プロローグ1
ふうっと映像が消えていくような感覚があって、あたしはぱちりぱちりと瞬きをする。身体と周囲にぶれがあるような。目眩に額を押さえた。
一瞬だけ、石造りの大きな建物が見えたような気がした。白くて、ギリシャのパンテオンみたいな。聖なる感じ。
掴めない幻は遠ざかり、あたしは緑に囲まれている己を知る。
現状を把握せんと脳が回転を始めた。うん、現状?
つまりね、単純に単純に。
目を開けると、そこは森だった。
……って、は?
ええーっと。
ちょっと待て。待ってね。落ち着こう。落ち着こう、あたし。
そうだ、深呼吸しよう。あたしは焦るとろくなことをしないってお母さんも言ってたんだから。落ち着こう。
深く息を吸って吐いて、もう一度目を開ける。瞑って、開けての一連の動作を繰り返す。
それでも、目の前にある光景は変わらない。あたしの足下から、前にも、後ろにも、森が広がっている。
「どういうことだよ。終いにゃ切れるぞ」
あたしはぼそりと呟いた。
あ、ちょっとびくっとした。想像以上に低い声だった。自分の声に自分でびびるって……。大丈夫、だれも見てない。恥ずかしい。
――本当に、だれもいない。静かな森。
こういう時の常套句ってあれだよね。ココハドコワタシハダレ?
自分がだれかは分かってる。成木蓮子。十七歳、高二。忘れてなんかない。家族の顔も、友達の顔も、ちゃんと思い出せる。
でも、それじゃ、ここはどこなの?
ははっ。笑ってないとやってらんないや。
あたしはとりあえず姿勢を正した。落ちてきたそのままの格好で、股は開いてるわスカートはめくれかけてるわセーラーの襟は後頭部に被さってるわ正直酷い状態だったから。
そう、あたしは落ちてきたのだ。
もう一度深呼吸をして、ゆっくりと思い返す。あくまで落ち着いて。よし。
今日は木曜日で、近所のスーパーの定例市、特売の日だった。あたしは週末に買い損ねた卵と、喧嘩した弟への貢ぎ物(なにか甘いもの)を仕入れるべく、制服のままで出かけていたのだ。
なんの変哲もない午後だった。夕方、といっても良い時間帯ではあったけど、まだ十分に明るくて、あの橙色の柔らかい光は未だ片鱗すら見せていなかった。
四月に入ったところで、まだ少し肌寒い日も多いのだけれど、今日は風が気持ち良かったからあたしは散歩がてらのんびり歩いていたのだ。職員会議とかで短縮授業になって、割合時間に余裕もあったし。
そうやってゆっくりしてたのが悪かったのかな。いつもみたいに友達を置き去りにしちゃって怒られる速度でせかせか歩いてれば捕まらなかったのかな。
ともかく、あたしは歩いていたんだ。そのあたしの真下に、信じがたいことに、突如として穴が出現した。
……うん。間違ってないよね? 何度思い返してもそうだよね?
穴が、開いた。さっきまでは固いアスファルトだったはずの地面に。それでもって足場をなくしたあたしは当然のごとく、その穴の中に落っこちた。
落ちていた時間はそんなに長いものじゃなかった気がする。そもそもあれが本当に落下だったのか疑わしい。確かにあたしは重力に従って落ちたんだけど……なんというか、穴の中に入ってからは自由落下って感じじゃなかった。なんかふわっとというかもわっとというか……。怖かったから目を瞑っていたし、よく分からないけど。
それからまた急に重力のあの馴染み深い負荷が掛かって、かと思うともう地面だった。お尻が痛かった。でも、それだけだった。短い時間といったって、それでも距離にすれば結構落ちたはずなのに。
その時点でおかしいなとは思ったのだ。いや、穴だっておかしいわけだけど。あれは余りにも常識を無視しすぎてて反応できないでしょ。それに、ここは空気が違った。あり体に言えばにおいが違った。街中のにおいじゃなかった。人工物のにおいじゃなかった。
そして、恐る恐る目を開けて、そこは森で。
現在に至る。至ってしまった。どうしよう。
あたしは呆然と宙を見上げた。頭上には木々と晴れ渡る空、それだけ。穴なんてものは存在しない。そんな非現実的なもの。
なんなの、まじで。これ、なんなの?
言っても良いかな。良いよね。あたしには言う権利があるよね。
すうっと息を吸い込む。
「責任者出て来おおい!」
説明義務があるでしょう!
うん、よし。まあとりあえず。
諸々のことは脇に置いておこうか。穴とかここどことか穴とか帰り方とか穴とか穴とか。あーあーあー考えない考えない考えない。あたしは冷静、あたしはやればできる子だ。
で、ですね。気づいたのだけど。あたしって現状、結構やばくない?
だってここ森なのよ。どこのどちらなのか知らないけど(考えない!)森なわけよ。そんな中にぽつんと一人。ねえ、やばくない……?
森の危険性って分かんないけど。でもとにかく自分が森にいる装備じゃないのは分かってる。ちょっとお散歩って程度で済めば良いけど、あいにく森の出口らしきものは見回した限りでは発見できない。いかにも森の奥に続いてそうな獣道くらい。
こういう時ってお約束ではなんかに見つかっちゃったりそんで襲われちゃったりするよねえ。具体的に言えば熊とか。狼とか。日本の森に狼はいないか。いやしかし、ここって日本なの? ……いやいやいやいや。
あー、どうしようもない。頭を振って、あたしは少し大げさなくらいに身をよじって持ち物の点検をし始める。装備の確認ってやつ。
とはいえ、あたしはただ単に買い物に行って帰ってくるだけのつもりだったのだ。持ってるものなんてたかがしれてる。空っぽのエコバックと、財布。携帯。そうだ携帯!
