表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
謝罪  作者: 藤原蒼未
7/8

旅立ち

 同じ頃、長吉は常磐町の料理屋の二階座敷にいた。名もあまり知られていない、一見すると、町家のような風情の料理屋で、暖簾も看板も出ていない。店の入り口には夥しい数の植木鉢が置いてあり、この店の店主の趣味らしいが、きちんと手入れがされている。雨が降らない限り、冬でも打水は欠かさず撒かれており、店の横に流れる小名木川が緩い水音を立てていた。屈託ありげな中年女と長吉が微睡む座敷は、八畳と四畳半の襖続きの二間で、この小さな店の中では、これでもいちばん広い客間である。

 長吉は、同じ女と、月に一度、ここで密会している。昼近くに出掛け、昼すぎには高橋を渡ってすぐの自分の店に帰るのだが、おせんがすずめ長屋から越してくる前も、越して来てからも、海辺大工町の同じ町内の湯屋へ立ち寄って、躰を流してから、長吉は店へ帰るようにしていた。

 いまはおせんがいるので、店を放り投げた形で出掛けるが、以前は、店を午後から開け、小梅は同じ敷地内にある裏店のおとき婆さんに預けて出掛けた。

 湯屋へ寄ってから帰る理由は、淫らな汗の湿った不浄な躰を清めたかったからだ。女の白粉の匂いを体中に纏ったままで、小梅を抱き上げるのが憚れた。

 ここに入ると必ず最初に飯を食う。女も長吉も酒は飲まない。互いに仕事と、帰る家があるからだ。

 特に言葉を交わす訳でもなく、黙々と飯を掻き込み、食事を終えると、隣りの四畳の部屋に敷き述べられている派手な色合いの夜具で小半時あまり女を喜ばせ、時間があれば少し眠る。帰り際、女は決まって長吉に二分握らせた。これは長吉の店の店賃である。即ち、この女が長吉の店の身元保証人である。

「あんたの倅が戻って来たら、必ず報せてくれよ」

 これを去り際の言葉として残し、長吉は店を出る。今日は、意外と早く食事を終えたので、事が済んだ後、寝間で微睡む時間が持てた。といっても躰を離したくないのは女の方だけで、長吉の心は急いていた。おせんが待っている上に、仕上げて仕舞わないといけない仕事がたんまり残っていたからだ。ある種の焦燥感に追われるような気持で、長吉は、躰に張り付く女を引き離すと、逃れるように、連子窓から外を覗いた。素肌に小袖をまとい、素早く帯を締め、居間の肘掛窓枠に腰掛けた。上げた片脚の膝に腕を乗せ、眺めた下ろした川の袂には、おせんと再会した高橋が架かっている。

 一月ほど前、橋の上でおせんに声を掛けたのは偶然じゃない。あの日も、この女と時を過ごした後だったが、その日に限って、身仕舞いするまで待ってくれと、女が甘えたため、苛ついた気持を隠しながら、長吉は今日と同じ様に川を眺めていた。そこにおせんの姿を見たのだ。

 長吉は最初、自分の姿を隠すため、発作的窓下に蹲った。しかし思い付いたように立ちあがると、いつもの去り際の言葉に付け加え、急用ができたと女に伝え、急いで階段を駆け下りた。店の戸口に立つと、不意に、この店を出る姿をおせんに見咎められては困るという気持が働いた。店主に怪訝な眼で舐め見まわされながらも、しばしジタバタと足踏みしていたら、身繕いを終えたあの女が下りてきた。先程まで床の中で騒いでいた女とは、到底同じ人物に見えないほど、女は大店のおかみの顔に戻っていた。急用の筈なのに、未だ階下にいた長吉を見て、女は少しむくれた様な顔をしたが、その表情は長吉にだけにしか見せなかった。女は自分の立場を心得ているのだ。他の店の者には、つんと尖った顔で接し、長吉よりも先に、植木で覆われた店を出て行った。

 袂で鼻から下半分を隠し、軒先から首だけ出してちらと橋の方を覗くと、おせんはまだ、しゃがんで川面を見つめていた。ほっと胸を撫で下ろした長吉は、日傘を差して、澄まして歩き去る女の後ろ姿が、武家屋敷の角を曲がるまで見届けた。そして長吉は、単衣の紬に、白粉の匂いをさえていることも忘れ、おせんの元へ、踊るような足取りで向かったのだ。

 おせんのことは、この一年、忘れたことなどなかったし、いつも見守り続けて来たが、近寄って声を掛けようと素直に思えたのはその日が初めてである。それほどおせんは孤独に見えたし、長吉の心と躰が、おせんの存在を、息が苦しくなるほど欲していた。

