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謝罪  作者: 藤原蒼未
6/8

復縁

長吉と、高橋でばったり出会ったおせんは、それから一月も待たずに、すずめ長屋を出て、長吉と小梅の暮らす海辺大工町へ越していた。

 あの日、橋の上で項垂れるおせんの肩を抱いた長吉は、見た目よりも肉を落とし、弱々しくなったおせんを、このまま放っておくわけにはいかないと、おせんさえその気なら、小梅の待つ家へ連れ帰ろうと決めていたのだが、おせんはそんな長吉の胸を押し離して、駆け出してしまった。髪結いの商売道具は、橋の上に置いたままだった。

ー困ったやつだ。

 ぼそりとつぶやき、眼を細めておせんの去った方向を見ていた長吉だが、橋に置き去りにされた道具箱を拾うと、一旦、小梅を預けてある同じ長屋のおとき婆さんの家に立ち寄ってから、小梅の手を引いて、松坂町まで歩いたのだ。いつもは一つ目橋から二つ目橋までの距離でさえ、つかれた、足が痛いとぐずり出す小梅も、母親を迎えに行くと伝えると、きゃんきゃん飛び跳ねて、驚くことに、松坂町まで、長吉を先導して歩いた。強く握り込む小さな手の温もりを感じながら、長吉は、身勝手な大人に巻き込まれた、この娘の不幸を見たような気がしていた。

 長吉は、おせんを高橋で見掛けるより前に、既におせんとの復縁を、真剣に考え初めていたのかも知れない。おせんほど呑気ではないので、離縁状を渡していないことも、もちろん承知していた。別れる気がなかったとか、おせんを紙切れ一枚で繋ぎ止めておこうとか考えたわけでなく、おせんからの申し出があれば応じ、離縁状なりなんなり書くつもりであったが、自分からおせんとの縁を断ち切ることはどうしてもできないでいたのだ。

 母と子の対面は、おせんの家の軒先で行われた。おせんは、大切な道具箱を橋の上に置き忘れてきたことを思い出すこともなく、茫然と土間の柱に凭れていた。下駄も履いたままで上がり框に腰を下ろしていたが、物が憑いたように不意に立ちあがると、長吉の胸に頬を埋めた時に、顔についたらしい白粉の香を消すため井戸へ走った。

 井戸端に蹲り、ばしゃばしゃと顔を洗っていたら、小梅に手を引かれて自分の家へ歩く長吉の姿を見落とした。長吉もまた、井戸の反対側で顔を洗う、おせんの姿は見えなかった。果たして父子は、開け放ったままの板戸から勝手に中に入った。小梅が、狭い家の中を走り廻って母親を捜したが、おせんの姿が見当たらないので、指を加えて立ち竦んでいる。二階は危ないので、小梅ひとりで梯子を上がってはいけない約束になっている。小梅に変わり、長吉が覗いたが、おせんの姿はここにもない。

「出掛けたのかな?」

 疲れたようにつぶやいて、長吉は、茶の間に仰向けに躰を倒した。その時、小梅が下駄を引っかけて外へ飛び出した。母親の足音を聞いたのだ。

「小梅……」

 顔、衿、袂を水でびしょびしょに濡らしたおせんは、脱力した様子でその場に突っ立っていた。何が起こったか、判断に苦しんでいる様子である。寝転がったばかりの長吉が、急いで立って行って、家の玄関から顔を突き出した。いつものように、鴨居に手をかけて、頭を少し曲げているが、安心したように微笑んでいる。

「小梅、おっかあが倒れちまう前に支えてやんな」

「はい」

 ぱたぱたとした足取りで、おせんに寄った小梅は、「おっかあ、さあさあ」と、白く細い母親の手を引いて家の中へ導いた。土間に入っても、おせんはまだ蒼白い顔をしていた。小梅が両手を引っ張り、「おっちゃんね」と、おせんを上がり框に座らせ、下駄まで脱がしてやった。その動作の一つも逃さぬように、おせんの涙で濡れた目は、小梅の仕草を追っていた。