あたしは慌ててポケットから携帯を引っ張り出した。脇のワンタッチボタンを押してぱかっと開く。目に飛び込んできたのは、「圏外」の文字。
ですよねええ。あたしのおんぼろ携帯に、こんな不測の事態に対応する機能は期待してなかったよ……。ちくしょう。地図アプリも使えないじゃん。
おそらく今必死で電波を探してくれているだろう携帯くんを閉じ、あたしは深いため息を吐く。ほどほどで良いからね、携帯くん。あんたって融通聞かないんだから。絶対に電波がないって分かってる場所でも探しまくって無駄に電池消費して、あげく画面真っ黒がオチだから。
スーパーの回収ボックスに入れるための牛乳パックやらトレイすらエコバックには入っていない。今日はイレギュラーな買い物だったんだもん。いつもは週末に全部済ませるんだ、あたしは。まあ入ってたって活用法は思いつかないわけだが。ああ、でも、牛乳パックは焚きつけにくらいはなったかな。レシートだけじゃ役に立たずにすぐ燃えちゃいそうだもんな。ライターとか肝心の火をつける道具を持ってないけど。
財布の中には、家の封筒から移してきた買い物に行く時用のお金。少なくはないけど、こういう状況じゃ心許ない。身分証は全部入ってる。よし。役に立つ、よね? いやいや。
せめて学校の鞄を持ってればなあ。微々たるものだけど食糧が入ってたのに。重いからって一旦家に帰って置いてきちゃった。
……うん。そろそろ見ない振りも厳しいな。視界にちらちらする、黄色。無視もしてらんないよね。よりによって利き手かよ。
あたしは意を決して自分の右手を直視した。そして逸らした。
だ、だっておかしいんだもん。あたし不良じゃないのに!
もう一度。慣れ親しんだ右手の甲は、やっぱり見慣れぬ色に染まっている。
中央に、濃い色の丸。そこから延びる八枚の花弁は端に近づくにつれてその黄を薄くしていく。それはまるで空を仰いでいるような、上を向いた花だった。
おかしいだろ! なに自然発生しましたって顔してあたしの右手に収まってんの! これって入れ墨? 入れ墨なの? 怖っ。持ち主に覚えはございませんよ。こすっても消えないよ。もうなんなの。
だからあたしこんなもの堂々と入れるような不良じゃないし。ていうかこんなの見られたら寧ろ痛い子じゃない? あいつあんなとこに……ぷぷぷ、みたいな。あたしはなにをやっても許される顔の良さなんか持ってないのよ。そりゃあ美少女がやってればどう見ても痛い子でも様になるかもしれないけど、あたし普通の子だから! 悔しいけど人並みと言わざるを得ないから!
意味不明。色々とな。あたしの許容範囲はとっくに超えてんだよ馬鹿やろう。
これまでの理不尽を全てなすりつけるように花を睨む。でも所詮それだって自分自身の右手の甲だ。客観的にはシュールな図にしか見えないだろうと気づいて脱力した。
膝を抱え込む。どうすれば良いっての。いくらあたしでもしょんぼりするわ。
どうして良いか、分からない。
森は相変わらずのどかだ。静かで――ん?
静か?
あたしは耳を澄ませた。
音。気配。それはなにかが近づいてくるような。
って、うわわわっ! どうしようなんか来るっぽい! なんか聞こえる! しかも集団っぽいよ。どうしよう。隠れるべきか。木にでも登るか。
動揺するあたし。無情にも、気配は更に濃厚になる。茂みを鳴らす音。呼びかけあう声。
……ん? ちょっと待てよ。あれもしかして人の声ってやつ――?
「いたぞ!」
「うぎゃあっ!」
乙女にあるまじき声を上げてしまった。恨むぞ!
振り返った先には、鎧を着た男達の集団。え、いや、え。コスプレ、じゃないの。そんな真面目な顔しちゃって。西洋っぽい顔立ちだから似あっちゃうじゃないの。え、ここ日本じゃないの? み、みとめないぞう。
ていうか顔怖い。皆さん顔怖いよ。ここはフレンドリーにいきましょうよ。ほらほら先頭のお兄さん、せくしーな黒髪のあなただよ、あなたせっかく美形なんだから。おなごにサービスして下さいよ。
「何者だ! この聖女の森に入るとは……」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいいい」
声を張り上げるお兄さんは映画みたいで格好良かった。それを向けられるのが自分じゃなければな。泡食ったあたしはひたすら謝り始めたよ。だってわけ分かんない! 怖いし!
そして、ぎょっとした。
「うええええ。な、な」
あたしの手、あたしの手が、光っている!
あの花の入れ墨が、黄金色の光を振り撒いていたのだ。
そんなオプション要らないから! どうしよう、これ。本当なに。
飽和した頭で、とりあえずおずおずと右手を背後に回して隠してみる。それでも光ってるんだけど! どうしろと。
あたし、あからさまに怪しいよね。突然いるし、なんかこの森入ったらやばかったっぽいし、しかも光り出すし! もう光り出すってなんなの。入れ墨って光るもんなの。一介の高校生になにを求めてんの。光る少女とか、もうお嫁に行けない!
「貴方は、もしかして――」
気づくと、大混乱のあたしに、美形のお兄さんが奇妙な目を向けていた。いや、お兄さんだけじゃない。どこか戸惑ったような空気が流れている。え、皆さん目の色違いませんか。大丈夫?
ざっざっと規則正しい音を立てて固そうな靴が近づいてくる。それって材質は木? 革なの? あ、なんか囲まれてるあたし。
えーっと。これ、もしかして、やばくない?
視界の隅で、ゆっくりと花が光を失っていった。