Tenpure 3-7
「もう絶対にマグロは食べない」
僕はシンギュラリティさんにボコボコにされて精神的に惨めになっていたので、苦し紛れに捨て台詞を吐き捨てた。
「だから私はマグロじゃないですよ。確かに私のアレニウスはマグロをモチーフにしたものですけど」
マグロを模した技はべつに問題なかったのだが、なんの問題もなく手強かったのだが、それよりもアレニウスを起動させるとマグロ臭くなるのが嫌だった。
稽古中ずっと生臭かった。
そんなことよりも、僕はてっきり今日、ニュークリアー討伐のためにフィストリアに向かうと思ったのだが、まさかもう1日この屋敷にいるとは思わなかった。なんで他の人が観光している最中に僕は稽古されているのだろうか。
悲しかった。
僕は稽古中に泣いていたのかもしれない。
もちろん嘘である。泣く余裕などまったくなかった。
そして時間は進んで夜、つまりは今である。
晩御飯を食べましょう!という提案を僕は了承して、屋敷の中にある食堂へと連れていかれた。食堂とは言っても社員食堂のような大衆的な場所ではなく、入るのに二の足を踏んでしまうような高貴な場所だった。天井は高く、シャンデリアが慎ましく発光している。部屋の中央には白無垢のような清潔さの長いテーブルが1脚、置いてあった。
床は相変わらずモコモコの絨毯が敷いてあって、膝が弱い人にも優しく設計されている。
部屋には誰もいなかった。
「他には誰もいないんですか?」
「ええ、他の人は街で食べると言っていましたよ」
薄情の集まりかよ。
友情を感じていたのは僕だけだったのか。
悲しい。
「私達が君を置いて食べに行くとでも思ったのかい!」
シャルルさんの声がした。僕は部屋の中をグルグルリと見渡してシャルルさんを見つけようとするが見つからない。テーブルの下、絨毯の裏、僕の影の中と探してみるがシャルルさんはどこにもいなかった。
「私はここだ!」
というシャルルさんの声と共に、部屋が不規則に明暗を繰り返した。
僕はたまらず上を向く。
シャンデリアの上にはシャルルさんがいた。シャルルさんだけでなく、コールラウシュさんにウィルヘルミーさん、ローリーさんにバラールと総勢5人が1つのシャンデリアの上に乗っかっていた。
可哀想なシャンデリア。
というよりも、シャンデリアは5人が乗るように設計されていないので非常に不安定な状態で全員が乗っている。ローリーさんなんて鯉のぼりのようにしてウィルヘルミーさんの腕に掴まっている。 シャルルさんはしゃがんで、コールラウシュさんは寝転がって、ウィルヘルミーさんが仁王立ちしていてローリーさんがそれにしがみつく。バラールはなぜか逆立ちをしていた。
もっとお互いを思い合うことはできないのか。
チームワーク0かよ。
「ヘルムホルツ君も来たことだし食事にしようか」
シャルルさんはシャンデリアから飛び降りるが、それによってシャンデリア内のバランスがずれてシャルルさん以外がアワアワしている。
微笑ましく見守る。
やっぱりチームワーク0だった。
なんやかんやで全員が無事にシャンデリアから降りた。
どうやら屋敷にはシンギュラリティさん以外にも使用人はいるようで、僕達が席に着くとスムーズな手つきで料理が運ばれてきた。しっかりと教育が行き届いているのだろう。
こんなにも立派な屋敷で出てくる食事といえば、やっぱりカレーライスだった。
豪華なカレーライスを食べたことがあるだろうか、辛さ云々に関してはどんなに捻くれていてもケチのつけようはなく、1つ1つの食材はしっかりと丁寧に処理されている。ルーだけでなくライスもルーに合うような固さであり、甘さである。
とりあえずカレーライスを食べておけばいい感じがあるな。
とにもかくにも、カレーライスを完食したのだ。食後にバニラアイスクリームが出たりもしたが、非常においしかった。ほんの束の間の、平和的な時間だった。
