不穏3
なんだかお腹が痛いと思っていたら、遅れていた生理が来ていた。憂鬱なわけだ。
戻ってきたナノにばれないようにこっそりこっそりピーチュに言って、今は当て布のような物をしている。流石にここにナプキンはないか。においとか気になる、ような気がする。タンポン系統のものを貰った方が良いのか?
……あの後ちょっぴりピーチュとは気まずくて、だからこっちから話しかけた時には彼女はほっとしているようだった。あたしもほっとした。
――やはり貴方も、ターレン家の人間なのですね。
あれは一体どういう意味だろう。ジギリスの家のことは、古い名家だってことくらいしか知らない。
ピーチュの見せた敵意――そう、あれは敵意というものだった――を気にしつつも、しかしあたしの思考は更に巻き戻る。
アサキオ。
笑っていたなあ、と思う。ずっとそれだけを考えている。楽しそうな表情が頭の中に延々とリピート。
まあそんなことしていても、あたしはナノの冗談に笑えるし、時間は経って朝が来る。
ジギリスは昨日のことなんてなかったみたいな顔でいつもと同じ挨拶をくれた。だからこっちもにっこり笑ってやった。ふーんだ。
アサキオにも変わりはない。気まずそうな顔だったり、慌てたような態度だったりは見えなかった。ジギリスはなにも言わなかったのかな。
都合が良いのか悪いのか。その日のあたしを祈りの間に連れていく役はアサキオだった。
「行こうか」
おはようと言った時の笑顔を貼りつけたままで、あたしは頷き、彼の後を追った。いつも通りに。
通い慣れた道をただ歩く。後ろからずっと彼を見ていた。
アサキオはなんにも知らない。昨日の会話。ジギリスがあたしになにを言ったか。
知らないんだろう。だって、知っていたなら。
――それとも、知っているのだろうか。あたしから隠してしまっているのだろうか。表面上はいつも通りに。これまでずっと、あの女の子のことを隠していたように?
分からない。あたしは彼の背を見つめる。穴が開くほど見つめても。
分からなく、なってしまった。
「……アサキオ」
名前を呼んでも、彼は振り返らない。当たり前だ。聞こえるような音量で言っていないのだから。
……もしかすると、言うまでもないことだと思ったのかもしれない。あたしは無限ループする思考を再びみたび、繰り返す。「婚約者だった」と、ジギリスの言葉は過去形だった。
ああ、でも、だからって。彼と彼女は、じゃあ、ただの幼馴染みなの?
なんにしても、言わなかったというのは彼が意図的に選択した行為だったはずだ。昨日から幾度も繰り返した結論。あたしは何度目かのそれを認める。それから、ただし、と注釈をつけて、ジギリスが嘘を吐いている可能性についてまた往生際悪く考えた。
「ハス?」
アサキオがこちらを向いた。不思議そうな顔をしていた。それはそうだろう。あたしの歩みは随分遅れていた。これはいつも通りじゃない。いつも通りってなんだっけ。
「あ、ごめん」
そう言いながら、あたしの足の動きはますます鈍くなってしまい、あたしは焦った。なにをしているんだ、あたし。
あたしはアサキオの顔を見つめる。そして首を振る。
「なんか、まだ頭の中寝てるのかな。ぼうっとしちゃってるみたい」
「大丈夫か」
くすりと彼が笑うのに、ああ、でも、どきどきするのだ。
どうしてもっと早く、この気持ちに気づかなかったのだろう。
自覚とほぼ同時に他人に言われちゃうとか、ちょっと情けなくないか、あたし。
ま、今みたいな状況じゃ早くに気づいたからってそんなに変わるもんでもないのかもしれないけど。なんたって異世界だし。あたしも随分混乱してたんだし、目下のところ問題山積みだし。っていうかこれ、吊り橋効果だっていくらでも適用されるんじゃないかなあ。
