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短編いろいろ

豆腐屋「紅葉」繁盛記 ~尾花、洋装と出会う~

作者: 道草家守

 

 大きなビルの建ち並ぶようになった、寿市の松竹駅前にある商店街。

 こいつは、その一角にある俺の豆腐屋「紅葉」に、狐娘、尾花が居候し始めたばかりの話だ。


 一緒に住む以上、家事は分担すると取り決めたが、文明の利器にいちいち驚く尾花に下手なもんは任せられねえ。


 それでもどうにかしなきゃなんねえと、はじめに任せたのは掃除と皿洗いだった。

 掃除機はともかく、箒や雑巾だったら使えたし、皿洗いは蛇口をひねる以外は百年前と変わりない。

 幸いにも尾花は、こっちがちゃんと教えれば、手は遅くともきちんとやり遂げられた。

 しかも飲み込みも良い上よく気付くから、教えて2日も経つと家中が埃一つ見あたらず、食器棚のガラスコップの一つ一つまでぴかぴかになっていて、思わず苦笑いだ。


 俺も作業場は隅々まで掃除するが、家の方はめんどくせえと、つい手を抜いちまっていたからな。綺麗になったのが一目でわかる。


 まあともかく、そうして掃除と皿洗いをクリアした尾花に、なら大丈夫かと次に任せたのが洗濯だ。

 稲荷本山がどうだったかは知らねえが、これから暮らしていくのは現代社会だ。うちでも家電の利用は避けて通れねえ。

 というわけで、ボタン一つで何とかなる洗濯機を使うとこから教えてみた。


「このような風呂釜で本当に洗濯ができるのかの……?」

「できるぜ。手洗いよりかは汚れは落ちねえが、大物も小物もいっぺんに洗えるから忙しい主婦の味方なんだよ。ほれ、ここ押してみな」

「な、なんじゃ。ぴこっと言ったぞぴこっと!」

「これで電源が入ったから、後は洗いもんと規定量の洗剤を入れる。そしたらふたを閉めて、このボタンを押す」

「み、水が勝手に!? 妖術かっ! ふお、今度はぐるぐる回り始めたぞ!?」


 はじめはこわごわとしていた尾花だったが、動き始めたとたん、洗濯機の中で水に揉まれる洗濯物を、のぞき窓から夢中になってのぞき込んでいた。

 洗濯だと聞いてたくしあげていた着物から、いつの間にやら尻尾が飛び出てぱたぱた動くのが何とも楽しげだ。

 まあ、何となく面白いのはわかるけどよ、脱水が終わるまで離れなかったのには笑ったぜ。


 その後一人で任せてみたら、ボタンを押しても動かねえとパニックになったり(電源ボタンを押してないだけだったが)、洗剤の分量を間違えて泡がすすぎきれてなかったり、色物と一緒に洗っちまって、白い肌着が紺色に染まっちまったり、さんざんだったけどよ。


 しょんぼりと萎れて反省した後は二度と同じ間違いは犯さなかった。

 初めて完璧に洗濯物を干すまでできたときは、狐耳までだして喜んでいたな。


「洗濯は、洗濯機いっぱいになったら回せばいいからな。だいたい2日にいっぺんぐらいだ」

「うむ、了解した。洗濯物なら任せるのじゃぞ、紅吉殿!」


 とまあそんな感じで、洗濯は尾花の役割になったわけだが。


 ちなみに俺が洗濯を早いうちから尾花の役割にしたのはちょいと理由(ワケ)がある。


 実は洗濯物は、俺のものが圧倒的に多い。

 食品を作る関係上、作業着にしている作務衣や手ぬぐいは毎日変えるからだ。


 だが尾花は百歳越えの妖孤とはいえ娘っ子、男にさわってほしくねえ物はあるだろう、と俺にしては気を回したわけだ。


 ちなみに、服はどうしているのか聞いた日は、尾花は少し後ろめたそうな顔でこう話した。


「わしはまだまだ修行中のみであるゆえ、変化できるのは体のみなのじゃ」

「じゃあ、今着てんのは本物の着物か。着替えはあるのか」

「うむ。御山を出る時に頂いたのが一着と、替えの下着は何枚かあるゆえ、しばらくは問題ないぞ」


 胸を張る尾花に苦笑いしつつ、俺は今の洗濯事情を説明した。

 着物はあんまり洗わねえもんだったが、それも今は昔。

 下手すると毎日洗うんだと言えば、目を丸くしていた。


「さほど汚れては居らぬのに毎日洗ったら、着物が傷んでしまうではないか」

「まあ、そうなんだけどよ。今の人は清潔衛生ってのが口癖だから、気をつけなきゃなんねえんだ。着物や帯はともかく、肌着は洗えよ」

「うむ、郷に入っては郷に従えじゃな」


 とまあ、こんな感じのやりとり以来、尾花の腰巻きや肌着が物干しざおで風にそよぐことになったわけだ。


 だが、尾花に任せてから二、三度目の洗濯の日。

 休憩の最中日差しの下で風に吹かれる洗濯物に目がいった俺は、違和感を覚えた。

 今日干されているのは、俺の手ぬぐいが何本かと作務衣が3枚、下着のTシャツとふんどしが同じだけ。

 今はふんどしが再ブームとかで、柄物も増えて楽しい限りだ。

 そんでもって尾花のものは半襦袢と肌着と腰巻きがひとそろいと、寝間着にしてる浴衣が一着だ。

 大物が目立つからかと思ったが、そうじゃねえ。


 何かが、足りねえ?


