1 捕食なのか、誘拐なのか
過去のようで過去でない、不思議な日本に暮らし始めて二年目に突入した春。
妖の友人たちや夫(名目上。事実上は家主)に守られ、あたしはすっかり平和ボケが再発してたんだと思う。
やっぱり駄目だよね、ゆとりな女子高生は~…とか、白々しく語尾伸ばして取り繕っても実際には今年十九になる元なんだけど。
でもでも脳がゆるゆるなのはほらゆとりのせいばかりじゃないんだよ、薄ら暖かいとか、最近は命の危険にも直面してなかったとか、いろいろあんの。
「えーっと、そんなわけで食べるのは勘弁してもらえない?」
「断る。オレに下等な人間の願いを聞いてやる義理はない」
目の前に迫ったトラの顔。犬歯が親指より太いじゃんとかでっかく開いた口に現実逃避に走りながら、あたしってば現在絶体絶命中。
でもって、どうしてこんな事態になったかというと、事態は少し前に遡る。
今日も今日とて屋敷の中で退屈な時間を過ごしてたあたしは、突然思い立った。
「そうだ、鞍馬山に行こう!」
「え?」
隣で縫い物していた鶸ちゃんが驚いてる横で、さっさと街着の麻着物に着替えると(いい加減着替えはできるようになった)、背後から引き止める声も聞かずに木戸から町へ、颯爽と飛び出したのである。
思えばこれが間違いの始まりだった。
学習能力に乏しく、バカを地で行くあたしだけど、危機感くらいは持って生活していた、つもり。もちろん外出だって、付き添いがなければ出ちゃいけないことくらい重々理解してたんだって、本当に。
なのに、事件が起こる時ってさまざまな不幸要因が重なるもんなんだよねぇ…。
まず、一番大事な鏡を懐に忍ばせ忘れたことが第一の失敗。これは内裏呼び出し事件の時に泰紀さんが与えてくれた特注品で、姫との連絡手段に欠かせない、現代で言うならドラ〇もんのどこでもドアみたいな便利グッズだ。
これがないと行方不明になったりピンチになったりしたあたしは、助けを呼ぶことも逃げることも叶わない、前述の様な哀れな有様になる。
次に、大抵は屋敷で転がってる妖が誰ひとりいなかったことに、あたしが意識を配らなかったのが悪い。泰紀さんの仕事にくっついていったおじさんと姫と桃ちゃん、ちょくちょく顔を出すようになった赤鬼の里に泊まっていた赤君、里で行事があって来てなかった青さん親子、修行だと言って山に帰っていた鴉。
無鉄砲に飛び出しても誰かはついて来てくれていたのに、その日あたしの背後には誰もおらず、あろうことかお供してくれようとした鶸ちゃんまで振り切る始末。バカとしか表現しようがない。
で、最後に。ここが最大のポイントなんだけど、ここのところうっかりあたしが一人になっても、ちょっかいかけて来る妖も、声かけてくる人間も、だーれもいなかったんだよね。
妖の方々には周りにいるのがあまりにも大物ばかりで、うっかり手を出して身に危険が及んだらかなわないって、人間たちには妖といる人間なんて恐ろしくてかなわないって、そんな理由から。
倦厭されて、だからこそ安全はなんだか矛盾してるけど、こんな状態が半年も続けば危機察知能力に乏しい未来の日本人はあっという間に平和ぼけちゃって、尚且つ特段困ったこともなかったからこの現状に馴染んじゃって。
暇を持て余したあたしが暴走して、徒歩で行ける先にいる鴉にちょっかいをかけようと鞍馬山に向かって踏み出した、途端に拉致られた。
よし、走馬灯のような反省会は終わったぞー。
…現状何にも変わってないけど、取り敢えず元気にエサ状態だけど、当然ピンチにヒーローも現れないけど、頑張れあたし!
「一息に食い尽くすより!!搾り取れるだけ妖力絞った方が、お得です!」
「それじゃあ力にならん。オレは腹を満たすことより、妖力を上げる方に重きを置いてるんだ」
げーっ!それって最悪パターンじゃん!スプラッタ決定じゃん!!
もう無駄話はいらないとばかりに襲い掛かってきた牙に、むちゃくちゃに腕を振り回して抵抗してたら…そこを齧られた。や、そんな可愛い表現じゃないな、喰い付かれたが正しいな。
「いったいっ!!!」
手首の少し下、左腕に走った激痛に叫び声を上げてもそれがなくなるわけじゃない。
あーこのまま肉を持ってかれたら、ここってマンガで描かれるみたいに抉り取られた傷ができるのかなぁ…痛いくせに妙に冷静な頭でそんなことを考えていたら、トラの顔がゆっくり腕から離れていっていざと覚悟して傷を見るんだけど…
「あれ?肉がある??」
空想の中の出来事のように噛み跡が半月型に綺麗に残ることはなく、ぎざぎざの目に優しくない少々湾曲した切り傷が腕の表と裏に平行に二本ずつ、血を滴らせながらあるばかりだ。
ただ、肉があったのは喜ばしいが問題もある。だらだら止めどなく流れる血のせいで、何やら目が回るんだよね。これってあれ?俗にいう、貧血?
