不穏4
それから、いつの間にか、うとうとと眠っていたみたいだ。
気がつくと部屋は暗くて、ピーチュが点けておいてくれたのだろう、ランプだけが唯一の光源だった。
今、何時頃だろう? お腹はそれなりに空いているけど食欲がない。うーん、どうしよう。
起き上がってみると、ベッドサイド、ランプの近くに、いつもの水差しが乗っているのとは別の盆が置いてあるのが見えた。スライスしたパンとドライフルーツ、保温カバーに包まれたポット。ピーチュの字で「食べられそうなら食べて下さい」と書き置きがしてあった。
スライスパンを一口かじる。思ったより柔らかくて、口の中でほろほろ崩れる。駄菓子のパンみたいだ。合間にレーズンを一粒ずつつまむ。これなら大丈夫、食べられる。ピーチュって凄い。ポットの中身は昼間にも飲んだお茶のようだ。
わずかな光源の中、もそもそと軽食を頬張る。半分ほど食べたところで、微かな音が聞こえた。あたしは顔を上げた。
音源は窓だ。月の光が差し込むそこにあたしが近づくまでの間に、こつりとまた一回。硝子に小石を当てているのだろうと想像がつくのは、それがありきたりなやり方だからだ。こういう時のテンプレート。
おそらく多くの人間が自分で直接体験したことなんてないけどな! 洋画の逢い引きかっつーの。あたしの部屋は別に二階にあるわけでもなんでもないんだから、普通に手で叩けば良いのに。これってロマンチックなの? そうなの?
あー、目元とか寝すぎでむくんでる気がする。別に良いけど。
あたしは窓を開け、仏頂面を外に向けた。月光に浮かび上がる色のない金髪と、窓を挟んで対峙する。
「こんばんは、ハス。良い夜だね」
ジギリスがそこには立っていた。
あたしはふーんと唸りを漏らす。
……良い夜ねえ。良い夜ってなんだっけ。
「どうしてこんなとこから来るわけ?」
「え、夜這い?」
疑問形で話すな。
「……君の侍女を、あまり刺激しない方が良いかと思ってね。随分、嫌われちゃったみたいだし」
「ああ、確かに」
あたしが頷くと、ジギリスはちょっと情けない顔をした。なによ、本当のことじゃない。
あたしはランプを運んできて窓枠に置く。揺れるオレンジの光源は温かい。ほうっとため息が出た。
「それで、なんの用?」
「……君は、アサに、なにも言わなかったんだ?」
そっちこそ。
「あーそうね」
あたしは気のない返事をする。
ああ、でも、こう言ってくるってことはやっぱりアサキオは知らなかったんだろうな。分かってたけど、ほっとする。
興味なんてありませんーなあたしの態度が、彼にはお気に召さなかったようだ。くいっと眉が上がった。
「ふうん? 君はそれで良いの?」
そう囁いてくるのに、いらっとした。なんなんだこいつは。乙女の傷を抉って楽しいか。
「良いってなに? 悪かったらなんなの? あたしの勝手でしょ。あんたには関係ない」
「関係あるよ」
「どこが」
「言ったでしょ。僕は君のことが好きなんだから」
彼はにっこりと笑った。あたしは窓枠にもたれかかって彼を見上げる。
美形だなあ、と思った。本当に、あたしの周りに揃えられた彼らは容姿に恵まれている。
シチュエーションとしては最高だろう。綺麗なお城。月の明るい夜。美しい男が愛を囁く。夢みたいに非現実的だ。こんな状況に置かれて、落ちない女の子がいたらお目に掛かりたいもんだ。あたしは皮肉に考える。
――けど、ねえ?
「うそつき」
昨日言えなかった言葉。はっきり言ってやると、彼は暗がりに沈む金の瞳を見開いた。
「嘘吐き。あんたはあたしのことなんか、好きでもなんでもないじゃない。ちゃんと分かるんだから」
舐めないでくれる? あたしだって伊達に長年女の子やってないんだから!
