1 喚ぶな、帰せ!
ファンタジーも幽霊も妖怪も妖精も死後の世界も、ともかく存在すら確認されていない物は信じる気が無い。
だけどあたしは石頭ってわけじゃない。自分の身にそれが起こったなら、受け入れるだけの度量はある…つもりだ。
「おお、霞の君っ!まことそなたであるのだな!」
自分に害が及ばない範囲で、っていうのが大原則だけど。
だから寝ようとしてベッドに上がったら、そこが突然地面に変わったり、それに驚く間もなく、平安貴族かっ!って突っ込みを入れたくなる、時代遅れも甚だしい格好をしたお兄ちゃんに抱きつかれそうになったりしたら、当然自己防衛に走る。
さっと横に避けて、つんのめった相手の背中を踏みつけるくらいのことは、平気でやっちゃう。
「無礼なっ!雅高様から足をどけぬかっ!」
怒鳴られて周囲を見回せば、5人ほどの成人男子が平安風の仮装をして刀を構えていた。
なんだこれ、と更に状況把握に風景を確認すると、何やらピンクがかった雲と薄水色の空、ここは高台なのか数十メートル下、盆地となった場所には平屋建ての屋敷やら寺やら塔やらが、碁盤の目のような道に沿ってずらりと立ち並んでいた。
…実際に見たことはないけど、なんかの番組でやっていた再現CGに、よく似てる気がするんだけど?確か、平城京がどうのこうのと言っていたような…ただ、この人達の格好から想像するに平安の方がピタリはまる気もする。こっちは教科書に載ってる絵巻物とか、友達が貸してくれた漫画に出てきた男子の服装と同じだから。
でも、日本の空は青い空と白い曇って、揺るぎない事実を持っていたはず。どの時代にもピンクの雲が発生したなんて記述は、無かったと思うんだよね…そしたら平安京でも無いってこと?
「女!聞こえぬのかっ!早ようその汚い足を、雅高様からどけいというに!」
「うるさいっ!こっちはそれどころじゃ無いのよ。あんた達、さっきまで自分の部屋にいたのに、一瞬で外に出てたりしたら驚くでしょう?!あたしはねぇ、今まさにその状態なワケ。全然、現状が理解できないのよ。そこへこの男はいきなり飛びつこうとするし、取り巻きみたいのは刀構えてか弱い女の子を脅しにかかるし、ったく何がどうなってるワケ?」
怒りにまかせて怒鳴ると、なぜだかぎゃいぎゃいうるさかった外野が突然静かになった。
よくよく表情を見てみると、どいつもこいつも気まずそうな顔、してるじゃない?しかもその視線はちらりちらりと、あたしの足下の人物を窺い見ている。
これで気づかなきゃ、バカってもんよ。
「…あんた、何しでかしたわけ?」
蛙のように地面にべったり張り付いている男に、できるだけドスのきいた声で尋ねてみる。返答如何では更なる暴行を加えるのも厭わないって、あんまり歓迎されないだろう脅しを込めて。
すると足の下で激しく身動いだ男は、不明瞭な声で己のやったことを告白し始めた。
「私はっ!私はただ、儚くなってしまった霞の君に今一度会いたくて、彼女の魂を持つ娘を喚び寄せただけだ。そなたのような凶暴な娘、喚んでおら…ぐえぇ!」
あ、最後にきっしょく悪いうめき声が入ってたのは、あたしがより一層、足に力を込めたからだから。
だって、勝手に喚びつけといて、お前なんか喚んでないはないじゃないのよねぇ。そんならさっさと帰せっての。
よれたパジャマなんて、外に出るには非常識な格好のまま放置されるのは、こっちだって真っ平だ。
すうっと目を細めたあたしは、少しかがんで足下のバカに聞こえる大声で言ってやった。
「なら、すぐに私を元いた場所に帰しなさい。明日からテストがあるの。赤点取ったら進級できないんだよ?ほら、早くっ」
急かすと更に、背中が跳ねる。怯えてびくんって、あんな感じ。
な~んか、やな予感がするんだよねぇ。ここはほら、お定まりの台詞を言われるような気が、めちゃめちゃするんだけど、なぁ。
