後編
「例の男性はここへアップルパイを食べに来たんだ。恐らく店側も彼の為にアップルパイを用意していた。だから美咲さんも彼にメニューを渡さなかった」
普段アップルパイは用意されていない。
そのアップルパイが彼には出された。恐らくは注文もしていないのに。
その時点でこの意見は先ず間違いないだろう。
「それは分かるわ。でもアップルパイを食べに来たというのなら走ってきたのは何故?メニューに載ってるならまだしも、載っていないアップルパイは無くなったりなんて事はまず無いわ」
その通りだ。
でも彼には走る理由が確かにあった。
「そこだ。僕達はまず一つ勘違いをしていたんだ」
勘違いというより、考え足らずと言った方が正確かもしれないが。
「僕達は彼はここへ急いで来たのかと思っていた。つまりこの店がゴール地点だと思っていたんだ」
秋吉さんは無言で首を傾げる。僕の要領を得ない言葉に、眉間に皺を寄せている。
「彼はまだある意味急いでいるんだよ」
眉間の皺が深くなっていく。跡が残らないように急いでスッキリさせてあげないと。
「僕はこう考えたんだ。彼はこの店での滞在時間を確保する為に、或いはここでゆっくりできるように、急いで走って来たのではないか、とね。」
僕たちも普段からしていることだ。
休憩時間を長く取る為に仕事を早く終わらす、とか。
外食してても見たいテレビがあるから早めに帰る、というのも当てはまるかもしれない。
何かの為にその前の何かを切り詰める。
彼がしたのはそういう事ではないだろうか。
「滞在時間を確保する為に急いでた、ということは、前後に何か予定があるという事だろうね」
アップルパイをを食べに来る予定があったとして、それ以前に時間に余裕があるならば、もっと早くに来店すれば良いし、後ろに余裕があるならば、そもそも急ぐ必要はない。
「秋吉さん。今日のコンサートのパンフレットある?」
程なくして秋吉さんはバッグの中から綺麗に折り畳められた厚紙を取り出し、それを僕に渡す。それを見て僕の推理が信憑性を帯びていくのを感じる。ニヤリと笑みが溢れた。
「これでここへ来る前の彼のスケジュールが埋まっていることが分かるね。それと秋吉さんが彼を見たことがある気がした理由も」
僕はパンフレットに載った、ある出演者の顔写真を指差して秋吉さんに見せる。
「これって」
秋吉さんは目を見開いた。
「そう、彼だ」
僕が指す顔写真に映る青年と、いま喫茶店カフェのカウンター席に腰掛けている例の彼はそっくりだった。秋吉さんはパンフレット全体に目を通していたから、彼に既視感を覚えたのだろう。僕はパンフレットに目を通しさえしなかったから、全く見覚えなかったけど。
「そもそも彼は服装からして少し変だ。黒いシャツに黒いズボン。少なくとも普段からこういう格好をする人は少ないと思う。特に僕ら頃の若い世代の人はね」
何となく気取った感じに取られるのが嫌で、普段からああいうのを着るのは僕には無理だ。まぁ好みの話ではあるけど。僕と似た感性を持った人は多いと思う。
「じゃあ黒シャツに黒ズボンを着てても違和感はないシチュエーションは何だろう。沢山考えられるけど、彼の場合は……」
「今日のコンサートの出演者だったから」
「パンフレットを見る限りピアニストみたいだね。ピアニストなら舞台の上でこういう格好していても変じゃない。寧ろ格好良いと思う」
「そうね。彼は後半の部のトップバッターみたいだから、私達は彼の演奏を聴かずに帰ったということね。少し心苦しいわ」
秋吉さんは気遣うような目つきで彼を見た。
「まぁそれは置いといて。経歴によると、今彼は大学院生みたいだ。東京の。これで常連である僕が常連らしき彼を見た事が無いのも頷ける。彼は確かにここの常連だったんだろう」
「貴方がここに通い始めたのは5年前で、彼が東京に行ったのも少なくとも5年前」
「ちょうど入れ違いみたいになったんだろうね」
彼が来店して店内をゆっくり見渡していたのは懐かしんでいたからではないだろうか。
「まぁ兎にも角にも、これで彼のこの店に来る前のスケジュールについては分かったね。では後ろのスケジュールはどうだろう」
秋吉さんは少し考える素振りを見せる。
「んー、こればっかりは曖昧なままになりそうね」
「だね。コンサートの打ち上げみたいな物があるのかもしれないし、もっと個人的な何かかもしれない。明日は月曜日で学校もあるだろうから今日中に電車に乗って東京に帰るのかもしれない」
「そうね」
「まぁ、僕の推理が正しいと仮定すると、彼は今回の帰郷でこの店へ寄れる時間 が今しかなかったという事が前提となるけど……」
「それは充分にあり得るわ。長期休暇中ではない今は、長い間帰省してる訳にもいかないだろうし、本番前なのだから、リハーサルや練習で忙しいでしょう」
「うん。まぁ何はともあれ、まとめると……」