「おかみさんが、戻って来たんでしょう?」

「……」

「隠したって無駄ですよ、ちゃーんと調べてるんだから」

「隠してなんてないよ。第一、お前さんに隠す必用などないだろう。俺のところに戻って来たのは、紛れもなく俺の女房なんだからよ」

「そりゃ、そうだけど……でも、わたしいやだわ、あなたがおかみさんと、と思うと妬けちゃう」

「そういうことは言いっこなしですぜ、おれんさん。相手は女房だ。どうしようと俺の勝手だと思うけどな」

冷たく言い放つ長吉から目を逸らし、ふっと肩を落としたおれんは、裾の合わせ目を指先でなぞった。

「これからも会ってくれるんでしょう。あなたには散々、金を使ったんだし、言いたくないけど、店の身元保証人だってわたしなんですからね。意地悪したら、店を追い出しますよ」

 床の中とは人が変わった様に、権高な物言いをする女だった。だがその態度には、素直に表すことのできない、この若い男への、恋慕の思いを必死に隠しているような、そんな気が、長吉にはしてならなかった。そういった女の心の中を覗き見たとき、確かに長吉は、二十も歳の離れたおれんを、可愛いと思うのである。

「心配するな、これまで通りお前さんとは会うよ」

 長吉が言うと、おれんは相好を崩した。そしてふと襖の方を見た。見てすぐ、あらっと言って立ち上がった。微かに開いていた襖の前に座り、頭ひとつ出るくらい開けて廊下を覗く素振りを見せた。おれんはその時、階段を下りて行く薄汚い男の姿を眼にしている。しかしおれんは、首を捻り、ふんと鼻先であしらっただけであった。薄暗い廊下の突き当たりにある小窓から吹き抜ける風が、襖の僅かに開かれた隙間からそよそよと入り込み、向山に飾られていた料理に敷いていた和紙が、竹細工の器から飛ばされて、長吉の足元にふわりと落ちた。

「どうしたい?」

 長吉は、半刻前まで天ぷらが盛られていた、いまはただ、油のついた和紙を拾い上げながら言った。

「ううん、女中がきちんと閉めてなかったみたいね。どうもいけない、悪いことをしてると、疑り深くなっちゃって、いまだって誰かに覗かれていたんじゃないのかと気になって……」

「そうか……」

 長吉はうなずきながら、また高橋に眼を戻した。長吉が腰掛ける位置からは、おせんと、小梅がいる表店は見えない。ここに腰掛けるときはいつも、店の方角とは違う、東を向いて座った。

 例えば、店の前をふらつくおせんに、薄暗い料理屋の二階にいる姿を見咎められるとは思えないし、河川に添って植えてある柳や桜の枝が、視界を邪魔している。だとしても、あちらから見えないとはいえ、ここでしていることを考えると、女房、子供の姿を遠目にでも見てしまったときには、きっと心も躰も萎えてしまうような気がした。ゆえに長吉はいつの時も、大川の方を背に座っていたのだ。

 だが、今日に限っては、店の様子を伺いたい気持が強く働いた。心を不快に騒がす何かが、長吉の胸の奥底を衝き上げるようにして喉の辺りを圧迫した。

 長吉の気持を波立てる言い様のない不安は、今朝、目覚めた時から続いていた。それは昨夜、おせんに、店の身元保証人のことを詰問されたせいかも知れないし、夜中だというのに、隣近所を憚らず泣いた、おせんの悲痛の叫びと、長吉の衿を持ってゆすり、拳で胸を叩きながらも、涙に濡れた頬を擦り寄せてきた幼気ささが、長吉の脳裡から離れないからなのかも知れない。

 得体の掴めない不安に脅かされた長吉は、一旦、腰を浮かすと腕組みをして、外をまっすぐ眺め下ろしたあと、腕組みを解いて再び窓枠に腰を下ろした。今度は、角度を変え、大川の方へ向いてみた。ゆっくり眼を上げ、万年橋のたもとを見た。そこに長吉の店がある。若い女が二人、お喋りをしながら暖簾を潜り、店に入るのが見える。それと丁度すれ違いに、背の高い、痩せた男が店を出て来た。男は店の方を振り返り、顎を撫でて立っている。すぐ後からおせんが現れた。小さな瓶のようなものを小脇に抱えている。蓋は最初から開いていたのか、おせんはおもむろに瓶に手を入れると、男の足元へ、邪気を払うような勢いで何かを撒き散らした。