どんどん濃くなる自分の怒りの密度に周囲も凍り付き始める中、それでも一縷の望みをかけて足に更に力を込める。
「ほら、早く」
「…きぬ…」
「はぁ?」
蚊の鳴くような声じゃ聞こえないと、今一度念入りに踏んでやると、やけくそみたいに大きな声が聞きたくない真実を告げた。
「できぬ!どのような術式だったか、覚えておらぬのだから、そなたを帰すことは無理だと言うておるのだ」
「おるのだ、じゃないぃぃぃ!!」
すっぱーんと、周囲に良い音が響き渡ったのは、あたしが男の頭を勢いよく張ったせいだ。最早取り巻きは、それすら黙って眺めているしか無い非常事態。それほどあたしは激高していた。
「出した物は戻す。これお片付けの基本でしょうが。だいたいねぇ、できもしないことを無理にやろうとするからこんな事態を引き起こすのよっ!無能な人間が陥る典型的な自己過信故の失敗に巻き込まれた責任、どうとってくれるわけ?!」
これだから金持ちのバカ息子は手に負えない。ゾロゾロ手下引き連れて、面倒なことは全部連中にやらせて、いつの間にやらそれが全部、自分の力だとか才能だとか勘違いすんのよねっ。これまでこいつを誰も怒らなかった、いい証拠だわ。 あたしの足の下でブツブツ何か言っているようだけど、しらんっ。言い訳も謝罪も必要ないから、早く戻せ、帰せ。
もう踏むを通り越して踏みにじるに近くなってきた暴挙を、止められる人間はいないかった。なにしろこの男は、どうしたってあたしを家に帰せるといわないのだ。できないだとか、諦めてくれとか、すまなかったとか、人が絶望するような科白を言い募るばかりで、その度持って行き場の無い怒りが、奴めがけて爆発する。この無限ループ。
けれど、不意に誰かの手が、あたしの肩に置かれた。皆遠巻きに見るだけで、誰も近づいてきていないと思っていたのに、振り返ると光源氏の如き扮装をした、切れ長の目のイケメンが微笑んでいる。
そして彼は自分の行動を押さえきれなくなっていたあたしを、そっと男から遠ざけて低く落ち着いた声で言った。
「貴女の仰ることはごもっともです。けれどどうか、兄を許してはもらえないでしょうか?」
許せない。許せるわけがない。
でも、こんなことしたって事態が変わるわけじゃ無い。
わかっているけど、ここで怒りを収めたら別の、もっと強い感情が爆発する。
だからあたしは、顔を背けた。噛みしめた唇の間から、絞り出すように答える。
「イヤ」
「そうですね、許しがたいでしょう。しかしいつか必ず、貴女を元いた場所にお帰しできるよう、私も力の及ぶ限り努力いたします。勿論、兄にもそのようにさせますので、どうかこの場だけでも、お気持ちを押さえていただくことは叶いませんか?」
耳障りのいいこの約束を、信じてしまうのは容易い。縋ってしまえば楽になる。けれど、願いが叶うまで一体いつまで待てば良いのか、傍らの男が期限を口にしないことが実現の難しさを物語っている。
「イヤ」
「どうか、お願いいたします」
「イヤったら、イヤ」
「どうか」
「イヤだってばっ!イヤだっていってるでしょう!!」
叫んだ拍子に、ほろりと涙が落ちた。
ほんの少し前まで、手の届く場所にあった日常が恋しくて。多少の不満はあったけど、離れたいなんて思ったことも無い毎日に戻りたくて。
堰を切ったように流れ出した涙が、後から後から零れて、赤っぽい土にぽたぽたと濃い染みを作っていく。その時初めて、ああ、あたし裸足だったんだって気づいて、余計に泣けた。
「すみません…どうして差し上げることもできなくて」
ふわりとお香の匂いが取り巻いて、あたしの視界は閉ざされた。
体のどこにも触れないよう、ゆるりと囲われた腕の中、小さな子供のようにあたしはわんわん泣き続けた。