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謝罪  作者: 藤原蒼未
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悔恨

海辺大工町を引き払い、すずめ長屋へ越して十日ほどがすぎていた。以前、住んでいた家は、おせんが越してすぐに借り手が見つかったらしく、今は中年の夫婦が十五、六と見える娘と三人で暮らしている。父親は魚の棒手振り、母親の方は針子をしているらしい。一見して気のよさそうな人達で、娘は回向院の境内の水茶屋で働いている。それを娘から聞いた長吉が、ぎょと眼を見開いたので、後でおせんに問い詰められたが、一年以上前、お鶴と、小梅の三人で寄ったことは、とことん隠し通した。

 娘は小柄の可愛い感じのする子で、翌年にも夫婦約束をした男の元へ嫁ぐのだと、越してきた挨拶に出向いた時、母親が愉しげに話してくれた。部屋の奥で聞いてた父親の寂しそうな表情は、その娘が一人っ子だからだろう。長吉もおせんも顔を見合わせて、眼だけで言葉を交わした。二人とも、一人娘の小梅のことを考えていたのだ。

 つい先日のこと、引越の荷物も片付けが一段落し、冷やした麦湯を手にした二人は、暫く黙って、小梅の幼馴染みの子供達の発する黄色い喚声に耳を澄ませていた。その中に、小梅の声音を探していたが、相変わらず小梅の声は聞こえて来なかった。

 小梅は四歳になるが、未だ人前で声を出すことを躊躇する節がある。だからと言って人嫌いなのではなく、率先して大きいお姉ちゃんやお兄ちゃんに交じって遊ぼうとする。しかし、小さい上に、何も言語を発しない小梅は、親が気が付いた時には、一人ぽつんとしていることが多かった。

 家の中でもそう言葉数は多い方ではない。それでも豊かな表情で、感情の起伏を表現してくれた。長吉もおせんも、そんな小梅を次第に案ずるようになってきた。それこそ二歳や三歳までは、ただ言葉の遅い子で済ませていたのだが、四歳にもなると、小梅を奇怪な眼で見る大人の視線が気になりだした。最近では、言葉だけではなく、日々の暮らしで垣間見る、小梅の行動の幼稚さも目立つ。兄弟姉妹がいないので、舐めるように育てたことが原因かとも思われたが、近所の同じ歳の子に引き比べて、物覚えなども遅れているような気がしてきた。長吉たち一家が住むのは回向院裏の松坂町だが、もし、小梅を連れて両国橋を渡り、西詰で置いてけぼりにでもしたら、小梅はきっと戻って来ることが出来ないだろう。その距離は、江戸に暮らす大人の歩幅で往復、小半時も掛からない。例えば、やさしい大人に声を掛けられ、家はどこ?名は?と問われても、人と話す事が苦手な小梅は、き押し黙ったまま相手を見据えているだけだに違いない。小梅のような娘は、人攫いには絶好だと思われるので、小梅から一時も眼を離すことができないでいた。

「小梅はさ、あたしたちが守ってやろうね」

 おせんがぽつりと言うと、お前も同じことを考えていたのかと、長吉はうなずいた。夫婦の眼に、涙が膨れ上がった。あの魚売りの夫婦の娘のように、嫁に行ってしまうのは寂しいけれど、自分たちが経験したような激しく、心が震えるような恋もさせてあげたい。小梅は、両親の良い所だけを受け継いだ、かわいい顔立ちをしている。目だって、少し埴輪に似ているが、黒々とした、賢そうな瞳を持っている。

「小梅のことは俺たちがついている。何か悪口でも言う奴がいたら、それに負けない強さをつけてやらなくちゃな」

 おせんに泣き顔を見せないように、開け放った障子の向こうを見ながら、長吉は言った。

「五体満足がいちばんだ、……小梅は躰が弱いが、三日も寝込めば、すぐに元気になるじゃないか、とにかく生きていてくれればいい」

「そうだよね」

 長吉は、炎天下の引越作業で、赤く焼けた鼻の頭を擦りながら新居の中を見回した。家の裏手になる狭い道を、大小の子供達が駆け抜けて行った。長吉たちが座る茶の間のすぐ横を通ったのだ。さっきまで小梅と遊んでいた子供達だ。奇声と共に彼等が去ると、その後ろを追い掛ける小梅がいた。

「小梅」

 両親の呼び掛けに、一度は濡れ縁に足を掛けた小梅だが、すぐにみんなの去った方に眼をやって、駆け出そうとした。それを長吉は抱き留めた。

「なあ、小梅、ちゃんと、おっかあの三人で、冷やし水を食べに行こうや、な」

「……うーん、あとで」

 少しだけ悩む表情を見せて小梅は、遠くで聞こえる子供達の声の方を指さした。

「小梅、ちゃんたちと遊んだ方が愉しいぞ」

 長吉は頬摺りをしながら言った。小梅は厭そうに顔を背け、まだ遠くに消える声の方を指さしている。

「お前さん」

 おせんは少しだけ声を張り、長吉に向いて首を振った。長吉は悲しい笑顔を見せた。

「でもようお前、俺は小梅が不憫でならねえ」

 長吉はそう言って小梅を下ろした。そこに、七歳のお姉ちゃんが駆けて来た。いちばん奥の家に住み、父親が手習所で先生をやっている浪人の娘だった。

「小梅ちゃんごめんね気づかなくて」

 照れたように笑う小梅の手を取ると、おすえおばちゃんに叱られちゃいましたと、軽く一礼して、また早歩きで去って行った。

「お前さん、小梅を強くするって、たったいま言ったばかりじゃないか、もう駄目ね」

 おせんが笑うと、

「仕方ねえな、どうも俺は過保護のようだ」

 と、首を傾げて反省する仕草を見せた。


 何事もなく日だけが過ぎて、暦の上では初秋を迎えていたが、未だ夏の暑さは続いている。ただ日没の時刻だけは、これから来る厳しい季節の訪れを報せた。人々が店じまいを始める前に、町は茜色に包まれる。空で遊ぶ小鳥たちの中にも、冬の到来を思わせる渡り鳥が交わっていた。

