過去
あれから一年が過ぎ、本所深川に、また賑やかな夏がやって来ようとしていた。風の便りに、長吉が、万年橋の向こう、海辺大江町の表店に小さな店を構えたと聞いていた。あの日、長吉と小梅が出て行ってからも、ずっと松坂町のすずめ長屋を動かなかったおせんは、いつか小梅が一人とことこと訪ねて来てくれることだけを祈って暮らしていた。
いつかまた一緒に暮らせる日が来る。儚いようなおせんの希望は、小梅との血の繋がりだけを頼りとしていた。
「おすえさん、お願いね」
おせんは毎日こう言ってから仕事に出る。もし小梅が訪ねて来たら、家に入って待つようにと頼んでいるのだ。家の中には、小梅のために買った玩具や、菓子をいつも切らさず用意していた。
長吉と小梅の住む海辺大工町までは少し距離があるが、そこへ越す前、二人は、亀沢町に住んでいたと聞いている。亀沢町と松坂町は、細川若狭守の屋敷を挟んだだけの距離である。そのことを聞いた当時、おせんは飛び上がって喜んだ。また三人で暮らせる望みが、消えていない気がしたのだ。
海辺大工町へ長吉が移り住んだのは、ほんの一月前のことだと、人伝えに聞いた。眼と鼻の先の亀沢町とは違い、橋を二つも超えなければならない場所なので、四歳になったばかりの小梅が、母を訪ねてすずめ長屋に来ることは絶望的に思われた。それで少々寂しく気落ちはしたが、おせんは自分を奮い立たせるようにして、とにかくきびきび働いた。
長吉と別れて一月ほど経ったある夜、宗治が突然、家の戸を叩いた。
「俺だよ、おせんちゃん、開けてくれないか、大事な話があるんだ」
宗治の声は、切羽詰まって聞こえた。もし戸を開けてしまえば、長吉と小梅との生活をという、一途の望みが経たれてしまう気がしていた。行燈の火を吹き消して、息を殺して部屋の隅で蹲っていたが、やがて宗治のすすり泣きの声が聞こえてきた。
「おせんちゃん、話しがしたいんだ」
宗治の声は小さかったが、それでも隣近所に聞こえたら具合が悪い。おせんは灯りの消えた部屋の中を、這うようにして土間まで下りると、板戸越しに宗治に呼び掛けた。
「宗治さん、どうしたと言うの、一体」
「どうしたって、……おせんちゃん俺と一緒になってもいいって言ってくれたじゃないか。長吉が小梅を連れて出て行ってしまったのは残念だったが……あんな亭主と別れられたんだ、なっ二人で生きていこう……開けてくれないか、おせんちゃん……これからの話しがしたいんだよ」
身震いがするほどの恐怖を覚えた。宗治がまさか、ここまで思い詰めているとは夢にも思わなかったからだ。唯の酔っぱらいの言葉だと、特に思い出すこともなく日は過ぎていた。
「宗治さん、もう遅いから、今日は帰って」
「遅いって、まだ日も暮れていないじゃないか……おせんちゃん、俺が嫌いになったんだね」
「何を言ってるの宗治さん、もうとっくに夜中じゃないの」
「おせんちゃん、開けてよ」
宗治はそう言うのと同時に戸を激しく叩いた。正気じゃないと思った。酔っているのともまた違う気がする。酷く戸惑ったが、隣近所の眼を気にしたおせんは、宗治を入れてやることにした。
「開けてもいいけど、明日も早いからすぐに帰ってくれる?」
「分かってるよ、おせんちゃんの顔が見たいだけなんだ」
「乱暴なことしないでね、宗治さん」
「大好きなおせんちゃんに乱暴なんてするわけないだろう」
その言葉は、おせんの背筋を寒くした。宗治が嫌いなわけではないが、男として意識したことなどない。あの夜の酒屋での出来事だって、酔った勢いで吐いてしまった言葉であって、宗治の方も、遊びを愉しんでいるだけだと思っていた。まさか本気で、小梅を引き受けて、おせんと所帯を持とうなどと考えているとは、露とも思わなかったので、今夜この時まで、宗治のことは頭から抜け落ちていたのが正直なところだ。
