本当にこの国を引っ掻き回すつもりはないらしい…彼の頭の中を覗いているリヴィにはそれが分かるが、それでも安心はできない。
現状安心できたとしても、その先の未来に起こることまでは分からないのだから…厳密に言えばそれも把握しようと思えば把握できるのだが、それをしてしまっては今までの苦労と退屈が台無しになってしまう。
最後に警告の言葉を残し、リヴィは憑依を解除しターチャの体から抜けていく。
拮抗し合っていた力が抜け落ち一息付けるかといえば、そんなことは決してなく…むしろ果てしない脱力感がその身を包み容赦ない激しい痛みが頭を締め付ける。
ターチャ「う…ぐっ。」
元より悲鳴を上げるつもりはなかったが、それでも感じるその痛みは想像を絶するものであり…地面に手を付き痛みの波が引くのを待つしかない。
互いに力が干渉し合うといっても、今回はターチャの肉体に直接憑依した形になる。
能力を使用している最中のリヴィも同様の不快さは感じていたであろうが、それでも一度憑依を解いてしまえばその感覚も綺麗さっぱりなくなってしまう。
しかしターチャはそうもいかない…拮抗する力に抗うためにはこちらも相応の力を持って抗わなければならない。
それは例えるならば体に入り込んだウイルスを撃退するようなもので…同等の力を持つリヴィの憑依は、ターチャにとってこの上ないほどの脅威である。
リヴィの憑依が解けたことによりその驚異は去ったわけだが…その驚異と戦い続けたという痕跡そのものがなくなるわけではない。
謂わばこれは代償とも言えるもの…この国に足を踏み入れた時点でそれなりに覚悟はしていたが、やはりいざ体験するとなるとそれなりに堪えるもの。
…しかし絶え間なく押し寄せる激痛に身を焼かれているというのに、ターチャは突然狂ったかのように笑い始める。
ターチャ「…は、ははっ、あはははははっ!!!」
それは先程彼女と対話するまでに見た自分を取り巻く環境を楽しんでいるのと同じく、その痛みを受けてターチャは愉快そうに笑うのだ。
ターチャ「まったく…ひどいなぁ、もう…。いくら僕が約束を破ったからって、ここまでするかい?普通。」
ターチャ「…まぁ、リヴィならそうするだろうねぇ。」
そしてようやく立ち上がれるまでに痛みが引いてきたのか、苦痛と喜びに満ちた表情を浮かべながらターチャは再び歩き出す。
その足取りはとても軽快とは言えず、息を荒くしながら体を引きずるようにしてその場を去る。
今晩は新しい寝床を探す予定であったがこの状態では厳しい…と言うよりこんな憔悴しきった状態で女の子に会うのは相手に失礼だ。
最低限の礼儀と最大限のサービスを信条としているターチャとしては、ここだけは譲ることができない。
ターチャ「あーあ…せっかく目を付けてた女の子がいたのに、残念だなぁ…。」
散歩のついでに軽く寝床の居心地を確かめようとも思っていたのだが、生憎とその予定は変更しなければならない。
見上げたその先にある集合住宅の一室…まだ就寝していないのか窓から光が差している。
多少なりとも残念に思う気持ちはあるが、今宵得たこの快楽に比べればそれは些細なこと。
口先だけの後悔をポツリと呟き…ターチャは住宅街を後にする。
人気のない静まり返ったつまらないこの状況を一変させてくれる何かがないかと…新たな快楽を求めて彷徨い歩く。
それがどんなに確率の低い出来事であろうとも、元々そうするためにこの国へやってきたのだから刺激がなくて腹を立てることはない。
そうして緩やかにこの国を満喫するべく、ターチャは月明かりが照らす暗闇の中へと消えていくのであった。
…。
ユティーナ・クリアレット。
彼女は『声』を司る女神であり、アイドルグループ『メリアンロッド』のセンターを務めている。
彼女の発する音は聞く者全てを魅了する魅惑の力を秘めており、ただのハミングですら聞き惚れてしまうほど。
普段の生活の中ではその力を意図的に抑えているが…定期的に開催されるライブではその力を部分的に開放し、彼女を一目見ようと集まった民衆を虜にする。
かつての女神は、その姿を人間の前に晒すことが非常に稀であった。