「おせんちゃん良かったね、みんな帰ってきてくれたんだよ」

 小梅のはしゃいだ声に気付いたおすえが顔を涙でぐしゃぐしゃにして入ってきた。

「小梅、会いたかったよお」

 突然、襲い掛かるようにして太い両腕を上げて迫ってくるおすえから小梅は逃げ出したが、すぐにつかまった。

「大きくなったねえ、小梅」

 乳母のように面倒をみてくれたおすえに会えて、小梅も漸く嬉しそうな顔をした。くちゅぐったいと身を捩らせ、けたけた笑った。

「帰ってきてくれたの?」

 怯えた仔犬のように、おせんは上目遣いで長吉を見た。長吉はなぜ、おせんの上半身が濡れているのか分からない。訝しげに屈めながら首を少し傾げると、

「いいや」

 と、首を振った。おせんの顔が見る見る崩れ、半身を折り曲げて座り込んだ。険しい顔付きになったのはおすえである。ねりま大根のように良く育った太い腕に小梅を軽々と乗せると、何処にも行かせないよと、樽のような躰で戸口を占拠した。

「違うんだよおすえ。お前らなんか、勘違いしてねえか。おいおかめ、泣いてねえで顔を上げろ。年増が泣いても可愛くねえぞ」

 むすっとして顔を上げるおせんの前に、立て膝をついて長吉はこう言った。

「お前、俺が三行半を突きつけに来たのだと思ったんだろう。ん?」

 おせんは濡れた袂を口に押し当てて泣いた。

「俺はお前と別れる気なんて小指の先ほども持ち合わせちゃいないんだよ。……俺の店、小さな店だが、結構、繁盛してんのよ、人手が足らねえ、お前が働いてくれると助かるんだがな」

 

 あれから一月が経つ。三人が暮らす海辺大工町の表店は、以前暮らしたすずめ長屋と同じ二階造りだったが、表通りに面していることだけあって、陽当たりが良い。通りを越した先には小名木川が流れ、すぐ左手が万年橋だ。

 一階部分は店舗兼作業場に居間、なんと、小さな庭も付いている。二階の一間は寝間として使用しており、そこには縁側もあった。すずめ長屋のように、井戸や厠、物干し場が混み合うこともない。清潔で、静かで、快適な環境であったが、時に、ごちゃごちゃ騒がしい、すずめ長屋を懐かしく思うことがある。

 店を開けるのは朝四つ(十時頃)で、閉店は暮れ六つ(午後六時)と決まっていた。長吉は、一番鶏が鳴くころには目覚め、売り物を造る作業に取り掛かる。狭い作業場なので箪笥のような大きな物は造れないから、箸や、櫛、小物など、注文があればなんでも造った。

 開店までに家の掃除や洗濯物、台所仕事を終えたおせんは、昼頃までは店を手伝い、その後は二刻あまり家を空ける。おせんは髪結いを辞めていない。長吉の店は、彼が言った通り繁盛していたが、店賃だって目玉が飛び出るほど高い。いつ何時、何が起きるか分からないのが世の中だ。血の底を這うような貧乏を経験したおせんには、不幸の訪れは、突然、前触れもなくやって来ることを知っている。日に一人だけと決めて、馴染みの客の元へ出向くことを、長吉に納得して貰った。

 小梅は長吉に任せて出掛けた。以前の長吉なら、小梅を預けて外に出るのを躊躇い、おすえに世話になっていたものだが、おせんと離れた一年で、長吉は随分と父親らしく変貌した。その変わり様は小梅を見てると一目瞭然で、作業が長引いた長吉を待ちくたびれ、「先に食べちゃおうか」とおせんが飯を盛り出すと、小梅は、ちゃんを待つと言って眠い眼を擦る。一年前には見られなかった光景だ。

 湯屋へ行くときなども、おせんではなく、長吉の手を掴んで歩くのを後ろから見ていて、微笑ましく感じながらも、この一年の間に、父子が築きあげた世界に割り込む難しさに直面するとき、ふと孤独になるのだった。