 店で使う布は別で洗っているから、ここにあるのは本当に家の物だけだ。

 タオルの本数でもねえな、ならなんだ。

 靴下は……あるな。尾花の足袋もだ。

 ちなみに俺の靴下は五本指が一番だ。異論は認める。


 だが、こうして見ると、尾花の肌着の数が心もとねえな。

 腰巻きも半襦袢もすり切れる前に買ってやらなきゃなんねえか。

 あと着物だな。そろそろ冬に入るって時分だ、上に羽織るか下に着込むもんがねえとこれからは寒かろう。

 そこら辺の面倒を見てやれんのは俺だけだから多少の出費はしょうがねえ。

 どれだけ家に居ることになるかわからねえが、いつか稲荷本山に請求できるといいんだがな。


 洋装だと安く手にはいるんだが、一からそろえるとなると大事(おおごと)だ。

 和服を一度でも着たことがある奴ならわかるだろうが、あれは下着から何から違うから――――……


 そこに思い至った瞬間、俺はたらりと嫌な汗が頬を伝うのを感じた。

 いや、まさか、冗談だろ。


 もう一度、洗濯物を見る。

 そして改めて確認した俺は、矢も盾もたまらずばっと身を翻した。


 広くもねえ家ん中を探し回ると、尾花はたすき掛けをして、風呂場の掃除をしていた。


「紅吉殿、いかがしたのじゃ?」


 黒々とした瞳をきょとんとさせている尾花は、着物の裾を帯に挟み込んでたくしあげていて、ほっそりとした足が露わになっていた。

 その桜色に染まる膝頭から、緩やかなカーブを描く太股をうっかりたどっていきかけたのを強引に顔に戻し、俺はその細い両肩に両手をおいた。


「尾花、気を悪くしないで、正直に答えてくれ」

「な、なんじゃ。顔色が悪いが……」

「おまえ、パンツはどうしてるんだ?」


 俺は、ここで殴られてもかまわなかった。

 杞憂だとわかればそれ以上に良いことはねえ。

 ほら、一緒に洗うのとか見られるのが恥ずかしいからと別に洗ったり、部屋干しするってお嬢さん方も世にはいるわけだしな!

 だが、俺の祈るような問いかけに、無情にも尾花は不思議そうに瞳を瞬かせたあと、こてりと小首を傾げたのだ。


「ぱんつ、とはなんじゃ?」


 心底不思議そうな顔をする尾花を直視できず、俺はその場にどっとしゃがみ込む。


 そうだった、その可能性をすっぽり忘れていた。

 女ものの洋装下着が下町にまで浸透したのは昭和初期。

 それ以前に下着と言えば、腰に一枚の布を巻き付けるだけの腰巻きやら湯文字やら肌襦袢だった。

 尾花は明治の初め頃に御山へ入り、一歩も出ずに外界を知らなかったと言っていたから、理屈は通る。


 つまり、今、尾花は履 い て な い(・ ・ ・ ・ ・)


 俺もそれなりに長く生きているが、これほどの問題には直面したことがねえ。

 頭を抱える俺のそばに、尾花が心配そうに近づいてきた。


「紅吉殿がそれほど困られているのであれば、とても大事なものなのじゃろう。精進するゆえ、教えてほしい。ぱんつとは、どういったものなのじゃろか?」


 そうして両膝をついて、真摯に願われたのだが、前屈みになると、ゆるんだ襟元から肌色がのぞくわけで、ほのかにふくら……全力で顔を背けた。


 落ち着け、ちょっと待て、俺はロリコンじゃねえぞ。

 もうちょっと年のいったきれいなねーちゃんのほうが好みだしそれにこいつは百歳越えのばあさん、いや俺の実年齢からすればロリコンの半ちゅ……だあああややこしいなおい!?


 しかも考えることはそこじゃねえ、パンツを知らねえってことは当然ブラジャーも知らねえわけで、昔は乳バンドとか言ってなんだそれだっせえネーミングとか笑ってたもんだが、見た目だけとはいえ10代前半の娘が、パンツとブラジャーの知らねえのはかなりまずいわけで……俺が説明するしかないのか!これを!?


 だが、そのままにしておいて万が一下着をつけていないなんてことが商店街の人様にばれたら、俺はロリコンと性犯罪者のレッテルを貼られて刑務所行きだ。

 そこまでいかなかったとしても、世間様の信用は地に落ちる。


 くっそう、やるしかないのかよ!!


