不穏5
「……なに言ってんの?」
あたしの喉からは低い低い声が出た。目の前の男は、気にした風もなく肩を竦めている。
なにを言った? この男は?
「なに言ってんの、ばかなんじゃない? ばかなんでしょ?」
「真実だよ」
「ばかなんじゃないの?」
ばか、と。あたしはひたすら繰り返す。ばか。ばかだ。ばかなんだ。だってあり得ない。なにを言うんだ。
ねえ、ばかなんでしょ?
「残念だけど、ハス――」
「御託は良い。もうたくさん。あんたなんか知らない。ばかなんじゃないの。帰れないって言った? いや、うん、まあそれは良いよ。何度も聞いたし。別に帰る方法探すだけだし。けど、あんたなんつった。ばかじゃん。帰ることを望まないって、帰ることを望まれてないって」
わなわなと身体が震えているのを感じる。一瞬で、全ての感情のベクトルが怒りにシフトする。
「ルディカというのはそういうものだよ」
「あり得ない。あり得ない。ばかやろう。あんたなんか、あんたなんか、もうなんなの! 意味分かんない。ねえ、それだれが言ったの? ルドゥキア? あんたらの親愛なる神様が言ったの? 本当、あり得ない。だれだよ。そんな奴、ひっぱたいてやる!」
勢いで身を乗り出した。彼がびくりと震えたのを見ていた。
しかし伸ばした手は空を掻く。足を引いて、危ないな、と彼はまるで余裕に笑ってみせた。伊達に兵士なんてやっていないらしい。それを知ったところでむかつきは増すばかりだったけれど。あたしは舌打ちした。
「毛を逆立てた猫みたいだね。その爪に掛かるのは遠慮するよ。ねえ、それだけ怒るってことは、図星だってことなんじゃないのかな? 本当のことを言われちゃったから、気にしてるんじゃない?」
「うっさい」
あたしはいらいらと足踏みをした。そうして、月を背景に立つジギリスにきつい視線をくれてやる。ばかばかばか。
「神様が連れてきたんでしょう。あんたらの神様が、勝手にあたしを選んだんでしょう。挙げ句の果てには望まれていない? おかしいだろ。神様がそう言ったの? じゃあその神とやらに会わせろよ!」
「おかしなことを言うね。君は、神の娘、ルディカなのに」
全然おかしくなんかないじゃん。あたしはただ落ちてきただけだって、ずっと言ってきたのに。
噛みあわない。
身体から力が抜ける。徒労感。
「なんなの? 本当、なんなの……」
いつの間にか月は高くまで昇っていた。闘志は衰えないまでも、少し冷静になってテンションが下がっていく。あたしなにしてるんだろ。こんなところ、こんな、地球上ですらない土地で。虚しい。
深呼吸する。庭の緑の所為でここの夜の空気はいやに濃密だ。
もう暴力に訴える気は失せていた。あれは単なる一瞬の衝動だったし、別にこいつを殴ったからといってなにが起こるわけでもない。
向こうにもあたしのそういう感情が伝わったのか、彼はちょっとつまらなそうな顔をした。ふんだ。
「もう帰れば? 言いたいことは終わったんだろーが」
「……反論できないってことは、図星なんだ。でしょ?」
「もう一回だけ言ってあげる。――あり得ない。あたし達のことなんにも知らない奴なんかに言われたくない」
なおも口を開こうとしたジギリスの目の前で、あたしは音を立てて窓を閉めた。ジギリスが閉口し、呆れた風に目をぐるりと回すのが見える。いいっだ。あたしは彼を残して衣と髪を翻し、どすどすとベッドに戻った。
毛布にくるまり、歯を噛みしめ、暗闇を睨む。
昔、一度だけ、迷子になったことがある。
そりゃあ、あたしの方向感覚はあんまり良くなくて、道に迷うことは割にあったけど、実は、家族とはぐれて迷子になった、という経験はほとんどない。もしかしたら物心つかない時期にあったのかもしれないけど、少なくともあたし自身の記憶にある限りではこの一回きりだ。
行き慣れたというほどではないにせよ、ちょくちょく出かけるデパートでのことだった。日用品でなく、ちょっと質の良い物、贈り物などを買う機会にはいつもそこに行っていた。今の家に引っ越す前のことだ。
あたしは電化製品のフロアで家族を見失った。なんで家電なんだ、なんでこんなところで、と混乱しながら自分に突っ込みを入れていたのを覚えている。
……ああ、そうだ。あたしが引っかかったのは、雪だるまの形をした大きな電灯だった。クリスマスの飾りの一種だったんだろうか。
物珍しくてそれに見とれているあたしを置き去りに、皆さっさと行ってしまった。時期を考えるに、多分、お歳暮を買いに出かけた時だったのだと思う。
雪だるまの観察に満足して、ふと我に返った先で見知った姿が消えていることに気づいた。でもまずはそんなに慌てないものだ。ちょっと離れてしまっただけで、すぐに追いつくと思っている。あたしは早足で辺りを巡って、それからやっと思い知り、パニックになった。