「お前さん、小梅のことお願いね」

 いつもの様に長吉を待っていた小梅が居間で寝てしまった。夕飯も食べず、人形を抱き締め、親指をしゃぶっている。小梅は四歳だが、おせんと離れたころから指しゃぶりを再開したらしく、その習慣は、おせんが戻っても変らなかった。

「おう」

 膝に落ちた木屑を払った長吉は、ひょいっと首を曲げて、作業場と居間の間の鴨居を睨み付けた。うっかりしていたらしく、あと少しで額をぶつけそうになったのだ。

「なんでこう、鴨居の位置が低いかね」

「気をつけてね」

 おせんは小梅を抱いて階段を昇る長吉を不安そうに見上げていた。いつ足を踏み外して落ちてきても良いようにと、細い腕を伸ばし片手を手摺りに、もう片方を壁に貼り付けている。

 長吉が一歩段を上がると、おせんも一歩という具合に上り終え、蚊帳を吊した中に敷き述べた夜具に小梅を横たえた。汗で湿った小梅の小袖を着替えさせ、腹の上にだけ搔巻をかけてやる。足まで被せると、暑さで蹴ってしまう。腹が冷えてはいけないと、おせんはいつもこうしているのだ。おでこから前髪を撫で上げると、汗でぴったりと毛が頭に張り付いた。

「朝のうちに行水でもさせようかしらね?」

「そうだな」

 向かい側で小梅を見下ろす長吉に言った。長吉は、正座した膝を少し広げて腰を浮かすと、小梅の吸う親指を取ろうとしたが、眼を瞑ったままの小梅が慌てたように指に吸い付いたので諦めた。口だけでもの凄い力である。良く見ると、赤児がするように舌をくるりと親指に巻き付けている。

 「二つのころから指しゃぶりはしていないと思ってたんだけどな、お前と引き離されたことが、この子の負担になっていたんだろうな、悪いことをしちまった。小梅にも、お前にもな」

「そうだね」

 立ち上がり様に言い、さっさと蚊帳を潜って階下へ下りて行ったおせんの方に、怪訝な眼を向けながら、長吉は、梯子の降り口の手前に手製の柵を取り付けた。大屋に相談した上で、二階に、小梅の落下防止用の柵を取り付けたのだ。ここに越す前もそうしていた。というのもすずめ長屋に住んでいたころ、寝ぼけた小梅がふらふらと梯子を下りようとしたことがあった。寸前で抱き留めたから大事に至らなかったものの、下手をすれば命を落とす。そこで、唐木職人で手先が器用な長吉が、大人なら簡単に取り外しのできる柵を造り、取り付けたのだ。

「おい、おかめ、お前なんだよ、あの言い草は」

「なんのこと?」

 長吉が憮然として円座に座ると、おせんは首をかしげながら膝前に冷やした麦湯を差し出した。

「なんのことだと!俺が気を遣って悪かったと謝ったのに対し、お前ときたらなんだ。そうだね、はないだろう。良くできた女房ならな、そんなことは言わないよ。お前さん、悪いのはみんな、このあたしさと言うんじゃねえのかい、えっ?」

「……まあ」

 おせんは、声を立てずに笑い、掌に湯飲みを包んで膝に置いた。

「だってさ、良く考えてみたら、あたしがどんな悪いことをしたか思い当たらないのよね」

「なんだとお」

 長吉は、気の抜けた声を出した。胡座を掻いた膝が、苛立ちを表すように揺れている。歯を強く噛みしめ、苦り切った顔でおせんを見つめた。おせんは澄ました顔で茶をすすっている。

「そりゃあね、あたしには人に言えない過去があるよ。お前さんに黙ってたのも悪いと思ってるけどさ、過去は過去でしょう、戻ってやり直すことなんてできないんだ。それに、お前さんと出会ってからのあたしは、お前さん一筋で来たんだし、宗治さんのことにしたって、本気で抱かれようと思ったわけじゃないんだよ。悔しさ紛れに声に出して言っちまっただけでさ」

「ほほう、開き直ったなおかめ。宗治のことはもういい、許してやりゃ。だがな、もう二度と俺の前で奴の名を出すんじゃねえぞ、お前にその気が無くても、奴にはあったんだ。とんでもねえ野郎だ」

