日常パート2
人の動き回る気配にむくりと起き上がる。ちょうどカーテンが開けられたところだった。太陽が無邪気に日差しを投げかけてくる。あ、あ。頭がぼーっとする。
「おはようございます、ハス様」
「うー……おはよー……」
爽やかに声を掛けてきたピーチュに、あたしは朦朧としたまま返事をした。
突っ伏したい。もっかい突っ伏したい。甘美な誘惑だ。
あ、枕、あんなとこまで飛んでるや。
昨日は、部屋に戻るとピーチュに怖い視線を向けられた。どうやら思いの外身体が冷えていたらしい。そ、そんな怒るほどでもないじゃん……。って言ったらもっと怒られた。
ジギリスも怒られていた。王子様が女の子に怒られるなんて……!
「モモちゃん強い」
思わずぽろっとこぼしたらまた怒られた。反省してます? ってにっこり笑って迫ってくるの怖かった。
ていうか王子様と可愛い女の子の図、なかなかにおいしい光景だった。
うん、また見たい(あ、反省してないみたいね、あたし)。
ちなみにあたしはピーチュのことをモモちゃんと呼ぶことにしたのだ。理由は察してくれ。
でも可愛くない? 良くない? 自画自賛してもこれは許されるよね! 名字から取ってエミちゃんでも可愛いかなとは思ったんだけど、他の人達は名前で呼んでるわけだし。
夕方の訓練(と雑用)を終えたナノが帰ってきて、ジギリスは帰っていった。ナノのことをじゃれつくようにからかってから。そんなことばっかりしてるんじゃないだろうなこの男。ピーチュのお説教も結局、あたしが怒られてる間に、モモちゃんはハスのことが心配なんだねって笑ってかわしてたし。反省してんのかと思ったら! モモちゃんはあたしだけのあだ名なの!
なんとか悪魔の囁きに打ち勝ったあたしは、ベッドから這い出していつも通りの工程をこなす。挨拶してーお祈りしてー勉強してー。
今日は午後の授業はない。それを知ったジギリスに昨日誘われて、午後からは兵士達の訓練を見に行くことになっていた。昼食後、迎えに来た彼とともに練兵場へと向かう。
「訓練ってなにするの?」
うちの高校の剣道部の練習風景を思い出しながら、聞く。って言っても剣道場なんか入ったことないし、放課後に走ってたり横飛びっぽいことしてたりの彼らとすれ違うくらいだったんだけど。
「素振りとか、打ちあいとかかな。基礎体力つけるのに走ったり、筋肉強化の鍛錬をしたり、そういうこともするけど、そういうのは見習いが主。だからナノは僕らより訓練時間多いんだよ」
「なるほどー」
そうか、でも、ってことはこの笑顔きらきらの王子様も全身筋肉だったりするんだろうか。似あわねー。
だってこの人、少女漫画のヒーローみたいじゃないか。現実の男の人のにおいがしないっていうか。女の子の理想のテンプレート。
本人からしたら失礼なんだろうけど。それともこんなこと思われてるって知ってもやっぱりにこにこ笑っているんだろうか?
「どうぞ」
「あ、ありがと」
行く手に扉なんかがあると、ジギリスはそれを押さえてあたしを先に通してくれる。少しでも歩きづらいところでは手なんぞを取られる。うーん、お姫様気分だ。こっそり窺ってみるも、全く照れた様子がない。素でやってるのか? だったら凄いな。
……現実味がないって言ったら、エルフことラタムもそうだけど。でもあいつは顔やたら良いだけで、中身はオタクっていうかマニアっていうかそんな感じだし、あの周囲を気にしない浮遊感が逆にリアルだ。
でもこの人は。なんていうかなー、上手く言えないけど。
「――ちょっと、本当もうやめて下さいよー!」
ん、あれ? 聞き覚えのある声に、あたしはついと顔を向ける。
そこにはナノがいた。一回りくらい体格のでかい男達に囲まれて、じたばた陸に上がった魚のようにもがいている。
「ほらほら、軟弱だぞ」
「なーにが怖いってんだ!」
「お前の兄ちゃん達に頼まれてるんだよ! 可愛い弟をよろしくってな!」
「あ、兄貴達のばかやろう!」
「なあに、ちょっとくらい無理したところで死にゃあしないさ」
「現に今平気じゃねえか」
「そういう問題じゃなくってですね! やーめーろーはーなーせー」
喚くナノとは対照的に、周囲は和やかに笑っている。ずるずると引きずられていく彼を、遠くから無言で見守った。
「……なに、あれ」
「〈白花〉隊はいつもあんな感じだよ。ちなみに高笑いしてた白髪のおじさんが隊長ね」
「あの中にいたのか! おい!」
それで良いのか。良いのか?