恋の嘘を吐くなんて、女子に対してあるまじきこと。言語道断。睨むほどの価値もない。
へえ、と彼は呟いた。
「どうしてそう思うの?」
「分かるもんは分かるんだもん」
でも、あえて言うなら。
「――ジギリスは、アサキオのことは好きだよね。でも、だから、あたしのことはそうでもないでしょ? そりゃあ言ってる好きの種類は違うけど、それでも比べたら見えることはあるよ」
彼は最初から優しかった。会話は楽しいし気遣いもスマート。まさに女の子の理想とする王子様を体現していた。でもそれは、多数に向けられる優しさだ。
嫌いな人なんかいないよ、そう言っちゃうタイプの子って、いるよね。皆好きだって。でもああいう子達ってさ、本当は皆に等しく興味がないんじゃないのかな。彼らには特別がいないんだ。だから分け隔てしない。
穿った見方だよ。自分を擁護したいだけ。
あたしは皆みーんな嫌いだって、世を拗ねちゃった子供だから。
――でも本当は、皆好きなの。ただその可哀想な子を見るような目をやめてほしかっただけなの。
皆好き、なんて。そう言える強い人にあたしだってなりたいよ。
「なにがしたいの? 好きでもなんでもないくせに、そんなこと言って。あたしになにがしたいの、ジギリス?」
ジギリス、彼は、人にちょっかいを掛けることが大好きだ。アサキオなんかいっつもため息を吐いているじゃない? ナノはしょっちゅう玩具にされているし、ラタムにだってごくまれにではあるけどむちゃを言う。
でも、あたしには、優しいだけだ。
「……今までそんなこと言われたことないんだけどな。特に女の子達は、僕が優しくすればそれで良いみたいだったけど」
「そこまであんたに興味持った人がいないんじゃないの。そんな当たり障りのない生き方してるからだよ」
別にラタムほど他人を気にせず生きろとは言わないけど。
あたしの言葉に、ジギリスはくすくすと酷くおかしそうに笑った。あたしは不機嫌になった。なんだか、馬鹿にされているみたいだ。いや、実際にされているのだろう。
「笑わないでよ」
「ああ、ごめんね? そう、なにがしたい、だっけ。君に愛を告白して。僕の目的が知りたい?」
「別にどうでも良いって言いたいところだけど、あんたが言いたいんでしょ?」
そう言ってやると、そうだね、と彼は頷いた。そしてからかうように首を傾げる。お得意の表情。
「至極単純な話だ。ルディカ、君らがそれを望むからだよ。ルディカの筋書きがそうなっているから」
「……はあ?」
なにを言い出すんだ、今度は。
「気づいてないの? そうだよね。君だってどうせルディカなんだ。守られることは当たり前。目隠しをして、君らはそうやって幸せになれば良い」
「抽象的なことばっかり言わないでよ。わけ分かんない」
自分に酔ってんじゃねーよ、ばーか。
吐き捨てる。ジギリスはまた笑った。月光に照らされる、まるで表情がないみたいな顔。
知らず、あたしはぎゅっと窓枠を掴んだ。なに?
「――どうしてルディカが優遇されると思う?」
彼はいきなり尋ねた。え、とあたしの声は聞き返すでもなく、ただの音と化す。
「グルデナを救うから? ルディカが? 僕に言わせればそんなのばかばかしいね。そう、確かに救うだろう。でもそれはどうやって?」
「それは、ラタムが」
「ああ、そうだったね。ルディカの存在そのものによって、か。ラタム・アギもよく言ったもんだよね。存在、そんなもので本当に救われると思ったの、君は?」
「どういう意味?」
木枠に指が食い込んでいる。表面は滑らかに加工されて、角も丸みを帯びているけど。それでも、痛い。
「間違ってはないよ、そう。確かにルディカの存在はこのグルデナから〈穴〉をなくす。でもそれだけじゃない。当たり前だ。ルディカが〈穴〉をなくすには、条件がある」
「どういう意味」
苛立ちながらあたしは繰り返した。まどろっこしい、はっきりしてよ!