女神と人間の表だった交流自体が少ないこともあって、人間が崇拝する女神の数もまた極小数。
故に強烈な信仰心がその女神たちを支持していたわけだが…時の流れと共に、その熱量はある一点へと向けられることとなる。
元々、女神が地上に降り立つことに抵抗を感じていたのは、人間に対する嫌悪感からである。
しかしだからと言って人間を放置することなど、当時の女神たちには到底できるものではなかった。
故に彼女たちは考えた…人間を我らの管理下において支配してしまえば良いと。
その目論見は見事に功を成し、人間たちは女神という存在を崇め始めた。
そうして細々と人間との繋がりを維持してきたわけだが、時代が移り変わるにつれ人間に対して嫌悪感を持たぬ女神たちも次第に増えていった。
地上に降り立つ女神の数も徐々に増えていき…女神を信仰する宗教もそれに合わせるように数を増やしていった。
そしてその中に、ユティーナを信仰する宗教団体もあった。
まだ世間にそれほど認知されておらず、女神公演管理事務局の一画を借りてこぢんまりとしたライブを開催していた頃。
他の女神が己の得意とする魔法を披露する中…ユティーナたちの作り上げたメリアンロッドという存在は異質であり、異彩を放っていた。
そもそも女神公演管理事務局とは、女神が人間たちに『恵み』という形で力を見せつけるための場所。
その恩恵があるからこそ人間は女神を崇拝し、女神は人間を支配下に置くことが出来るのだが…。
ユティーナたちメリアンロッドは、己の力そのものを売りとして人間からの信仰を獲得しようと試みたわけである。
まるで人間に媚びへつらう売女のようだと、一部の女神…特にパーストゴッデスたちは怒りをあらわにしたが、メルローズの独断によりユティーナ率いるアイドルグループ『メリアンロッド』の結成が敢行された。
最初こそ興味本位…ただ単純に女神が歌とダンスを披露すると、その物珍しさに集まった人間たちだけであったが…。
人間の心を魅了するユティーナのその歌声に誰しもが酔いしれ…その知名度は爆発的に広がっていった。
この頃から多くの女神が地上に降り立つようになり、女神公演管理事務局はその女神たちの対処に日々奔走していた。
人手不足は事務局員を新たに募集することによって解消したが…ある一つの大きな問題がここに来て発生してしまう。
それは地上に降りたった女神たちの住処である。
公演を行うといってもその全てが管理局内の敷地にて行われるわけではなく…。
王都以外の地方にて公演を臨む女神を少なからずおり…そうした場合、まず間違いなく地上にて数日間過ごさなければならない。
今までは管理事務局にて宿泊してもらうことがほとんどであったが、女神の数が増えたことにより部屋の数が足りなくなってしまったのだ。
そこで管理事務局は、女神を主に受け入れる迎賓館を急遽建設。
そこに女神たちが移り住むことにより、管理事務局はようやく落ち着きを取り戻すこととなった。
以降は特に目立ったトラブルはなく、地上に降りたった女神たちも安心して地上での活動を行うことができた。
…そう、安心して思う存分、自分の力を行使することができるようになったのだ。
…。
ライドケイターを降りアスケイドの地を踏みしめた瞬間、ユティーナは故郷の景色を一望しその懐かしさにほっと一息付く。
メンバーのみんなも一緒に帰ってこられれば良かったが…生憎と帰還命令が出たのは自分だけ。
残念に思う気持ちもあるが、これもアスケイドの…ひいては女神のためと自分に言い聞かせる。
キャリーバッグをゴロゴロと引きながら寮へと向かうと、その入り口にはいつも通り箒を手に掃き掃除をするマリーの姿があった。
こちらの様子に気付いたマリーはニッコリと微笑んでユティーナの帰還を歓迎する。
マリー「お帰りなさい、ユティーナちゃん。」
ユティーナ「マリーさん、ただいまです!元気にしてましたか?」
ユティーナもマリーに会えて嬉しいのか、足速に駆け寄る。
マリー「ええ、こっちは特に変わり無いわ。…ごめんなさいね、急に呼び出したりして。」
ユティーナ「いえ、全然。これもお仕事ですから。」
