第十一話:それぞれに歩き出す道
クレンキット「(ふぅ…結局あれから、マリーさんにも叱られてしまった。今回は口頭注意で済ませるとの寛大な処置を取ってくださったが、僕的には何かしら罰を与えてくれた方がありがたかったな。)」
クレンキット「(…いや、それも僕の身勝手な都合か。これは暴走してしまった僕の責任だ。僕の心が楽になるような選択をするべきじゃあない。)」
その日の深夜、寮のバルコニーにて黄昏るクレンキットは己の身勝手さが引き起こした今回の騒動を悔いていた。
胸に抱くじんわりとした罪悪感…感じる苦味を噛み潰すようにして己の心を改めて省みる。
レイナ「珍しいわね、あなたがこんな人気のない所にいるなんて。…おかげで少し探したわ。」
クレンキット「…おや、僕はてっきり頼みごとをされるまでは口を利いてくれないものだと思っていたけれど…それとは別件で、なにか僕に用事があるのかな?」
そんなクレンキットの前に姿を現したのは、瞳の奥から静かな憤りが垣間見えるレイナだった。
レイナ「…ええ、あなたも十分反省はしているでしょうけど、改めて忠告しておくわ。」
レイナ「これ以上私たちの妨害となる行動は謹んでちょうだい。…今はあの子にとっても大事にしなきゃいけない時期なの。あなたの意思を尊重して今は自由にさせてあげてはいるけれど…もし今回のようなことをまた起こすつもりなら、その時は契約違反と見做して即刻『エデン送り』となるわ。」
レイナがクレンキットを探していた理由は至って単純…それも本来はマリーからの口頭注意で事足りているはずだが、それを知っていても直接会って伝えておきたかった。
それが義務感から来るものではなく、己のわき上がる感情から来ているものだとは察していながらも。
今のクレンキットの様子を見るに、本人が十分に反省していることは把握できる…これ以上彼を追い詰めるようなことをする必要はないのだが、この時のレイナは己の感情を抑えられなかった。
クレンキット「マリーさんからも忠告は受けたし、僕も今回ばかりは焦りすぎていたと反省しているよ。」
クレンキット「よくよく考えてみれば、メルローズ様が今回の件に関わっていないはずがない…そのメルローズ様が女神しかないこの学園に人間を入れたのもきっと、何かしらの考えがあってのこと…。」
クレンキット「そんな簡単なことにも気付けなかった自分が情けないよ。だから安心してくれ、今後一切僕は君たちの邪魔をしないとこの場で誓う。」
レイナ「…そう、ならいいわ。」
忠告を終え、反省の意思も言質としてしかとその耳で聞き届けた。
もうこの場に居る必要はないと、踵を返し室内に戻ろうとするレイナだが…いつにもなく真剣な表情のクレンキットがそれを引き止める。
クレンキット「なあ、レイナ君。」
レイナ「…何?」
クレンキット「一時的にメルローズ様の元を離れると決めた僕が言える立場ではないと思うが…。」
クレンキット「くれぐれもあの方が…メルローズ様が後悔するような選択を選ばないように、見守っておいてもらえないかい。」
クレンキット「これ以上君に負担を強いるのは僕としても不本意だが、エデン行きを免除されていて…尚且つメルローズ様のそばにいられるのは君しかいない。」
クレンキット「…本当は君のこともメルローズ様のことも生徒会長のことも、柵を抱えている女神は全て僕が救ってあげたいとは思うのだけれど…そうすることのできない自分に腹を立てることしか僕にはできない。」
クレンキット「だからどうかメルローズ様を…。」
レイナ「…それにどんな意味があるというのかしら。」
クレンキット「…。」
レイナ「ただ見守るだけ、そばにいるだけなら…マリーさんやファファノーラさんがそうしているじゃない。」
クレンキット「…そうじゃない、そうじゃないんだ。」
レイナ「じゃあどういうこと?…まさか学園長に意見しろとでも?それこそ意味を成さないことよ。」
レイナ「私の言葉が学園長に聞き入れてもらえるとはとても思えないし…もしそんなことをすれば、最悪の場合反抗の意思ありと断定されてエデン行きも十分にありえるわ。」
レイナ「私にそんな綱渡りをしろってこと?…それとも、遠回しに私に死ねと言っているのかしら。」