ー何やってんだ、あいつ。

 おせんが塩を撒いたと察した長吉は、窓枠に食らい付くようにして様子を見守った。おせんがその男に乱暴なことをされやしないかと、腰を浮かし、飛び出したい気持で、何度も出入り口の方を見ては足踏みをした。おせんは男の前に突っ立っていた。男は裾を叩いて、周囲の人々を気にするように伺っているが、通り縋る人々は、二人の男女の異様な空気に気付いていない様子だ。足早に過ぎて行くだけだった。

「どうしたの?」

 怪訝にな目付きをしたおれんが、窓枠に寄ってきて、長吉の腰の前に膝立ちになり窓外を見た。塩を撒かれた男の顔の表情までは見えないが、おせんの緊迫した雰囲気は伝わってきた。長吉との喧嘩の時とは違い、明らかな恐れを、そのひょろ長い男に抱いている。しかしおせんは元来、気の強い性質である。往来に出たことで、本来の勝ち気さに力を付けたようだった。

「まさか……」

 不意に長吉は、あの男が彦五郎なのではと想像した。

「おれんさんよう」

 長吉の問いかけにおれんは答えず、黙って、長吉の店の前に立つ男を眺めている。二十代後半、長身、痩せ型、優男風の色男の顔までは確認できなかったが、遠目から見ても、上等な衣を纏っているのが分かる。つまり、生まれついての坊ちゃんの(なり)だ。

 おれんは強張っていた。長吉は気遣わず、質問を続けた。

「なぜ、あんたの倅が島から戻ったことを教えてくれなかったんだい。そういう約束だったろう」

「……」

「あれは、あんたの馬鹿息子に違いねえな?」

 長吉は鋭い声を出した。おれんは、膝立ちから腰を落としてうつむいた。細帯だけで浴衣の前を止めた衿は広がり、四十路にしては滑らかに白い、それでいてふくよかな胸元が露わになっていた。夏のぎらぎらとした日の射し込む下で、よくよく見るとおれんの、鬢や、髷には、白いものが目立っていた。目尻と口元のしわが、年輪の残酷さを見せつけた。

「だって、用が無くなったら、あなた、わたしを捨てるでしょう……」

「……」

「別れたくない……」

 裾を分けて覗く長吉の臑に、おれんは縋るように腕を絡めた。長吉の胸に、この女への愛しさが湧いてきた。長吉はしゃがみ込み、一度おれんの躰を強く抱いてやると、「じゃあ」と言って立ち上がった。

「待って、お金は?要らないのかい?」

 叫びながら、いつものように二分を包んだ紙を懐へ押し入れるおれんを、長吉はまた抱き締めてやってから、駆けだした。

「次の月も、その次の月も待ってる、ここで」

 と、泣き声が交じる、おれんの言葉を無視し、殆ど転げ落ちるようにして階段を駆け下り、女中やおかみに、いつもきれいだねと、お愛想は忘れずに言い、顔を赤くした女中が慌てて揃えた草履を掴んで店を出た。店の軒先に、無宿者のような、垢にまみれた男が転がっていた。その男の前に腕組みをする、良く肥えた店主がしたことだとわかり腹が立ったが、いまそれに構っていられない。長吉は、挨拶をする店主を突き飛ばし、道脇に、ダンゴ虫のように丸まる店主を一瞥すると駆け出した。

「待ってろよ、おせん」

 声に出して叫んでいた。彦五郎と思われる男は、遠目から見ても薄気味悪い野郎だった。裕福な商家に生まれついたのに島送りとなるような放蕩息子は、江戸に戻って来ても改心した素振りがない。奴は必ずおせんに危害を加えるだろうと考えた。実の親父が、大枚を叩いて身請けした女を、親父が死んだ後だとはいえ、横取りした男だ。まだ親父が元気なころから、おせんを狙っていた節がある。都合良く親父が死んだから良かったものの、もしあのまま生き続けていた場合、どうしたものか分からない不気味さが、彦五郎から感じられた。

 いつもなら重い足取りで、ふらふら、のたのたと帰るこの道のりが、今日は随分と遠く思えた。途中、知り合いの棒手振りにぶつかりそうになり、除けたところを天秤棒の先で頬を打たれた。わざとじゃない、長吉の除け方が悪かったのだ。相手は危うく甘酒の樽を落としてしまいそうになり、真赤な顔をして長吉を罵った。