マリー「ユティーナちゃんはいい子ねぇ…。…でも、そんなに気張らなくて大丈夫よ。今回は初めから『勧誘』する相手は分かっているもの。」
マリー「それが終わっても、休養も兼ねてしばらくはこっちにいられると思うから…ゆっくり羽を伸ばしっていってちょうだいね。」
ユティーナ「はい!」
軽く挨拶を済ませ寮の扉を開けるユティーナ。
握ったドアノブの感触や、それを捻った時のガチャリという音さえも…その何気ない小さな一つ一つのことさえも懐かしく感じ、帰ってきたのだと実感させる。
しかしここで何かを思い出したのか、はっとした表情でマリーの方に踵を返す。
ユティーナ「あっ…そうだマリーさん、一つ聞いてもいいですか?」
マリー「なぁに?どうしたのユティーナちゃん?」
思い出したのはこれからの自分の任務について。
後からメルローズにでも聞けばいいと思っていたが、せっかくマリーに会えたのだからここで確かめておいても良いだろう。
…そう、今回自分が『勧誘』するべき存在…その人間の所在を。
ユティーナ「ロイ・カースナイトとという人間は、今どこにいますか?」
…。
アスケイドに帰還したユティーナは、表向き休養ということで一時的にカトラーナ学園へ復学した。
ユティーナの存在は学園に通う女神たちの間でも強く周知されており、またその人気も高い。
故に、ユティーナが学園へ登校したその日から、彼女の周りには常に女神の存在があった。
公の場でロイを『勧誘』するわけにもいかないため隙を見て接触しようとも試みたのだが…学園内では常に女神の視線が付きまといいずれも失敗に終わり…。
ならばと次作として寮内での接触を試みたが、これもまた失敗…地上にいた頃の話を聞かせてくれと女神たちにせがまれ落ち着ける暇もなかった。
しばらくはこのアスケイドに滞在する予定ではあるが、できれば早急に任務を終わらせメンバーの元へと帰りたいというのがユティーナの本音。
一週間あまりこれといった進展がなく、これは流石にまずいと思ったのかユティーナはメルローズの元へ相談しにいくことに。
メルローズ「そう…けれど急ぐ必要はないわ。彼がここに滞在する三ヶ月以内に勧誘が済めばいいのだから。」
その表情からは一切の感情が読み取れず、ただ淡々と回答を示すメルローズ。
悠々と紅茶を嗜む彼女に対し、生真面目な性格のユティーナはその両足に固く握り締めた拳を置いていた。
今の自分にできることはない…ただ接触する機会をのんびりと待つことしかできない。
ユティーナの『勧誘』が成功するかどうか、ティアラの予知能力はまだその結果を知るに至っていないが…ユティーナの力があれば問題はないとメルローズは判断している。
最悪の場合は秘密裏に二人を呼び出せば済む話なので、この件に関し危機感を持つようなことはないのだが…落ち込むユティーナをそのままにしておくのはまずい。
彼女の力は彼女のコンディションによっても左右されるため、できるだけ彼女には平常心であり続けてもらいたいところ。
カップをソーサーに置いたメルローズは、気休めの言葉をかけるべくその口を開く。
メルローズ「…あなたはいつも、そうやって『勧誘』する相手のことを探ろうとしますが…なにか理由でも?」
ユティーナ「え?えっと…。さ、探る…と、言うよりは…知りたいんです。」
メルローズ「知りたい…?」
ユティーナ「これは単純に、私のわがままなんですけど…その人がどういう人間か、普段どんなことを考えているのかーとか。どんな目標があって、どんなことがしたいのかなーとか色々。…それを知ったからって私に何ができるわけでもないですけど、でも知っておきたいんです。」
ユティーナ「せめて私だけでもその人を覚えてあげられたらなって、思うんですけど…これってやっぱり変、ですかね…?」
彼女がマイクをその手に持ったのは、自分の歌で人間たちを笑顔にしてあげたかったから。
幼い頃からの願いが叶い嬉しいと感じる反面、自らがその笑顔を奪い去っていることに何も感じないわけではないが…それも織り込み済みで自分が決めたこと。