 やり場のない怒りを押し殺すように、長吉は拳を握りしめた。宗治とは同じ歳だが、餓鬼の頃から弟のように、弱虫の宗治を可愛がってきた。長吉の口癖だった。信頼しきっていた宗治の横恋慕を、長吉は到底許す気がないらしい。あの日を境に、宗治とは縁を切ったつもりでいた。

「それにな、おかめ」

 長吉は、やくざもんのように肩肘を膝に付けて斜に構えた。指の先でおせんの頬をついているが、表情にもう険は残っていない。

「俺と出会ってからは一筋だって言ったよな、ほんとかよ、おい」

 清水町の大屋から聞いたことがずっと胸に刺さっていた。おせんと出会ったのは九年前の暮れ、ちょこちょこ会うようになったのはそれから一月後のことだが、長吉は、そのたった一月のことを言っている。

―困った。おせんは煮え切らない態度で急にそわそわし出した。彦五郎の、凶暴に自分を殴る顔が蘇ったのと同時に、長吉に出会ってからも、約一月の間、彦五郎との生活が続けられていたのも思い出された。しかしそのことを上手く誤魔化す業の蓄えを、おせんは持ち合わせていない。額を汗で湿らせ、顔をしかめた思案顔のおせんに、長吉は続けた。

「お前、俺と出会った頃はどこに住んでたんだい?」

「どこってお前さん……知ってるだろう、すずめ長屋だよ、松坂町の覚えてないのかい。そこにあんたが転がり込んで来たんじゃないか、まっその頃は、稼ぎが薄かったから一間だけの棟割りに住んでたけどさ……」

 明らかな動揺を隠せず、おせんは茶の入っていない湯飲みを、音をさせてすすった。

「あら、入ってない」

 湯飲みの中を、片眼を瞑って覗き込んでいる。

「すずめ長屋の前だよ、どこに住んでた?一人だったのか?まさか俺と他の野郎と二股なんて、そんなはしたない女じゃあねえよな?」

 長吉はにたにたと笑い出した。いまはまだ彦五郎のことを言うつもりはないし、言及しようとも思わなかった。ただ、おせんの狼狽える顔が、今宵は妙に面白い。

「何か知ってるの……お前さん?」

 湯飲みを覗き込んでたおせんの顔色が曇った。低く小さな声で、うつむいて言った。

「いや、そうじゃねえ」

 今度は長吉が狼狽えた。すずめ長屋の前は、実家のある神田に住んでいたとおせんからは聞いていた。あの日、回向院は、両国を散策した帰りに立ち寄っただけで、両親はついこの間、病で死んで、兄弟姉妹はいないという説明を、所帯を持つ前、おせんは長吉にしていたのである。なので神田の実家というところに足を運んだことも、盆暮れにおせんの親の墓参りに行ったこともなかった。おせんが拒否し続けたのだ。神田に帰り、ひょっこり身内にでも会って、昔のことが長吉に露見することを恐れたのだろう。おせんはいつでも一人で墓参りに出掛けた。

「もし、あたしのことで、人から何か言われたんだったら、隠さず言ってよ。あたしは、あたしで言い訳したいしさ」

「ああ……」

 夫婦の間に、重苦しい空気が流れた。彦五郎のことは、冗談で終わらせられる話しでも、過去のことでもない。そのことを、おせんに伝えなければならない。彦五郎の性格を考えると、島から戻れば、必ずおせんに会いに来る気がしていた。彦五郎は執念深い男だと、あのおかまの家主も言っていた。

 長吉はいつだったか、彦五郎の実家の呉服屋を覗きに行ったことがある。柳原町にある美濃屋の前は、まあ近所といえば近所なので、昔から何度も通ったことがあるが、屋号が染められた長い暖簾は、長吉のような庶民を拒んでいるかのように隙間なく閉じ、強い突風でも吹かない限りは、ひらりともしない可愛げのないものだった。

 出入りする客の層も、大店の商家のおかみや娘、大身の武家の奥方といった、長吉がまともに口を聞いたこともない顔ぶればかりであった。中の様子を伺い知れないんじゃ仕方ない。その日、長吉はある一大決心をした。が、この決心だけは、おせんに告げず、墓場まで持って行く覚悟である。