「今、開けるわね」
心張り棒を外す指先が震えていた。掌にしっとりと掻いた汗を股の辺りで拭いてから、棒を外した。その棒を左手に握って背後に隠すと、板戸を開けた。すぐに宗治の胸が土間に入り込んできた。恐怖を感じた。宗治は後ろ手で勢い良く戸を閉めると、心張り棒を探るような手付きでおせんの腕を引き寄せた。おせんの躰は固定されたかのように硬くなった。すぐに開けてしまったことを後悔した。死の恐怖さえ感じた。宗治に、おせんを気遣う様子はない。荒っぽく、おせんの手から棒をひったくると、素早く心張り棒をかっておせんを抱き寄せた。背が高く、胸板の厚い宗治の胸に、おせんの顔は埋まって息苦しいほどであった。
「宗治さん、痛いの……」
「ごめん」
宗治は急に照れくさくなったのか、顔を背けておせんを引き離すと、上がり框に腰を下ろし、膝頭に腕を乗せ、絡めた指先を見つめた。
「親に勘当されちまった……」
宗治はつぶやく様な声で言った。
「勘当されたってどういうこと?」
おせんは突っ立ったままで聞いた。抱き寄せられた時に乱れた前を合わせ、後れ毛を撫でつけた。
「おせんちゃんと一緒になりたいって言ったら、あんな……とんでもないって騒ぎ出して……」
宗治は言い難そうに、どもり、どもりそう言った。月を隠していた雲が動き、茶の間の障子の隙間から射した、白い月明かりに浮かび上がった宗治の容貌は、おせんが一瞬、息を飲むほど様変わりしていた。頬がそげ落ち、蒼白く血の気を失った肌は荒れているように見える。口の廻りを、それまで見たことのない吹き出物が痛々しく覆っていた。
「あたしのこと話したの?酌婦をしていたこと……」
うんと、宗治は首を落とした。
「正直に全てを話した上で、おせんちゃんのことを受け入れて貰いたかったんだけどな、うちの親が、ああも下らない体裁を気にするとは思いもしなかったよ」
宗治は言い終わると、フフフと、悲しい笑い声を立てた。親のない子や、貧乏な家の子に食事や衣服を提供して、町の人から敬われている両親を、宗治はいつも自慢していた。まさか、おせんの過去を聞き、そのことを理由として、おせんを拒否するとは想像しなかったのだろう。宗治の両親と面識のあるおせんとしても、宗治の狼狽は当然のようにも思えたが、それでいて、息子の将来を思う親心は充分、理解できるものだった。
おせんは軽くうなずいて、宗治の隣りに腰掛けた。さっきまで抱いていた、宗治への恐怖に似た感情は薄れていた。長い脚の中に上体を埋め込むようにして項垂れる宗治が惨めで哀れだった。
「宗治さん、あたしとのことはもう……」
そう言ったとき、宗治が顔を上げておせんを見た。すぐに宗治は視線を外したが、真横から近づいて見ると、宗治の眼の下には、隈ができ、眼だけが大きな二つの空洞の様に見えた。何がここまで宗治を追い込んだのか、おせんは記憶を手繰るようにして考えてみた。膝を抱き込んで考えあぐねいていると、宗治がいきなりおせんの肩を掴んで押し倒した。おせんは激しく抵抗したが、男の腕力に屈服した。普段の宗治からは想像もできない力で組み敷かれ、どうにも身動きがとれない。口を吸われまいと必死で顔を左右に振って逸らせたが、声を出して人に助けを求めることはできなかった。そんなことをしたら、宗治はきっと死ぬだろうと思ったからだ。
「宗治さん、こんなことをしてもだめよ、もっと悲しくなる」
引き裂くように開かれた胸に顔を埋められた時、漸く言葉を発することができた。
「ごめん……」
激しく胸元をまさぐっていた手や、唇の動きが止まり、宗治は両腕をおせんに絡めるようにして抱き締めると、躰の重みを預けたまま泣きだした。四半刻ほどそうしていたが、ふいに何かが吹っ切れたように宗治は上体を起こした。