「おかめよ、ちと気になることがあるんだ」

「ん……お前さん、どうしたの?」

 外で遊んでいる小梅の様子を見てきたおせんは、二階への梯子の脇で、注文の品を造る長吉の前に膝を寄せた。

「気のせいだとは思うんだけどよ、長屋の連中の目が気になってな……なんかこう、二度見されるというか、含み笑いをしているような……気のせいかな、そうだよな?」

 長吉は首をかしげながらも、手だけは動かしていた。今は黒壇の箸の磨きに取り掛かっている、一時期は消えかけていた右手中指のかんなダコも、この一年半、仕事を休まず続けてきたおかげで、堅い盛り上がりを見せていた。長吉は越して来てからも唐木職の仕事を続けていた。この裏店では、前のような店舗を構える広さはないが、その都度、都度注文を取り、製作をするという遣り方でも、親子三人暮らすのに困ることはなかった。海辺大工町の表店にいた時に、多くの常連客を確保することができたことも長吉の自信に繋がっている。おせんを蔑む、前の親方の元へは死んでも戻る気はなかった。

 長吉は、おせんに髪結いの仕事を辞めさせていた。彦五郎や、おれんの動向も気になり、一人で遠くに行かせることを懸念したのだ。しかしおせんにはまだ、彦五郎のことも、当然、おれんとのことも打ち明けていない。おせんもまた、彦五郎が店を訪ねて来たことを長吉に告白しないで一人で解決しようとしていた。

「そう……そう思うの?」

 たすきを外し、膝の上で折り畳みながらおせんは小さくうなずいた。

「お前もそう感じるか?」

「そうね」

 おせんは言うと、ふっと息を吐き出した。

「喋っちゃったのよ、あのこと」

「……」

「お前さんが、小梅を連れてここを出て行ったときね、裏店の人達が、お前さんを人でなしのような言い方をしたからさ、あたし堪らなくなって、過去にあたしが躰を売っていたことが原因だって、言っちゃったんだ」

 おせんはチロと舌を出して首をすぼめた。微笑んでいたが、眼は涙で赤く染まっている。

「ばか野郎」

「だってお前さん、あたし、お前さんのことを悪く言われるのが、いちばんいやなんだよ」

「俺のことなんて気にすることはなかったんだ、お前の宝物の小梅を連れ、お前を一人にして出て行った俺のことなんてよ」

 長吉の声は泣いていた。肩を落とし、作業の手を止めた。

「お前さんが、親方と大喧嘩したのも、あれから働かなくなったのも、あたしがお前さんを騙していたせいだもの。お前さんを何年も悪者にして悪かったと思ってるんだよ」

「ばかな……」

 背を向けて肩を震わす長吉に、おせんは躰ごとぶつかるようにして抱きついた。

「お前さん、ごめんね」

「そういうことは、もうちょっと前に言えよな、おかめ」

「……」

「だったらよ、ここに越して来るこたねえだろう。俺の腕だけで食べていけるんだ、住むとこなら、どこだって良かったじゃねえか」

「ごめん……あたし、ここがすきなんだよね、だって、お前さんとの想い出が詰まってるんだもん」

「また少ししたら、何処か他の町へ、遠くの町へ越そうや。いや、俺の対面なんかじゃなねえぞ。お前のためだ」

 その夜、二人は初めて全てを打ち明け合った。隠し事は一切なし。何を聞きても驚かず、責めず、大人の対応で過去を許しあおうと、都合の良いことを言ったのは長吉の方である。

 まずはおせんの方から洗い浚い話した。神田の実家のこと、家族の死、身売り同然に淫売宿に奉公に出たこと、美濃屋の妾として過ごした日々、彦五郎との生活、そして彦五郎が訪ねて来たことなどだが、その内容は、長吉を特段、驚かせなかった。というのもその話しの殆ど全て、長吉は承知していたからだ。

 問題は長吉の告白だが、長吉は再度、許し合う約束を確認すると、小梅を連れ、おせんの過去を調べ歩いたことを告白。彦五郎を料理屋の二階から見たこと、そして、もう一度だけ、怒らない約束を確かめると、締まりの悪い顔で、おれんとの情事を打ち明けた。


「昨夜は随分と派手にやってたね、うちまで丸聞こえだったよ」

「うるせえや、おすえ」

 井戸で顔を洗う長吉の背後で、里芋を盛った笊を持ったおすえが笑っている。

「あんのあまア、許してあげるからなんでも言って頂戴。なんて首をかしげて微笑んでたから、洗いざらいぶちまけたら、急に怒りだしやがって、話しが違うってんだよ」

 くどくど文句を吐きながら立ちあがった長吉は、昨夜の、おせんとの喧嘩を思い出して、未だ憤慨が消えないようだ。首から提げた手拭いの端を両手で持って、肩が凝ったように首を回している。

