Climax-3
この技を使うのは今日が初めてだったが、まさか本当にアレニウスが起動できなくなるとは思わなかった。今の今まで半信半疑だった。
辺りは真っ黒な世界に包まれていて、どこに限界があるのか、壁はどこか天井はどこか、一切わからなかった。ただ、自分がその場に立てていることだけが確かだった。
ニュークリアーは僕から少し離れたところに立っていて、ニュークリアーはここがどこであるかを理解していなった。無理もない。僕も最初に聞いた時は理解できなかった。説明を受けてもなお、理解できなかったのだから。
幻術師であるニュークリアーは幻術を出そうとするが、幻覚をかけようとするが、しかし一切発動できない。
「チッ、あのクソ幻術師が」
ニュークリアーは舌打ちをして、僕に襲い掛かってくる。
全力で僕の元へ駆けてきて、その右の拳で僕を殴ろうとする。しかし僕も学校で格闘技を学んでいたため、その右腕をとり、うけ流す。
ニュークリアーはバランスを少し崩したが、流される勢いそのまま僕の左足の内股を刈る。僕は股を割りそうになったが、体より先に地面についた右手をバネのように使って起き上がり、ニュークリアーの攻撃に備える。
今度は右足のハイキックが後頭部を迫ってくる。対応しきれずに左手でガードするのが精一杯だった。僕は勢いそのままに吹っ飛ばされる。
この空間には壁がないので勢いが完全に死ぬまで吹っ飛ばされた。間髪入れずにニュークリアーが僕の上に飛び乗るようにしてエルボ―を僕の喉元にきめにくる。
しかし僕は腰をあげて下半身の力だけでニュークリアーの胴体に蹴りを入れる。空中にいたためダメージを受けながせずにダイレクトに衝撃が加わり、ニュークリアーは上空に高々と身を投げ出される。
僕はその間に立ちあがり、ニュークリアーが地面に落ちるタイミングを狙ってドロップキックを入れる。僕が思っていたよりもニュークリアーの体重は軽かったようで、僕の左足にきた反動は予想より少なかった。
少し、足首に負荷が加わっただけだった。
その勢いのまま、僕は寝ているニュークリアーにマウントをとり、ニュークリアーの顔をひたすら拳で殴る。殴る。
自分の拳が徐々に痛くなってくる。しかしそれ以上に、ニュークリアーに与えているダメージの方が大きいだろう。
鼻が折れ、脳が揺れ、目が見えなくなる。
ふと、僕の拳が止まった。
僕は今、こうして自分の母親を殴っている。自分の母親の上に乗り、母親の胴に蹴りを入れて、母親の鼻を自分の拳で折っている。
なんだか大罪を犯している気分だ。
その一瞬の迷いがアダになった。右臀部に何か鋭い痛みがした。
ニュークリアーがナイフで僕の右臀部を刺したのだ。
「クソ」
僕はニュークリアーの上から退けて距離をとる。なぜアレニウスを起動できないこの世界でナイフを持っているのか。
しかしそれを察したようで、ニュークリアーは説明する。
「幻術や幻覚ってのは、本物を補うようにするのが一番正しいのよ。ね。大剣だと思わせておいて、実際には短いナイフだった。確かに幻覚よりも威力は弱いと考えがちだけど、幻術だと見限った敵の心臓に短いナイフがグッサリと刺さる。それがどれほどのダメージになるかわかるかい?ね。一度心臓にナイフをキッチリと刺してしまえば、ダメージの蓄積が大きすぎてアレニウスは起動できなくなる。そうしたらどちらが勝つかは鮮明だ。ね。それができないようでは、それが理解できていないようでは、一流になるなんて到底無理じゃない?ね?」
そう言った直後にニュークリアーは凄い速さで走って僕との距離を詰めてくる。今度は右手にナイフを持って。
振りかざしたナイフに当たらないように攻撃したい、が。
