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前編

「と、いう事があったんだよ」

 そう言い終えて、僕は先程ウェイトレスが持ってきてくれたアイスコーヒーを口に含む。グラスの氷が小気味良い音を鳴らし、僕の話を綺麗に締め括ってくれた。

 同僚に、彼氏が浮気しているかもしれない、と相談された時の話だ。男性の意見が聞きたいからと、社内でも比較的交流のあった僕を相談相手に選んだらしい。普段は明るく親切な同僚の不安げな表情に断るという選択肢は無く、僕は二つ返事で相談に乗った。

 そしてその彼氏の最近の様子、言動などを詳しく聞いている内に、僕の中で一つの仮説が生まれたので、それを伝えてみた所、次の日の朝、「彼氏、いや、旦那の実家の秋田で農作業をしながら幸せに暮らす事になりました」と同僚は嬉々と語った。

 僕の仮説は見事に的中した形となったわけだ。

 僕は今目の前に座っている秋吉さんにその仮説が立った経緯を、身振り手振りを加えて事細かに自慢気に語った。


 秋吉さんとは、僕が高校の時に一目惚れをして以来、7年間の片想いを経て、先月漸く付き合う事になった僕の恋人の事である。


「どう秋吉さん?僕の名推理」


 恋人になって一ヶ月だが、長い間お互い苗字で呼び合っていたものだから、その名残で、未だ下の名前で呼べずにいる。秋吉さんと恋人になるという念願を果たした今、次の目標は秋吉さんを香織さんと呼ぶ事だった。


「古賀くんが普段の弛まぬ下心で培った妄想力が2人の男女を幸せに導いたなんて、感慨深いものがあるわね」


 少し気に障る言い方だが、僕の頰は緩む。別に僕にMの気があるというわけではない。この言は彼女が僕を気の置けない存在だと認めてくれている証拠だと分かるからだ。

 秋吉さんは基本人付き合いに対して淡白で、必要最低限の会話しかしない。そんな彼女が嫌味を言えるのは、同性を除けば、彼女の父と僕くらいの物だろう。そう思うとつい嬉しくなってしまうのだ。


「古賀君ってよく妄想してるのか、声掛けても返事ない時あるものね。その時は決まってニヤケ顔。気をつけた方が良いよ」


 確かに僕は秋吉さんと付き合う前、頻繁に彼女で妄想をしていた。否、していたと意識的にではなく、無意識の内に気付いたらよく妄想に浸っていた。そしてその中では、秋吉さんは何故か変哲もない道の角に居たし、何故かエレベーターの扉が開くとその中に居たりした。そして僕と秋吉さんのラブストーリーが展開していくのだ。

 頻度こそ減ったが、秋吉さんと付き合いだしてからも僕の妄想は止まらず、寧ろ内容は少々エスカレートしている節がある。


「……今背筋に悪寒が走ったわ」


 秋吉さんはその華奢な手で両肩をさする。


「秋吉さん、それはきっと愛だよ」


 愛という言葉に重きを置き、僕はドヤ顔を決める。


「古賀くん。愛は温かいものの筈よ」


 先程の嫌味もそうだが、付き合い始めてからも、秋吉さんはこんな風につれない態度を取る事が常である。 

 まぁ、だからこそデレた時の破壊力は膨大な物になるのだけど。


「そうだなぁ、例えば秋吉さんは普段僕に冷たい態度や言葉を向けるけど、僕を愛してるんでしょ?」


 僕の言葉を受けて秋吉さんが赤面した。

 目が泳ぎ、口も固く閉ざされている。


 そう。この破壊力だ。


「多分それと似た様な物だよ」


「……絶対に違うと思う」


 睨みを効かせながらそう言うと、秋吉さんは紅茶の入ったティーカップを手に取った。紅茶を飲む際も、鋭い視線はこちらを向いており、赤面プラス上目遣いと言う最高のシチュエーションの一つがそこに生まれいた。

 自分の口元がだらしなく緩みきっているのが分かる。


 秋吉さんはそんな僕の態度にムッとしたのか、カップをソーサーに少々雑に戻した。カチャッという音が静かな店内によく響いた。マナー的には勿論宜しくないのだろうが、可愛いから許されよう。