「また何かしでかしたのかい、女だろう、ふん、懲りない男だね、あんたも」

 おすえは、里芋が全て半分に割れてしまうのでは思うほど、力を込めて泥を落としていた。

「女は女でも昔の話しさ、それを蒸し返しやがってよ、今、浮気してきたが如く剣幕で怒るんだから、ここっちは堪んねえや」

 ちぇっと長吉は舌打ちをして、怒らなねえって言ったくせによ、と言いながら、秋になり、高くなった空を見上げた。大きな雲がひとつ、ぽつんとあるだけの空だった。目のすぐ脇に、おせんに引っ掻かれた傷がある。指先でそっと傷口に触れた長吉は、イテテと顔を歪めると、眉を寄せた情けない顔で、指についた血を見つめた。

「あれは死んだら化けて出る性質だな」

 おすえの方を向くと、朝日が眩しかった。長吉は目を細めながら話した。

「なんのことだい?」

「うちのかかあだよ」

 長吉は腰を屈めておすえの隣りに寄った。おすえは洗い終えた里芋が入った笊を膝の前で抱えている。

「あの女の悋気癖はどうにかならねえもんかね」

「簡単なことさ、あんたが浮気しなければいいんだよ」

「だから、もうしてねえよ」

 大袈裟に首を項垂れた長吉は、子供のように膝を抱き込んだ。

「昔のことで怒ってんだよ、あのおかめは」

「昔っていつのことさ?」

「二月、いや、関係があったのは、三月も前も話しだよ」

「はあ?」

 おすえ呆れた顔をすると立ちあがった。

「もう三月じゃなくて、まだ三月って言うんだよ、ばかだね、あんた」

「うるせえ」

 長吉が怒鳴った時、おせんがやって来た。顔が怒っている。どいてよ、と長吉に腰をぶつけて場所を取った。

「お前ねえ、他にも空いてる場所があえるだろう?」

 長吉は、ホレ、ホレと井戸の反対側を指さした。おせんは長吉を見ようともしない。

「余計なことばかり話してないで、とっとと仕事始めたらどうだい、注文がたくさん来てんだろう、殆どが女の客だけどね、色魔」

 最後の方は、吐き捨てるように言った。長吉は、いちいちいちいち蒸し返す女だねえ、と言いながら立ちあがると、腰に手を置いて躰を反らせた。深く疲れたような溜息を漏らし、横目でおせんを一瞥すると、たらたらとした足取りで、物干しの場の向かいに移った家へ戻って行った。

「仕様のない男だね」

 おすえは笑っていた。肥った腹を突き出して、長吉を見ている。長身の長吉は、鴨居に頭をぶつけぬよう、首を曲げて敷居を跨ぐのだが、その前にちらと、おせんの方を見た。

「おせんちゃんの怒る気持ちもわかるけどさ、お宅の亭主は、ありゃ一生治らない病気だよ。鯔背で男っぷりがいい。女の方がほっとかないんだよ、少々のことは我慢すると決めて復縁したんだろう、赦してやんなよ、あれは相当、反省している顔だよ」

「うん……でもお灸は据えないと、ほら、いい気になっちゃうじゃない」

 さっき長吉に辛くあたった人物とは思えないほどの優しい笑顔でおせんは微笑んだ。

「そりゃ、そうだ。ごめんよ余計なこと言って」

 おすえ前垂れを上げて目頭を拭っている。

「どうかしましたか?」

 青菜を洗う手を止めて、おせんはおすえの顔を見上げた。

「了見の狭い奴らは、あんたたちを白い眼で見るけどさ、気にしちゃいけないよ」

「ああ……」

 おすえは裏店の一部の人間のことを言っている。不幸な人間は、土の中に埋まってる人の粗を掘り起こして、地上に広めることで、自分の人生はまだましだと安堵に浸ろうとするものだ。そんなことをしたところで、己の不幸は逃げて行ってはくれないのに。おせんはそんな人間と触れ会う時、ひどく相手を哀れむ気持が生まれる。

「誰も好きでさ、躰なんか売らないんだから……あそこに越してきた」

 おすえは、店賃が六百文と安い棟割り長屋の方へ眼を投げた。そこは、長吉とおせんが所帯を持ったころに暮らしていた長屋だ。

「おゆきさんて言ったかね、まだ十六、七だと思うんだが、病身の母親と二人暮らしでね。昼は蕎麦屋で働いて、夜は(むしろ)を抱えて河岸に立ってるって言うじゃないか、可哀想だよね。大店の、同じ年頃の娘とはさ、大違いの生活だよ。あの娘だって、悲しい思いをして身を売ってるっていうのに、全てお袋さんの薬代で消えて、古着の一枚も買えないなんて世の中、不公平すぎると思わないかい」

 元来、感激屋のおすえはとうとう泣きだした。そのおすえの大きな躰を、支える様にして家に連れて行く間、この人も、悲しい過去を背負って生きてきたのではないかと、ふと思った。おすえは涙で顔をぐしゃぐしゃにしてこう繰り返した。女の不幸は公儀のせいだ。お上がしっかりしないから、まだ尻の青い娘までもが、脂ぎった男のおもちゃにされるんだよ。おせんは答えることができなかった。悪いことを全て公儀の責任にする世の中の風潮に、おせんは首をかしげる。人のしあわせの形や重さなど、人それぞれ違う。

ー公儀も、お侍さんも、大店の娘も、貧乏長屋のみんなも、それぞれ違った悩みがある筈。

 悪いことが起きれば人のせい。良いことは自分の努力の賜。人を羨み、己の生活を蔑み暮らすほど、悲しい生き方はないように思えるのだ。長吉にはそういった所がないし、小梅にも、貧しい中に見つけた小さなしあわせに手を合わせるような娘に育って欲しいと思っている。

