5 奪還
「おい」
仮の塒である樹上、追手がいないのを確かめて降り立った鵺は、倒れこんで動かない娘に声をかける。
彼女を守護する妖達と接触してしまった以上、ここは安全ではないと判断してすぐにも移動を始める算段だったが、どうにも娘の様子がおかしい。
荒い呼吸を繰り返し、反応を示さないことを不審に思った鵺は、肉球で彼女を転がし顔を見て驚いた。
頬だけが異常なまでに赤く、ひび割れた唇は血の気がなくて、体は燃えるように熱い。
血が固まり赤黒く腫れ上がった傷口に、彼は舌打ちした。
きっとこのけがが原因で娘は熱を出したのだろう。妖であればけろりとしているであろう程度の損傷で、人とはなんと脆いのだ。
様々に渦巻く感情に苛立ちながら、このままにはできない娘をどうしたものかと鵺が考えた時だった。
「朝霞っ」
盛大な羽音とともに木が揺れて、黒い塊が鵺と娘を隔ててしまう。
「貴様、何処から!」
「寄るでない」
慌てて割入ろうとした前足は、煙のように現れた鏡華裏の結界によって弾き飛ばされ、諦めず体勢を整えれば背と尾を鬼達に踏みつけられていた。
「じいさん!さっさとこいつ巻いてくれよ」
「待たんかい、儂は荒事にはむいとらんのじゃ」
「それなら何に向いているんです」
喚く妖と人間を余所に、娘を抱き上げたカラス天狗はするりと鏡の道へと消える。
「おい!そいつはオレの獲物だぞ!」
結界に行く手を阻まれもどかしく爪を立てていた鵺は咆哮を上げるが、その一瞬が土蜘蛛に後れを取ることとなり細く強靭な糸に見る間に体が絡めとられていく。
「くそっやめろ、はずせ!」
もがけばもがくほど深く糸は絡み、ならばと鵺が操ろうとした雷は、どれほど妖力を凝らしても一向に呼べる気配すらない。
「無駄です。土蜘蛛の糸に私の妖力封じを乗せましたから」
にこやかな妖術師は微笑みにそぐわない殺気を纏わせて鵺にそう教えてやると、鏡華裏に近づいて彼女を促しながら小さな鏡へするりと体を滑らせた。
「丁重にお連れしてくださいね?こちらは急いでおりませんから」
振り向きざま、意味深な言葉を残しながら。
歓喜したのは頼まれた青鬼と赤鬼だ。げんなりとした土蜘蛛を尻目に、嬉々として身動きできないダルマに巻かれた鵺に近づくと、息もぴったりに彼を枝から蹴り落としてしまった。
「じいさん、あれって蹴りながら帰っても糸切れない?」
「切れるわけなかろう。土蜘蛛の糸だぞ」
「だが絶対はないだろう?」
「そりゃあ何事も、もしもはあるがな」
青鬼ににやりと笑われてやや口ごもった土蜘蛛ではあるが、結局は『切れん』と言い張った意地に頷いて、鬼達は楽しく鵺を蹴り帰ることにしたのだった。
「おいこら!もっと丁寧に扱え!!」
あとには鵺の不満の叫びが木霊していたという。
「朝霞の君っ!一体…」
「腕に噛み傷があり、熱がある。すぐに手当を」
「!はい、すぐに」
じりじりと鏡の傍で控えていた桃と鶸の元、朝霞を抱いて現れた鴉は端的に状況を告げると、床へと座り込む。
「朝霞、話せるか?」
急ぎ用意に駆けだした少女等を尻目に、腕に抱いた娘に問いかけるとうっすらと瞼が上げられた。
「……あー…幻が、無体を言う…」
反応は鈍いがとろりと熱に浮かされた目をしている割に、第一声は間違いなく朝霞で、知らず鴉は頬を緩める。
「現だ。腕は痛むか?」
「とーぜん、痛い。…てか、水、ちょうだい」
そう望むだろうと思われるほど掠れた声に頷くと、横からにゅっと手が伸びた。
「弱った体に水はいけません。白湯です」
鴉の腕から優しく引き寄せた朝霞に茶碗のぬるま湯を少しずつ含ませると、むっと顔を顰める妖に泰紀は静かに微笑んだ。
「そう拗ねずとも、すぐにお返し致しますよ。力の抜けた彼女を褥まで運ぶのはごめんですからね」
暗に力仕事は任せた言われて嬉しいはずもないが、それでも朝霞を自分の内に囲っておけることで鴉の心は安寧を得て、同時にここ最近常に能面顔を保っていた鏡華裏にも明るい心持ちを運んでいた。
「ほほほ、ほんに朝霞が居ると、此奴が滅多に見られぬ顔をするのが面白い」