 洗練された所作はそこに美を齎すが、それは何処か人工的な美である。このように自然と生まれてしまった可愛さに劣る事もある。自然の前では何もかも無力なのだから。


 と、こんな風にして付き合い始めてから3回目のデートは、平和に穏やかに進んでいた。


 今日のデートの趣旨は、クラシックコンサートに行く事だった。

 年に一度この時期に、地元出身で期待の若手を何人か集めて催すコンサートで、秋吉さんの友人がヴァイオリニストとして招待されたという事で、一緒に聴きに行ったのだ。そして、前半のトリを見事に飾ったその友人を見届けてから、どちらもあまりクラシックミュージックに興味が無い事もあり、失礼かとは思ったが、コンサートを途中から抜けさせて貰った。


 そしてその足で僕達はこの店を訪れのだ。


 駅前の大きな道から少し逸れた所にひっそりとあるこの店、喫茶店カフェ。

 知る人ぞ知るといった感じの店で、60手前のマスターと20代半ばの綺麗なウェイトレスの2人で営まれている。店名を喫茶店~~、としたかったマスターだが、ネーミングセンスの残念さが露見することを恐れた末、喫茶店カフェと言う、どこまでもストレートでヒネりの無い名前に落ち着いたと言う。まぁ御察しの事と思うが、露見してしまったという訳だ。


 店内には渋い色が目立つ。若干の重々しさを感じるが、その雰囲気が何処か心地良かった。

 出入り口の正面にカウンター席があり、その手前に四人掛けのテーブルが幾つか並んでいる。カウンターの横から奥へと行くと、そこは御手洗だ。また、入口から見て左手には古いアップライトピアノが置かれ、その上に柱時計が掛けられている。ピアノの左側には本棚が申し訳程度に設けられており、中には日に焼けた本がキチキチに詰められていた。


 僕はここに客が沢山入っているのを見た記憶はない。何時も静かにジャズが流れていて、漏れる音は皿と皿が触れる時の僅かな物だけ。僕はそんな雰囲気が気に入っていて、特別美味しい喫茶が飲める、という訳ではないが、頻繁にここを訪れている。

 今日秋吉さんをここへ初めて連れて来たが、彼女もここの雰囲気は好きだと言ってくれた。

 客は僕達の他には誰も居らず、店内には何時も通り静かな空気が流れていた。


 店内に鈴の音が響く。


 出入り口の扉に付けられたドアベルである。音に釣られ、そちらの方を見ると、どうやら男の人が1人来店したらしい。僕はチラリとそちらの方見るとすぐに視線を彼から外した。

 がしかし、思わず振り返り視線が再び彼を捉える。そして改めてその男性の様子を見て、眉を潜めた。秋吉さんの方を見ると、彼女も同じ様な顔をしていた。


 歳は20代前半といった所だろうか。容姿は整っており、スラリと背が高く手足も長い。


 問題は彼の状態だった。


 ここまで走ってきたのか髪は逆立ち、汗で黒のワイシャツが背中にベチャリとくっついている。呼吸は荒れ、ゼェゼェと大きく肩で息をし、普段は端正なのであろう事を窺わせる顔も、苦渋の表情を浮かべ見苦しいものとなっていた。

 不潔とまでは言わないが、食事処で一緒には出くわしたくないな、と感じさせる程には不快感をこちらに与えた。


 彼が来店し、一瞬空気が固まった。しかし彼にそんな空気の変化を気にする素振りはなく、膝に手を当て息を整えている。やがて顔を上げると、その場で店内をゆっくり見回した。ゆっくり、じっくり視線を店内に巡らす彼の視線は穏やかなものだった。

 その後、真っ直ぐカウンター席に向かい、そこに腰を下ろす。それと同時にウェイトレスさんが彼にお冷を渡した。彼はそれを勢いよく飲み干すと、マスターに声を掛け、アイスコーヒーを注文していた。


 僕はそこまで見てから漸く視線を彼から外し、秋吉さんを見る。すると彼女もこちらを見ていた。

 目が合うと、秋吉さんは少し体を前のめりにし、片手を口に添え何やら小声で話し掛けてきた。紅茶で湿った唇が妖艶で、それが緩慢に開閉する様は酷く扇情的だった。僕はそれについ見蕩れ、彼女の言葉を聞き漏らしてしまう。