食後の自由時間が与えられたときに、人は何をしたいと思うだろうか。多くの人はとりあえず部屋に戻って休憩したいと思うだろう。しかし僕には部屋が与えられていなかった。困った僕はコールラウシュさんに聞くことにした。
「僕は今日、どこで寝ればいいんですか」
「どちらがいいか答えてくれるかしら。1つは私と一緒に寝る。もう1つは廊下で寝る」
「一緒に寝ましょう」
「決まりね」
実質一択じゃないのかこの質問。廊下は絨毯が敷いてあるのでフカフカだが、自尊心がガタガタになるのでプラスマイナス0だった。
こっちよ。と言って歩き始めるコールラウシュさんの後ろをついて歩く。朝は寝ぼけたままで屋敷の裏に連れていかれ、昨日の夜は幻術で部屋が無数にあったの状態だったので僕はコールラウシュさんの部屋の場所を覚えていなかった。
食堂を出てから長い廊下を進んで右に曲がり、そこからまた長く進んでいって突き当りにある螺旋階段を駆け上がった後に廊下をさらに進む。螺旋階段から100mほど進んだ先に部屋があった。この屋敷の大きさを身をもって知った。
僕はコールラウシュさんの部屋に入る。昨日は気付かなかったが、この部屋はなんとも形容し難い良い匂いで充満している。
匂いに加えて草原の中にいるような雰囲気を全身で感じた僕は心地よさを感じて、僕はゆっくりと深呼吸をする。
が、空気を吸おうと口を大きく広げた瞬間、僕はコールラウシュさんに壁まで押し付けられ、僕の口の中にコールラウシュさんの左手が無理矢理入った。その拳は僕の口の中に隙間なく詰まり、僕は気持ち悪くなって吐きそうになるがそれをさせてくれない。
コールラウシュさんは胸ポケットから白い粉が入っている袋を取り出した。コールラウシュさんは僕の口に入れている拳を少し開いて隙間をつくり、そこから袋の中の粉を僕の口に入れる。僕はたまらず咳き込もうとするが、コールラウシュさんに口を閉ざさないようにされているために上手く咳き込めない。僕の口にはさらに水が入る。コールラウシュさんは僕の口の中から手を出したと思ったら今度は僕の口をふさいで無理矢理に上を向かされる。
僕の意思に逆らって水は胃の中へと入っていった。いくつかの水が粉と共に食道を通ったことを感じた僕は諦めて全ての水を飲んだ。
水を飲み終わるとコールラウシュさんは僕の口から手を離してくれたので、僕はコールラウシュさんに聞いた。
「何を飲ませたんですか」
「ペリエよ」
「いや水の方じゃなくて……」
水道水でよかったのに、わざわざミネラルウォーターを用意してくれる思いやりがあるなら強引に粉を飲ませないでほしかった。
「ああ、この粉の話?これはゾルピデムよ」
「ゾルピデムって睡眠薬じゃないですか」
「あら、博識なのね。まあ、これは一般に処方されているゾルピデムよりは効き目が強い物質だから10分もすれば眠たくなってくるわ」
「そんなことよりも、僕は何で睡眠薬を飲まされたんですか?」
「きっと君は緊張して眠れなくなるからよ」
「御名答ですね」
確かに昨日もあのイザコザ扮装劇が無かったら緊張が睡魔よりも上回ってしまって眠れていないだろう。
「もう寝るといいわ。寝付くまで私が添い寝してあげる」
半ば強引に部屋のベッドへと連れていかれる。まだ強引に薬を飲まされた理由を聞いていなかったのだが、それよりもじわじわと利いてきた睡魔を退治したかったので目を覚ましてから聞くことにしよう。
もぞもぞと僕は3人ぐらいなら簡単に眠れるであろうベッドの中に入る。反対の方向からコールラウシュさんも入る。
僕とコールラウシュさんは向かい合うような形になるが、コールラウシュさんの方が僕よりも身長が高いので目線は合わなかった。
しかしそんなことは気にならず、僕はコールラウシュさんの懐に入りこむように、手足を曲げて子宮にいる逆子のような体勢になって、僕は目をつむった。コールラウシュさんは僕を優しく包みこむようにしたので、僕の体はコールラウシュさんの温もりで隙間なく、身も心も緩やかに温められたのだった。