あたしはその時には、自分がもう十分に大きい歳だと、そう思っていた。学校では先生にしょっちゅう、もう何歳なんだから、何年生なんだから、と自覚を促されていたし。だからその「大きい子」の自分が迷子になったなんてちょっと認められなかった。
迷子になった時のあの独特の寄る辺ない不安感は筆舌に尽くしがたい。泣くことすらもできない張りつめた混乱の中、炊飯器や電気ポット、アイロンやドライヤーの間を歩き回った。
迷子は動かずじっとしているべきだ、という注意をやっと思い出したのは確かパソコンの棚を周回している時だった。
それからそこでじっと待っていたけれど、今考えるとはぐれたのは雪だるまのいる電球のコーナーだったわけだし、探し手に対してあまり親切なやり方ではなかったよな。それでも自分がどっちから来たのかあの時のあたしは既に分からなくなっていたし、のべつまくなしに動き回っているよりはましだったろう。
家族のだれがいつあたしの不在に気づいたのか、とかいう細かい情報は知らない。とにかくあたしは必死だったから、後からそれを聞こうとも思いつかなかったわけだ。
だがとにかく、あたしの家族は戻ってきた。あたしが電化製品の辺りでふらついていたのはかろうじて覚えていたらしい。近くには玩具やゲームのコーナーもあったし。
大きい二人と小さい一人。向かってきては通り過ぎていく人と人との組み合わせの中から、あたしの三人が立ち止まってくれた時には心の底から安堵した。
お母さんにはちょっぴり叱られて、それからよしよししてもらった。その歳で迷子なんて格好悪い、とヨウちゃんが大笑いしているのも気にならなかった。買い物を終えた後も、ぐずぐずとまとわりついているあたしを、お父さんが久しぶりに抱き上げてくれた。重くなったな、腰が痛い、と優しく笑っていた。
デパートを出る前に、ベンチをまるまる一つ陣取って、皆で温かいジュースを飲んだ。あたしは弟と半分こ。こういう時のお約束としてどっちがあんまりにも多く飲んだと喧嘩して、こんなお出かけ先でまで、とお母さんに呆れられた。
それからあたし達は家に帰ったのだ。四人で、いつも通りに。
ああいうのを、幸せっていうのだ。ちゃんと、知ってる。
ルディカがなんだというのだ。そういう存在? それが条件? うん、そう。でもあたしは言うよ。それがなに? だからなんだっていうの?
帰りたくないなんて。帰ってきてほしくないと思われているなんて。なんとまあ馬鹿なことを。
あたしは家族を思った。なによりも大切な人達。大好きな、大好きな人達。
そうだ、ナノには悪いことをした。あたしは思い出して改めて反省する。
でも、嫌だったのだ。彼は家族が大好きで、そんな彼のする家族の話はいつもとても楽しい。突拍子のないことばかりするお母さん、苦労性のお父さん、無理難題を押しつけてくるお兄さん達。楽しいから、酷く苦しいことがある。
あたしだって家族が好きなのだ。いつだって自慢したいのだ。
あたしの言えないことを笑顔で話す彼にもやもやした。きっとそれは名前をつけるなら、羨望とか嫉妬とか逆恨みとかいうもの。それから、ひょっとしたら、一滴の憎悪もあったかもしれない。申し訳ない。
――優しく抱きしめてくれた腕があった。普段は憎まれ口を叩きながらも、いざとなれば一緒に戦ってくれる肩があった。いつだって不器用で、なのにどうしてか頼もしい背中があった。
あたしは泣いたよ。帰れないなんて認められなかったし、今だって夢オチじゃないかと期待している。自分が向こうでどういう扱いになっているのかな、という想像は何度もしてみた。あたしの大好きな人達が泣いている様子は簡単に思い浮かんだ。
よくある物語のように、時間が止まっているとか、そういう都合の良い展開になっていれば良い。そうすれば少なくとも悲しませることはないのに。
あの人達があたしがいないことに気づいて心配しないはずがない。不安に思わないはずがない。失ったならば神やら運命やらを詰るだろう。あたしはそれを信じているのではない。それが本当だと知っているのだ。
ジギリスに言われた言葉が真綿のように取り巻いてくる。でもあたしはそれから逃げることはしない。そんなのプライドが許さない。真っ向から見据えてやる。
何度だって言おう。これに関しては、あたしは決して譲らない。そんなことは、あり得ないのだ。
ルディカは来訪者である。それは良い。確かにあたしはトリッパー、異世界から落っこちてきた。ルディカは幸せにならなければならない。そんなことも言ってたな。アサキオの笑顔を思い出して、ちくりと胸が痛む。
あたしは回想をもう一段階進めた。ルディカは脱出者である? そんなの。すうっと息を吸い込んで、吐く。暗闇にあるなにかをひたすら睨みつけながら。
ばかげてるよねえ。
そんなの、あたしは絶対認めない!