 悲壮な覚悟を決めた俺は、これからについてめまぐるしく考えつつ、まず尾花に着物の裾をおろすように願ったのだった。








 さんざん悩んだ結果、俺はネットの知恵袋サイトで全国の年頃の娘を持つ親御さんの知恵を借りた。

 こんな時は情報化社会のありがたみをしみじみ感じるぜ。

 そうして精神力をがりがり削られながら、俺はパソコンで女性下着メーカーのサイトを開いて尾花に見せつつ、今の下着事情について教え込んだ。


 スタイルのイイお姉ちゃん方が着ている色とりどりのブラジャーとショーツの画像を見た尾花は、耳まで真っ赤にして顔を覆っていた。

 驚きのあまりか狐耳まで飛び出してら。


「今のおなごはこ、このような物を身につけておるのか!? 洋装でなくとも!?」

「あいにく女物の和装下着はよく知らねえが、似たようなもんをつけるらしいぜ」

「こんな小さい布切れと胸覆いなど、は、破廉恥ではないかっ」

「いや、見えねえから。まあ、こういうところで好きにおしゃれする奴もいるらしいし、それが今の普通なんだよ。――と言うわけで、今度の定休日に買いに行くぞ」

「なにっ、これをわしにも身につけろとな!?」


 愕然とする尾花に俺が重々しくうなずいてやると、見る間に顔がゆがんだ。 


「股があるものは、殿方の履くものじゃろう? ど、どうしても身につけなきゃだめかの」


 今にも泣きそうな尾花に、俺はちょっと言葉に詰まった。

 俺もだいぶ現代感覚になっちまってるが、百年前までは、娘っこが股付きのもんを履くのは考えられねえことだったんだよな。

 男勝りと罵られちまうほどで、ズボンをはいてるだけで違和感があった。

 パンツの前のズロースだって、戦後にならなきゃ浸透しなかった。

 明治の感覚そのままの尾花にとっては、ハードルが高いのも当然だ。

 だが、俺は心を鬼にした。

 なんていったって、(俺の)人間社会の生き残りがかかっている。


「ああ。人間社会に生きる以上、ぱんつははかなきゃなんねえんだ」

「う、うう……」


 観念したらしい尾花がしょんぼりと狐耳をへたらせるのに、地味に罪悪感がわいた俺だった。








 **********







 まあそんなこんなで、数日後。

 店の定休日に、俺は尾花をつれて外出していた。


「おい、尾花、もうちっと堂々と歩け」


 言いつつ俺が小突けば、今日も今日とて着物の尾花は、恨めしげに見上げてきた。


「……だって、股がもぞもぞするのじゃ」

「……それ、絶対人に聞こえるところでは言うんじゃねえぞ」


 何とも言い難い顔でしきりに腰と言うか尻を気にする尾花に、俺は声を落として言った。

 今の尾花は近所のコンビニで買った間に合わせのぱんつを履かせている。あいにくと、商店街には下着を置いている店がなかったもんでな。


 履いて部屋を出てくるまでそりゃあ時間がかかったもんで、こうしてで歩けるだけ、よくやったと言ってやりたいのは山々なんだが。

 気になるのはわかるが、そう顔を紅くして足をすりあわせているといらぬ勘違いをされそうでやめてほしい。

 知り合いとすれ違う前に駅にたどり着きたいのだが、尾花が不思議そうに俺を見ていることが気になった。


「あん、どうしたよ」

「今日の紅吉殿は、洋装なのじゃな」


 確かにいつもは作務衣に長靴の俺だが、今日はシャツにジャケットの洋装だ。着物って時もなくはねえが、いかんせん着楽でな。

 尾花に矯めつ眇めつ物珍しげに眺められた俺は、どうにも居心地が悪く、目を隠すためのニット帽をかぶった頭に手をやった。


「まあ、お前だけでも目立つってのに、俺も着ていたら妙な注目浴びるからな。それに今から行くところには、こっちがなじむんだよ」

「それは確かに感じておる。伝統がどうのこうのと言う気はないが、寂しいもんじゃな」


 街ゆく人を眺めた尾花は、取り残されたような心細げな表情をしていた。



 そうして電車で数駅のところにある大型ショッピングモールを目指したのだが。

 初めての改札に初めてのエスカレーター、そんでもって初めての電車移動と初めてずくしの尾花は、早くも目がうつろだった。

 家の中はだいぶ慣れたと思ったが、やっぱり外は別もんか。


「き、汽車がかように、速い乗り物じゃったとは。それにしても人が多いが、祭りでもあるのかの?」

「いいや、普通に買い物したり通勤したり、日常の移動だけだよ。休日だとこれの倍くらいはいるぜ」

「なんと。もはや驚くことがありすぎて訳が分からぬ……」

「尾花、本番はこれからだぜ、気をしっかり持てよ」


 駅はともかく、ショッピングモール内はさすがに平日だけあって人がまばらだった。

 フロアガイドを眺め、目的の店を見つけた俺は、地上から最上階まで貫く吹き抜けにぱっかりと口を開けて眺めている尾花の肩を叩いて促して早々、難関にぶち当たった。


「……」

「おい、尾花」

「ま、待つのじゃ。あともう少しで一人で乗れる気がするゆえ」