クレンキット「ち、ちが…僕はただっ。」
レイナ「『ただ』…何?学園長は自らが望むことをしているの。…そしてそれは私も同じ。」
レイナ「あなたもあなたのしたいことが今出来ているのだから、それだけで満足しておきなさい。…多くのことを望もうとすれば必ず代償が必要になるわ。今の学園長のように。」
レイナ「これはあなたに対する親切心でもあるのよ。面倒事に自ら首を突っ込む必要はないわ。あなたにはあなたを必要としてくれる女神が大勢いるのだから、彼女たちを笑顔にしてあげなさい。」
自分が手にすることのできるものには限りがある。
多くのことを求めて手の平を目一杯広げたとしても…その大半は隙間からこぼれ落ちてしまい、受け止め切れることはない。
仮に望みを全て叶えようと、無茶なやり方で強引に手の平に収めたとしても…それはいずれ支えきれなくなり瓦解するだけ。
やるせない思いを抱えてその望みを誰かに託そうとすること、そのものは否定しない。
けれどそれを相手が受け取ってくれるかどうかは相手次第であり…また、その行為が自己満足であることを忘れてはならない。
ならば自分が抱えられるだけの望みを叶えればいい…。
クレンキットの胸の内を知っているからこそ、レイナはあえて厳しい言葉を投げかける。
自然と言葉に力が入ってしまうのは、まだクレンキットに対し憤りを覚えているからではあるが…それでも投げかけた言葉そのものは本心であった。
自らが望んだ全てが手に入ることは到底なく…また僅かに手の平に残った望みを叶えることも容易ではない。
だからこそ、その僅かな望みが叶う環境を得たクレンキットには望みを叶えて欲しかった。
今の今まで望みを求めることすらしてこなかったレイナは最後に微笑んで…。
レイナ「それがあなたの…望んだことでしょ?」
そう、クレンキットに告げるのであった。
…。
そして翌日、クレンキットの周りにはいつも通り多くの女神がその二つの瞳を輝かせながら思い思いの話を交わしていた。
そんな中クレンキットを訪ねて教室のドアを叩いたものが一人…それは、昨日クレンキットが決闘を申し込みその圧倒的な力でねじ伏せたロイであった。
しばらくはフィーリアたちから距離を取り接触は控えるつもりであったクレンキットにとってみれば、正しく珍客であった。
何故?という疑問が頭の中を埋め尽くそうとする中、ロイとクレンキットの間に割って入るようにして周囲の女神がロイの行く手を阻む。
皆一様に険しい表情を浮かべ、とても好意的に接する雰囲気ではなかった。
そんな彼女らの怒りを感じとったクレンキットは我に返り、敵意をむき出しにする彼女たちをどうにか諌める。
彼女らにしてみれば、昨日の決闘において敗北を期した人間が勝負を挑んだ女神の元を訪れたことになる。
報復の可能性を考え警戒するのも無理はないが、クレンキットが『全ては僕の責任だ。彼がどんな感情を僕にぶつけたとしても僕はそれを受け入れる。』と言い…渋々納得した様子の彼女たちを横目に、人目に付かない場所で話そうとロイを連れて教室を後にした。
クレンキット「教室ではすまなかったね。…彼女たちも悪気があってのことではないんだ、できれば許してあげて欲しい。」
ロイ「いえ、そのことに関しては、こちらの配慮不足でした。昨日のできごとは、私とあなたの中では既に完結していましたが…私たちの影響力を考えるならば悪目立ちするような行動は控えるべきでした。」
クレンキット「…それで、僕の元を訪ねてきた理由を聞いてもいいかな?正直に言って、なぜ君が僕に会いに来たのか分からないんだ。」
昨日の決闘において、クレンキットは一方的にロイを打ちのめした。
それに対し恨み辛みを述べるというのなら納得がいくが、ロイの様子を見る限りそうは思えない。
昨日の決闘前と何ら変わり無い平然としたその表情…あれだけの出来事がありながら、何事もなかったかのように振舞われては流石のクレンキットも困惑を隠せない。
ロイ「理由は二つありますが、一つは謝罪です。」
クレンキット「…謝罪?」
ロイ「はい。」
気絶させるほどの力を振るったクレンキットが、傷つきに傷ついたロイに対し謝罪するならばともかくなぜロイが?