ーそりゃあ、世の中、理不尽なことだらけだけどさ、お天道は万人に平等じゃない。あたしは、うつむいて歩きたくない。

 井戸端に置き忘れてきた青菜を慌てて取りに引っ返し、家に入ると、普段より、縮こまって仕事をする長吉がいた。居間の奥を見ると、小梅が、人形の髪を梳きながら、何やら話しかけている。

ーしあわせ。

 心から思った。そう思うだけで涙が滲んで来るようだった。すると次第に言い様のない不安に苛まれる。自分を包む幸福の風が、霧のように消えてしまうのではないかと思うのだ。これは現実ではなく、暗く湿った世界に生きていた自分が描いた虚構なのだと。

 そう思い始めると躰が冷え、震えが起きた。歯ががくがくと鳴るほど怖くなる。長吉は、彦五郎とおれんはまだ油断がならねえと、眼を光らせている。陽が暮れる前には、必ず家にいなくちゃならえと心配していた。特に小梅からは眼を離すなと口酸っぱく言われた。

 大屋と、おとき婆さんだけに告げ、殆ど夜逃げのようにして海辺大工町の表店を出て来たが、いま住んでるところだって探そうとすればすぐに見つけられる。なにせ向こうには金があるのだから。

 彦五郎に長吉の店を教えたのはおれんだった。別れの日、錯乱したおれんが自ら暴露した。亭主の妾となり、息子までも奪ったおせんが赦せなかったらしい。長吉との密会の時刻に、彦五郎をおせんの元にやったのだが、我が子に、そんな真似をさせたおれんの心中は計れない。結句、彦五郎は顔を見せただけで去り、三月もおせんの前に姿を現さずにきた。

 彦五郎よりも、気になるのはやはりおれんの動きだった。今頃、血眼になって長吉を探しているような気が、おせんにはしてならなかった。おせんは、おれんと面識がある。美濃屋甚兵衛が死んだ時に会っている。歳はおせんより遙かに上だが、美貌の人だと思った。背丈もあり、細身なのに、帯に乳房が乗るほど豊かな胸に、眼が釘付けになったのを覚えている。大きく抜いた衿と、盛り上がりが見えそうほど開いた懐は、大店のおかみにふさわしくないほど色気のある風情だった。居丈高な物言いいをする女で、畏縮するおせんを、品定めするように眺めた。一通りの話しが済んで、美濃屋との一切の関わりを絶つという証文を、言われるがままに書かれた。おせんは読み書きができないので、先に用意された証文を写しただけである。実際のところ、何を書いたか分からなかった。去り際に、おれんの言った一言が耳に焼きついて残った。


「米が炊けたんじゃねえのか?」

 長吉はむっとした声を出した。おせんは何かに弾かれたように、はっと我に返って、笑顔を作ると、(かまど)に向かった。釜から湯気が上がり、米の焦げた匂いがして、おせんは急に吐き気を催した。。

「あっ……」

 台所の脇に、胸を押さえて蹲っていると、二月ほど、月のものがきていないことに気が付いた。吐き気は一瞬のものだったが、おせんがそのままの体勢で暫く考え込んでいると、長吉が舌打ちしながらやってきた。おせんの肩を軽く小突き、

「飯が焦げちまうじゃねえか」

 と怒った口調で言った。長吉は、小梅との二人暮らしで習得した、手慣れた手付きで釜からおひつへ米を移すと、「蠅帳(はえちょう)の中に、沢庵が入ってるから出せ」と、怒鳴るように言い、三人分の箱膳を畳の上に並べた。

 胸のむかむかは、米が炊けるたびに起こるので、あの日の朝から、毎朝、米が炊ける時を見計らっては、理由をつけて家から出た。用もないのに物干し場へゆき、朝日を燦々と浴びていると、次第に気分も優れてきた。回向院の土塀越しに、高く聳える黄金色の銀杏が美しかった。足元に何かの気配を感じ、膝を抱いてしゃがんで見ると、茶褐色の土の中にもごもごと蠢く物体を見つけた。傍に落ちていた小枝で小突くと、土の中の生物は、「あら起きる時刻を間違えた」とでも言いたそうに(と言っても姿は見ていないが)踵を返す勢いで、土の奥深くに潜って行った。

「ずっと日陰に暮らしているのね」

あたしのようだ。とは、口に出さなかった。陽の当たらない星に生まれた女が、無理にお天道様に当たろうなどと思ってはいけないではないか。近頃おせんは、言い様のない不安に襲われる。自分の人生にしては、全てが順調すぎる。

 身籠もったことは、おすえ意外、誰にも教えていない。長吉にさえ、言えないでいるのだ。

ー変な人だね、あんた。

 と、おすえは笑うが、自分のような人間は、、抱えきれないほどのしあわせを手にしてはいけないとおせんは思う。この程度の女には、しあわせの大きさにも限度がある。それ以上を求めれば、きっとどっかで歪みがでる。せめて腹の子が安定期に入るまでは隠し通そう。そしてその前に、この一家を襲う憂いの原因に、決着をつけなければならないとおせんは思っていた。

「どこに行くって言ったかな?」

 長吉は怪訝な顔色をしている。日が高いうちでも、おせんが外出することを、あまり良しとしないのだ。彦五郎やおれんとばったり顔を合わせるのを気にしている。

「買い物よ」

「買い物なら棒手振りで間に合うだろう、どこに行くんだよ、まさか、お前」

 長吉は飛んで来るような勢いで狭い茶の間を大股で二歩進むと、土間に下りようとするおれんの腕を掴んだ。凄まじい力だった。おせんを自分に向かせると、更にもう片方の腕も掴み、おせんをゆすった。