 動くエスカレーターを、まるで親の敵のように見つめてタイミングを計っていたが、草履を突っかけた足を出しては引きを繰り返すだけで、いっこうに乗れる気配はない。

 ちなみに駅では後ろがつかえたもんで、乗るのをあきらめて階段を使った。


 本当に、箱入り娘ならぬ山入り娘なんだなとは思うが、このまんまだと日が暮れる。

 軽く息をはいた俺はさっさと尾花の横に並ぶと、その片手を取った。

 握ると驚いたようにこわばった手は、思っていたよりも細くてちいさかった。


「きゅ、急に何をっ」

「一緒に乗ってやるから、それで覚えろ。それ、いち、に、さんっと」

「ふえっ」


 戸惑う尾花をまるっと無視して手を引けば、反射的にでた足が階段に乗った。


「ほれ、簡単なもんだったろ?」


 上階に移動し同じ要領で降りて傍らを見下ろせば、尾花の様子がおかしい。


「どうした?」

「……その、手を、離してくださらぬか」


 紅色に染まった顔をうつむかせて、今にも消え入りそうな声で言うのに俺は面食らった。

 その通りにしてやれば、尾花はほうっと息をついた。


「すまぬ。と、殿方と手をつなぐのは初めてだったのでな。……その、今は、殿方がおなごの手を取るのも普通なのかの」

「ま、まあそうだな。昔よりは抵抗はねえとおもうぜ」


 そこまで照れられるとこっちまで恥ずかしいじゃねえか。

 どうにも調子が狂うと頬を掻いていると、尾花は思い詰めた風で自分の手を見つめていた。


「ならば、わしも慣れねばなるまいの」

「いや、そこはいいんじゃねえの。人それぞれだからよ」


 これがいい方法だと思ってなんも考えずにやっただけで、実際、子供やら恋人でもなきゃ、手をつないだりはしねえからな。

 だが、尾花は真剣に言ったものだ。


「じゃが、郷に入れば郷に従えじゃろう。すまぬが、もう一度頼む」

「お、おう」


 たかだかエスカレーター一つでそこまで思い詰めんでもいいだろうに。

 とは思ったものの、向上心があるのは良いことだ、と俺は覚悟の表情で片手を差し出された手を取ったのだった。


 そうしてやってきた女性下着専門店は、店内の明るさとファンシーさといい、並べられたかわいらしいランジェリーといい、全力で野郎を拒絶していた。


「いいか、尾花。これが財布だ。打ち合わせ通りにやれば何とかなるはずだからな」

「うむ、あいわかった。仮にも狐ゆえ、言葉は何とでもなる」


 その自信ありげな言葉とは裏腹に、尾花は多少心細そうな表情でこちらを振り返りつつそのまま店に入って行く。

 俺がちょうど店の中が見える位置にあったベンチに腰掛ければ、店員に話しかける尾花の声が聞こえた。


「その、ぶ、ぶらじゃーをあがないたいのじゃが」

「あら、お嬢さん一人かしら?」

「母は死別しておるゆえ、一人でまいった。このようなこと父に相談するのも気恥ずかしいのでな、相談に乗ってはくれまいか」

「……まあ、それは苦労したのね。お姉さんに任せなさい!」


 中堅どころの店員ははじめちいとばかし着物姿の尾花に違和感を持ったようだが、その説明を聞くや否や一気に好意的になった。

 あるいは、尾花が少し術を使ったのかもしれねえが、ともかく割とスムーズに店奥へ入って行くのが見えて、俺はほっと息をつく。


 今の時代ネット通販で何でも買えるのに、どうして割高になりかねねえショッピングモールの専門店に来たかと言えば。


 ……ぶっちゃけサイズがわからなかったのだ。


 知恵袋の向こうの親御さんたちによると、ファーストブラとやらにもステップがあって、膨らみの成長に合わせたもんを買ってやらねばいけねえとか何とか。


 尾花の外見年齢は13、4。

 そりゃあ、ほんのり膨らみがあるのは着物の上からでもわかる。


 だが、そのサイズを測るためには巻き尺を当てなきゃなんねえわけで、巻き尺を当てるには下着同然にならなきゃいけねえわけで、それを俺がやるわけにはいかねえだろ!?


 ついでに俺には下着を買ってやることはできても付け方を教えることは出来ねえ。

 それを解決する策として、専門店の店員に任せることを思いついたわけだった。


 まあ、他にもあるんだが、それはともかく。手持ちぶさたの俺は、フロアガイドを眺めて時間をつぶす。

 エリア内最大級とか言うふれこみだが、その名に恥じねえ豊富な店舗数だ。

 その広さを利用して草木の覆い茂る中庭もあるらしいな。

 ペットもつれては入れるそこは、イベントごとにももってこいと、そういうことだろう。


 こんなのが商店街の近くになくて良かったなあとのんびり考えて待つことしばし。

 ようやく例の店員さんに見送られて尾花が店から出てきた。


 ……あんまりにも出てこないもんで、これはちいと様子を見に行った方がいいのかと思っていたところでほっとしたぜ。


 片手をあげて主張すれば、まっすぐこちらに向かってくるが、顔色がどことなく悪いような。

 店の袋を持っているところからしてちゃんと買えたようではあるが、なんかあったか?