「長吉、この色魔野郎。また女のとこか」

「違う、悪いな」

 と、片手拝みで後ろ向きに歩いたものだから、背後にいる人間にもぶつかった。棒手振りの赤い顔が一気に青ざめたのを見て、心臓が止まりそうになった。ぶつかった時の感触が、どうも堅かった。堅いと思った瞬間に跳ね返されていた。まずいことになったぞと思いながら振り返ると、そこには誰の眼から見ても堅気とは思えない男が二人、このクソ暑い日に懐手で突っ立っている。にやにやとした笑顔が、恐怖心を煽った。

「申し訳なかった、先を急ぐ御免」

 と、緊張のせいで武士のような口調になっていた。見下ろす彼等の脇を、腰を曲げた商人のような恰好ですり抜けようとしたら、こらっと、猫の子のように衿上を掴まれて引き戻された。

ーちぇっ面倒臭せえ。

 気の短い長吉は、やくざもんとの喧嘩はしょっちゅうだったが、それには大義が必用だった。弱い者が理不尽に虐められている様子を見ると、後先考えずに加勢をしてしまうが、いまはそういったような理由がない。この場合、非があるのは、後ろ向きで歩いた自分なのだ。

 長吉は、さっき、おれんから受け取った、一分銀が二枚入った包み紙を、懐から取り出すと、膝をついて、両手で掲げた。


「おい、おかめ」

 漸く店の暖簾を上げた長吉の目に飛び込んできたのは、店先の框に腰掛けて、睨むように憮然と長吉を見るおせんだった。外に彦五郎の姿は見えず、血相を変えて入ったので、手前に座るおせんを踏みつけそうになったくらいだ。

「何やってたんだい、お前さん」

 おせんは薄気味悪い笑顔を作っていた。こういう表情の時は、あまり関わり合いにならない方が良いことを、長年の付き合いで知っている。

「何をそんなに慌ててんだい、お前さん」

 言葉尻を強く発するのは、おせんが、長吉にとっては良くない情報を仕入れた時である。長吉の目が泳ぐ。

「お前さん、お前さんって、おっかない呼び方をするんじゃねえよ」

「おっかないとは何だい?」

 おせんは立ちあがって長吉に胸を押しつけるようにして顎を上げた。

「そりゃ、おめえ、黙って出掛けたのは悪いよ、だけどよう、最初に言っただろう。俺は月に一度、朝湯に浸らねえと、細かい作業をする手が動かねえって」

 まだ肩で息をしている長吉は、おせんから目を逸らし後ろを向くと、暖簾の間から首だけ出して外にちらちら眼を配った。まだそここらに彦五郎がいるような気がしていたのだ。油断は出来なかった。その背後から、おせんの声が突いてきた。

「へーそうかい。でもね、出掛けるのはいつも昼頃じゃないか、湯屋なら朝五つ(8時)から開いてんだよ、お前さん」

「だからよ、お前さん、お前さんって、最後に怖い声で言うんじゃねえよ。言い方がどこかおかしいだろう、言い方が……」

 どこか尻窄みに言うと、長吉は、おせんを押し退けて店に上がった。

「あっ」とおせんが声を上げた。

「お前さん、なんで裸足なんだい。湯に入って来たんだろう汚いじゃないか、草履はどうしたんだよ」

 おせんは長吉を畳の上から押し出すと、腰に絡みついて後ろに手を回し、草履を探した。土間も隅々まで見ている。だが草履はどこにも見当たらないので、おせんの目が厳しい光りを帯びた。長吉は焦った。さっき道端で、棒手振りか、やくざ風の男とぶつかった時、きっと落としてしまったのだ。おせんのことが心配で、早くその場を切り抜けたくて、草履を落としたことも、拾うことも忘れていた。

「お前が……そろそろ、なんだな、あの、仕事に出掛ける時刻だと思ってよ、小梅もいるし」

 長吉はこれ幸いと居間に向かっておーい小梅、ちゃんが帰ったよと叫んだ。だが小梅からの返事も、ぱたぱたとした足音が駆け寄る気配もない。

「小梅なら握り飯を食べて寝てるよ、起こさないでおくれ」

 と、おせんに冷めた声でたしなめられただけだった。仕方なく長吉は、おせんに愛想笑い浮かべた。

「小梅もいるしよ、急いで戻って来たもんで、草履を忘れちまったんだよ」

「どこによ」

「どこにってお前、湯屋に決まってんだろうよ……」

 おせんは腕組みを解いて、長吉の懐を掴んで引き寄せた。おせんは框の上、長吉は土間に立っていたので、おせんにとって丁度いいところに長吉の胸がある。引き寄せた手を緩めないまま、長吉の首筋の臭いをくんくん嗅いだ。長吉は、天に拝むように両目をきつく瞑った。