「麦湯、入れようかね?」

 おせんは言うのと同時に立ちあがり、空いた湯飲みを乗せた盆を持って台所へ行った。

「おかめよう」

「なんだい?」

 水音を立てながらおせんが振り返った。

「守るからな、お前との生活」

 長吉は片膝を抱えるようにして言った。

「お前の実家の墓参りもさせてくれな」

「うん……ありがとう、お前さん」

 おせんは前垂れで眼をおさえていた。洟をすすり、恥じらうような笑顔で長吉に並んで腰を下ろした。

「お前さん、嬉しい」

「なんだよ、気味悪いなあ」

 肩を寄せてくるおせんから逃げるようにして、長吉は躰を少しずらした。すると、紐で繋がれているようにおせんもすっと横に動いた。「暑いなあ」とぼやく長吉を無視して、おせんは湯飲みを長吉の手に握らせた。湯飲みの中身は麦湯ではなく酒である。

 ほんの一年前までは、飲む、打つ、買うの中の打つだけを抜かした全てを満喫していた男が、生まれ変わったように仕事に専念し、酒も断ち、女遊びは?取りあえず昔のようなことはまだしていない。と、信じている。長吉への感謝の気持ちがあった。それで、今夜くらい酒を飲ませてやりたいと思い立ったのだが、ただ純粋に長吉を喜ばせたいだけではなかった。おせんには、どうしても長吉に聞いておきたい事柄があるのだ。そこで酒の力を用いようとした。

「ん……」

 と、長吉はうなり、麦湯とは異なる無色の水を見つめ鼻を近づけた。

「酒か?」

 いいのか?と、続けて聞いて、返事も待たずに長吉は酒に口をつけた。喉を鳴らし美味しそうに飲むその姿を見ていると、もう少し前に酒を飲ませてあげたら良かったと、おせんの胸に後悔のような気持が動いた。

 すずめ長屋を出てからというもの、長吉は酒を飲んでいない。大袈裟でもなんでもなく、正月に神社で御神酒を頂いたくらいだ。料理にさえ酒を用いないので、この家の中に酒が持ち込まれたのは、今日が初めてであった。

「あたしもご相伴にあずかろうかしら?」

「おう」

 おせんは長吉から湯飲みを貰って、ぐいっと喉を仰向けて飲んだ。そのおせんの姿は、長年連れ添った亭主から見ても、眩しすぎるほど艶めいていた。長吉はふと視線をおせんから外し、家の中を見渡した。おせんが来てからというもの家は様変わりした。何が増えたというのではなく、どことなく埃っぽかった家中、いつもつやつやと磨かれ、二階の衣桁に掛けられた女物の小袖や、おせんが居た場所、場所に残る女の匂いや、気配が、この家を包み込む全体の雰囲気を変えたのだろう。特に、男が見落としがちな水回り、庭に関しては、感心するほど丁寧な仕事が成されている。打水も欠かさない。長吉が、空いた湯飲みの底を覗き込んで微笑んでいる。程よい加減で酔ったのだろう。おせんは、かつてから疑問に思っていたことを聞く機会だと判断した。