そんな疑問が頭を過るが、その理由を聞いてクレンキットは不思議と腑に落ちてしまう。
今回の一件でレイナはクレンキットに対しあまりいい印象を抱いていない。
そのことを知ったロイは、自分が傷ついてしまったせいでレイナとクレンキットが仲違いをしてしまったと思い…こうして直接謝りに来たのだという。
クレンキット「君が気にするようなことじゃない…と言っても、君は気にするのだろうな。」
ロイ「はい…あの時私が、もっと上手く立ち回っていればこのようなことには…。」
クレンキット「そうだな、君が変に粘らず素直に降参を認めていればこうはならなかったのかもしれない…。けれどね。」
クレンキット「あの時の君は、僕の望むものを見せてくれた。僕はあの時感情の赴くままに決闘を仕掛けたけれど…それでもあの戦いのおかげで僕は確信することができた。」
クレンキット「だから僕から君へ感謝することはあっても、君がこの件に関して僕に謝罪する必要はないんだよ。」
クレンキット「けれど君はそんなことで納得したりはしない…そうなのだろ?」
ロイ「…はい。」
クレンキット「ならばこう考えてみてはどうだろうか。…君は僕の望むものを僕に与えたという報酬と、僕の起こしてしまった行動により向けらてしまった感情…その二つは互いに相殺し合うものであり、君が感じるべき罪悪感はない。」
クレンキット「…どうだろうか。こう考えれば少しは気が楽になると思うのだが。」
ロイ「…ありがとうございます。そこまで私の気持ちを汲んでくださったことに何も感じないわけではありませんが、いつまでも自分の揚げ足を取り続けてクレンキット様を煩わせるわけにもいきませんのでこの辺りにしておきます。」
クレンキット「是非ともそうしてくれ。君が恐縮してしまっていると、こちらとしてもやりづらいものがあるからね。…さて、謝罪の件はこれで終わりとして…君が訪ねてきたもう一つの理由を聞いてもいいかな?」
ロイ「はい、それは…。」
…。
フィーリア「え、えっと…よろしくお願いします!…で、いいのかな?」
クレンキット「ああ、思う存分宜しくされてくれたまえ。僕はそのためにここにいるんだからね。」
翌日の放課後、フィーリアとクレンキット…そしてお目付け役でもあるレイナは、特訓の代名詞でもあるあの湖に集まっていた。
最近は常にロイと共に行動していたこともあり、近くに彼を感じられないことに僅かな寂しさも感じるが…そんな気の緩んだことを言ってはいられない。
なにせここには、いつも密かに行っている特訓とは別の特訓をしに来たのだから。
クレンキット「それじゃあ早速始めようか。僕はこのまま構えているから、好きなように打ち込んでみてくれ。」
フィーリア「は、はい!」
両者の持つ木刀がぶつかり合い森に木霊する。
ロイがクレンキットの元を訪ねたもう一つの理由…それはフィーリアに剣の教えを説いて欲しいというものであった。
再試験においてフィーリアが対峙するのは軟体動物である巨大ダコ。
その足を切り落とすにはやはり剣を振るうのが一番である。
しかし、フィーリアの剣の腕はそれほど優秀とは言えず学園内では下から数えた方が速いほど。
そういったこともあり、先日の件で見事な剣術を披露したクレンキットにロイは声をかけた。
本当はロイ自身が特訓に付き合っても良かったのだが、対人戦に不慣れな己よりも剣の腕が立つクレンキットに教えを乞うた方がより上達するだろう。
とは言え武器の作成にはフィーリアの意見や協力が必須なため、剣術の特訓はロイが鉱石集めに出かける日のみということになっている。
ちなみに当初はレイナも鉱石集めに加わる予定ではあったが、クレンキットが指導するとのことで万一のための監視を買って出た。