「美濃屋に行こうと思ってるんだったら、とんだ勘違いだぞ。大人しくしてる奴らの眼を覚まさせるだけだ」

「違うよ、お前さん……」

 おせんは躰を捩って腕を振りほどこうとしたが、抵抗すればするほど、長吉の手はおせんの腕に食い込んできた。

「俺をばかにするなよ、お前の考えそうなことはお見通しだぜ。なぜだ、なぜ余計なことをしようとする」

 おせんの顔がみるみる歪み、大粒の涙が溢れた。長吉は手を緩め、おせんを抱き寄せると、顔を鬢に深く埋めた。

「怖いんだよ、お前さん。何かも失いそうで怖いのさ。だからねあたし、殴られても蹴られても、頭を床に擦りつけて、美濃屋のおかみさんや、彦五郎さんに謝ろうと思ったの。罪人のように逃げ隠れして暮らすのは、もういや」

 おせんは、おれんに投げつけられた言葉を思い出していた。

「お前のような薄汚い女郎に、しあわせなど訪れない!」薄汚い女郎がしあわせになることを、おれんや彦五郎に承知して貰わなければ、真のしあわせを迎えられない気がしていた。


「怖かったな」

 堅川の河岸を、小梅を挟んだ三人で歩いていた。美濃屋へ行った帰りである。おせんが出掛けようとしたのが昼前、いまはもう、夕焼けが町を彩る時刻になっていた。川の流れに眼を移すと、赤く染まった雲が川面に映り込んだことで、朱と翡翠色が交ざり合い、幻想的に輝いていた。風はなく、空気に雨の匂いがした。

「こわいね」

 両親の真ん中で手をつながれ、時折、地面から足を浮かせるようして歩く小梅が、長吉を真似てそう言った。ふたりは可笑しくなって笑った。

 美濃屋の暖簾を先に潜ったのはおせんである。突然、三人で訪れては、おれんを逆撫でしかねないと考えたからだ。店の者が一斉に発した「いらっしゃいませ」の言葉尻に疑問符が付いたことで、おせんは一層畏縮した。両手を前で揃え、肩を窄めて立ち竦んでいると、それまで腰を曲げていた店員が、躰をこれでもかと反らせて近づいてきた。

「あら、珍しい」

 番頭らしき男の後ろから、おれんと思われる女の声がした。

「ご無沙汰しております」

「ご無沙汰して貰わなきゃ困るわよ」

「すみません」と、何度も頭を下げるおせんを、客の眼があるからと、おれんは一度、表に出した。店の軒先で小梅を抱く長吉を見ると、おれんは暖簾を掻き上げ手代を呼びつけて、大切なお客様だからと、奥の座敷に通すように言った。

 八畳ほどの座敷は、縁側から枯山水が望める立派なものだった。張り替えたばかりの畳が、い草の良い香りを部屋いっぱいに漂わせていた。おせんの膝に座った小梅が、何度も、息を大きく吸い込んでいるのが面白かった。

 茶が出され、四半刻はじっと待っていた小梅も飽きが来たようで、縁側に伸びる竹の筒を覗き込んだり、耳に当てたりして、子供ながらに水琴窟を愉しんでいた。

更に待たされること四半刻。漸くおれんが現れた。彦五郎も一緒だ。おれんは、若い娘の晴れ着のように派手な柄の袷に着替えていた。頭の上の装飾も増えていた。花魁を連想させるほどに豪華に、いろいろと突き刺している。顔は、花嫁も驚くほど白く、唇は、すずめの生き血を飲んだように深紅に輝いていた。その姿を見たおせんの心の奥は、懺悔の気持できりきりと痛んだ。

おせんも長吉も小梅も、地味な綿の小袖姿であったが、惨めな感じはしなかった。彦五郎は、相も変わらず蒼白い顔をして、白の大島紬を粋に着こなしていた。座敷の敷居を跨ぐ時から、彦五郎の視線はおせんに集中し、まるで瞬きを忘れ、おせんを射貫くように見続けた。彦五郎の存在を確認してすぐ、おせんはうつむいて、ぎゅと眼を閉じて震えを抑えた。激しい打擲の記憶が、恐怖としておせんの心理に巣くっている。隣りにいる長吉が気に入らないと、彦五郎の拳が飛んで来るような気がして怯えた。

「何しに来たんだい。まさか、親子の水入らずを見せつけに来たんじゃないでしょう」

 おせんが差し出した手土産の菓子折を、縁側に放るようにしてからおれんは言った。長吉の背中に隠れるよにして座っていた小梅は、中身が餅菓子だと知っている。首を伸ばし、指をくわえ、無残に転がる菓子折に目を釘付けた。

「夫婦で、さんざんあたしと、息子、そして亡くなった亭主を弄んでおいてさ、馬鹿にして、赦せないよ」

 おれんは言うと、あれこれ刺さった髪をなでつけた。袂に匂い袋を忍ばせているのか、いつか長吉の胸についた白粉と同じ匂いが香ってきた。

「長吉さんが、おれんさんから受け取った金と、海辺大工町に店を出すときにかかった一切の費用は、少しづつですが、お返ししていきたいと思いまして」

「ふん、どうやって返すって言うんだい。また股で稼ぐのかしら、お夕さん」

 おれんが笑い、彦五郎も含み笑いをした。膝に置いた長吉の手に力が入り、拳が硬く握られた。おせんは、長吉の憤怒を、目の脇で不安そうに見つめていた。おれんも、長吉の怒りに気付いたのか、咳払いをすると、口調を和らげた。息子の手の甲に、自分の掌を添えた。