「お疲れさん。ちゃんと教えてもらえたか」

「うむ、だいたいはわかった。売り子殿にも、着物の客は珍しいとかで、勉強になったと感謝されたのじゃ」


 そりゃそうだろうな。わざわざ脱ぎ着が面倒なもんを着て来店する客なんて居ねえだろう。


「とりあえず、着物にもつかえるすぽーつぶらなるものと、普通のをあがなって参った。だがまだ育ちそうではあるから、その都度購入することを勧められた」

「……ぅおうそうか」


 声が妙にうらがえる。

 思わず胸元に視線をやれば、袖を広げて隠された。


「み、見るでない。今はちゃんと付けておるぞ」


 ……それがさらに墓穴を掘っていると気付いてくれ。

 とりあえず広がりかける想像を隅に押しやりつつ、返された財布の中身を見れば、諭吉氏と野口氏が数枚持っていかれていた。


 男もんとはやっぱり値段がちげえな……(遠い目)


「その、すまぬ。紅吉殿の言うとおりの数をあがなったのじゃが、かような値段になってしもうた」


 確かに痛い出費だが、ネットで値段見て覚悟を決めていたしな。


「いんや予想範囲だよ。さて、次は洋服一式そろえるぞ。あって困るもんでもねえし」

「う、うむ」


 さくさくすまさねえと日が暮れちまう、と歩き出そうとすると、意外にも尾花が素直についてきたので、ちょいと驚いた。


「どうした尾花、出かけるまではあんなにいやがってたのによ」

「いや、その……」


 大事そうに下着の入った袋を抱きしめていた尾花は、不意に顔を明るくして言った。


「早く人界に慣れたいとおもったでな。改めて考えればたかが服じゃし、たいしたことではなかろう」

「そ、うか。まあ着る気になってくれたんなら助かるよ」


 ファストファッションの流行で、安い洋服はいくらでも手にはいるから、変に悩まなくていいのは助かる。

 というわけで、俺は贔屓にしているファストファッション最大手の大型店舗に連れていき、暇そうな店員に願って任せてみた。


 声をかけた若い姉ちゃんの店員は、日本人形のような尾花に目を輝かせて親身になってくれたのだが、きらきらとしてと言うよりぎらぎらさせて今風のやたら短いスカートやらショートパンツやらを勧めてきてな。

 だがそれを尾花が文句も言わずに受け入れて、さらにはここで着替えていくと、山盛りの服と一緒に試着室へ消えていった尾花には驚いた。


 そりゃあもう天地がひっくり返るくらいに。

 呆気にとられていた俺は、その間に若い姉ちゃん店員の押しの強さに促されるまま会計をすませたのだが。


「……」

「な、なんじゃ、どこかおかしいところでもあるかの」

「いや……」


 店で買った洋服を着た尾花は見違えるようだった。


 あの店員は服を見る目は確かだったようだ。

 初冬らしく、生成色のブラウスに葡萄色のスカートは尾花の清楚な雰囲気によく合っている。


 いや、正直言うと、驚いた。

 着物はしっくりくると思っていただけに、着慣れていない洋装だとちぐはぐになるかと思っていたが、そんなことは全くなかった。


 見慣れた洋服を着ていると、なんだかそう、可愛さがダイレクトにわかるというか。

 履き物も、間に合わせの草履ではなくショートブーツに変わっていて、コーディネートに抜かりはない。

 と、いうか、いつのまにブーツまで?

 まあ、レシートを見る限り、下着の合計よりも若干安く抑えられていたから、良しとしよう。


「よく似合ってるぜ。初めての洋服はどうだ?」

「なんとのう、たよりない」


 そりゃあ、着物よりも足は出るし、帯はないし、色々あるだろう。

 尾花は心細そうな顔でしきりにスカートの裾を気にしていて、落ち着かない様子だ。だが俺が見ていることに気づくと表情を和らげた。


「じゃが、今の世のおなごがぶらじゃーやぱんつを身を付ける意味がようわかった。確かにこれは必要じゃな」


 したり顔で言う尾花にちょいとずっこけかけたが、まあ大丈夫ならそれでいい。


 スマホを見ればちょうど昼時、飯にするか。

 確か、ここからだと中庭を突っ切った方が早かったかな。

 最前まで見ていたフロアガイド思いだし思案した俺は踵のあるブーツに戸惑う尾花にあわせてゆっくり歩いた。


 空気はちいとばかしひんやりしているが、中庭は日差しが差し込みぽかぽかしていて気持ちがいい。

 中庭に出されているテーブルとイスにはちらほらと人がいた。

 昼食休憩のサラリーマンもいるが、ペットを引き連れた奥さん方も多い。


「紅吉殿、どこへ向かっておるのじゃ」

「フードコートだよ。飯屋がたくさん集まって好きに食いもんを買える場所だ。確かうどん屋もあったから、きつねうどんでも食うか」


 案の定、尾花は「きつねうどん」の言葉に反応した。


「なに! きつねうどんとな!?」

「おう、たしか讃岐の本場を再現したチェーン店だったはずだから、だしも関西に近いんじゃねえか」

「それはうれしいの、甘いおあげはたべたいっ」


 一気に表情を明るくした尾花に、俺はちいとばっかしほっとした。

 さっきから元気がないようにみえたが、何だ、腹が減ってただけか。


「んじゃま、買ってくるからそこら辺の椅子に座って待ってろや」

「む、わしも手伝うぞ」


 いったん座りかけていた尾花は、俺の隣に来ようとしたのだが、脇から奥さん集団がやってきた。

 それぞれにチワワやらダックスやら柴犬やらの犬っころをつれているが、ちょいと様子がおかしいな。

 ご主人たちを置いてけぼりに、まっすぐ尾花の方へ向かってくるのだ。


 一方尾花の方も、さっきまでの元気はどこへやら、一歩二歩とたじろいて、どことなくおびえてる?