「汗臭い」

 懐を離し、鼻を摘んで顔を歪めた。

「だから言っただろう、焦って湯から駆けて来たから汗を掻いたんだよ」

 おれんと一戦交えた後だ。長吉は蒼白くなりながら、おせんの胸を押して、自分も後ろに下がった。

「駆けて来たって、湯屋はその道曲がった角じゃないか」

 押されて、少しよろめいたおせんだが、すぐに体勢を立て直し、武家屋敷の塀に囲まれるようにして立つ湯屋の方へ顎をしゃくった。

「だから急いで来たんだよ、こう蒸し暑いんだ、湯から出た途端に汗まみれになるだろう、なっ?」

 長吉は問うようにして言うが、おせんの疑惑は晴れていないようだ。眼を薄くして斜に構え、長吉の上から下まで、まるで汚いものでも見るように眺めた。

「さっきから、急いでとか、焦ってとか言うけどね、今日まいつもよりも随分と帰りは早い方だよ。まだお天道様は天辺に登ったばかりじゃないか、お前さん」

「いやな女だねお前も。何を疑ってんだか皆目見当がつかねえけどよ、俺は、お前に隠さなくちゃならないことはこれっぽっちもしてねえと、昨夜も言っただろう。人を疑うのもいい加減にしやがれ」

 長吉は吐き捨てるように言うと、どかんと框に座り、すすぎを用意しろ、おかめと怒鳴った。まともに戦っても勝ち目はない。ここは怒鳴り散らすに限ると考えた。

「昼飯は食べるのかい、腹が減ってるだろう、お前さん」

 と、居間に下がる前、おせんは厭味な口調で言った。長吉は胃を押さえ、もちろんだと、威勢良く言ったが、実のところ、おれんと食べたばかりで、おまけに緊張と、走ったせいで吐き気さえしていた。彦五郎のことは、どういうわけか、おせんに聞き出せないでいたし、おせんから、彦五郎のことを打ち明けてくる気配もない。長吉が料理屋の二階で逢瀬を繰り返しているのは、彦五郎の実母である。彦五郎の名を口にすることで、穏便に、平和に暮らし始めた三人の生活に綻びを、現れる気がした。

 

黄昏の色が濃くなっても、灼けるような暑さが残っていた。おせんは、手拭いで顔を覆ってあじの干物を焼いていた。おせんと同じ様に頬被りし、たすき掛けした小梅も、七輪の脇にしゃがんで団扇を扇いでいる。おせんが涙を流して咳き込んだ。

「だからね、そこから仰ぐと、おっかあの顔に煙りがかかるって言ってるだろう」

 おせんは団扇で反撃するように、小梅に向かって扇いだ。今度は小梅が咳き込み、立ちあがって手拭いを外すと、大袈裟に腰を何度も曲げて何度も咳を繰り返した。何か異物でも吐き出すようなおえーっという言葉を交えている。

「全くもう」

 その姿がかわいくて、おせんはついつい微笑んだが、すぐに、生まれつき憂いを含んだ目を伏せては、今日一日に起きたことを考えていた。昼前、長吉はこっそり店を抜け出して、昼過ぎに戻って来た。一月前と違って、石鹸の匂いが香ったが、未だに疑惑は持ち続けたままだ。彦五郎に至っては、あれから姿を見せないことが逆に不気味な気がしていた。あの日、おせんを前にした彦五郎は、店の奥にじりじり下がったおせんの腕を、契れるような強さで握り、乱暴に引き寄せると、てめえ裏切りやがったなと、凶暴な目を近づけた。彦五郎が吐いた言葉はそれだけだったが、彦五郎の目の奥に、執念に近い憎悪の色を見た。愛とか恋とか、そういう甘美なものとは明らかに違っていた。昔、犬ころのように殴られた記憶が蘇り、おせんは恐怖に打ちひしがれた。それでも小梅が店に出て来ないことを祈りながら、話しがあるなら他で聞くからと声を低くして言うと、彦五郎は血走った目と目尻を下げて、声を立てずに笑った。おせんの躰に戦慄が走った。殺されるかもと、恐怖におののいた。それと同時に、目の前にいる、甘やかされて育ったお坊ちゃんを哀れんだ。手をはなして下さいよと、躰を捩り、藻掻いていると、長吉と、小梅、この三人の生活を守りたいという気持が、恐怖よりも強くなった。怯えが消え失せたその時、偶然にも、二人連れの娘が入ってきた。