「お前さん、前から聞きたいことがあったんだけどね」

「ん……なんだい畏まってよ」

「この家、小さいけど表店でしょう。店賃だって二分もするじゃない」

「すずめ長屋だって一分二朱もしたじゃねえか」

「あそこは回向院の裏だもん、こことは場所が違うよ」

 おせんは酒で火照った躰を傾け、足を崩した。

「ここの身元保証人は誰がなったんだい?」

「……」

「小商いって言っても、棚から何から造るのにも元手が要っただろう。お前さん、そんな蓄えあったの?」

「何が言いてえ……」

 長吉は、空の湯飲みを握り込んだ右手を膝に置いて、おせんを睨むように見据えた。

「回りくどい言い方をしないで、はっきり言いやがれ」

 夜中なので、流石に声は低かったが、その分、凄みが効いていた。おせんはふっと軽く溜息を吐いた。

「高橋であんたと再会したときね、匂ったんだよ、白粉が……」長吉は睨んでいた目を細めて、にやりと笑った。

「店の客の殆どが女だぞ、白粉の香が着物に移ってもふしぎなことはないだろう、なっお前」

「そうだね、確かにそうだよね」

ー空気に香る白粉が着物に移るもんか。

 微かな酔いのせいか、おせんは心で毒付いた。悪い酒になりそうだと思い、長吉の掌から湯飲みを取って、盆に返した。だが長吉はすぐにその湯飲みを持って台所に立って行った。酒のありかを探しているようだ。うろうろと上を向いたり、屈んだりしている。そんなところに入る筈ないのに、鍋や釜の蓋まで開けている。見かねたおせんが寄って行って、勝手口を開けた。酒は庭先の壁に添って置いてある。

「何で隠してんだよ」

「隠してなんかいないよ、しまう場所がなかったださ」

 長吉は、おせんの手から剥ぎ取った一升徳利の蓋を口で開け、とくとくと注ぐと、口から蓋を取って栓をした。おせんの胸に当てるように徳利を押しつけ、その場に立ったまま酒を飲み干すと、渋い顔をして胃の辺りを押さえた。

「胃の腑が痛てえと思ったら、飯を食ってねえじゃねえかおかめ」

 咎めるよりも問うような口調で言った。

「あらあら」

 おせんは慌てて干魚を焼き、味噌汁を温めなおし、沢庵を切って、里芋を煮たものを椀に盛って出した。二人分、用意し、おせんも一緒に食べた。

「さっきの話しだがよ、おかめ」

「うん」

 沢庵の音を景気良く立てて、おせんはうなずいた。蜆の味噌汁を飲んでひと息つくと、長吉は箸を置き、頭の中で必死に整理した話しを説明しだした。

「ここの身元保証人はな、その、俺の腕を見込んだ馴染みの客がなってくれたんだよ、店の元手も同じ人だ」

 普段、切れの良い話し方をする長吉が、何度もつっかえ、つっかえ話した。

「あたしの知らない人だよね?」

「そういうことになるな」

「誰かだ教えてくれない?お礼に行きたいしさ」

「礼なら済んでる」

「そう言ったってお前さん……どんな礼をしたんだい?」

「……」女房に言える礼の仕方ではなかった。長吉の、唇の片方が卑屈に歪んで見えた。

「ねえ、誰なの?」

「お前が出る幕じゃねえって言ってんだ。黙って、……黙って大人しくしてればいい」

 なんとも歯切れの悪い言い様だった。嘘を、おせんに見抜かれていると気付いているのだろう。うちひしがれたように仰向けになると、まだ新築の色を残す天上を見つめた。

「女なんだね……」

 片付けを終えたおせんが、手を拭いた前垂れを外しながらそう言うと、寝転ぶ長吉の頭の脇にぺたんと尻をついた。片脚の膝をすり上げ、足の指に触れている。今日の得意先は永代橋のたもと高尾稲荷に隣接する町だった。そう遠くもないが、近くもない。だが客の草履屋のおかみが良く喋る。苦労人で、人の良い大年増だが、痩せすぎの首に筋を立てて、際限なく話し続けるので、おせんは、予定していた帰りの時刻を大幅に遅れてしまい、駆け足で海辺大工町の店まで戻って来たのだ。その時に、足の指を痛めたらしい、小指から三本ほどが赤く擦りむけていた。