「この彦五郎さんはね、来年の春に祝言を挙げることが決まったんですよ、ええ。良い所のお嬢さんでしてね、彦五郎さんの過去の過ちの全てを承知の上で、喜んで嫁になると言ってくれましてね、わたしは安心していたとこなんです」

 おれんの声は弾んでいた。彦五郎を、舐めるように見つめ、どこから出ているのだと思うほど、やさしい声音になったが、次の言葉を吐く時には、完璧に喉だけで声を出した。

「こんな時期に困るんですよね、薄汚い形をした親子に訪ねて来られちゃ」

「すみません……」

 おせんが謝り、長吉と二人、顔を見合わせて大きくうなずいた。安堵の笑みを見せた。しかし彦五郎は不満気である。正座の足を崩して胡座を掻くと、膝頭を忙しく揺らし、口を開いた。

「この女はね、お夕はね、私が可愛がってあげた恩も忘れ、この貧乏ったらしい男と一緒になるために、自身番に私を売った女ですよ。そのために私は臭い飯を食う羽目になったんだ。一生かかったって赦せるもんじゃないよ」

 見た目に似合わず、割と甲高い声をしていた。込み上げてくる笑いを抑えるように長吉の口元が緩んだのをおせんは見咎めると、後ろ手で、長吉の尻をつねった。長吉は膝頭を掴んで肩を揺らしている。おれんは、夫婦の遣り取りに全く気付かない様子で彦五郎に躰を向けると、良人にするように、衿の歪みを正してやった。

「でもね、彦五郎さん、こんな女の呪縛は払わないと、あなたが仕合わせになれないんですよ、夢だと思って忘れちゃいなさい。どんなことがあったって美濃屋と繋がる女じゃないんだから、何人の男を相手にしたかわからない、酌婦上がりですよ」

「ちょいと待ってくれよおれんさん」

 長吉が片膝を上げて身を乗り出した。「きゃっ」と叫んだのは彦五郎で、おれんは大店のおかみらしくどっしりと構えて長吉を見据えている。

「恨む人間が違うんじゃあ、ありませんかえ、おれんさん……」

「……」

 おれんは、ふんと、斜を向いた。長吉は小梅の頭を撫でると、おれんを、鋭いような目付きで見た。

「あんたね……」

「申し訳、ありませんでした」

 おせんは突然、大きな声を出して長吉の言葉を遮った。おせんの後ろで、おせんの帯で遊んでいた小梅を隣りに引き摺りだして正座をさせると、手をついて、頭を深々と下げた。隣りで、いまにも爆発しそうな長吉の背を叩き、一緒に頭を下げろと促した。長吉は、膝を揃えると、子供のようなふて腐れ顔で渋々と頭を下げた。


 客間の座敷を出る間際、おれんが長吉の腕を取ったのを、おせんは見逃さなかった。小梅の目を手で覆い、足早に去ろうとした時、

「ねえ、あなたが忘れられないんだよ、またいつでもその気になったら言ってね、お金あげるから」

 と、わざとらしく声を張り上げて、おれんは言った。長吉が何かを答えていたが、彦五郎の「お母さん」と嗜める声と、外から聞こえる騒ぎの音に消されて聞こえなかった。

「彦五郎さんも大変なのね」

 つぶやきながら、早々と店を出ると、大八車と、人の衝突事故があったようで、往来は大混乱であった。人の方は大丈夫かと、野次馬根性も手伝って、人垣を分けたおせんは仰天した。大八車と接触したのがおすえで、おすえは太い腕で裾の埃を払っていたが、大八車の車力は転倒して、膝を擦りむいて泣いてていた。積んでいた材木は無残に四方八方に転がっている。

「声を掛けるか?」

 背後から追って来た長吉が言ったが、おせんは小さく首を振った。かすり傷ひとつしていないおすえの怒鳴り声が、あまりにも凄まじかったからだ。人集りも一様に車力の方に同情の視線を投げていた。おせんの腕に抱かれた小梅の手にも力が入っている。

「行くか?」

「そうしましょう……」

 背中を向けた時、「こらっ色魔っ」と声が掛かった。色魔に反応して振り返ろうとする長吉に、おせんは「馬鹿、なんでみんなにあんたが色魔だと知らせるのよ」と袖を引いて人垣の外へ出ようとした。

「仲良くやんなさいよ」

背中に響いたおすえの声に、おせんは振り返り、うんと深くうなずいた。おすえは太い両腕を上げて手を振っていた。まるで今生の別れのように、切なく映ったのがふしぎであった。