 伝統のある商家の血統がそうさせるのか、彦五郎は、馬鹿でも対面を気にする。二人で暮らしていた時だって、人前では、おせんに手を上げたことがない。おせんが泣き叫ぶし、ものが壊れる音がするし、彦五郎の怒鳴り声は響くはで、彦五郎の、おせんへの執拗な打擲は、裏店中に筒抜けなのだが、彦五郎はそこまで頭が廻らないのか、近所の誰かが止めに入って来ると、おせんの髷を掴んで、拳を振り上げていた手をぴたりと止めて、何でもないんですよと笑顔を見せていた。

 この時も彦五郎は、若い娘が入って来たのと同時におせんを開放し、じゃっと手を上げて店の外へ出て行った。

ー諦めてくれたのかな。

 そう思わない節がない訳じゃない。次男といえども、彦五郎には家族がある。人生をやり直す基盤があるのだから、おせんなんかに固執し、むざむざ牢屋に逆戻りすることはないのだ。おせんは、彦五郎が賢い選択をしてくれることを祈った。

 それにしても、腹が立つのは長吉である。いまも店で、木屑にまみれて仕事をしているが、時たま、居間や台所、小さな坪庭と、おせんが居そうな場所に顔を覗かせては、腹が減ったような気がするなと、わざとらしく胃の辺りを擦って見せる。今朝は飯を食べさせたが、昼は長吉の帰る前に、小梅と二人で昼食を掻っ込んで、長吉の帰宅には、飯が米びつに残らない状態にした。

 いつもは苦しそうに昼飯を押し込む長吉が、今日に限って腹をぐーぐー鳴らせているのが可笑しくて、おせんは隠れて笑った。今日は珍しく昼飯を食べて来てないようだと思いながらも、おせんにも仕事の時刻が迫っていて、こさえてあげる暇がなかった。三日も腹を空かせてる子供のような、情けない顔をした長吉に、後ろ髪を引かれながらも、仕事に走って行ったおせんだが、得意先の客から妙なことを耳にした。昼ごろ高橋を渡る長吉を見たと言うのだ。証言したのは礼によってお喋り好きの永代橋付近に住む女の客だが、筋張った喉を持つこの客は、用事があって、長桂寺に出向いた帰りに長吉を見掛けたらしいのだ。長桂寺は、常磐町を北へ進んで最初の堀の角にある寺だ。なんでも孫が生まれたお祝いに、こさえた赤飯を吉事だということで、日頃世話になっている寺の住職に届けたらしいのだが、

ーそこまで来たならうちの店に寄ってくれれば楽だったのに。

 と、同じく、ささげがふんだんに入った赤飯を頂いたおせんは、自分に都合の良いことを考えていた。

「それで、うちの人、どこに行ったんですかね?」

「それがさ……」

 客の女は口籠もった。しかし黙っているつもりはないらしい。上げた顔には戸惑いの色は見られなかった。寧ろ他人のいざこざを愉しんでいる風だ。

「ちょうど高橋のたもとに、こぢんまりとした料理屋があるんだけどね、看板も出てないから、あんたは知らないかも知れないけど、そこは実は出合茶屋のようなところでさ、とは言っても本格的な出合茶屋じゃないからね、出入り口が一つしかないのが難で、あそこで密会すると、見つかり易いと言われてるんだよ。だけどその店は繁盛していてね、結構、上等な料理を出すらしいよ。そこに入って行ったよ、おせんちゃんの亭主」

 

射すような日差しが、背中をじりじりと焼く中、汗を拭うのも忘れて、おせんは帰路についていた。左手に見える大川には、大小の舟が忙しく行き交い、涼しげな水音を立てている。右手に並ぶ武家屋敷の白壁の照り返しに眼を細め、手をかざしながら歩いていると、灼熱の中、日向に蹲る薄汚い形をした男を見た。

「あの、どうされましたか?」

 顔を覗き込もうとすると、男は、髭だらけの顎を衿に埋めた。顔をしかめたくなるような悪臭が鼻をついた。

「腹が空いてるんじゃないんですか?」

 と尋ねたのは、男の腹が、昼間の長吉の様にぐーぐー音を鳴らしたからだ。男は何も言わなかったがが、おせんは、客から貰った赤飯と、水の入った竹筒を差し出した。真夏だというのに、ぼろ布をたくさん纏った男は、垢と汗の混じった堪えがたい異臭を発していた。それが余計におせんの胸を締め付けた。茫然と蹲る男に、