活躍の場を与えてくれたメルローズには感謝の言葉しかなく、現状において特筆した不満があるわけでもない。
だがそれでもその胸をざらつかせる罪悪感が消えることはなかった。
ある日その罪悪感に耐え切れなくなり、心を押し殺して無心で勧誘をしたことがあった。
いつも通り、滞りなく勧誘を終えることができたが…勧誘を終えたユティーナの心はその日を境に虚ろに支配されてしまった。
なにをやるにしても気力がわかず、自分を奮い立たせなんとか取り繕えるだけの空元気を見せることはできたが…その虚無感はいつまで経ってもぬぐい去ることはできなかった。
幸いにも次のライブまでには時間があったため、マネージャーやメンバーとも相談し一時休養ということで心労の回復に努めることに。
体調が悪かったわけではないが、一日の大半をベッドの上で過ごすようになったユティーナ。
動く気力もなく、寝転がりながらぼんやりと様々なことに思いを馳せる中…ふと、無心で勧誘した彼のことを思い出す。
彼もまた、これまでの人間同様メリアンロッドのライブを観戦に来た人間の内の一人…。
だがおかしい…それ以外のことが、まるで思い出せない。
その人間の顔を思い出そうとしても、体格を思い出そうとしても、声を思い出そうとしても…。
どうやってその人間と出会い、勧誘するに至ったのか…その過程すらもモヤがかかったように曖昧にしか当時の情景が浮かんでこない。
必死に記憶の中を探っても、鮮明に思い出せるのはあの時勧誘した彼以外の情景だけ。
彼に関する事柄だけがすっぽりと抜け落ちていることに気が付いたユティーナは戦慄する。
どうして?
今までにこんなことはなかった。
なぜ彼のことだけが思い出せない。
何故?
何故なの?
何故だろう?
何故なんだろう?
何故こんなことに?
何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故?
…………………………何故?
いくら思いを巡らせようとも、『彼』にかかったモヤが消え去ることはなく…ユティーナはそのモヤのかかった情景を意味もなく繰り返し眺め続けた。
…そうして、答えの出てしまっている疑問に問いを求め続ける内に…思い出の中にある彼にかかったモヤが、独りでに動き出した。
周りの景色は乾く前の絵の具のようにドロリと溶け落ち、真っ暗なその空間には自分と…そのモヤだけが残された。
ユティーナの思い出から抜け落ちたそのモヤは何かをブツブツと呟いているようだが、その声はどこかノイズがかかっているかのように耳障りな音を奏でていた。
そしてモヤはこちらに手を伸ばすようにして一歩、また一歩と近付いてくる。
するとノイズのかかったその呟きは徐々に鮮明さを取り戻していき…まだはっきりとはしないが、なにかの単語を繰り返し呟いているように聞こえる。
ユティーナはその言葉が一体なんなのかを判別するため、モヤがこちらに近付いてくる様子を何をするでもなくじっと待ち続けた。
…そして伸ばしたその手がユティーナに触れそうなほどに近付くと、モヤはだらりとうなだれその場に立ち止まる。
いや違う…これはうなだれているのではなく、両手で自分の顔を覆い隠しているのだ。
そうして繰り返されるその声が次第に大きくなっていく…高ぶる感情に比例するように、モヤはその体を大きく揺さぶり始める。
まるで泣き叫ぶ獣のように、何かを伝えようとただひたすらに同じ言葉を口にする。
その異様な光景にユティーナは釘付けになり…そしてモヤは一際大きな雄叫びをあげ、こちらを見上げる。
見えないはずの二つの瞳がこちらを捉え、モヤは再び口を開く…そこから漏れた言葉は、何故だか不思議とクリアに聞こえたのを覚えている。
『…どう、して?』
ユティーナ『………っ!!!』
小さく呟かれたその言葉はどこか悲愴めいており、たった一度聞いただけで耳から離れないほどユティーナの脳裏に鮮明に刻まれた。
その声を聞いたあとのことは、正直に言ってしまって覚えていない。
ただ、気が付いたらメンバーが自分を囲むようにして顔を覗き込んでおり…彼女たちによると、あれからもう数日が経っていたという。
