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8 躾は基本

 トラ…はて、トラとは蜘蛛の糸に巻かれて転がされるような、脆弱な生き物だっただろうか?ムツ○ロウ先生に聞いてみたい…。

 なんて冗談はともかく。


「か、鴉、鴉」


 早期の解放と説明、どっちも求めて泣きながら黒髪を引っ張ると、落とした視線ですぐさまあたしの状況を理解した彼は、腕の力を抜いて怪我してる腕を窺った。


「すまん、それほどに痛むか?」

「へ?あ、ああ、そうでもないよ、大丈夫」


 苦しかったり痛かったりしたせいで生理的涙を流していたこと、忘れてた。そか、鴉ってば涙に動揺してあんなに取り乱してるのか。いいとこあるじゃない。

 本来なら滅多に見られないこのカラス天狗の姿を堪能したいところである。しかし、そうは言ってられない。だってあれ、気になっちゃうんだもんさ。


「痛いのは、この際おいといて。なんでおじさんがトラを連れてるのかの方が気になっちゃうんだけども、この辺どうなの?」


 傷を検分していた鴉だけでなく、あたしのこの台詞には周囲で騒いでいたみんなも一瞬で黙り込んで、示し合わせたように戸口を振り返る。

 一斉に注視されたおじさんは、焦って自分を指さした。


「え?わ、儂?」

「「「何してる??!!」」」


 おお、見事にハモったね。鴉と赤くんと泰紀さん、意外に気が合うんじゃない?

 文字通りでっかい鴉の腕の中、高みの見物を決め込んでいたあたしは、声をそろえた3人が鬼の形相で(うち一名がマジモンていうのは笑いどこ?)おじさんを睨み据えるのを興味深く見守っていた。

 この様子から察するに、簀巻きのトラをあたしが見ちゃまずかったんだよね?そういやさっきもみんなで思い出すなだの気にするなだのさんざんに言ってたもんね。

 でも、ですよ。しかし、ですよ。


「トラ、いるんじゃない。なんでさっき隠したのよ」


 明らかにお仕置きされてますな様子で転がされてるだけなら、別に隠すことなんかなかったのに。そんな風に思って浮かんだ疑問に答えたのは、おじさんの後ろから現れた顔半分をさらしで覆った桃ちゃんだった。


「鶸のためですわ。一晩一緒に過ごされた朝霞の君が、もしも鵺にお心を寄せていたらお屋敷に住まわせてほしいとおっしゃいますわよね?この子は朝霞様が攫われたのもお怪我をしたのも、自分のせいだと塞いでいました。万が一にも同じお屋敷になどということになれば、もっと気鬱になってしまう。ならば鵺のことはいっそ忘れてもらえればと、ここにいることを隠しましたの」


 それは望んでいた答え、だったけれど。

 あたしの頭はそんなもの、一瞬でどうでもよくなっちゃったんだよね。いや、鶸ちゃんがどうでもいいとか、そんなことじゃないからね。それよりも、別のことよ。


「鴉っ!下ろして」

「あ、ああ」


 突然の大声に驚いた彼が慌てて望みを叶えてくれると一緒に、まろぶ勢いで戸口へ走り跪いて小さな顔に指を走らせる。

 弾力も温度も人とほとんど変わらないのに、欠け落ちたように傷口は不自然に抉れ血も流れていない。


「怪我…ひどい」


 それでも削り取られたように、右目の上が髪の生え際まで無くなっているのは、とても見ていられない痛々しさだ。


「器が壊れただけですわ。痛くもありませんから、お気になさらず」


 相棒を支えるように背後に立っていた鶸ちゃんが、柔らかく微笑んで言うけれど、そういう問題じゃ無い。例え作り物だろうと、ただの入れ物だろうと、泰紀さんが彼女たちに与えた大切な現し身だ。あたしが慣れ親しんだ、かわいらしい女の子の顔だ。それを、それを…。


「トラ、よね?」


 何を、とは言わなかった。主語など必要としないほど答えは明らかだったから。家族のように過ごす妖達が万が一にも彼女たちに傷を負わせるはずなんか無いと、確信してたから。


「さっきの音、こいつがやったんだよね?それが原因だよね?」


 矢継ぎ早に肯定を急かせば、困ったように顔を見合わせた少女達はやがて諦めたように小さく頷く。

 そう、やっぱりね。


「こんの、アホトラ!!!」


 無事だった方の拳で、糸から出ていた頭に思いっきり拳骨を食らわせる。

 ゴツッと響いた鈍い音に周囲がぎょっとしたのを理解していたけど、止まらない。次いでちょこんと主張していた耳を遠慮会釈無く捻りあげて、痛いと唸る獣をさらに怒鳴りつけた。