「日陰に移りましょうか」

 と言葉をかけて、男の、垢で汚れた手首を掴んで柳に木の下まで導いた。立つと意外に大きな男だったが、威圧感や、恐怖に似たものは、ふしぎと感じなかった。武家屋敷の塀では都合が悪いので、隣接する霊雲院の土壁越しに座らせた。寺の庭から騒がしいほどの蝉の音がしたが、爽やかな風が吹き通る場所でもあった。

ーいい事をした。

 おせんの満足した足取りはすぐに重くなった。男を置いて来た霊雲院から自宅までは眼と鼻の先である。本当に心配なら、家に連れ帰って行水でもさせてあげれば良かったのだ。それを、長吉の浮気を示唆する口の軽い客に苛立ち、客のくれた赤飯をごみ同然に男に与えことへの少しの苛みで、竹筒をあげて、卑しい自分の行為を隠そうとしただけのような気がしたのだ。

ーこんなことだから、夫に浮気をされるんだ。

 おせんは、急ぎ足で男を置き去りにした寺に引き返したが、既にそこから、男の姿は消えていた。

 夕餉の仕度が調うのを見計らったように、長吉が居間に入って来た。おせんの機嫌を伺うような態度はまだ続いている。おせんもおせんで、浮気の証拠を掴んだばかりだ。臨戦態勢を崩していない。機嫌の悪い時のおせんの癖だが、瞼をひくひくと動かして、顎をしゃくるような話し方をする。自分で意識してるわけではない、自然とそうなってしまうのだ。

「旨そうだな、なあ小梅。おっかあの作るおまんまがいちばん美味しいな?」

「うん」

 小梅が箸を持った手で口をおさえてうなずいた。頬はこれでもかというほど沢山の飯を詰めて膨らんでいる。

「お箸を持ちながらだらしのない」

 おせんが小梅の手の甲を軽く叩いた。

「おいおい、なんだよ」

「躾けのなってない子だね。あんたが甘やかすからだよ。ほらっ、また米をこぼした。」

 気にしないで食べ続ける小梅に眼を細め、その同じ眼を横にずらせておせんを睨んだ長吉が、とうとう憤懣を爆発させた。

「文句があるなら俺に言えばいいだろう。それをむすーっとふてくされれて揚げ句の果てには娘に当たるとはどういう了見だ」

 長吉は、片膝を上げておせんの衿を掴んだ。おせんは構わず、ふふっと薄ら笑いを浮かべると、

「昼間っから店をほっぽり出して、料理屋に引き籠もるとは、いいご身分だね、お前さん」

 と、長吉の顔も見ずに斜を向いて言った。長吉は言葉も出ない。おせんは勝ち誇ったような顔で、小梅のあじの小骨を取ってやっている。甘やかしたらいけないと思いながらも、以前、魚の骨を喉に刺した小梅が、喉が痛いと泣きだした。ご飯粒を丸めて飲み込ませても一向に骨は取れず、仕方がないので、おせんが小梅を押さえ込み、長吉が小梅の口を開けさせて、裏店のおとき婆さんが、とげ抜きで骨を抜き取るという大騒動を起こしたことがある。あんな風にうんざりと疲れるくらいなら、最初から魚の小骨を取ってあげた方が良いという考えに、その夜を境に変わった。

「それはお前、昼飯に誘われたんだよ、……あの、ほれ、なんだ、いつも湯屋の二階で会う知り合いによ」

 さすがに長吉は青くなっている。おせんの衿を離すと、腰をがくっと落とし、胡座を掻きなおして汁を飲んだ。喉が渇いて声も出ないといった様子である。おせんは眼の端でその姿を見ながら、片手で衿の乱れを正した。

「金はどうしたんだい、そのお友達が払ってくれたのかい、お前さん」

「そりゃ、そうさ、俺にそんな余分な金がある訳ないだろう、ハハハハ」

「だったら今度、挨拶に行かなきゃいけないね。餅菓子で買ってさ、なんていったかね、林町の菓子屋の名、そこのよもぎ餅が絶品らしいよ、近江屋っていったかね?」

「挨拶なんて要らねえよ、餓鬼じゃあるまいし……フフ」

「そんな訳にはいかないよ。町内の湯に通ってるってことは、その、なんとかって人は、この近所に住んでるってことでしょう?顔を合わす機会だって、もしかしたらあるかも知れないじゃないか」