先日の件があるため警戒するのも無理はないが、それほど過剰にならずともクレンキットは十分に反省しているし大丈夫…とフィーリアが説得したが、これに関してレイナは意見を曲げる気はなく今こうして同行している。
フィーリア「はっ、はっ…はぁっ。」
打ち込みを始めてまだ十分と経っていないが、体力のないフィーリアは既に息が上がっていた。
初めから本格的な対戦をするよりは、まずフィーリア自身の剣筋を確かめたいとのことでクレンキットは好きに打ち込ませていたが…それ以前にこれでは長期戦を凌ぐことができない。
クレンキット「よし、大体は把握した。こちらの方で少し考えをまとめたいから、このまま休憩にしよう。」
フィーリア「え、もういいの?」
クレンキット「何も実践を繰り返すだけが剣の道ではないさ。素振りは剣を手に馴染ませるためにも必要だし、日々の基礎トレーニングは欠かせない。」
クレンキット「再試験までの日数からして期待できるほどの成果が得られるわけではないが、それでもやらないよりはましさ。」
フィーリア「そっか、そういうのも必要になってくるんだね…。」
クレンキット「大抵は魔法でどうにか出来てしまうから、こういったことを考える女神は中々いないだろうね。」
クレンキット「それじゃあレイナ君のところへ行って休んできなよ。僕はあっちの方で軽くメニューを組んでみるから。」
…。
レイナ「お疲れ様。随分早かったようだけど、もう終わったの?」
フィーリア「ううん。なんかトレーニングのメニューを組むとか言って、その間は休んでいいって。」
レイナ「…そう。なら遠慮なく休みなさい。…はい、水筒。」
フィーリア「うん、ありがとっ。」
木刀を必死に握っていた感触がまだ残る手で水筒を受け取り、口を付けその中身を飲み干していく。
火照った体に冷たい水が染み渡る感覚はいつ体感しても色褪せることなく、心と体を癒してくれる。
クレンキットのあの口ぶりからして、今日から毎日何かしらのトレーニングをすることになるのだろう。
体力もなく運動神経も良いとは言えないフィーリアは、これからしばらくは筋肉痛が続くんだろうなぁと…そんなことをぼんやりと考える。
付け焼刃に過ぎないといっても、この特訓で得られるものは必ずあるはず。
この特訓を経て少しでも強くなれるのなら、体が悲鳴を上げるくらいなんてことはない。
魔法が思うように扱えない苦しみを味わうことに比べたら…筋肉痛に悩まされることなど、本当に些細な悩みである。
…。
その日はそれから走り込みや筋力トレーニング、体感トレーニングを行い特訓は終了した。
木刀を交えた剣の練習をする日も含めて、今日行ったトレーニングは毎日続けること…それがクレンキットの言い渡したメニューであった。
終盤はない体力を最後まで絞り切り、なんとかメニューをこなすことができたが…その直後に地面へ倒れ込んでしまったのは言うまでもない。
完全に力尽きてしまい起き上がることすらままならないフィーリアを担ぎ上げるレイナ。
そしてお礼の言葉をクレンキットへ投げかけ、その場を後にする…感謝の言葉を投げかけてくれるとは思ってもいなかったクレンキットはその言葉に面を食らってしまう。
だがその割り切った態度はレイナらしいなと、クレンキットは去り際を見送りながら微笑する。
そばにある湖を眺めながらに思う…やはり女神の役に立てるというのは、それだけで心が満たされていく。
明確に誰かのためになることしたのは久しぶりだ…と感傷に浸るクレンキットはとある憶測が脳裏に浮かびその目を見開く。
まさかこれを見越して、ロイは自分に剣を教えてあげて欲しいの頼んできたのか?