なんで、今、この場所で、なんて、落っこちちゃった理由をぐだぐだ考えてても仕方ないけど。
しょうがない、恋なんて、小学校の時のままごとみたいな感情以来なんだ。
渡り廊下には朝の光が差し込んで、白い床や壁がきらきら光ってとっても綺麗。
「アサキオ」
今度は聞こえる声で呼んだ。もちろん彼は振り返ってくれる。
「ん?」
「……ううん。えっと、帰りはラタムが迎えに来てくれるって言ってたから、もう行っちゃって良いよ」
「そうなのか? 分かった」
じゃあねと手を振ってあたしは一人、扉の内側へと入った。滑らかに閉じた扉の音にため息を吐く。
祈りの間は、名前から受ける印象ほど広くはない。どちらかというとこぢんまりしていて、名前詐欺。せいぜい祈りの部屋だろう、とあたしは思っている。
あたしは書き物机の隣を通りすぎて奥へと向かう。この机といい、向こうにある座り心地の良さそうな揺り椅子といい。祈りと名づけながら、他のことでもしていろよと言わんばかりのこの設備は、一体どうしたことなんだろうね。本当に名ばかりなんだな、この祈りの時間っていうのは。
ルディカは祈りによって世界を修繕するのではない。それはただその存在によって行われるのだという。
言われるそれが本当なのかは、未だに不審に思ってしまうわけだけど。だってそんなことってある? まるで子供騙しだ。
部屋の壁は、最奥の一面が存在しない。というよりはもっと向こうにあるというべきなのかな。一段降りて、それこそ猫の額ほどと表現されるような小さな小さな庭が、高い塀と硝子屋根に覆われて、ある。
ここだけが唯一、「祈り」の名を冠するにふさわしい空間だろう。咲き誇るのは、黄色の花々。花びらの中央には僅かに茶のグラデーションが掛かっている。これは神の花、聖花なのだそうだ。あたしの右手にある印章と同じ。
あたしは土の上に座り込んだ。折り曲げた膝の下に腕を回す。なんとはなしに硝子に屈折する空を見上げた。眩しい。
アサキオ本人に聞けば良かったのになあ。二人きりで歩く他に誰も通らない渡り廊下。せっかく絶好のチャンスだったのに。分かってたのに。
あたしも結構ショックだったらしい、なあんて分析してみたり。
「あーあ」
色々なことが一緒くたになって、なんだか間抜けな声になった。
あたしは結局、弱虫な少女のままなのか。ちくしょう。お腹の底から叫びたい。
あたしが図書室に一人でやって来たのを見てラタムは眉をひそめた。言葉にしてはなにも言われなかったけど、代わりに終始、顔色が悪いとぼやかれて、その挙げ句、授業時間を早めに切り上げられてしまった。ふむ、やっと世界史(グルデナ史?)が最初のルディカの辺りまで進んだんだけどな。まああたしも集中できてない自覚はあった。ごめんよ。
「それをさっさと連れて帰れ」
心底鬱陶しそうなラタムに見送られ、あたしは廊下に出る。そ、そこまで邪魔っけにしなくても良いじゃないか、お兄ちゃああん。
「本当に具合悪そうだな」
「平気。ちょっとホームシックになってるだけ」
「ほーむしっく?」
妙なアクセントで疑問符を飛ばしているナノを無視して、ゆるゆる歩き出す。うう、下半身が気持ち悪い。
部屋に戻ると、あたしの顔色を見たピーチュはなにも言わずに温かいお茶を淹れてくれた。普段よく飲んでいるのとは違うにおい。ちょっと中国茶っぽい。
そのお茶を飲んで、ご飯を食べている間は少し痛みも和らいでいた。
でも、午後、お腹の痛みはますます酷くなった。
あたし、いつもはこんなに重くないのにな。ストレスとか関係するのかな。
「ハス、なあ、寝てた方が良いんじゃねえの。気分悪いなら」
「うー、ん」
そういうものじゃないしなあ、これ。なにとは言いませんけどね、男の子には。どうせあんたらには分かんないでしょ。女に生まれたことに後悔はないけど、こればっかりは理不尽だ!