 僕が聞き返すと、何故か秋吉さんは表情を和らげ再び口を開く。僕はその甘い眼差しに再び意識が飛びそうになるが、また聞き逃してはいけないと、視線を彼女から外し、耳を傾けた。


「あの人一体どうしたんだと思う?」


「あの人って今来た?」


 秋吉さんが囁き声なものだから、自然と僕の声も息を多く含んだものとなっていた。口臭大丈夫だろうか。コーヒーの匂いだと思うけど。


 秋吉さんはコクりと頷いた。


「どうしたって、何が?」


「あんなに汗だくな理由」


「走って来たんじゃない?」


 それから彼女はニヤリと口角を上げた。


「その走って来た理由を推理してみてよ。さっきの話みたいに」


 なるほど。

 先程の話を受けて、僕の推理力が如何程の物か試したくなったんだろう。


 少し考えてみる。


 そしてその思考は無理という結論を導き出した。


「流石に分からないよ」


 情報が少なすぎる。


「もっとよく彼を観察したら分かるかもしれないじゃない」


「そうは言っても、自信ないよ」


「別に間違えてもいいから、推理して一つ結論を出してみて」


 秋吉さんには珍しく中々押しが強かった。もしかしたら、別に彼があんな理由を知りたいとでは無く、推理の過程を楽しみたいのかもしれない。


「ご褒美があるかもよ?」


 秋吉さんは上目遣いにそう言った。

 僕の意思が決定した瞬間でもあった。


 ご褒美。これほど人の心を掴む言葉があるだろうか。彼女にこんな言葉を使われたら僕はもう完敗だ。彼女のご褒美の為ならきっと自販機のゴミ箱の中に全裸で入れる。更にそのまま一夜待機できる。

 あの男性が何故ああだったのか、ただそれだけを考え、間違っていても結論を出しさえすればご褒美が貰えるなんて、断る理由がない。


「分かった!」


 秋吉さんは呆れたように笑った。








 今度は数分黙考する。







 が、やはりそれらしい解は導き出せなかった。


 いくつか仮説は浮かんだが、どれも否定材料があり、自分の中で消してしまう。

 しかしこれ以上は間が持ちそうにないので、取り敢えず頭の整理も含めて口を開いた。


「んー、さっきも言ったけど、恐らく彼は走っていた。これに対して異論はある?」


「……ないわ」


 小声で話をしている為、自然と僕達の顔は近付いていた。

 それに気付いて僕は息を呑む。


 キスは既に数回した仲だが、キスするには遠いが普段よりは顔が近寄っている、という何とも言えない距離感はくすぐったさを感じる。あと幸せも。

 暫く秋吉さんの美しい顔に見惚れ、また、時間の許す限り見つめていたかったが、気付くと彼女が怪訝そうにこちらを見ていた。

 慌てて話を続ける。


「ま、まぁ彼が側転しながらここへ来たとか、踊りながらここへ来たとかも考えられるけど、僕は彼が変態ではないという前提で推理を続けようと思う」


 外で走っていた。

 高確率で急いでいた、という事だろう。

 ジョギングしていたという事も可能性としてはあるだろうが、今の彼の格好を見る限りそれは限りなくゼロに近い。上は黒のワイシャツ、下は黒のツータック、靴は革靴ときている。こんな格好をして健康乃至趣味の為ジョギングをしてました、とは言わないだろう。

 彼は何らかの事情で急がなくてはならなくなり、止む無く走る事となった、これに間違いはないと思う。


 何故急いでいたか、今回のゴールはそれだ。


「彼が急いでいたのは何故か。安直にまず考えられるのは、彼が待ち合わせに遅れそう、もしくは遅れてしまっていたから。でも今回は違うと思う」


「どうして?」


「仮に、彼が誰かと待ち合わせをしていたとして、待ち合わせ場所は多分ここだよね」


 秋吉さんは無言で頷く。


「今の時刻は15時09分。推測の域を出ないけど待ち合わせ時間は恐らく15時ジャストかな?彼は待ち合わせに遅れた筈なのに、今ここには彼の待ち合わせの相手らしき人は居ない。時間に遅れて『はい、さようなら』された可能性もあるけど、僕達は3時前にはここにいる。でもそれらしい人は見ていないよね。だからそれも却下」