ニュークリアーのナイフさばきは達者でなかなか隙を見せない。かわして、かわして、少しかすめるのが精いっぱいだった。
なんとか展開を変えたい。
「ナイフなんて卑怯じゃないのか」
僕の口から出たのは最低のセリフだった。もちろんニュークリアーも当然の言葉を返す。
「殺し合いに卑怯なんて概念があると思っているのかい。考えが幼稚すぎるね。どんなにアレニウスを使ったところで所詮はガキか」
ニュークリアーは話しながらも、しかしナイフをふるう手は弱めない。
正直なところ、僕の方が体力の限界が近いことは明白だった。そもそも僕とニュークリアーとでは単純に力の差が大きい。さっきまでは僕とコールラウシュさんの2人で2:1の構図だったためなんとか戦えていたが、1人になってしまうと単純な経験の差や技術の差がダイレクトに影響してしまう。
あまり時間をかけると技量の差によって決着がついてしまう。よりスムーズに決着をつけなければいけない。いつも僕は同じ方法しか出来ない。僕は無力だ。
見て、観て、視て。
ニュークリアーの動きをじっくりと見る。僕は一瞬の隙を逃さないように、じっくりと見続ける。見張る。
そう。
一瞬の隙を僕は見逃さなかった。
本来ならかわせるはずの攻撃をわざと右肩に直撃させる。
「いっ」
そのナイフは僕の右肩を深々とえぐった。ナイフの隙間から僕の鮮血が溢れ出す。
僕はニュークリアーの伸ばしたナイフを持つ左腕を取ろうとする――が、僕の右腕が一切動かなかった。予想よりもナイフが深く入りすぎていた。右腕の神経ごとえぐりとられていた。
ニュークリアーの伸ばした左腕をとって投げようと思っていたのに、腕が片方ダメになってしまえば投げられない。僕は本能的にニュークリアーの逆の肩を掴んで、こちらに引く。
そのままヘッドバットをした。
2人の頭が衝突し、ニュークリアーは少しの時間だけひるむ。
そのまま、僕は左拳で殴り、そして殴る。あごをかちあげるように拳を振るうと、ニュークリアーの脳は揺れて倒れた。
僕は倒れているニュークリアーの左手を何度も踏みつけてナイフをニュークリアーの手からはがし、それを手にして再びマウントをとる。
そのナイフでニュークリアーの右目を刺す。絶叫をあげながらニュークリアーは両手で目を覆おうとするが、僕は両肩をナイフで刺して、次いで両手をナイフで刺す。
ニュークリアーの動きは完全に止まる。
勝負は決まった。明白だった。
目から、鼻から、肩から。ニュークリアーは血を流している。もう痛覚もはっきりと痛みを認識できていないだろう。
最後に潔く逝かしてあげるのが勝者の役目である。僕はナイフをもう一度握りなおした。ミスは許されない。
僕はそっと、ニュークリアーの首にナイフの刃をそえる。
これで僕は母親とは完全に決別する。両親と決別して、1人のヘルムホルツとして生きていくのだ。親のいない、家族のいない1人の人間として。
ふと、僕は気になる。
「最後に1つ聞いていい?」
「何をよ」
母親は穏やかな顔をしていた。なんだか少し不貞腐れているような気もしたが、どちらも死期を目前とした人間の表情とは思わなかった。
「名前」
僕がそう言った時、母親は少しあきれたような様子をみせて、そして答える。
「ヘルマン・シャルロットよ。母親の名前くらい、覚えておきなさい」
僕は最後の言葉を聞いて、母親の首をナイフでスッと切る。頭が血を流しながら勢いよく吹っ飛んで数メートル先に転がる。
首を切った後も僕は動くことはできずに、母親の上に乗ったままだった。時間が経つとともに、母親の体温が下がっていくのが分かる。
もう何分が経っただろうか。
僕は何もない空間で1人、呟いた。
「ヘルマン・シャルロット……」
それは僕の記憶にある、母親との唯一の会話だった。