「デブ、言われて、あたしはすっごい、心外なんだけど」
水分でいくらか滑りの良くなった舌で悪態をつくと、朝霞は檜扇の影で楽しげな鏡華裏を一瞥してから泰紀を睨み上げた。
「重いとこ、悪いけどさ、飲みにくいから、もう少し起こして」
丸一日近く水を取ってない上に発熱した体は、一口二口の白湯では満足などできるはずもない。自分で好きなだけ飲むのだから早くしろと、潤んだ瞳で命じたら何故だか男が2人して顔を背けた。
「あの目は…常日頃、見せない分だけ質が悪い」
「ああ、弱みは見せないと虚勢を張るのが何とも」
それこそ常の朝霞であったなら、目を開けているだけでも億劫なんだからグズグズせずに早くしろと怒鳴り飛ばした場面であろう。
しかしいかんせん怪我人で、口は回れど自由は利かないのだ。大人しくなすがままでいるよりほかない。なにしろ今回はのことは全て自業自得で、大量の後ろめたさに苛まれているのも良くなかった。
本来なら助けてくれてありがとうと頭を下げなくてはならない所であるが、状態が状態なだけにそれは全快するまで棚上げしてもらうつもりでいる。
となれば我慢できる範囲は黙っていようと連中が自分の望みを思い出してくれることを待っていたのだが。
「まあまあ、お二人とも!朝霞の君様を放って何をなさっておいでですのっ」
褥の用意を終えた鶸が駆けてきて泰紀の手から茶碗を奪うと、小さな体からは信じられない力で朝霞を起こして口元に白湯を差しだす。
「一人でお飲みになれますか?」
「ん、大丈夫」
無事な腕を上げて茶碗を支えた朝霞は、小刻みに震える手に驚きながらも一息に白湯をあおった。
当然、咽せた。
体が震えるほど弱っているのだから、無事に嚥下ができるはずなどなく、予想通りの結果に笑っていたのは鏡華裏だ。
「ゆっくり飲まねば濡れるだけであろうよ。そなた、随分と体力が落ちているのだから」
「さ、ごほっ、先に、ごほごほっ、言ってっ」
涙目で抗議している朝霞の背をさすりながら、鶸は濡れた着物を拭こうと手を上げて止めた。
泥と草の汁のような物と血に塗れた麻は、拭おうが洗おうがどうにかなるとは思えなかった。何より鵺の匂いが色濃く染みついたそれを、取っておくのも忌まわしい。
早々に着物の処分を決めた鶸は、朝霞の体をすっかり主から抱き取って、にこりと男共に笑顔を向けた。
「お着替えと手当を致します。お体も清めますので、どうぞ隣室でお待ちくださいませ」
若い娘を裸にするのに異性が同室しているなど以ての外と、女童に告げられた彼等が思ったことと言えば。
「いや、その小さな体で朝霞を支えるには無理があるだろう。ここは私が」
「いえいえ、私は夫です。鴉殿より非力ではありますが、着替えの手伝いくらい造作もない」
下らない張り合いに付き合う義理など、鶸にも鏡華裏にも、そして桃にもなかった。
「わたくしたちが2人いれば、他に手は必要ありません。いざとなれば姫様もおいでですし」
「そうじゃな。朝霞の1人くらい、どれほどのものか」
「ええ、褥も共にしていらっしゃらない夫君など、物の数ではありませんわ」
こうしてすごすごと部屋を出て行く男達を、荒い呼吸で見上げていた朝霞は、心の底からの言葉を優しい妖の女性陣に贈ったのだった。
「ごめん、ね。いっぱい迷惑かけて。元気になったら、ちゃんと謝るから」
助けに来てくれた詫びも礼もいくらでもするつもりだったが、何より先に鶸にだけはかけた迷惑分謝らなければならないと夢うつつにも自覚していた朝霞だ。
横着者のように横になったままでどれほど誠意が込められるのかは怪しかったが、受けた鶸は何度も頷いてただただ彼女の無事を喜んでくれた。それははっきり喜怒哀楽がわかりづらい顔が、人間のように細かな感情を表しているように見えるほど、表情に表れていて、だからこそ余計に朝霞の罪悪感をちりちりと焼いたのだ。
己の愚かな行動が、どれほど他人に迷惑と心労をかけたのかと、身の置き場がなくなるほどに。
「…わかっておるのなら、早う元気におなり。そうしてやるのがこの子等には一番じゃからな」
髪を撫でる姫の手に、目尻を一粒涙が流れた。