「相手も遅れているのかもよ?」


「うん。その可能性も充分あるけど、彼の様子を見る限り僕は違うと思う。今彼は落ち着いた様子でコーヒーを啜っているけど、普通待ち合わせ相手と時間になっても会えてない時ってソワソワするよね。店の外を気にしたり、頻繁に時計を確認したり。」


 でも彼にはその様子が見受けられない。


「そして何よりも不可解なのはケータイを見ていない所だよ。待ち合わせして、まだ相手が来ていないのなら、何か遅れる云々の連絡が来てないか確認したり、無事かどうか連絡するものだと思う」


「携帯端末機を今持ってないのかもよ?」


 僕はその質問に答える前にコーヒーを飲む。長く話しすぎて口の中が渇いていた。

 秋吉さんはというと、楽しそうにこちらの方を見ていた。そう言えば秋吉さんの趣味は読書で、推理モノもよく読むと言っていた。数多いる名探偵に比べられたら僕なんか立つ瀬がないけど、こういった真似事を実際にするのは楽しいのかもしれない。


「そもそも、だけどね。彼は来店してまず、息を整えたんだ。彼が待ち合わせに遅れていたとして、相手を待たせているかもしれないのだから、店内に入ったら普通はその相手がいるかどうかの確認をすると思う。店内をパッパッと見渡してね。でも彼は先ずゆっくりと息を整えていた。その後店内を見渡してはいたけど、それも凄く緩慢だった。あれは誰かを探すというより、店内を見ていた感じの視線だったよ」


「……だから待ち合わせ自体なかったと古賀君は考えるのね?」


「うん」


 どれも推測の域を出ない、感覚重視の証拠に乏しい否定材料ばかりだ。でも、それが幾つも集まっているのだから、待ち合わせ自体無かったという可能性は高いだろう。


「じゃぁ、どうして彼は急いでたの?」


 秋吉さんの目が輝いている。僕もそんな彼女の様子に気分が乗ってくる。秋吉さんを楽しませられるのなら、最初は面倒くさかったけど妄想を、もとい推理を披露するのも悪くない。


「次に急いでた理由として考えられるのはトイレに行きたかった、という事かな」


 途端、秋吉さんの表情は固くなった。汚物を見るようなもので僕を見てくる。しまった。食事時にトイレの話題はタブーだよね。しかもデート中。でも推理の穴を埋める為には必要な事だと思う。


「……でもその、行ってないわよ」


 秋吉さんは更に声を小さくして言う。トイレなぞ、普段は口にするのに憚る事もないだろうが、何らかの因果が働き、秋吉さんは遠慮がちにそう言う。幸か不幸か恥ずかしがった為、結果的に抜群の破壊力のある言葉がここに誕生してしまった。是非とも、もう一度その殺し文句をこの耳に入れたいものだが催促すれば、不興を買うのは必至であろう。泣く泣く我慢する。秋吉さんと会う時は録音機を常にオンにしておく事を検討したほうが良いかもしれない。


「外で催して、何処かでトイレを借りようと走る。するとちょうどこの店を発見。ここだと店内へ駆け込む。しかし入ると不思議と治まっていた。でも店に入ってすぐ出るのは気が引けるから取り敢えずコーヒーを注文。なんて事、無くもないと思うよ?」


「……」


 どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。少し話がリアルで下品だったかな?どうせ機嫌悪くなるんだったら、あの魔法の言葉をもう一度頼んで悪くする方がまだ利が有ったかもしれない。


「ご、ごめん。と言うか話題に出しといてなんだけどトイレ云々は無いと思うんだ」


「どうして?正直認めたくないけど、古賀君の言う通り可能性としてはあると思うわ」


 心底悔しそうに秋吉さんはそう呟いた。


「う~ん。それはここの周りが住宅地だったらの話なんだよ」


「どういう事?」


「彼の汗の掻き様、疲れ様、から考えて結構な距離を走ったんだと思う。少なくとも1キロ近くは」


「あぁ、そういう事」


 秋吉さんは気付いたように納得の声を漏らした。


「そう。ここら周辺が住宅ばかりで、そんな中にこの店がポツンとあるのなら、長い距離を走って汗だくになっても彼がここへトイレを借りに来るのは分かるんだ。居住宅よりも公共性の高いここの方がトイレを借りるのに抵抗が少ないからね。でも」