 判断がつかずに俺が足を止めると、ようやっと追いついた奥さんが柴犬に呼びかけた。


「キャシー? どうしたの?」


 おう、柴犬はキャシーかよ。

 俺がどうでも良いことを思った瞬間、柴犬がワンッと尾花に向かって吠えかけた。

 続いてチワワもダックスも、キャンキャンウォンウォン吠え立てる。


「変ね、滅多に人様に吠えない子なのに。こうら、大五郎だめしょ!」

「ね、みかんちゃん、もう良いから、やめなさい」


 口々に言うが、犬っころたちは全く吠えやまない。

 尾花もどことなく顔色が悪い?

 俺がどう動くか迷っている間に、チワワ(大五郎)が尾花に突進していくと、牙をむいた。


「……ッ!!」


 尾花は間一髪でそれを避けたが、一気に血の気の引いた頭と尻から、ぽんっと本性が飛び出した。


 慌てて狐耳に手をやる尾花だが、ふっさりとした尻尾が勢いよく飛び出したことで、短いスカートは舞い上がる。


 そうして葡萄色の布の陰から、見覚えのある縞柄の三角の布がのぞいた。

 おおう。

 俺の視線に気付いた尾花は真っ赤になってスカートを押さえたのだが、そうすれば頭は丸出しになるわけで。 


「え、耳……?」


 目を丸くする奥さん連中のひとりが口にしたその人ことがきっかけになった。

 未だに吠え立てる犬っころたちに、真っ赤になったり真っ青なったりしていた尾花は、とたん、くるりと身を翻して駆けだした。

 たちまち犬っころは後を追いかけようとするが、俺はその前に立ちふさがった。

 しょうがねえ、確か犬も大豆は食えるよな。


「ほれ、おやつだ、取ってこい!」


 俺が「豆腐小僧」の権能で作ったひりょう頭を見せてから遠くに放れば、犬っころどもはたちまちそっちを追いかけていった。

 そうして、呆気にとられる奥さん方に営業スマイルを浮かべつつ、黒塗りの盆に乗った豆腐を差し出した。


「奥さん方、豆腐の試食はいかがですかい?」





 **********





 豆腐に夢中になってくれた奥さん方をおいて探しに行けば、人気のない階段の隅で耳と尻尾を縮こまらせる尾花がいた。


「尾花」


 呼びかければ、ブラウスに包まれた細い肩がびくりと震えた。


「……すまぬ。わしはまだ未熟であるゆえ、犬はだめなのじゃ。吠えられると、どうしても変化を保っていられぬ」

「犬に吼えられると、霊力が弱まるんだっけか」 


 しょんぼりと肩を落として今にも消え入りそうな尾花は、俺の問いにこくりとうなずいた。

 俺はその傍らにしゃがみこんで言う。


「しょうがねえよ。誰だって苦手なもんはあるし、あの奥さん方はお前のことを忘れちまっているはずだから大丈夫だ」


 カビ生えなしの、ただめちゃくちゃうまいだけの豆腐を食った記憶に上塗りされて、直前の狐娘なんざ思い出しもしないはずだ。

 と、尾花からすすり泣く声が聞こえてぎょっとする。


「すまぬ、すまぬ紅吉殿。迷惑をかけぬようにとがんばっても、逆効果になるばかりじゃ。はやく慣れねばならぬと思うのに、全然うまくいかぬ」


 こちらを振り向いた尾花の目からぽたぽたと流れる涙に、俺は途方にくれつつそれだけは気付いた。


「やっぱり、洋装は無理してただろ」

「っ!」

「何で自分から言い出したんだ」


 一瞬だけこちらを見た尾花は、あきらめた風にぺったり耳を伏せ、うつむいた。


「……先の店の売り子殿に、洋装よりも和装の方がずっと高価だと聞いての。なんでも、この下着の値の何十倍もすると言うではないか」

「まあ、確かに」


 まともな呉服屋で新しいものを買えばかなりの値段はするな。


「わしは、あくまで居候。今でも十分世話になっておるのに、たかが着るもので紅吉殿に負担をかけとうない……」


 それで、途中から文句を言わなくなったんだな。

 時代や文化の変わりっぷりに目を回して、それでも必死こいて馴染もうと努力して。

 俺に迷惑かけたくねえからって、自分の意志も曲げて押し込めちまって。

 どんだけ不器用なんだよ、この狐は。


 はあああと、俺は深く息を吐いた。


「確かに人一人養うってのは結構金もかかるもんだと実感したがな。俺は俺の都合でお前さんを養うって決めたんだよ。

 一緒に暮らすからにはちゃんと言いたいこと言え。まずは口に出してもらわねえとわからねえ。引け目を感じて我慢されちゃそっちの方が迷惑だ」

「じゃ、じゃが……」

「ついでに言えば施しでも何でもねえ。今まで買った分はこれからお前に働いて返してもらうんだからよ。取りあえず、嫌なもんはいやって言え」


 俺はそこで一息ついてから、戸惑いに瞳と尻尾を揺らす尾花をのぞき込んだ。


「んで、本当のところ、洋服はどうなんだ」


 尾花は長いこと沈黙していたが、泣きそうに顔をゆがめつつも小さく口を開いた。


「……これが今の普通なのじゃと分かるし、可愛いとも、すこしは思う。―――じゃ、じゃが、わしはこんなぴらぴらしたもの、い、嫌じゃ」

「おう、わかった」


 尾花は驚いたようにぴんと耳を立てた。