愚かな子供を見るような視線。ああ、嫌だ。
「ただルディカがいるだけで良いなら、ベルなんていう存在は必要ない。ルディカなんか、適当な場所に閉じ込めてしまえば良い。そうだろう。単純にその存在のみが求められるなら、その女を生かしておきさえすれば良いんだからね」
「……えぐいこと言うじゃん」
「そう? 権力を持った人間の思考なんてだいたいこんなものだよ」
汚い方のな。高潔な人達だって歴史上には燦然と輝いているんだぞ。知らないのか。
「――ベルはルディカにつがわされるんだ。ルディカ、君らの望みのままに。単純だろ、おとぎ話のお終いと同じだよ。君らは『幸せに』暮らさなくちゃならない。そのためにはどうすれば良い? 君らは所詮若い女に過ぎない。なら、見目の麗しい男を与えておけば良いんだ。それが僕らの出した結論、かつて第一聖女マリエを擁した〈帝国〉が出した結論。それが、ベルだよ、ハス」
あたしはぽかんと彼を見つめた。
言葉が頭を巡っている。ルディカ。ベル。幸せに?
彼らははそれからずっと幸せに暮らしました。ゼイ・リヴド・ハピリー・エヴァー・アフター。めでたしめでたし。ありふれた物語の終わり。
――ただし、それとは別に、ルディカの願いはすべからく叶えるべし、との原則もある。お前が望むのならば……。
ふいにラタムの言葉が思い出された。あたしが前のルディカ、ニゲルについて聞いた時のものだ。
ルディカの願いは叶う。叶えなければならないという。
それは、どうしてだ?
「ルディカってなんだと思う? 〈穴〉って、なんだと思う? 教えてあげるよ、ハス。ルディカは神が望んだ物語だ。取るに足らない女の子を幸せにする、という。そうしないとこのグルデナが終わる。いつだってここはゆっくりと崩壊に向かっている。だからそこにルディカを落とすんだ。僕らのことをさぞかし嘲笑っているんだろうね、神とやらは。グルデナ全体を人質に取った、これは酔狂な喜劇だ」
ばかばかしい。ジギリスはもう一度吐き捨てた。
冷えきった視線があたしに真っ直ぐ向けられる。そんな、と唇が震えたが、声は出なかった。
「……もう一つ、有意義なことを教えてあげるね」
満足げに弧を描く彼の口元は、黒い月のようだ。あたしはどんな表情を浮かべているのだろう。ショックを受けている? このあたしが?
頼りないランプの光に対して、月光は鋭い針のように落ちていた。
「ねえハス、君は帰りたいと言うけれど。ラタムも言ったろう、ルディカは総じて帰れない」
柔らかな声に鳥肌が立つ。あたしは彼を睨みつけた。足は絶対に引かない。口を開く。
「そんなの分かんないじゃない。あたしは帰るの」
「矛盾してるね。アサに恋したくせに」
「それは……それは、良いじゃない。関係ない」
「ふうん、まあそれでも良いよ。でもそれでも、君は帰れないよ。それに変わりはない」
「耳が聞こえないの? 帰るって言ってんじゃん」
「どうしてルディカが来ると思うの? どうして君が選ばれたと思うの?」
「……なに?」
くつくつと頭の奥が叩かれる。痛い。痛い。
ジギリスは芝居がかった仕草で大仰に手を広げた。
「ルディカは帰れないんだよ、ハス。君らは帰ることを望まないし――帰ることを望まれていない。我らが神ルドゥキアが選ぶのはそういう存在だ」
言われたことを咀嚼する。
までもなく、瞬間的に頭が沸騰した。