「この喫茶店は駅周辺に位置していて周りには沢山借りられる場所がある」


「コンビニ、ファミレス、本屋、今日行ったコンサートホールだってそう。それこそトイレの許可なく用を足せる場所だって沢山ある」


 それなのに彼があれ程までに汗を流し、息を乱れさせながら、態々ここのトイレを借りに来る理由がない。だからトイレに行きたくてここまで走って来たというのは考えにくい。


「でも少し待って。元々ここに来る予定だったから、その、行きたくなったけど、ここまで我慢してって事はあるかもしれないわよ」


 確かに僕もその可能性はあると思っていた。

 しかし。


「秋吉さん。下品な話だけど我慢してね」


 先程の過ちから僕は前置きをすることを覚えた。

 これで多少はダメージ削減になるだろう。


「外で催して、しかも走らなければならない程切羽詰った状況になった時、それはいつ出てしまっても可笑しくない状況なんだ。近くに借りれる所があるならば迷わずそこへ直行する。これは僕の経験則だ。異論は認めないよ」


 僕は中学生だった時、登校中にどうしてもトイレに行きたくなった事がある。学校までは残り400m付近。だが学校までいっては万が一があると思い、100M先にあったコンビニへ駆け込んだ。少し恥ずかしいがコンビニで済ます。あれは僕史に残る英断だったと今は思う。


「そ、そう。分かったから、他の可能性を考えましょう」


 秋吉さんは引き気味にそう言った。


「と言ってもなぁ。後は誰かから逃げていた、位しか思いつかなけど、これも違うだろうし」


「そうね。誰かから逃げて来たにしては今の彼は落ち着きすぎているものね。そもそも誰かから逃げて走っている人を街中で見た事がないわ」


 という事で手詰まりの状況となってしまった。秋吉さんが言うには、間違っていても良いから結論を一つ出さなければならない。誤解であろうが結論に行き着かなければご褒美は貰えないのだ。しかし情報が少なすぎる。これでは結論の出しようがない。


「行き詰まったみたいね」


「うん」


「甘いものでも食べて糖分を補充したら?」


 秋吉さんはそう言ってメニューを手渡してくる。僕はそれを受け取りデザートの欄に目を通す。


 そう言えば。


「あの人、ここの常連なのかな」


「どうしてそう思ったの?」


「いやね、彼がメニューを見ずに注文をしていたから」


「喫茶店に来て、アイスコーヒーくらいメニュー見ずに注文できるわ」


「それだけじゃないんだ。考えてみればウェイトレスさんの対応だって少し普通じゃないんだ」


「どういう事?」


「彼女は彼にメニューを渡していないんだ。ここでは来客者には必ずメニューを渡しているのに。それは彼女が彼はメニューが必要ないと分かっているからじゃないかな?それは何故か。彼がここの常連だから」


「ただ忘れただけかもしれないわよ?」 


「秋吉さん。僕はここへは結構な頻度で来ているから分かるけどあのウェイトレスさんは見た目の印象通りミスがない。僕は大学でこの町に住み始めてからだから彼此5年位前から月に3回程はここへ来ている。そんな僕が一度も彼女のミスを見た事がないんだ」


「偶々今日ミスしただけかも知れないじゃない。只でさえ彼の登場の仕方は目立ったわ。その影響を受けてウッカリ、なんて事はあると思うわ」


「確かにそうだね。でもあのウェイトレスさんは恐らく今回ウッカリなんかしてないよ」


「……どうしてそう思うの?」


 秋吉さんは半睨みでこちらを見ていた。僕が他の女性を褒めるものだから面白くないのかもしれない。そうだったら良いな。


「いやね。僕があのウェイトレスさんを特別評価してるってわけじゃないよ。僕の特別は秋吉さんだけだから安心して」


「……うるさい」


 図星だったようだ。


「と言うのもね。あのウェイトレスさんは彼にお冷を渡していたからなんだ。僕らはお冷は貰ってないのに彼には渡している。恐らくこれは彼が死にそうなほど息切れしていたのを見て気を利かしたんだろうね。まぁともあれ、そこまで気を遣えてたんだからウッカリはしていなかった筈だ」