僕はここで態と区切り、続きを秋吉さんに任せる。
「彼はコンサートに参加する為に地元へ帰ってきた。そのついでに、かどうかは分からないけど、馴染みの店だったここへ訪れたかった。でも彼はスケジュールがキツキツで、地元滞在期間全体を見渡しても、この店に寄れそうな時間はコンサートで演奏した後の今しか無かった。更に残念な事に、この後も何かしらの予定が入っている。だから彼はここでの滞在時間をなるべく長く確保できる様に、演奏し終えると直ぐに走ってここまで来た」
「うん」
コンサート会場からここまでは1.5キロ位だろうか。その間ずっと走ってきたのであれば、あんな格好にもなるだろう。
「なるほどね。これが貴方の結論ということね?」
「そうだよ」
結論は出した。
間違っているかもしれない。
秋吉さんは満足そうに笑っていた。
――ご褒美が貰える。
「それで、なんだけど。ここから先は本当に僕の妄想で、更に言えばプライバシーを侵害しているかもしれないから話そうかどうか悩んでいるんだけど」
まだ考えなければならないことがある。寧ろこちらの方が重要項目だった。
「美咲さんと彼の関係?」
僕が尻込みしていた件を秋吉さんはあっさりと口にした。
「ここまで来たら嫌でも分かるわ。だから、話さなくて良い」
僕は美咲さんの言葉を思い出していた。
美咲さんは何もしなければ、ただ願うだけでは、人は離れ離れになるものだと言っていた。
彼女の言葉が僕の心にあっさりと入ってきたのは、今思えば、そこに彼女の実感が込められていたからなのだろう。
美咲さんは離れたくない人がいて、でも離れ離れになってしまった。
今居る彼こそが、その人なのだろう。
そう邪推してしまう程には状況が揃っていた。
今は東京に行ってしまって彼とは中々会う事が叶わない彼女。
久しぶりに帰ってきた彼の為に、態々メニューにないアップルパイを焼いていた彼女。
今日一日中、何処かいつもと違う様子をみせる彼女。
必要最低限は関わろうとしない彼女。
そして彼女は勿論、彼もそうなのだろう。
ただ馴染みだった店に久しぶりに寄る為にハードスケジュールの中、それを食い込むだろうか。彼は美咲さんとの時間を長く取りたかったからこそ、そうしたのではないか?
しかし、ここまで来たは良いが、何と話し掛ければ良いか、何を話せば良いか、どうやって想いを伝えれば良いだろうか等々を悩んでいる内に、何も出来ないままいるのではないだろうか。
特別な想いを抱いているからこそ。
彼にとって美咲さんが唯の顔馴染みなのであれば、とっくの昔に彼女に話を振っている筈だ。なにせ久しぶりのご対面なのだから。近況報告位したくなるものだ。
同じ想いをお互いに抱きながら離れ離れに過ごした時間が、彼と彼女に戸惑いを齎しているんだ。
やがて、彼は席を立ちレジに向かう。
美咲さんはウェイトレスとして対応し、彼を見送った。
「ご来店ありがとう、ございました」
いつも通り深く頭を下げる美咲さんは一体何処を見つめているのだろう。
彼女が見るべきは床ではなく彼だ。
彼女は気付いていない。
扉が閉まる瞬間、彼が一度振り返り彼女を見つめた事に。
その仕草は、彼がそこに後悔を置いていった様に僕の目には映った。
美咲さんは彼を見送ると早足にカウンターの左側から店の奥へ入っていった。
程なくしてガチャンという音が店内に響いた。
扉が乱暴に閉められたであろうその音は、彼女に余裕がない証拠だった。
「ごめん秋吉さん。ちょっとトイレ」
僕はそう言って席を立つ。
お節介焼きと、秋吉さんは笑った。
トイレの戸を軽くノックする。
「美咲さん」
何と言えば良いか分からなかった。
でも何かを言わなければと思った。
秋吉さんの言う通り、ただのお節介かもしれない。
美咲さんから直に話を聞いた訳でもないのに、確かな証拠は無いというのに。
でも僕の今の幸せは美咲さんのお陰でもある。だから美咲さんにも幸せになって欲しかった。これが唯の勘違いであればそれで良い。
しかし、そうで無いなら。
恥を掻く覚悟が僕にはある。
「僕には大した事何も言えないですけど、でも、聞く事は出来ます。美咲さんがしてくれたように、僕だって聞くだけなら出来ます」
僕は部外者だ。
部外者の僕に何を言われても、それはただの雑音と大差ないだろう。
でも部外者にだからこそ、話せるという事はある。
僕がそうだったから。
「僕は確かに告白するのに何年も掛けてしまったヘタレですけど、話を聞くくらいは出来ます。相槌だって打てます。同情だって出来ます。利用して下さい。ヘタレなんて自分からは何も出来ない存在なんです。利用される事でしか何も出来ない存在なんです。だから精一杯利用して貰える事ほどヘタレ冥利に尽きる事はないんです。だから是非、都合の良い人形とでも思って利用してみて下さい。美咲さんを独り言を言う変な人から、誰かに話をしている人にする事くらいは出来ますから。声に出してガス抜きしてください。あ、トイレでガス抜きなんて下品ですけど、勿論そう言う意味じゃなくて、その何というか、えっと……」