レイナと険悪な雰囲気になり多少なりとも気落ちしている自分にそれを頼むことにより、僕自身の願いの一端を叶えさせてくれた。
…と、思わず出来過ぎな妄想をしてしまったが、それはありえないだろう。
あの一件でロイがこちらの意図を汲み取っていたとしても、直接クレンキットの口からそれを話したわけではない。
…話したわけではないが、もし仮に推測でも構わないからその願いをクレンキットに叶えてあげようとしたのだとしたら…。
やはりロイという人間は、どこまでも女神に尽くす…人間の鑑である。
…。
ロイ「くっ…はぁっ、はぁ…はぁ…っ!」
クレンキット「…。」
そして夜中の湖に木霊するのは、二つの木刀が交わる音。
静寂に包まれた森の中で、ロイは果敢にクレンキットへと襲いかかる。
それを平然と受け止め受け流し、その勢いを利用し意図的に体勢を崩させる。
集中力をあえて切らす訓練をすることにより、長期戦での持久力を上げるためである。
こうして打ち合いを始めてもうどのくらいになるだろう…かれこれ木刀を握ってから優に一時間は経っている。
先日の決闘の時のような激しい攻防が繰り広げられているわけではないが、絶えず相手の隙を伺い攻撃し続けるには相当な気力が必要。
休む暇もなく木刀を振り続けていたロイだが、一度休憩を挟むべきと判断したクレンキットは構えを解きロイにそう告げる。
クレンキット「それにしても意外だったな、君が僕に剣を教えて欲しいとは…。君がこのアスケイドにいる間に強くなる必要は、あまりないと思うのだがね。」
あの時ロイが剣を教えて欲しいと頼んだ時、その相手はフィーリアだけではなかった。
自分も、空き時間で構わないから剣を教えて欲しい…それを聞いた時は深く考えず了承したが、やはり疑問はわいてくるもの。
クレンキット「それに、わざわざ特訓の時間をずらして欲しいと言ったことも…。僕としては一向に構わないが、なにか理由でもあるのかい?」
ロイ「…確かに今は、フィーリア様の再試験に向けての武器作成が最も優先されるべきです。けれどそれは、日々の鍛錬を怠っていい理由にはなりません。」
ロイ「私に剣を教えてくれる人はもういません。…だからこそ、クレンキット様にご教授いただければと。」
ロイ「あとは単純に…フィーリア様にこれ以上心配をかけたくないのです。あの方は、私のことを常に気にかけてくださっている…。」
ロイ「だからあの方の前で努力しているさまを見せるわけにはいかないのです。」
クレンキット「…なるほどね。君の行動原理から言えば、君の行いは全て理に適っているというわけか。」
ロイ「いえ、そんなことは…。これは単純に、私のわがままです。」
クレンキット「ふむ…確かにそういった面はあるのかもしれないが、それでも君が女神を想っていることに変わりはない。…違うかい?」
ロイ「それは…。…違わない、です。」
クレンキット「ならそれでいいじゃないか。…僕も君と似たようなものだからね、君の気持ちは痛いほどよく分かる。」
ロイ「あの、それはどういう…。」
クレンキット「そうだね…端的に言ってしまえば、僕もこの世界の真理を知っているからさ。」
…。
クレンキット・ティテラン…女神の楽園に身を置く彼のその名は、偽名である。
クレンキットを名乗る前にその者を表していた名は『キャリス』。
幼き頃の彼女は、まだ己が異質な存在であることなど知る由もなかった。
彼女が周囲のあり方に対し疑問を抱くようになり始めたのは、保護園を卒業する少し前のことだった。
以前から些細な違和感を感じてはいたが、周囲の女神たちは一切それを気にする素振りはなく…ただの思い違いであると思っていた。
しかし、成長しカトラーナに通うようになりある提案をメルローズから提示された時…クレンキットは理解した。
…ああ、自分はこのために生まれてきたのだ、と。
己がそれに選ばれた理由は、己がそれに気が付くことができたから。