恐らく今までずっと気を失っていたのだろうが、目が覚めたからといってあの悪夢のような出来事を簡単に忘れることなどできなかった。
…いや、あれを悪夢と称するなどあの人間に対し失礼だ。
あれは自分が生み出した幻想…身勝手な自分が、自分の身を案じるが故に自らの心に反してしまっただけのこと…。
以前から、人間を『勧誘』することに罪悪感を抱き続けてきたユティーナは、じわじわとその心が疲弊していくのを感じていた。
表向きは平常を装ってはいたが、メンバーも何となくそのことに気付いておりユティーナを案じていた。
加えて今回の騒動…これ以上心労を抱え込んでしまっては今後の活動にも支障が出かねない。
一旦長期休暇をとってアスケイドに帰還したらどうか?という話も出たが…ユティーナはその提案に対し首を横に振り…。
もうしばらく休んでいればよくなるから…と、周囲を納得させ、ユティーナは迎賓館にて療養を続けることとなった。
そして本人の申告通り数ヶ月の療養を経てすっかり回復したユティーナは、これまで通りのアイドル活動…勧誘を再開した。
想定よりも勧誘に関する精神的負担が大きいことをこの時知ったメルローズは、ユティーナに対し勧誘に関する一切の任務から外れてはどうか?とも言われたが…。
本人の強い意志もあって勧誘を続けることとなり、現在に至る。
結局、あの時に見た幻想はなんだったのだろうか?
勧誘を行うことで感じるストレスが原因ではあったのだろうが…直接のきっかけになったのは、やはり今でも思い出せない彼なのだろう。
彼を認識しないことによって、勧誘することの罪悪感からは逃れることができた…しかしそれは同時にユティーナの心に強烈な恐怖を刻んだのだ。
勧誘を行うということは、すなわちその人間の人生を奪うということ…そしていなくなってしまった人間は当然、この世から認識されない。
思い出として心に刻むことはできても、その思い出を持った人間さえいつかはいなくなる…全てを覚えていられるのは、自分だけ。
これまで勧誘してきた人間たちは、罪悪感という形で確かにユティーナの心に刻まれていた…けれど無心で勧誘した彼だけは、自分の中の思い出には残らなかった。
彼のことを覚えている人間もいずれはこの世を去り、その思い出ごと消滅する。
唯一記憶に残せる自分が彼の存在を否定してしまったせいで、彼がこの世に生まれた意味を薄めてしまった。
彼という存在は決して無価値ではなかっただろう…この世に生を受け、自分が勧誘するその瞬間まで…多くの人間たちと時を同じく過ごしていた。
だがそんな彼の価値を奪ったのは自分である…そして、彼の生きる意味を奪ったのも…自分である。
もう思い出すことはできない…罪悪感を覚えるのが怖くて彼を直視しなかった自分にはもう、どうすることもできない。
彼という一人の人間がこの世界に生まれた意味はあったのだろうか?…確かに、実益という意味では彼が生まれた意味はある…しかし。
人間としての人生はユティーナに勧誘された時点で終わりを告げた…そのことの意味を、この時ユティーナは心の痛みをもって正しく知ることができた。
もう後悔だけはしたくない…どんなに辛くてもいい、どんなに苦しい思いをしてもいい…奪い去ることの残酷さを胸に刻んだユティーナは、自分の心が強くあれと願う。
それだけの覚悟は出来た…もうその心に迷いはなく、躊躇いもない。
醜き自分を受け入れ前に進むと決めたその女神にとっては…心が悲鳴を上げることなど、もはや些細なことなのである。
メルローズ「いいえ。女神の中では少々風変わりかもしれませんが、あなたのその思いやりは長所ですよ。」
ユティーナ「ありがとうございます。」
メルローズ「そうね…彼のことが気になるのなら、深夜を回った頃寮の裏手にある森へ行ってみるといいわ。少し進んだ先に湖があるのは知っていますね?」
ユティーナ「はい、何回か見に行ったことはありますけど…そこで何かあるんですか?」
メルローズ「ええ、ちょっと変わった光景が見られるわ。…恐らくレイナもその場にいるはずなので、詳しい話を聞きたければ彼女に聞いてみるといいでしょう。」