途中から何を言っているか分からなくなってしまった。
M発言をしてしまっている気もする。
でも構わなかった。
今どうにかしないと、美咲さんは本当に諦めてしまう。
今ここで涙を流し切ってしまえば、大切な想いを完全に封印してしまう。
そんな予感があった。
あともう一歩なのに。
あと一歩で幸せになれる筈なのに。
絶対に諦めて欲しくない。
不意に小さな笑い声が耳に届いた。
それは確かに希望の光を孕んでいた。
「じゃぁ、」
それは今にも切れてしまいそうな程、細い声だった。しかし確かに扉の向こう側から聞こえた、勇気ある言葉だった。
「古賀君、そのまま話、聞いてくれる?」
僕は希望を見た。
「はい!」
力よくそう返事をすると、扉の向こうの人は再び短く笑った。
「彼は小さい頃からよくこのお店に遊びに来てたの。彼の親と私の親が仲が良かったらしくてね、その関係で。私もお母さんがここで働いていたから毎日ここへ来てて、頻繁に顔を合わせているうちに、親交は深まっていった」
「彼はピアノが大好きで、この店にあるあのボロいピアノもよく弾いてたの。彼が弾くとね、あんなピアノでも不思議と音がキラキラ輝いて聴こえてね、私はそんな彼のピアノが好きで、何回も何回も弾いてと強請ったわ。でも段々彼も飽きちゃって、でも私は聴きたかったから、彼の好物だったアップルパイをお母さんに作って貰って、それを餌に弾かせていたの」
当時の事を思い出したのか、美咲さんは笑った。
そして一拍間が空く。
「私のお母さんが死んだ時。私は自分が世界一不幸だと思って、毎日毎日泣いてた。学校にも行かないで、当然この店にも。そんな時ね、彼が私の家にやって来て、私を外に連れ出したの。それも強引に」
「彼は私の2つ年下で、当時は私の方が大きいくらいだったのに、中々手を振りほどけなくてね。その時初めて彼を男の子って認識したんだと思う」
「それで引っ張られて、この店に連れて来られて、あのピアノの側に座らされたわ。私が逃げないのを確認すると、彼はピアノの前に座ってね、弾き始めた」
「その時何を弾いてくれたのか、どんな演奏だったのか、全く覚えてないけど、聴いてる間に涙が出てきちゃって、気付いたら彼が目の前で笑ってハンカチを差し出していて」
「その時から、」
「うん。その時から私は彼が好きなんだ」
それは僕に話すというより、彼女自身が改めて気付いて、つい溢れ落ちたような、そんな口振りだった。
「その内、彼は真剣にピアノに打ち込むようになって、コンクールでも良い賞をいっぱい貰って、勿論私も応援してた」
「その流れで、自然と彼は進路を音大に決めて、東京の大学を選んで……」
「ずっと一緒に居られるものだとばかり思っていたから、離れるなんて思ってもいなかったから。でも私は年上で変なプライドもあったし、何より彼の邪魔になりたくなかったから笑って見送って」
「あの時泣けば良かったのかもしれないと思うときもあるけど、でもやっぱり彼には彼の道を進んで欲しいし、後悔と納得がぐるぐる渦巻いて、よく分かんないんだけど、でも……」
「でも……」
その声は震えていて、か細くて、弱々しくて。
とても美咲さんの想いを詰め込むには頼りないものだったけれど。
「でも一回くらい、泣いてやればよかったかなって……」
「一回くらいなら許されたかもって……」
扉の向こうから音のない泣き声が静かに、しかし大きく僕の耳に届いた。
これは若しかしたら、僕の未来だったのかもしれないのだ。
そう思うと切なさが胸を掻き毟った。
「今回が最後のチャンスと思ってた」
「一ヶ月前、コンサートに参加するために帰郷するって聞いて、だったら久しぶりに店に寄りなよって。アップルパイをこの私が作ってあげるって。変に気張って、お姉さん風吹かせながらだったけど、頑張って誘ったのに」
あーあ、と無理して元気さを取り繕って美咲さんは続ける。
「やっぱり駄目だった。話掛ける事すら出来なかった。結局変な意地はったまま、彼もう帰っちゃった」
あーあ、と再び寂しげに。
「古賀君には偉そうな事言っちゃったけど、ごめんね。こんな私で」
ちょうど一ヶ月前、僕は美咲さんから、あの助言を貰った。しかしあれは、僕に対してだけでなく自分に向けた物でもあったのだろう。自分を鼓舞する為の。
「やっぱり時間って意地悪だよ」
「話の掛け方すら忘れさせちゃうんだもの」
後悔から、諦めに声色は移っていっていた。
「もう、いいや」
「もう、納得した」
ははは、と乾いた笑い声が響き、静寂が訪れた。
多分ここが僕の我慢の限界だった。
僕は相談相手には向かないな。
直ぐに口を出してしまいたくなる。
「美咲さん」
「……なに?」
――――――バッカじゃないですか!?