「なに、女の子に怪我させてんのよ!!傷の1つ2つあったって毛で隠れるあんたと違うのよ?!綺麗でかわいい、ついでに小さな女の子なのよ?!相手かまわず暴走してんじゃ無いわよ、馬鹿が!!」


 ああ、このもって行き場の無い怒り、どうしてくれよう!鼻息荒く叱りつけたって言うのに、全く懲りてないらしいトラは桃ちゃんの顔をちらりと見やると、あろうことか鼻で笑いやがった。


「弱いが悪い。妖の世界では、力が全てだ」


 ざわりと空気が蠢いて冷たくみんなの殺気が流れた。

 やさぐれているのか何なのか、捨て鉢に吐き捨てた言葉はとうてい許せるものじゃ無い。

 現に直情型の赤くんなんて、今にもトラを八つ裂きに死そうな勢いだったし、温和が売りの鴉でさえもすぐ殺人鬼になれそうな形相をしている。

 だけど、あたしはやつを殺したいとは思わなかった。命を取るほどのことじゃないっていうのもあるけど、何よりこの世から抹殺するのは一番簡単で一番愚かな方法だからだ。だって殺しちゃったらどんなに後悔しても生き返らせることはできないんだし、そうなったら力に驕ったトラは自分のどこが悪かったか、何がいけないのか理解できないまま終わってしまう。

 そんな結末、笑えもしない。こういう奴はもっと、地を這うべきだ。己の無力に泣き、辛酸を舐めなきゃ力に蹂躙されるしかない側の痛みなんかわかるわけが無い。


「誰か、こいつの力封じられない?」


 自分でもぞっとするような無感情な声で問いかけると、すかさず姫が造作も無いと頷く。


「なら、今すぐ封じて。鵺だ、妖だと言うことができないように、力を全部奪って」


 それを得意分野とする姫の封印はすごかった。何事か短く呟いて、その白く長い指がトラの額をひと撫ですると、じわりとそこから滲み出た黒い霧が縞の巨体を包んで身の裡に浸透していく。


「これでいい。もうこやつはただ体の大きな獣じゃ」


 糸で巻かれて抵抗1つできなかったトラが睨む瞳を嘲笑い、姫はそっと離れていった。


「泰紀さん、変化の術でこいつを小さな猫にして」


 だけどそんなもんじゃ終わらない。せっかく力を奪っても、姫が残した大きな体があれば、こいつはまだ誰かを傷つけることができる。

 それじゃ意味が無いの。それじゃまだまだ甘すぎる。

 やるなら徹底的に、躾は身を以て他人の痛みがわかるまで。

 ちらつく桃ちゃんのさらしがつらくて、あたしの中にはトラに対する同情がただの一片も浮いてこない。それをいいことに家主にお願いすると、彼は快く呪を唱えあっという間にトラを無力な子猫に変えてしまった。


「大きな猫では、自由が利きすぎますから」


 爽やかな笑顔で言った泰紀さんも、相当ご立腹だったらしい。

 ただ体の小さな猫にするのではなく、最も非力な子猫にするとは、なかなかやるじゃない。さすがです。ナイスです。

 体が縮んだおかげで土蜘蛛の糸から抜け出ることの叶ったトラは、己の意思さえ上手に伝達することのできない未熟な体に戸惑い、甲高い鳴き声で弱々しい抗議を上げる。

 そう、言葉じゃなく、鳴き声。


「へえ、力を封じられると言葉も封じられるんだ」


 こうなるよう手を下した姫をすごいねと振り返ると、いつもの楽しそうな表情を浮かべて彼の人はそうであろうと微笑んだ。


「誠ただの子猫じゃな」


 なあ、と水を向けられた泰紀さんも大きく頷く。


「生きるための糧すら、子猫と同じです。妖力を啜ろうにも、それで腹は膨れない。死にたくなければ人に媚びを売って餌をねだるか、命がけで鼠とでも格闘すればよろしい」


 ああ、いつも寒々しいこの笑顔の、今日はなんと心強いことか。


「よかったね、トラ。他人の痛みを知るには、最適の条件じゃない」


 さっきまでは、ここまで嫌いじゃなかったんだよ。あたしの腕一本なら、そのままで許してもらえたかもしれないのに。

 小さな体で不安に戦く子猫を庭に抱き下ろしながら、生きてたらまたいつか会えるかもね。そんなことを思って、あたしはヒラヒラ手を振った。



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