「女かい?」

 長吉は答えず、おせんの割れた裾からはみ出した赤い湯文字を掴んで広げた。頭を寄せて、中を覗いているが、おせんに気にした様子もなく、また同じ質問を繰り返した。

「女なのね、お前さん?」

 言葉を誘い出すような、やさしい声で言った。

「ああそうだよ」

 長吉は呆気なく答えた。おせんは、足の指を擦っていた手を止めると空気を肺に、これでもかというほど吸い込み、言葉と一緒に吐き出した。

「なんだってっ」

 湯文字の中を覗いている長吉の頭を思い切り張り飛ばした。眼を見開いて仰向けになった長吉の上に馬乗りになって衿を掴んで上下にゆすった。

「おいおい、ちょっと待てよおかめ」

「おかめじゃないっ!」

「おお、そうだった……なんだったかな。まあいいじゃねえか名前なんぞどうでも」

 語尾をやわらかく言った長吉の顔を、おせんは、眉を下げた情けない顔でしばらく眺めていた。力なく四肢を放りだした長吉は、おせんの眼に膨らんだ涙を、悲しげに見つめるだけだった。言い訳は通じないと観念したように、眉を寄せ、眼を逸らさずにおせんの凝視に堪えた。やがておせんの涙は、長吉の顔にぽたぽたと滴った。

「どうして、そうなの……」

 絞り出すように言ったあと、おせんは顔をまっすぐ長吉に下ろし、頬を擦りつけ、子供のように大声を出して泣きだした。杭で胸を貫かれるような痛みを覚える泣き声だった。

「おかめ、泣くこたあねえだろう。お前が泣くようなことはよう、俺は何もしてねえんだぜ。俺はお前と、小梅を生涯守って生きてゆくと誓ったんだ。なっ、泣くな……」

 翌朝、おせんは、嫌がる小梅をなだめ梳かし、ぬるま湯を張った桶の中に入れた。庭と言っても小さな坪庭だったが、そこを長吉は、自然石に水穴を彫った手水鉢の前に、前石や飛び石などを置き、板塀は袖垣で飾った。濡れ縁の沓脱石には三つ、親子の下駄が並んでいた。

「ほらね、気持がいいだろう」

 おせんは、襷掛けに尻はしょりで小袖の躰にお湯をかけている。ここまでするのに、今朝は本当に大変だった。寝ぼけ眼の小梅の寝巻きを脱がせ、おせんが下になり、手を引く形で小梅を階下まで連れてきた。そこまでは良かったが、昨夜、飯を食べないで寝た小梅は腹が減って機嫌が悪い。いつもは大好きな行水を、「入りたくない」と泣き叫んで、桶の端と端に足を突っ張るので、中に入れるまで随分苦労をした。悪戦している様子は、小梅の泣き声で充分、長吉に聞こえている筈なのに、仕事場に入った長吉は、素知らぬ顔を貫き通している。それに付け加えて、小梅が、「ちゃん助けてーっ」と叫んだものだから、おせんもいよいよ腹が立ち、小梅の頭を張って、うるさい子だねと、怒鳴りつけた。それでも長吉は、関わろうとしなかった。

 小梅の行水が終わると、障子を全て閉めきって、おせんは小袖を脱ぎだした。小梅があまりに暴れるので、おせんの小袖は下着までびしょ濡れになってしまったのだ。障子を閉める際、店の方をちらと見たが、ぱっと見、長吉の姿は見えなかった。お前さーんと、通りまで聞こえる声で呼び掛けたが返事がない。床の木屑も、造りかけの箸も、今朝、おせんが起きた時のままのような気がする。どこかへ出掛けたのかと、多少の不安に揺さぶられながらも、身支度を整え、忙しく小梅を着付け、髪を梳き、飯を食わせた。

「ちゃんは?」

 何度も聞く小梅に、おせんの苛立ちが募った。

「仕事だろう。ささ、早くお食べよ、お父っつあんが留守の間、おっかあが店に出なくちゃならないんだからさ、のんびりなんてしてらんないんだよ」

 小梅の頬についた米粒を食べながら、あーっ忙しい、忙しいと、自分の食べた茶碗を片付けた。

ーあの人、どこまで行っちまったんだろうね。

 狭い店内が一望できる居間の上がり框に腰掛けて、頬を肘に乗せ、風が吹くたびに翻る暖簾の隙間から、通りを行き交う人々や、通りの向こうに流れる小名木川の、初夏にしては強い照り返しに目をやりながら、茫然としていた。