 河岸を歩いていると、長吉が首を何度も傾けだした。

「どうした?」

「いやな……」と、長吉は腕にぶら下がる小梅を見下ろし、声を低くした。

「なんであんなに怒るんだろな、おれんさん」

「……」

「だってよう、まあいろいろ世話にはなったけど、結構、喜んでたぜ」

「えっなんだって?」

 おせんの鋭い眼差しに、長吉はぎょっと肩を竦めた。

「おれんさんを喜ばしたの?手を変え、品を変え、ねえお前さん……」

「いやいや、そんな、……とんでもない。おっ夕日がきれいだな、なあ小梅」

「どうなの、質問に答えなさいよ」

「いやいや、お前、手は変えても品は返られねえよ、なあ、小梅、腹が減った気がするなあ」

「そんなこと、わかってるわよっこの色魔」

 おせんは長吉の腕にぶら下がる小梅を引ったくると、先立って歩き出した。小梅は何度も長吉を振り返っている。

「会うんでしょうまた、金貰えるし」

 背中を向けたままおせんが言った。

「会わないで欲しいの……」

「馬鹿、会わねえよ」と長吉は返して、すぐに大笑いをした。

「なに、変な人」

 振り向いたおせんに、長吉はにやにやと薄ら笑いを浮かべている。

「何よ気持悪い、ねえ小梅?」

「うん……」

 小梅は仕方がないといった表情で、おせんに同意した。

「おかめ、お前よ、あれはないんじゃねえか、ハハハハ」

 今度、長吉は豪快に笑い出した。おせんはいよいよ首を捻り、立ち止まって。見慣れた亭主の顔をじろじろと眺めた。

「いままではよ、彦五郎に何かこう、嫉妬のようなものが胸に渦巻いてなかったわけでもないのよ、でも、さっき会ってハハハハ」

 長吉は話しが続けられないほど笑い出した。憮然と見つめるおせんに気遣わず腹を抱え、涙を流して笑った。そして一通り笑い終えると、怪訝そうに父親を見上げる小梅の頭を撫でた。小梅がにこりと微笑んだ。

「もう、嫉妬なんか消えて、いまはな、なんか情けなーい気分なのよ、おかめ、お前、あれのどこが良かったんだ?変な声だったな」

「さあね……」

 下らないと言い捨て、前を向いて歩き出したおせんも、にこにこ笑っている。

「なあ、お前ももの好きな女だね、おかめ」

「そうね、お前さんに惚れたんだからもの好きかもね」

「僕は違うよ、めっけもんだよ、感謝しろよ」

「そうかい」

 おせんがいきなり立ち止まったので、長吉は危うくぶつかりそうになった。小梅が振り向いて「ちゃん、だいじょうぶ?」と聞いた。母親似の潤んだ黒目が父親を心配していた。長吉はうなずいて、また小梅の頭を撫でた。

「彦五郎さんはね、あれで結構……」

 おせんは振り向かずにそう言った。

「なんだよ?」

 長吉が先回りして顔を覗き込もうとするので、おせんは小梅の手を強く引いて、小走りになった。小梅はきゃっきゃと愉しげな声をあげている。

「お前さんが気にするといけないから、言えない……」

「なっ、なんだよ気にするって……お、お前何か?そんなことを言うのか?」

「……」

 長吉の苛立ちの声を背後に聞きながら、おせんは然り顔で微笑んでいる。

「そうかい、そうかい、ああわかったよ、俺はな、自慢じゃないが」長吉はここで声音を変えた。「長吉さんて意外とたいしたことないのね」元の声に戻し、「と言われる男だ。そんなにあいつが良ければな、いつでも離縁してやらあ」

「……胸を張って言うことかしら」

 頭に血の昇った長吉は、おせんの忍び笑いも聞こえないようだ。足元の砂を蹴りながら続けた。

「俺は決めたぞ、おかめ!今晩から毎晩、修業に出る」

「馬鹿なことを」

 おせんは笑顔で振り向くと、前帯の中からスルメを取り出して小梅に与えた。

「お前、そんなところにスルメを入れてるのか、どうりで何か匂うと思ったんだよ」

 長吉は驚いているが、おせんはお構いなしだ。指先をちろちろと舐めて嬉しそうな顔をしている。

「ごめんよ、変な言い方して」

「……」

「彦五郎さんと一緒にいたのはね、あの人が寂しそうだったからなんだよ。金に不自由はしていなくても、貧乏なあたしよりも、あの人の心は荒んでいたから、傍で助けになってあげたいなって思ったんだね、きっと」

「ふーん……暴力を振るわれてもか?」

「お前さんも会ってわかったと思うけど、弱虫だからね彦五郎さん。あたしのような弱い女にしか手をあげれなかったんだよ、他にさ、不満をぶつける相手がいないんだよ」

「お前、まさか」

「なんだい?」

 長吉は、小梅を見た。小梅は眉を寄せたしかめっ面でスルメと格闘している。

「叩かれるのが好きな性質なんじゃねえのか?」

「いやだよ、子供の前で、もう」

 おせんは長吉の背中をぶつと、笑い声を立てながら歩き出した。急に手を引っ張られたので、小梅が一瞬よろけたが、おせんが手を大きく引き揚げたので、少しぶら下がりはしたが体勢を整えた。小梅はそんな状況下でもスルメを口から外さなかった。

「でもね、お前さんに出会ってからと言うもの、彦五郎さんに抱いていた、そんな感情も一気に冷めちまったけどね」

「えっ……そうかい」

 長吉は照れたように首をたたいた。

「そうだよ。お前さんて、いつでもお天道様を向いて歩いているじゃないか、そんなところに惹かれちゃったんだねきっと」

「おいおい」

「彦五郎さんは、日陰で、お前さんは日向のような存在なのさ。長吉は貧乏だけどね、感謝を忘れない」

「これ以上、惚れるなよ」

「あと、お前さんの眼もすき」

「俺は男前で有名だからな」

「勘違いしないでね、お前さんの容姿がすきなわけじゃないんだよ」

「言うじゃねえか」

「容姿なんてさ、皮一枚の差だけじゃない。そんなものどうだっていいもん」

「ふーん。お前がおかめだからな」

「……」

「悪い、悪い、続けろ」

 ようやっとスルメを飲み込んだ小梅が、喉が渇いたと、長吉の下げている竹の水筒を指さした。

「今度から、お水ちょうだいって言うんだよ、小梅」

 おせんはしゃがみ、小梅の腰に腕を廻すようにして、水を与えた。喉を鳴らして飲む小梅を見つめ、飲み終わると、袂で口を拭いてやった。水を飲みすぎ、今度はおしっこをしたそうに、小梅はじたばたと地を踏みつけた。