「よ、良いのか。このまま着物で」

「まあ、洋服だと色々弊害があるってことが分かったからなあ」


 言いつつ、視線をおろせば、露わになっている尻尾をあわてて抱えた尾花に、恨めしげににらまれた。


「……そう言えば、紅吉殿、わしのぱんつをみたな」

「仕方ねえだろ見えたんだから。……それよりも、そんな思い詰めることでもなかったんだよ。服ぐらい好きなもん着ればいい。手もあるしよ」


 言いつつ、耳と耳の間にぽんと手をおいて強めになで回した。

 一瞬固まった尾花が目を白黒させるのを眺めつつ、俺はちいとばかし反省する。


 今回ここにつれてきたのは、尾花の話したことがどこまで本当か、確かめる為でもあった。


 豆腐屋「紅葉」のある商店街界隈は入道組のシマで、実質俺の管理下にある。

 だから、妖怪が派遣されてくるのなら、必ず俺に通達があるはずなのに、尾花は突然やってきた。

 明らかに怪しい尾花のその素性と思惑を推し量るために、手元に置いて観察をしてきたのだ。


 だが、ここ一週間と少しで、少なくとも本人は疑わなくて良いと薄々気付いていた。

 にも関わらず、それでも芝居のぼろを出さないかと性急にいろんなもんを覚えさせていたのを自覚している俺は、今になってちょいと罪悪感に襲われている。


 尾花が下界に不慣れなのは疑いようもなかったし、こんな度が過ぎるほどの卑屈さなんて演技でもいらねえ。

 にしても、思ってたより尾花の髪の毛はさらさらしてんのな。


「こ、紅吉殿。い、いつまでなでるのじゃ!」

「おお、わりい」


 顔を真っ赤に尾花から手を離し、代わりに俺のニット帽をかぶせてやった。


「これで耳は隠れるだろ、尻尾はひとまず上着を腰にまいとけ」

「う、うむ」


 俺がいつもの手ぬぐいを頭に巻きながら言えば、尾花はおろおろしつつも支度を始めた。 

 まあ、頭に手を置こうとしたときのこわばり具合やらなにやら気になるが、今はなんか、尾花になんか元気になるもの食べさせてやるか。





 **********




 人目に付かねえように多目的トイレに移動して着替えさせたのだが、尾花の耳と尻尾は引っ込められなかったもんだから、足早にうちに帰って昼飯にした。


 常備している冷凍うどんをあっためて熱々の白だしをぶっかけて、甘辛く煮た油揚げとネギを乗っけただけのお手軽きつねうどんだ。

 あ、七味は別ぞえな。


「うまっうまいぞ紅吉殿っ!! おあげが、おつゆがっ」


 さっきまでの落ち込みはどこへやら、表情をきらっきらさせて夢中でうどんをすする尾花の前に、俺が例の物をおいてやると、その手が止まった。


「こ、これは……おいなりさんっ!!」

「あぶらげを余分に煮たからな。中身が冷や飯を温めなおして作った寿司飯だから風味は劣るが、今日がんばったご褒美だ」


 すると尾花は、ひどく驚いた顔で俺を見る。


「わしは、なにをがんばったかの?」

「なにって、電車は乗ったし、エスカレーターは乗ったし、一人で下着を買いに行った上、洋服まで着ただろ。これだけ初めてのことに挑戦して、どこが頑張ってないんだよ」

「じゃが、人様の前で変化が解けかけて……」

「んなもん、それとこれとは別だろう」


 それが原因の失敗でもあるまいしと言えば、不思議そうに目を瞬かせていた尾花は、おそるおそるといった感じで問いかけてきた。


「……食べて良いかの」

「どうぞ」


 尾花は、神妙に茶色く醤油色になったいなり寿司をつまむと、そっとかじった。

 見る間に表情がほころぶ。


「しあわせじゃ……」


 えもいわれぬため息とともにつぶやかれた言葉には万感がこもっていた。


「今度はちゃんと炊き立ての飯で作った酢飯でつくってやるからよ」


 手抜きだと自覚している俺は、幸せそうにいなり寿司をかじる尾花と目を合わせられず、自分のうどんをすする。


「食い終わったら、また出かけるぞ」

「どこへじゃ?」

「近所だ。今度こそお前の着替えをそろえにいくぜ」


 いなり寿司を食べ終えた手を名残惜しそうになめていた尾花は、俺と目が合うと恥ずかしげに拭いつつも、困惑の表情だ。


「じゃが、着物は高いのじゃろう」

「そんなたっけえもん元から買わねえって。俺にまかせな」


 そうしてまた出かけたのは、商店街も端のほう、路地を一本入ったところにある店だった。


「こちらの方にはまだ来たことがなかったが、このようなところにも店があったとは」

「ここらへんは商店街でも特に古いところなんだ」


 何てったって、三代前戦後直後からあるからなあ。


「善蔵、いるか?」


 呼びつつ無造作に引き戸を開けて中に入れば、尾花はあっと驚いた。


「着物じゃ……!」


 店に入ってすぐ目に付くのは壁を埋め尽くさんばかりの棚に積み上げられた大量の着物や帯だ。


 脇にはハンガーラックにつるされた着物も陳列され、薬っぽい樟脳のにおいが漂っている。

 奥を眺めれば、上がり框に座っている、白髪頭のじじいが新聞からちらりと顔を上げるのと目があった。