 この一月の間に、長吉がこれと同じ様な行動を取った日が一度だけあった。昼前にふらっと店を出て、昼過ぎに戻って来るのだ。

「あんたどこに行ってた?」

 と、おせんが咎めると、「朝風呂だよ」と長吉は言う。うっすらと笑みを浮かべているが、おせんの視線を避けるようにして注文の作業に取り掛った。昼過ぎと言えば、おせんが出掛ける時刻なので、深く問いただすこともできずに、道具箱を抱えて慌ただしく店を出るしかない。また長吉は、その時刻を計ったように帰って来るのだ。

 仕事から、家に戻るころには、夕餉の仕度もあるし、そのころになると決まって店は忙しくなる。陳列された商品を触ろうとする小梅を叱りつけながら、客の対応に追われていると、すぐに日も傾き、人の影が伸びる時刻になる。店から居間に戻り、玄関を出て物干し場から洗濯物を集め、二階に駆け上がって、取りあえず乾いた衣服はそのままに、夕餉の下準備を終わらせてしまう。普通はそこで湯屋へ行くのだが、思いの外、作業に手間取り、お天道様の明かりを頼りにできなくなると、真暗になる前に夕餉を食べ終えた。その後で、親子三人で湯屋へ行く。

 昨夜もその成り行きだった。長吉がもう少し気を遣って夕飯の時刻には居間に上がってくれると、飯も食わず、湯にも入らず小梅が寝てしまうなんてことにはならないのだがと、愚痴がおせんの頭を掠めるが、それを口に出したことは、いまのところない。好きな酒も飲まず、仕事に専念してくれるのに、文句を言っては罰が当たると思ったからだ。

ー惚れてしまったら、だめね。

 などとつぶやき、一人で笑った。昨夜の喧嘩のあとの、夫婦の仲直りを思い出したのだ。濡れた肌を交えてから、まだ湯屋には行っていない。通りから、店内を覗き込む人がいないことをいいことに、おせんは胸を少し広げ、衿の中に顔をうずめて昨夜の甘美を嗅いだ。

「何をやってるのかしら」

 とすぐに衿を戻し、小梅に見られていないかと、居間に振り向くと、小梅は延ばした脚の上に大人向けの草双紙を広げてぶつぶつ言っていた。

 不謹慎な挿絵のない本なので、小梅はそのまま放っておいて、おせんはまた昨夜のことを思い出していた。深く息を吸い込むと、自分の躰に残った長吉の体臭が、肌にだけでなく、体内にも入り込んで来た。

 昨夜は恥じらうことも忘れ、夢中になって互いを求めた。長吉に、上手く誤魔化された気がしないでもないが気にしない。昇りつめる寸前、大きく躰を反らした。その時、淫らに悶える自分の姿が、行燈の灯りを通して、居間の壁に、くっきり映し出されていたのを見たような気がする。

ー恥ずかしい。

 今更、羞恥が湧いてきた。両手で顔を覆い、昨夜のふしだらを自ら咎めた。すると突然、言い様のない不安に締め付けられた。自分にしたように、他の女にも同じことをしているのではと想像した。想像は膨らみ、おせんの頭の中で具体的に描かれた。組み伏せる長吉の下には、大勢の女の顔が入れ替わった。多種多様な顔ぶれである。

ーもう、いや……。

 首を振って邪気を払うと、ふっと大きな溜息が出た。

ー女かしら、やっぱり。

 生まれついての物憂い顔の目がつり上がったとき、おせんは拳を握りしめて立ち上がっていた。どんどんと床を踏みつけるようにして外へ出ようと軒先の暖簾を上げた。大屋に、うちの身元保証人を聞いてしまおうと決心したのだ。

「あらっごめんなさい」

 頭に血が登っていて、暖簾の向こうに人がいることに気が付かなかった。出会い頭にぶつかってしまった。

 鼻を押さえ、二歩ほど後じさりして前を向いた。胸の辺りが見えた。痩せた薄い胸をした男だった。長吉は痩せているが胸板は厚く四角い印象を持つ。匂いも違う。

 前に立つ痩せた、撫で肩の男の顔を見ないでも、全身の血が下に落ちて行くのを感じた。恐怖で凍り付いた躰を両腕で抱えるようにして、また二歩下がり、少しづつ顔を上げた。男はにやりと微笑んだ。

「久しぶりだな、お夕。いや、おせん」

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