「…血で、これだけならば、確かに」
そんで、遠慮なく人に噛みついたはた迷惑なトラは、もったいないとあふれた血を舐めながら獣らしいワイルドな笑みを浮かべて宣言してくれた。
「喜べ。お前をオレのエサとして、飼ってやる」
うわぁ…ちっとも喜べねぇ…。
と、ここで何とか保っていた意識はブラックアウトした。
同時刻、都の外れで結界を修復していた泰紀達は、急の知らせを受け鏡を囲んで座り込んでいた。
「…だめじゃ。どこにも朝霞の姿が見えぬ」
鶸の取り乱した報告に、急ぎ鏡の道をあちこちに開いた鏡華裏は、向かいの泰紀と土蜘蛛に難しい顔で首を振った。
屋敷を飛び出した朝霞を、もちろん鶸はすぐに追った。通常であれば子供といえど妖が人に後れを取ることなどありえず、無事彼女を監視しながら鞍馬山までの道行きを楽しんでいたのだろうが。
目の前で、朝霞は攫われた。
姿かたち、その独特の臭いと素早さから相手はすぐに知れたが、それを追う手段がない。途方に暮れた鶸は遠方に在る主と守護者にすぐさま知らせを送ったのだが。
「あの娘は全く…死に急ぐことよ」
「不吉なことを言わないでください」
守りの要である鏡を忘れていくなど、己の首を絞めてどうすると呟いた姫を宥めながら、泰紀はそれにしても眉根を寄せた。
「何故、鵺が昼日中に出たのか…あれは夜の主ではなかったのですか?」
己の屋敷を闊歩する妖達が皆、朝霞に合せて昼にばかり行動するので忘れがちだが、本来妖は闇に蠢くことを主にしていたはずだ。
中でも鵺はそれが顕著で、日が暮れると塒から出て獲物を物色するのが常であったのに、どうして日も高くから、それもよりにもよって妖の天敵とまで言われる泰紀の屋敷に現れたのか、腑に落ちぬことばかりだ。
「夜こそが鵺の住処よ。いや、闇がなければ奴は本来の力の半分も操れぬ。お主の知る通りではあるが、そういえば鴉が妙なことを言っていたな」
「おおそういえば、儂も青殿に聞き申した。何でも伴侶を欠いた獣が暴れておると」
姫の話しと土蜘蛛の話し、鵺のことを指しているのであれば妻を亡くした鵺がいるということだが、
「何故暴れるのです?何より何故、朝霞の君を攫うのです」
泰紀の言う通り、道理の通らぬ話しである。
妖であれ人であれ、伴侶をなくすことはある。脆弱な人間よりも妖の方がその数は少ないが、それでも死は生きとし生けるものに平等に降り注ぎ、大切な存在を奪う。
強靭な肉体をもち、爆発的な戦闘力を誇る鵺であっても例外ではなく、伴侶を失くしたものがないわけではないのだ。いちいちそんなもので暴れられては、都は何度滅びなければならないのか。
「その鵺の番は、妖術師に殺されたのですか?」
もしやそれで恨みに思って朝霞を狙ったのかと問えば、二人は揃って首を振る。
「いや、重い病であったと聞いたぞ。何やら胃の腑にできものができて、どんな薬も効かなんだと」
「ああそれに鵺が襲っているのは人ばかりではない。妖相手にも見境なく牙をむき、確か鴉が里に戻ったのも女子供を守るためだと言うておった」
土蜘蛛も鏡華裏も、泰紀に教えてやる端から増える疑問にどんどん表情を暗くする。
何故、何故、何故。
繰り返してもわからない。鵺の行動が理解できない。
けれど彼等にとって実害さえなければ、本来そんなものに興味などなかった。今だってそうだ。朝霞が無事に戻るのなら、鵺が壊れた理由になど心惹かれることもない。
だが。
「ああ、なんと厄介な…もしも鵺が朝霞を生かしておるのなら」
「嬢ちゃんと話すんじゃろうなぁ。いやしかし心を壊しておるのなら、あの子の特異さは響かんかもしれん」
「逆ですよ。ひび割れた心に彼女は毒だ。もしも依存でもされたなら…」
その日、妖術頭は異例の速さで仕事を終え、日も暮れぬうちに屋敷に戻ったという。
そうしてもう十日、物忌と称して屋敷にこもりきりだとか。
ちょっと痛い感じで始まりました。
そして、しばらく痛い感じで続きます。
ちょくちょく3人称が混ざったり、3人称だけの回がありますので、ご了承ください。




