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閑話 ~鏡裏にて~

「…戻して、いいのか」

「構わぬ。ここで妾に抗える者などおらぬからな」


 事実、おぬしはそこを通り抜けることも叶うまい?

 面倒そうに鏡華裏が檜扇で示した光の漏れる出入口は、鵺が触れた足先を強い痛みと共に弾きかえした。

 なるほどここに介在する力は圧倒的で、自分如きが妖最強と謳われる姫に抗うことはできぬとあからさまに示すいい材料のようだ。

 諦めて、久しぶりに取り戻した本来の姿でどかりと座り込んだ鵺は、蛇の尾を振りながら不貞腐れた顔で目の前の鏡華裏を睨みつけた。


「何故、殺さん。子猫にするなどと生温い真似はやめて、さっさと俺を殺せば終いだろうに」


 無力な生き物に変じて腹を空かせ野を這いずったのは、楽しくはなかったが苦でもなかった。元よりいつ捨ててもいい命、いつ消えようが構わない。そう、思っていたのに。

 憤りに唸りながら、鵺が思い出すのはあの娘のぬくもりだった。


「それが殺せとう者の目か。…忌々しい、死んでおればよかったものを」


 唾棄した鏡華裏はぱちりと檜扇で掌を打つと、眇めた瞳で鵺を検分して…ずいっと一歩踏み出した。


「子か。伴侶と共に子を失ったことで世を恨み、あれもこれも壊したのか」


 つま先ばかりでなく言葉まで相手の内に捻じ込んだ妖の姫は、毛を逆立てた獣を下らぬと、実に愚かだと吐き捨てる。


「ぬしの伴侶を診た猫又が、言うておったそうじゃ。せめてどちらかだけでも助けられたらと、な。唯一と定めた相手とともに子まで亡くしたおぬしは憐れだったのであろう。それが鵺ならば尚更に」


 群れずに家族だけで長い時間を過ごす鵺は、生涯1人の番しか持たない。そうして力強い妖が須らくそうであるように、子もまた沢山は持つことができない。

 どちらも一息に失ったこの雄は、何もかもを恨み手当たり次第に壊して回った、大方真相はそんなところだろうと鏡華裏は不機嫌に眉を跳ね上げた。


「後を追うなら可愛げのあろうものを、診た医者、治せなんだ妖を逆恨みして襲いまわるとは。それでも足りぬと力を求め、朝霞を喰らいそこのうた挙げ句に、あれに縋ってこの世に未練を残すとは笑止」


 嘲りは的を射すぎて鵺に返す言葉もない。だがしかし、姫にとて見せぬモノがあるのだと獣はのそりと顔を上げた。


「あの娘は…温かい。恐れずまっすくに俺を見る目は、まるで女房のようだった。あの目さえあれば、まだ生きられるそう思った。だが…」


 ぺたり、蛇の尾がしな垂れて歪んだ鈍色の空間に横たわる。


「子が…俺達の子が、今もここで喚ぶのだ。早く来てくれと、何度も何度も喚ばれるのに、意気地のない俺は自ら死ぬこともできずに、情けなく人に縋り、女房の影を追い…いっそ誰かが殺してくれれば」


 巨大な虎の目を涙が濡らしていた。暑い被毛を滑った雫が、はたはたと落ちては不安定な底に吸い込まれていくのを、見やる鏡華裏の視線は冷たい。

 男泣きの鵺に鼻を鳴らすと、またも下らんと吐き捨てた。


「甘えるな。死にたければ疾く逝くがよかろう。度胸がないからと、人を頼みにするでないわ。己のくだらぬ感傷で、未来さきを潰された子らが憐れと思わぬか。消えた命に申し訳が立たぬと思わぬか」

「思う!思うが…思うが、俺は…」


 感情に任せて暴れていた内は見なかった現実を、突きつけられてなす術なく鵺は口を噤んだ。

 謝って戻るものではない。自分が死んですべてが元に戻るなら、殺してくれて構わない。だが、償いとはそんなものではないのだ。軽々に気持ちに方が着くのなら、世に恨みなどという言葉はないはずなのだから。


「…ならば、ここにおれ。己の非に気付かぬようならば無力な姿で彷徨うのも良かろうと思うたが、おぬしに必要なのは時間のようだ。誰と話せることもないこの鏡の道の奥深く、鎖で繋がれ死ぬことも叶わずに、罪を償うがいい。傷ついた者たちが許すというまで…」


 ぱさりと音を立て開いた檜扇が、鈍色の世界に鮮やかに舞う。たおやかな鏡華裏の指に操られ、鵺の頭上で円を描いた軌跡は、銀の柵となって獣を強固に閉じ込める。


「鵺は鏡に囚われる」


 仕上げとばかり姫の唇を滑った言霊がカシャリと見えない錠を下ろして、寝そべれば一杯になる四角い檻に封じられた鵺は、ゆっくりと回りながら鈍色の奥の奥、鏡の裏の遠くまで流されてついには鏡華裏の視界から消え失せた。

 一言、弱くて強い人間に、詫びの言葉を残して。


「はてさて、朝霞はなんというだろうか」


 儚き時を生きる彼女は、二度と鵺に会うことはないだろう。独特の正義を振りかざす読めない娘の思考を慮りながら、美しき妖の姫は人界へ続く鏡にすぅっと吸い込まれて、消えた。

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