クレンキットは素直にそのことを受け入れることができたが…だからといって提示された提案に動揺しないわけではなかった。
それは、端的に言ってしまえばその身を捧げろということ。
反抗しようにもここはメルローズの作り上げた城…己の意に反するものを従わせる手段などいくらでもあるだろう。
事実彼女はユティーナの存在を用いて非人道的な行いをこれまでに幾度となく繰り返してきた。
…あの滅神大戦を経験した彼女にもはや慈悲で流す涙などなく、ただ冷酷なまでにこの世界の平穏を守り続けるだけ。
そのために己の存在が必要不可欠であることは理解できても…それでも己を失うという恐怖がなくなるわけではない。
幸いにも今すぐ結論を出す必要はないとのことで、寮に帰ったあとはじっくりとそのことについて思案を重ねた。
瞼を閉じ暗闇に浮かぶのは、感情の起伏に乏しい我らが女神の姿。
この世界の礎となる運命にある彼女たちを笑わせてあげたい、幸せにしてあげたい…。
それが、クレンキットの望むものであった。
その後の面談にてそれをメルローズに伝えた結果、クレンキットのその望みは本人が提示した条件付きで認められた。
それからは自身を『クレンキット』と名乗り、己の風貌をガラリと変え周囲にそれを見せつけた。
結果、『王子』として皆から慕われる…そんな人気者に、彼はなったのだ。
…。
クレンキット「ここにいる女神たちは、皆報われぬ運命にある。…だが、それでも僕は彼女たちに笑っていて欲しいんだ。」
クレンキット「それが無意味なことは理解している。今彼女たちが幸福を感じていたとしても、それはいずれ必ず失われる。」
クレンキット「僕の自己満足であることには変わりないけれど…それでも、彼女たちが笑顔でいてくれる…それが僕の望みなんだ。」
それは、生きることに疑問を持ったクレンキットにしか成しえることはできない。
一方的で押し付けがましくどこまでいっても自己満足に過ぎない…。
けれどそうしたいと、そうしてあげたいと思った気持ちに偽りはない。
自分が与えることのできる幸せはどこまでも偽りであり、本物を与えることなどできない。
どこまでも薄っぺらく中身のない、取り繕った己の気持ち。
だが、そうと分かっていても彼女たちに手を差し伸べてあげたかった。
その差し伸べた手に誰も気が付かなかったとしても、それで構わない。
見守る彼女たちが笑顔で毎日を過ごせているのなら…それだけで彼は満足なのだから。
クレンキット「…さて、思いの外語りすぎてしまったね。聞いていて退屈だっただろう。」
ロイ「そんなことはありません。女神様への愛が溢れた素敵なお話でした。」
クレンキット「そうか。君のような素直な者に讃賞してもらえると、こちらとしても嬉しいものだよ。」
クレンキット「さて、それでは休息も十分に取ったところで、稽古を再開しようか。」
ベンチに立てかけておいた木刀を手に取り、先程木刀を交えたところへと歩き出すクレンキット。
それに続くようにしてロイも立ち上がり同じく立てかけておいた木刀を手にする。
そして先程打ちあった場所へと戻り、二人は再び互いを見据え木刀を構える。
夜の湖畔に鳴り響く乾いた音は、風のざわめきと共に流れていく。
その信念の方向性は違えど、同じく女神の幸福の祈る両者は、内に秘めたる互いの思いを知り共感しあう。
それが思い上がりでないことは、己と…そして相手の心のあり方を考えれば明白であった。
『全ては女神のために』
その願いが誰の救いにもならないことは理解している。
他者を思いやるという綺麗な言葉でいくら着飾ったとしても…その思いは押しつけであり、どこまでも自己中心的でしかない。
しかし…それでも彼らは願わずにはいられない。
自身は決して報われず、そして彼女らもまた決して救うことなどできない。
だからこそ彼女たちには笑顔でいてほしい…可能であるならば、己が己であり続けるその最後の時まで。