「そう、ね」


秋吉さんはそう頷いた。


「うん。それで今話してて気付いたんだけど、彼とあのウェイトレスさんはそれなりの関係があるんじゃないかな」


「どうして?」


「僕もここの常連と言える客だけど、メニューを渡されないって事はないからね。例え入店直後に注文してメニューはもう必要ないって場面でも、きちんとあのウェイトレスさんは持ってくるよ」


「……なるほど、ね」


 親しき仲にも礼儀ありではないが、どんなに慣れ親しんだ常連客であっても、あくまでも御客様なのだ。メニューを渡す事をマニュアル化しているのであれば、それを放棄してはいけない。

 でもそれを実際にしているのを見ると、少なくともそれが許される関係には彼と彼女はあるのではないかと僕は思う。


「まとめると彼はここの常連で、そしてここのウェイトレスとそれなりの関係がある。気の置けない友人か恋人か親類関係か……」


 しかしそうであるなれば、今の彼と彼女の距離感には少し違和感がある。彼と彼女はそれこそ普通の客とその従業員みたいだ。

 仮にも彼があんな様子だったのだから、そして、それなりの付き合いがあるのであれば彼女は多少気遣いの言葉を投げかけても不思議ではない。でも彼女からそう言った動作は、最初のお冷を渡した以外には何もない。

 ここまで何もないと逆に疑いたくなるのが人間というものだが、考えすぎだろうか。


「彼も常連で、古賀君も常連なら一度や二度出くわした事はないの?」


「それがないんだよね。あるのかもしれないけど全く記憶にない」


 それについては僕も疑問を持っていた。


 彼は中々のイケメンだ。

 入店直後は汗だくで嫌悪感を抱いたものの、今は落ち着き、正にクールなイケメンといった雰囲気を纏っている。


 今でこそ落ち着いたが秋吉さんと付き合う前、恥ずかしながら僕はイケメンを憎んでいた。そしてイケメンを恐れていた。秋吉さんが人を見かけで判断するような人では無いと知ってはいたが、やはりアドバンテージというものはあるだろう。道中でイケメンを見かけると、頼むから秋吉さんとは出会わないでくれと念を送ったものだ。


 彼ほどのイケメンをこの店では見たことが無い。イケメンを意識する傾向にある僕ならば、彼レベルのイケメンをこの店でもし見掛けていたとしたら、かなり印象に残っている筈だ。顔の詳細は思い出せなくても、見たことあるかどうかくらいならば記憶の片隅に眠っていてもおかしくは無い。


 僕が一度も見たことがない常連ということだろうか。一時期はほぼ毎日のように通っていたこともあったのだが。


 うんうんと頭を捻らせて考えてみるが、何も擦りはしなかった。


「実は私は彼を何処かで見たことがある気がするの。何処でと言われたら困るのだけど」


「イケメンなんてどれも似たような顔しているからね。既視感を覚えるのも無理ないよ」


 普通の顔と言うと、嫌なふうに聞こえるが、イケメンとは普通の顔をした人を指すのだと僕は思う。人が人を不細工と思うのはその人の顔に違和感を感じるからだ。普通の顔とは違和感を感じない顔という事だろう。違和感を感じなかったらそれは即ちイケメンである。まぁ、超美形とまでいったら、また違ってくるのだろうけど。