「……そこまでじゃないよ」
「そうか? 悪かったら言えよ、ちゃんと」
心配してくれるのはありがたいんだけど、若干鬱陶しくなってくる。だから言えないんだってばー。
ピーチュ、ピーチュ、なんで行っちゃったの。いや、厨房に食器下げに行ったんだけど。あたしがあんまり侍女とか女官とか傍に要らないってわがまま言ってるからピーチュの仕事が増えてるんだけど。
「ナノって意外と面倒見良いタイプだよね」
曖昧に笑んでそう言ったあたしに、ナノが意外ってなんだよ、と突っ込む。だって一見弟キャラっぽいんだもん。これであたしより一個上とか、そんな。
「まあ実際末っ子だしなあ、おれ。弟とか妹とかって憧れるかも」
「ああ、そういえば言ってたっけ」
「そ、男ばっか五人兄弟。もうむさ苦しいのなんのって。ハスは?」
「――あたし? あたしは、長女だよ。弟が一人」
「あー、そんな感じするわ。良いなあ」
「そんな良いもんでもないよ。ちっちゃい頃なんてすぐ、蓮子はお姉ちゃんなんだから、って言われてたんだから」
そういえば、そうだったなあ。懐かしい。ちくりと胸が痛んだ。
「そうかあ? うちの兄貴達とかめちゃくちゃ横暴だけどな。一番上の兄貴なんかこうだぞ、『お前がなんであっても、これからどうなっても、弟というのが兄に従うものだという原理は変わらん。つまりお前なんぞ一生下僕なのだ。喜べ、弟よ』って、こう!」
もうなんなんだよっていう話だよな。そう言いながらも楽しそうに笑うナノに、あたしも笑顔を向ける。正確には、向けようと、した。
でも、顔が歪んだのが、自分でも分かった。あたしは俯いた。ナノのピアスの緑が瞼の裏に焼きついている。
「……ハス?」
「ナノは、良いよね。今は実家出てるって言ったって、帰れば、家族に会える。良いよね」
言葉がこぼれる。はっとナノが息を飲むのが聞こえた。
ああ、もう、やだな、こういうの。
あたしは勢いをつけて立ち上がった。
「ごめん。ごめんね。やっぱり体調悪いみたい。やっぱり寝た方が良いみたいだから」
そのままぐるりと方向転換して寝室へと向かう。
後ろから、ハス、と気遣わしげに名を呼ばれる。ああ、もう。
「ねえ、ナノ」
振り返らず、立ち止まって、深呼吸。声が震えたりなんかしないように。
「ナノは、知ってた? アサキオのこと。婚約者が、いたって」
「あ……」
反射的にだろう、小さく漏れた声。決まり悪そうなナノの表情がそれだけで想像できた。
そうか。知ってたんだね。そうだよね。
「ナノも、ナノだって、ねえ? ね、ナノも、あたしになにか隠してるんじゃないの。なにか都合の悪いこと。あたしに聞かせられないこと、あるんじゃないの。――あたしが、ルディカだから!」
絶対に振り向いたりしなかった。ナノの顔は見なかった。言い捨てて、小走りに半分ほど開いていたドアへと滑り込む。後ろ手に、ばたん。
それでも、そんな、という声が聞こえた気がした。それは酷く小さなものだったけれど。
ベッドの上に身体を投げ出す。
完全なる八つ当たり。
ああ、あたし、最悪だ。
例えば、異世界召還もののパターンとして、勇者の物語というのがあるけれど。
あれは「異世界」を媒体とした少年の成長物語だ。つまり、ごく普通の少年に「勇者」という役柄を与えることによって、日常から離れた、超現実的な世界で活躍させる、それが目的だ。
主人公のために異世界があるんであって、だから、その世界の問題はその世界の内部で解決しろよ、わざわざ外部から人を呼ぶなよ、とかいう文句は――確かにリアルに考えればそれはもっともなんだけど――実は物語の本質的に受けつけない。
異世界という舞台は、勇者のために造形されているのだから、勇者を呼ばないことには話が始まらないのだ。
でも、それが現実になってしまったあたしの場合はどうなのだろう?
これは、だれのための物語なんだ?
……いやいや、これ現実だし。しっかりしろ、あたし。
でもね、これがもしあたしのための物語なんだっていうのなら、あたしも勇者のように、家に帰れるはずじゃない、かな――。