「おまえのような若造に呼び捨てにされるいわれはないがな。ようやく来たか」

「おう、来た。適当に見繕わせてもらうぜ」


 まあ今じゃじじいになっちまったが、善蔵は洟垂れだったガキのころからしってっからなあ。

 つい忘れて呼び捨てにしちまう。

 そのとき入り口で呆気にとられていた尾花が得心したように手を打った。


「ここは、古着屋か!」

「ご名答だお嬢さん。ここは明治から続く古着屋でね。俺のじいさんの代からここで商ってるんだ」


 突然善蔵に話しかけられた尾花はびくっとしながらも、あわてて奴に頭を下げた。


「お初にお目にかかる、ただいま紅吉殿の元で世話になっている尾花と申す」

「知ってるよ。豆腐屋の若造んところに着物の可愛い嬢ちゃんが住み着いた、ってのはその日のうちに知れ渡ったさ。何時つれてくるかと楽しみにしてたんだが」

「忙しかったんだよ」


 主に尾花に一般常識を教えることにな。

 俺の返答に肩をすくめた善蔵は、尾花に向かって言った。


「俺はこの着楽屋をやってる善蔵だ。こんなちっさな嬢ちゃんがこんなに当たり前に着てるとは嬉しいねえ。着物困ったことがあればいつでもおいで」

「う、うむ。店主殿、感謝する」


 言ったところで、俺は勝手知ったる何とやらで尾花を手招きした。

 男物の着物も扱ってるんで、よく世話になってんだ。


「取りあえずこの棚あたりで好きなもん選びな。帯はここ、値札がみどりのやつな。着物は二着、帯は三本までなら許す。あと、冬用の羽織も忘れんな」


 着物一着につき帯三本あれば着回せるってのが着物だ。

 それだけあれば当面は大丈夫だろう。

 俺が指し示しなが言うのに、善蔵が割り込んでくる。


「男だったら、そんなしみったれたことを言わず、店で一番高い絹物でも買ってやれ。俺も喜ぶ」

「柔らかもんなんか着て仕事できるかっての。木綿やら化繊やらが一番だ。あと、腰巻きと肌着、後で履き物も見せてくれ。いくつかあんだろ」


 善蔵はちっと舌打ちすると、のっそりと動いて奥へ消えていった。


「よ、良いのかの。それだけ買ってもろうて」

「良い分しか言ってないぜ。好きなもん選びな」


 何てったって古着だ。しかも着物自体需要が低いから、あるところには着物一着で洋服一着分もしねえのもごろごろある。

 元から尾花をここにつれてこようと思ってたのを、ぱんつ騒ぎで延期することになったのだ。


「それに、豆腐屋に着物姿の看板娘が立つって言うのもなかなか乙なものだと思ってよ。だからそれは必要経費だ」


 尾花が気に病まないように言い添えた出任せだったが、なかなか悪くねえかもしれねえな。


「そう、か。気を使わせてすまぬ」


 だがすぐに気付いちまったらしく、申し訳なさげな顔になった尾花の額にぴしりとでこぴんをいれてやる。


「阿呆。そういうときはありがとうって言うんだよ。お前みたいなかわいい娘っこがそう言っておけば、たいていの野郎はいちころさ」

「そ、そう言うものか」

「そう言うもんだ」


 ったく、なんで俺が狐相手に男を手玉に取る方法を教えてんだか。

 額を押さえていた尾花は、ちょっと視線を泳がせつつも、照れたようにはにかんだ。


「あ、ありがとう」

「おう、どういたしまして」


 その後、たっぷり時間をかけて帯三本と着物一枚、それと羽織が一着に履き物二足、洗い替えの下着を選んだ尾花はそれは生き生きと楽しげだった。


 何だ、そんな顔をもできるんじゃねえか。


「荷物、もってやろうか」

「いいや、それには及ばぬぞ」


 まあ確かに、めちゃくちゃ嬉しそうだもんな。

 夕暮れ時の帰り道、大事に大事に着物の入った紙袋を抱えた尾花は決意の表情だ。


「必ず、看板娘として役立つぞ」

「それはありがてえが、無理すんなよ」

「大丈夫じゃ。ご指導ご鞭撻よろしゅう頼む」

「んじゃまずは、レジ打ち覚えるところから始めるか」

「うむっ!」


 元気に返事をした尾花は、その翌朝からはじめたレジ打ち講義に半泣きになるのだが。


 まあ、それはともかく。

 寿市松竹駅前にある商店街。

 その一角にある豆腐屋「紅葉」に看板娘が立つようになるのはもうそろそろのようだった。






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― 新着の感想 ―
[気になる点] 「紅吉殿、いかがしたのじゃ?【-[ ]】」 下着の合計よりも若干安く【[押さえ]→[抑え]】られていたから、 【+[ ]】未だに吠え立てる犬っころたちに、 【+[ ]】言いつつ、視線を…
[一言] 尾花の健気さがたまらないですねー 番外だけと言わず、不定期でいいのでシリーズが読みたいものです
[一言] 初めて読ませていただきました、面白いです! なんかこう、続きが欲しいくらいです、読んでいて楽しいです!ありがとうございます!
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