「あー、全然思いつかないよ」


 僕は頭を掻き毟る。

 失敗はトイレ云々だ。秋吉さんはその案に納得しようとしていた。そこでインテリぶって否定しなければよかったんだ。

 このままではご褒美が貰えない。


「シャーベットでも食べようかな」


 こういう時は秋吉さんの言う通り甘いものだ。

 注文をしようとウェイトレスさんを探すと、ちょうど例の彼に何かを渡していた。


そしてその光景に僕は引っ掛かりを覚える。


「あれってアップルパイ?」


「多分」


「彼、コーヒー以外に注文してたっけ?」


「分からないわ。店主に声を掛けた時はアイスコーヒーしか頼んでなかったと思うけど」


「うん。僕もだ」


 後で追加注文したのだろうか。しかしこの推理擬きを始めてからは彼の方をチラチラと定期的に見ていたが、そんな動きは無かったと思う。


 更に。


「秋吉さん、見て」


 僕はメニューのデザート欄を指差して彼女に見せる。


「この店のメニューにアップルパイは無いんだ」


「裏メニュー?」


「んー、どうだろう。少なくとも僕はここでアップルパイを食べたこと無いし、食べてる人も今日初めて見た」


 常連である僕が知らない常連らしき人が、僕が知らない物を食べている。

 そこには何かがある気がした。


 手を挙げウェイトレスさんを呼ぶ。

 彼女は短く返事をし、直ぐこちらへやって来た。その足運びには一切無駄がなく、床の上を滑っているのではないかと錯覚するほど自然な物だった。


「あのカウンター席の人が今食べてるのってアップルパイですよね?」


「はい、アップルパイです」


「メニューには載ってないですよね。あれ僕たちも貰えますか?」


 ここまで来て、ウェイトレスさんは困った顔を見せた。何時も凛としている印象を受けるこの人が、こんな顔をするのは初めてだ。


「すみません。あれは試作品でして……」


 歯切れ悪そうにそう言うウェイトレスさんを目の前に、僕は何か漠然とした物が頭の中に生まれるのを感じる。しかしそれを論理立てて考えようとすると、途端に何を考えているのか分からなくなってしまう。

 決定的な何かが足りなかった。


 話の途中で僕が思考の森に飛び入って黙り込んだせいか、気付くと先程よりも更に困った表情を浮かべるウェイトレスさんがいた。その表情に僕は申し訳なく思い、慌てて取り繕う。


「あ、えっと、すみません。じゃぁレモンシャーベットを下さい」


「畏まりました」


「すみません、ボーッとしてしまって」


「いえ、全然気にしてませんので」


 僕が軽く頭を下げると、慌てた様に右手と顔を素早く振るウェイトレスさん。

 その様子はやはり普段通りではない様に思えた。


 先程秋吉さんには、ウェイトレスさんはウッカリして居なかったと言ったが、もしかすると気張りすぎている節はあるのかもしれない。常日頃のこの人ならば、この程度の事であれば落ち着き払って対処している筈なのだ。困惑など見せはしない。


「それで正解ですよ。この人は気付いたら妄想の世界に飛び込んで反応を寄越さないことがままあるので、気にするだけ無駄です」


 少し気不味くなった空気を和ませようとしたのだろうか。秋吉さんの言葉を受け、僕は後ろ頭を掻き二ヘラと笑う。しかし案の定、ウェイトレスさんは苦笑いを浮かべている。まぁ仮にここで秋吉さんの発言に同調して満面の笑みで「そうですよね」と言われたら、それはそれで客への対応として如何なものか、となるだろう。僕は気にしないけど。

 

 僕は貼り付けた笑みを取り、咳払いを一つ。

 

「美咲さん、この人が例の彼女です」


 ここで漸くウェイトレスさん、もとい美咲さんの顔に喜色が浮かんだ。


「例の、というのは例の?」


「はい。そうです」


 と、ここでこちらを半目でジッと睨む秋吉さんが目に入った。

 勝手に話が進められて気分が良くないのかもしれない。焼き餅を焼いてくれているのだろうか。だとしたら嬉しい。秋吉さんが焦がした餅ならどんな物でも美味しいだろう。


「秋吉さん、なんか変な感じだけど。こちら、喫茶店カフェのマスター近衛徹さんの娘で、ここのウェイトレスの近衛美咲さん。その、恋愛相談して貰ってたんだ」  



 大学1年の秋位からだったろうか。その頃には既にここへ頻繁に足を運ぶようになっていた僕は、世間話をチラホラとする程度には美咲さんと仲良くなっていた。その世間話の延長みたいな感じで、僕の高校時代からの一途な想いを相談したのだ。僕は友人にも気恥ずかしくて秋吉さんへの想いを打ち明ける事は出来ないでいたので、本当に初めての相談だった。

 僕がこの店に来た時しか関わらない、日常では関わらない美咲さんだからこそ、僕は相談できたのだろう。


 美咲さんは特に特別なことを言うでもなく、言ってみればただ聞いてくれるだけだった。でも、僕はそれが良かった。何かを相談して、返ってくる言葉は往々にして、既に自分の中に有る物だ。目から鱗、ということは希である。膨れすぎた想い、悩み、苦しみ、そういった何かを言葉にし、ガス抜きをする行為、それこそが相談というものだろう。