「会わねえよ」

「なんでさ」

 おせんはつっかかった。

「お、お武家だからだよ」

「へーっあんたにしては大層なお友達だね、湯屋の二階であれかい、そのお武家さんも一緒に女湯でも覗いてるのかい。だいたいなんの義理があって、お武家さんが、お前さんに飯を驕ってくれるんだろうねえ」おせんが挑み掛かった時、小梅が味噌汁の椀を引っ繰り返した。

「あっ……あーあ……ごめんなさい」

「あーっあーって小梅……」それまで、もくもくと食事を口に運びながら、単調で話し続ける母親と、口籠もって答える父親を交互に見ていた小梅がとうとうやってしまった。一瞬、がくんと首をうなだれたおせんだが、素早く台所に走って行って雑巾を持って来ると、馴れた手付きで畳にぶちまけられた味噌汁を拭きだした。おせんに怒られると察した小梅が汁で汚した膝のまま、部屋の隅に逃げようとした。

「小梅、動くんじゃない」

 おせんは嗜めると、何もしないで飯を食い続ける長吉をちらちら見ながら、小梅の小袖を脱がした。かわいい金魚の絵柄だが、白地はくっきりと茶色のシミを付けていた。

「縫い上げたばかりなのにな、残念」

「おっかあ、ごめんね……」

「いいよ」

 涙を浮かべて謝る小梅に微笑み掛け、台所に戻ったころには、先程までじりじりと胸を蝕んでいた嫉妬も、どこかへ消えていた。

ーあの人が男友達の侍と料理屋に行ったというのなら、それでいいじゃないか。

 この頃は大切にされているし、数ヶ月様子を見て、また考えればいいと寛大な気持にさえなっていた。男に股を広げて、自由にされることで稼いでいた自分を嫁にしてくれた人なんだあの人は、贅沢を言えば罰が当たる。多少生活の中に、不安を抱えていた方が、きっとしあわせは逃げないと、誰に教えられた訳でもないが、おせんは漠然とそう信じ込んでいた。

 湯屋から戻ると、長吉は縁側に座り、灯りもない庭に眼を向けていた。食事の後、三人で湯屋へ出掛けた。今宵は涼しい風が吹いていたので、少し遠回りをして帰ったのだ。家まですぐそこというところで、昼間、遊んで疲れた小梅がうとうとしだし、長吉が抱いて二階に運んだ。上で細々とした仕事を片付けて下へ降りてきたおせんは、妙に憂いのある亭主の後ろ姿を見たのだ。

 おせんは足音を忍ばせるようにして台所に入ると、買ってから数日が経つが開けていない一升徳利を下げて隣りに座った。長吉はおせんと酒を見比べるような顔をして、少し微笑んだが、またすぐに暗い庭に目を落とした。

 その時の長吉の頭には、料理屋の二階で、鬼女ような顔をして泣き喚くおれんの容貌が映っていた。身震いがするほど怖かった。別れを切りだす前までは、歳のわりには、たるみのない顔にうっすらと笑みを浮かべて、長吉に寄り添う素振りを見せていたおれんが、突如として暴れ出したのだ。

 長吉はおれんを好きだった。見目麗しい女だし、未練が全くないと言えば嘘になる。しかし彦五郎が島から帰ったことを隠したおれんに憤りを覚えていた。また、彦五郎が戻ったいま、おれんと繋がっている意味はないようにも思えた。第一、おせんが勘付き始めている。

「一月にたった一度だけの関係じゃないか」

 と、別れを拒むおれんが変貌したのは、別れ話から四半刻あまりした時だった。

「ばかやろう」

 と大声を張り上げ、長吉が造ってやった唐木細工の簪で喉を突こうとした。店の者までが、総出になる騒ぎをどうにかこうにか抑えて家に戻ろうとする長吉を、おれんは汚い言葉で罵った。

「ぶっ殺してやる。お前も、女房も、娘もみんな不幸になればいいんだ。人を馬鹿にしやがって、この野郎っ」

 これまでも、女との別れ際には、ある程度の愁嘆場を味わっては来たが、ここまで気を違えた女の姿を目の当たりにしたのは初めてだった。家族を襲われはしないか、どうしようもない恐怖が全身を凍らせた。

「おせん、ここを出ようと思うが、それでもいいか?」

 暗い庭を見つめながら長吉が言った。おせんは全てを察したような顔をしていた。うなずきながら涙を流した。

「また、すずめ長屋で暮らそうよ。あたし好きだよ、あの汚い裏店と騒がしい人達。それにね、お前さんと小梅が居れば、どこでだって、あたし、しあわせだもん」

 うつむいて顔を覆うおせんの肩を引き寄せた長吉もまた、おれんを利用したことへの後悔に、涙を滲ませていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