「ぶっちゃけた話、美咲さんとその人両思いですよ」
何故気付かないのか分からないけど、これは確かだ。まるっきり先程まで部外者だった僕が言っても説得力ゼロだけど。でもそんな僕ですら分かる。
「彼はスケジュールきつきつの中、態々美咲さんのアップルパイを食べに来たんですよ。走って、汗だくになって、息切らして。何でだと思います?」
「なんでって」
「幼馴染みと久しぶりに会って、彼の方も美咲さんと同じ様に美咲さんに話し掛けなかった。何でだと思います?普通会話しますよ!」
人の恋愛ってこんなにイライラするんだな気付く。こんなにお互い想い合っているのに、どうして分からないんだ。
「……」
扉から答えは返ってこない。
「美咲さんもそうじゃないかと思った事くらいあるでしょう。でも勇気が無くて確かめられなくて、やっぱり勘違いだと思う様にしてるだけじゃないですか?叶わない恋なんて腐る程あるけど、貴方達の場合、あと一歩で幸せになれるのに、その一歩を踏み出せないでいるただのヘタレじゃないですか!」
久しぶり声を張った気がする。
気づけば肩で息をして、ほんのり汗もかいていた。そして、何故か涙が溢れていた。
「僕はヘタレは利用されないとなにも出来ない存在だと言いました」
「だから今度は僕が、ヘタレな貴方達を利用してあげます」
大きく息を吸う。
これから言う事は中々エネルギーが要るからだ。
こんな事言うのヘタレの僕には恥ずかしいけど、でもやるしかない。
「僕は近い将来秋吉さんと結婚します!」
瞬間ガシャンと店の方から大きな音が聞こえた。しかし、それについて深く考えが回る程、今の僕は冷静では無かった。
「式では余興として彼にピアノ演奏をお願いしたいんで、連絡をお願いします!それと、そうだな、美咲さんも何か歌って下さい。伴奏は勿論彼で。しっかり2人で練習して下さい!」
「え?」
扉の向こうから素っ頓狂な声が聞こえた。
「分かりましたか!?」
僕が再び大きな声で言うと、
「「は、はい!」」
と、大きな返事が何故か二箇所から聞こえた。
僕はその返事を聞いてから店の方に戻った。最後の方は半ばヤケクソだったが、勇気が出ない時、諦めかけた時はヤケクソになるしかないのだ。
美咲さんもヤケクソになって幸せを掴んで欲しい。
席に戻ると、そこには顔を真っ赤にした秋吉さんがいた。
何故赤いのだろうと考え、そして直ぐに答えを見つけた。そして僕もきっと顔が赤くなっている事だろう。顔が熱くて熱くて仕様がない。
「え、えっと、聞こえてたの?」
秋吉さんは黙って俯いた。
「やっ…り…ご…美…なし」
何やらモゴモゴと言っているがよく聞き取れない。
「え?」
僕が聞き返すと、秋吉さんは顔を上げ、キッと睨みながら口を開いた。
「やっぱりご褒美はなし!」
「えぇ!?」
「これから私の実家に来てもらうわ」
「えぇ!?」
「その前に、ま、正明君の家に一回寄って着替えてもらうわ。勿論スーツ!」
「え、えぇ!?それってつまり」
つまりそういう事なのだろうか。
展開が早すぎてついていけなかった。
彼女はいきなり立ち上がり、これ以上ないくらい顔を真っ赤にさせて――――――。
「分かった!?」
「は、はいぃ!!よろしくお願いします。か、香織さん!!!!」
その後、再びお祝いにと出されたアップルパイを食べた。
お腹は少し苦しかったけど、幸せの味がした。
マスター「娘が男の元に(泣)」
最後まで読んで頂き、あいがとうございます。
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