 そんな美咲さんの態度が心地よくて、偶に相談に乗ってもらっていたのだ。


 そして、僕が秋吉さんに告白したきっかけも、他ではない、美咲さんだった。

 

 今から一ヶ月前いつもは相槌を打ちながら聞くだけだった彼女が、急に話始めたのだ。


『私、時間って不平等だと思うの』


 助言を期待していなかった僕は、その一言に面食らっていた。

 口調も敬語ではなかった。恐らくこれが普段の美咲さんの語り口なのだろう。


『だって皆に等しく1日24時間あるんだよ。だからこそ平等だという人も居るけど、私は逆だと思う。性別も環境も性格も体格も価値観も夢も願望も能力も、何もかもが違う私達皆に等しく24時間ある。それってやっぱり不平等だよ』


『歩幅が大きい人はより遠くへ行ける。人より賢い人は、より賢くなれる』


『等しく時間があるから、人と人との差は大きくなって人は悩むし、等しく時間があるから人はバラバラになってしまう。時間は等しく皆にあるのだから使い方次第と言うのはやっぱり嘘だよ』


『この等しく時間がある世界の中で、何もかもが違う私達は、例え誰かとずっと一緒にいたいと強く願っても、それは難しい事だよ。離れたくなくても、気づいたら離れてしまっている。等しく時間が経てば経つほど、個人の差は広がるばかりなんだから』


『縁がなかったと言われたらそれまでだけど、それで済ませられない想いもある』


『だったら手を繋いでおくしかない。まだ手が伸ばせる内に。手が駄目なら足を、足が駄目なら縄でもなんでも、やっぱり行動しないとダメなんだと思う』


『いずれどう足掻いても無理になるのだから』


 長い間相談するだけで、行動に移さない僕にとうとう我慢しきれず、美咲さんはそう言ったのかもしれない。

 不思議と美咲さんの言葉は素直に心に入ってきた。

 

 そして、何もかも手遅れになる前に僕は秋吉さんの手を握った。




「お待たせしました。レモンシャーベットと、アップルパイです」


 あの後、席を離れた美咲さんは、お盆の上にそれらを乗せて戻ってきた。そしてテーブル上にレモンシャーベットの他に2皿置く。それらの上には扇型に切られたアップルパイが乗っていた。


「え?でも……」


「これは私からのお祝いです。折角彼女さんを連れて来て下さったんですから。代金も要りませんし、多ければ残してもらっても構いませんから、気持ちだけでも受け取ってください」


 アップルパイがここへ運ばれた事に戸惑っていると美咲さんは、そう言葉を付け加えた。


「ありがとうございます。僕、アップルパイ好きなんですよ」 


 僕が感謝の意を示すと、美咲さんは照れたように笑う。それは仕事云々を取り払った、自然にこぼれた出た様な笑みだった


「それ、実は私が作ったんですよ。ですから、あまり美味しくないと思うので、あまり期待しないで下さいね」


「あぁ、それで一度断ったんですね」


 ここで出すメニューの全てはマスターが作ったものだ。だから、美咲さんが作ったアップルパイを出すことに対して抵抗があったのだろう。でも、これは美咲さん個人からのお祝いの品だ。

今ここにはウェイトレスとしてではなく、唯の近衛美咲として僕等に対峙している。あの助言を貰った時の様に。

 だからか、先程よりも口調も柔らかく感じられた。


「はい。緊張しますけど、余らすのも勿体ないので……」


「では、不肖古賀正明、誠心誠意味わって食べたいと思います」


 僕がそう言うと、美咲さんはもう一つ笑みを深めてテーブルを離れていった。




ーー情報がつながった。




「多分だけど、分かったよ」


 僕はアップルパイを美味しく頂くと、秋吉さんにそう声を掛けた。まだ口にアップルパイを含んでいた彼女は驚きに一瞬目を見開かせた。でも直ぐさま真顔に戻ると秋吉さんは口の中のものを飲み込み、紙ナプキンで口元を拭うと、背筋を凛と伸ばす。


「では、聞かせて頂きます」


 改まった様な秋吉さんの口調に僕も背筋が伸びる。


 さぁ始めよう。


 ご褒美の為に。

後編は同日21時に投稿します。

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