「およよ、小梅はおしっこかい。どれ、ちゃんがさせてやる」

 長吉は、小陰を探して小梅を連れて行くと、そこで用を足させた。

「良かったね、小梅、さ、帰ろう」おせんは、満足そうに微笑む小梅の手を引いて歩き出した。

「それで、なんだっけ?」

「何が?」

「俺に惚れた理由」

「ああ、お前さんすきだよね、褒められるの」

「……うん」

「お前さんの目ってね、ぎらぎらでもなく、しぼんでもなく、きらきらしてるんだよ、目ん玉の白い部分がきれいでさ、この人、純粋なんだなと思ったの」

「ふん、下らねえ」

 顔を赤くしておせんを覗き込んだ長吉は、おせんの額に口吻した。おせんはしあわせを噛みしめるように、ゆっくり瞼を閉じた。おせんの頬に伝った涙を指先で拭いてやった長吉は、口笛を吹くようにして小梅の手を引いて先に歩いた。おせんの手から、小梅の小さな手が離れた。

「あたしね、いまがいちばんしあわせだよ」

 長吉の手を払い、駆け出した小梅の小さな背中を眼で追いながらおせんはつぶやいた。

「お前はずっと苦労してきたんだ、いまだけじゃなく、これから先もずっとしあわせにならなきゃいけない」

「うん」

 おせんはうなずくと、遠くではしゃぐ小梅を確かめ、

「お前さん、あたしの名を知ってる?おかめじゃなくて」

 長吉に指を絡めて聞いた。

「さあね、知らないね」

「もう」

 おせんは娘のように腰をくねらせ、また小梅の方へ眼をやった。小梅はススキの枝を振り回して遊んでいる。水滴が頬に落ちた気がして、おせんは掌を出した。ぽつぽつと水が掌を濡らした。空を仰ぐと小雨が目や口に入った。先程まで晴れていたのに、いつの間にか、空合いが変わり、いまは灰色の雲に覆われていた。

ー雨はきらい。

 おせんは長吉の袖を掴んでささやくように言った。

「実はね、お前さんに、大切な話しがあるんだよ、とても良いこと」

「うん?聞きたいねえ」

 おせんはうつむいて腹の辺りを擦った。

「お前、えっ?」

 長吉は、驚きと、喜びを含んだ眼でおせんを覗き込んだ。続きを言おうとしたが、さっきまで黄色い声を出して遊んでいた小梅の声が静まったのが気になった。それまで止まっっていた空気が動き、河岸のすすきを静かに揺らし、おせんの頬も冷たく撫でた。

「小梅……?」

 殆ど無意識に小梅を探した。男が一人、こちらに向かって歩いて来るほか、小梅の姿は見当たらない。おせんは背伸びをして見た。

「あーっ」

 深い溜息を漏らして、おせんは長吉を見上げた。ふふっと笑うと

「もう小梅ったら、寝転んで」

「仕様がねえな」

 長吉は言うと、おーい小梅と、呼び掛けながら駆け出した。途中、長吉の脇を過ぎる男がいたが、長吉はその男に目を向けることはなかった。男は、むさ苦しいまでに長い髭を蓄え、垢まみれの衣を何重にも纏っていた。おせんは突然、歩みを止めた。真夏の炎天下の下、日差しを浴びて蹲っていた、あの男だと気付いた。客に貰った赤飯と、竹筒を与え、日陰に連れてってやったあの男である。

 男がおせんの横を過ぎようとしたとき、長吉が、がくりと膝を落としたのが見えた。寝転ぶ小梅の脇で、頭を垂れ、小梅の躰を抱え込んだ。異常な事態を察したおせんが駆け寄ろうとしたとき、例の男に腕を掴まれた。

「何をするのっ」おせんは酷く抗う口振りで言った。男の口元が笑った。

「おせんちゃん。俺ですよ、気付かないんですね」

 おせんの背筋に、冷たい汗が流れた。髭の下の頬がそげ落ちて、眼だけが大きく光っている男の肌は、垢や埃で黒かったが、その声は紛れもなく宗治であった。

 小梅の名を呼ぶ、長吉の悲痛な声が、おせんの耳に届き、怖ろしさに胸が潰れそうになった。

「これ」

 宗治は右手を挙げて見せた。綺麗な色の血に塗られた匕首が握られていた。

「三人で暮らそうと約束した」

「……宗治、さん」

 おせんの視界はぼやけ、雨の雫に打たれる小梅の赤い頬が、ぼんやりと頭に浮かんだ。

ーこの人を忘れていた。いちばん頭を下げなければならない人は、おれんさんでも、彦五郎さんでもなかった。

 宗治が、小梅の血のついた匕首の先ををおせんに向けた。

「赤ちゃんがいるのよ、宗治さん……」

「ふうん、誰の子だい?」

 おせんの悲痛の訴えは、生気を失った宗治には伝わらなかった。おせんの朧気な視界に、小梅を抱えた躰を前後に揺らし、噎び泣く長吉が映ったが、それも次第に霞んで行った。

―小梅が濡れる。おせんはなぜか、そんなことを考えた。

 雨足が激しくなると、ふと我に返ったように長吉が振り返り、「おせん」と、泣き声で叫んだが、そこにいる筈のおせんの姿を認めることはできなかった。

 雨は無情にも、江戸の町を差別なく、汚し続けた。



                               了

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