ああ、でも、こいつも隊長だっけ……。あたしの視線に気づいているのかいないのか、ジギリスは少し先で手招きをする。
「こっちだよ。ほら、あそこ」
練兵場の中はいくつかの区画に分かれていた。兵舎や事務所があったり、隊長格の執務棟があったり(近衛小隊長以上とか言われてもよく分からない。騎兵と歩兵がいて? 連隊が? まあ結構複雑らしいことだけ把握した)。訓練する場所も、屋内、屋外とバリエーションがあるようだ。
ジギリスが示したのは、粒の大きい砂の敷かれた、学校の運動場のようなスペースだった。掛け声に合わせて、だいたい三十人くらいが棒状の物を振っている。たぶん木刀の一種。
進んでいくと、気づいた兵士達が視線を向けてくる。あたしはちょっと身を竦めた。ルディカ、とどこからか呟きが聞こえ、はっとする。手の甲の刻印。今日は袖がそんなに長くない。
隠すべきか、いやでも今更、と一瞬逡巡しているうちに、空気が変わったのに気づいたのだろう、彼らの向こうから、青みを帯びた黒髪が振り返った。
「ハス? なにしてるんだ」
「あ、アサキオ――」
「アサが来ないから、ハスの方から会いに来たんだよ」
あたしが答える前にジギリスが後ろから口を挟む。アサキオは目を細めて幼馴染みを見やった。
「どうせお前が唆したんだろ」
「人聞きが悪いな。でもさ、本当に、アサは回数が少なすぎるんじゃない? いくら仕事が忙しいからって、駄目じゃん」
「それは……そうかもしれないが。すまん、ハス」
「え? あ、いや」
「ジギリス、お前は後で話がある」
「ええー」
「……お前のところの副隊長になんで俺が泣きつかれなきゃならないんだ?」
「ああ、それは……なんかごめん」
二人の会話よりも、背後のざわめきが気になる。振り返ると、一人の兵士と目が合った。
「ルディカ……」
「本当にルディカだ……」
い、いたたまれないよおお。なにこの空気。押し潰されるとか言うまでもなくもうぺしゃんこになるのが決定事項だわ。ああ、短い生命だった。
世を儚んでいると、意を決したようにその一人が進み出てくる。な、なんだ。お手柔らかにお願いしますよ。
「ルディカ、ハス様、先日は失礼いたしました」
「へ?」
「いらしたばかりのところを、あのように騒ぎ立てして、さぞ不快に思われたでしょう。どうかご慈悲を賜りますよう。一同反省しております」
……あの初日にいた人達か!
そうか、アサキオが隊長なんなら、もちろんいたっておかしくないよ。うっわあああ、なんかごめんなさい!
「そんっ、そんな、謝らなくても! 全然気にしてないですから」
噛んだ。恥ずかしいぞ。
「おお、お優しい……」
「流石ルディカだ」
「ありがとうございます!」
「ルディカ、この国は気に入りましたか?」
「なにか欲しい物とか!」
「そういえば城下にですね――」
「私の話も聞いて下さい!」
お、お前らも言葉が通じない集団か! もうどうしろと。一気にまくしたてられて、収拾がつかない。人間には許容量ってものがありましてね、お兄さん達。聖徳太子連れてこい。
「……お前達、ハスが困っているだろう。それに、今は訓練中だ。戻れ」
「は、はいっ」
「アサキオ、ありがとう……」
「教育の行き届かない部下達ですまない」
哀愁を帯びた顔でため息を吐く。背中に影が見える。ええっと、アサキオっていくつだったっけ。あたしと二歳しか違わないはずだよね。
なんでそんなに老成してるの? ってこっそり呟いたら、聞こえたらしいジギリスに爆笑された。ええ、ちょっと、王子大丈夫か。
「ハス、こっちに座ると良い。ここならあいつらの気も散らないだろうし」
端っこの、衝立がある場所に導かれる。椅子を引いてもらった。
「ありがとう。なんか気を遣わせちゃってごめん」
「構わないさ。奴が悪い」
「いや……それほどでもないんでは……。あたしも来たがったわけだし」
ジギリスよ、あなたはどれだけこのお兄ちゃんに迷惑を掛けているんだ。っていうかアサキオの精神年齢高いのってもしやジギリスの所為なのでは……?
「アサキオはやらないの?」
素振りは終わったようで、兵士達はなにやら中央にスペースを空けている。彼らが群がっている紙を窺ったところによると、結構本格的なトーナメント戦を行うようだ。おお、良いね良いね。わくわく。訓練ってこんなこともするんだな。
「俺は今回は審判役に回っているから」
「そっか。残念」
「……ハスが見たいなら」
「へ? え! いや、良いよそんな! だってちゃんと試合手順とか決まってるんでしょ? 崩せないよ」
そう言うと、アサキオはちょっとほっとしたように笑った。あー、やっぱり無茶だったんだな。いやいや、そこまでわがままは言いませんし言えませんからね。
でも、だから。
「今度、見せてね」
「――ああ、了解」
あ、笑った!
じーん。感動していると、ジギリスがひょいっと回り込んでくる。この長身め!
「ハス、僕は?」
「あー、うん。ジギリスも見たい見たい」
「誠意って言葉知ってる?」
「お前が言うな」
軽く金髪をはたいて、アサキオは即席試合場へと出て行った。
始め! と鋭い号令とともに模擬試合が開始される。うわ、まじか、いくつか同時進行でやるのか。ああもう、どれに注目しろって? こんなの目移りするに決まってるじゃんかよう。
「ハス、お菓子食べない?」
「んー……あ、ちょっと、やめて!」
集中していてあんまり聞いてなかった。あたしは慌ててジギリスを押しのける。
「それ、近づけないで! あたし駄目なの! そういうの無理!」
ジギリスが手にしていたのはバターの香る焼き菓子だ。実はあたしは洋菓子、とくにマドレーヌとかフィナンシェ系統が食べられない。ああ、においだけでむかついてきた。
「へえ……嫌いなの? 珍しいね」
「女の子が皆甘い物好きとは限らないんですよ。ホットケーキは平気なんだけど」
ケーキ屋さんに行かないと言うと友達には非国民みたいな顔をされる。マカロンとか話に聞くし見た目も可愛くて気になるけど、怖くて試したことない。
市販のお菓子は弟と一緒に普通に食べるけど。
ごめんね、と謝られたので首を振る。
それからあたしは白熱する試合に熱中した。
書き溜め分を見直していて、なんかこれ全体的にシリアスすぎるんじゃね? と思ったので面白おかしなお遊び回を挿入しようとして……して……!