「おせんちゃん」
以前のようなやさしい声音で宗治は言った。
「俺ではだめなのはなぜかな……それだけ聞かせてくれないか?」
洟をすすり、僅かに上を向いていた。頬を伝う涙の筋が、月明かりに光って見えた。おせんも躰を起こして衿や裾を掻き集めると、宗治の少し後ろに膝を折って畏まった。
「長吉のことが忘れられないのかい?」
宗治は振り向くと、床に片手をついて、おせんの表情を注視するように見つめた。
「あんな好色な男が好きなのか、あんたの過去に拘り、自分は浮気を繰り返す癖に、おせんちゃんが、たった一度、俺と酒を飲みに行ったことが赦せないと喚き散らすような度量の小さな男に、おせんちゃんはまだ惚れているというのかい?」
宗治の声は、穏やかに室内に響き渡った。言われたことは尤もだと納得したが、長吉には、長吉にしか分からない拘りがあのだろうと思っている。親方を殴り飛ばしてまで、自との生活を選んでくれた長吉に感謝している。赦されることなら、また元の暮らしに戻りたいと心から願った。
おせんは、涙を流しながら宗治の質問に応えた。
「小梅がいるからね……」
おせんは、宗治を傷付けまいとした。長吉と別れられないのは、長吉を未だ愛しているからではなく、小梅を捨て切れないのだと、宗治に説明して聞かせた。宗治も納得したような笑顔を見せた。
「そうか、小梅か……」
悪かった、家に戻ると言って、去って行った宗治とは、その後、顔を合わせたことはない。風聞さえ聞こえてこなかった。
「おせんちゃんに、いい話しがあるんだけね」
得意先を巡っていると、こういう話しはしょっちゅう持ち上がった。呆れたことに長吉が家を出て半月もしないうちからこういった類の、いわゆる見合い話は、どこからともなく沸いて出た。今日もまた、同じ言葉を囁かれた。つき屋のおかみ、おこうからである。
「独り身になって一年も経つんだからさ、そろそろ誰か新しい人と所帯を持ったらどうだい。おせんちゃんだって、もう二十六になるんだろう、あっという間に姥桜だよ」
「はあ」
「それともあんた」
おこうは、幾分肉付きの良くなった腕を廻して、おせんの腰の辺りをぽんと叩いた。
「動かないで下さいね」
おせんは呆れたように言った。
「はいはい。あんたまさか、まだあの亭主に未練があるんじゃないだろうね。酒飲みの女たらしだったんだろう、噂だよ。いまはどうか知らないけどさ、やめときな、ろくなもんじゃないよ」
「ええ」
おせんの溜息のような相槌も、気遣いという言葉とは無縁のおこうは気が付かないらしい。続けて早口で捲し立てた。
「浮気もんの分際で、女房が男と酒を飲んでいただけで三行半を叩き付けるなんてねえ、酷い話しだよ。聞いたことがないよ。何考えているんだろうねえ、娘まで奪ってさあ。あたしゃ赦せないね、あんたの前の亭主」
ー三行半……。
髷を結うおせんの指先が止まった。両手をおこうの頭の上に置いたままで、茫然と、鏡に映る自分の顔を見ていた。
「おせんちゃん、どうしたんだい?」
「おかみさん」
「ん……?」
おせんは腰を落とすと、膝でにじっておこうの横に座り、おこうの、ぽにょぽにょと肉付きの良くなった手を握った。
「だめですおかみさん」
「なっなんだよ、いきなり」
「あたし、まだあの人の女房なんですもの」
ー今までなんで気付かなかったのだろう。
おせんは自分の馬鹿さ加減に涙を流していた。涙といっても悲しい涙じゃない。未だに長吉の女房だということが分かった歓喜の涙であった。おせんは道具箱を胸に抱え、一目散に海辺大工町を目指して走った。しかし高橋にたもとに差し掛かったとき、おせんの足は速度を緩めた。この橋を越えれば、長吉と小梅の住む町はすぐそこにある。
ーでも……。
と、弱気な妄想が胸を支配した。ここはお前の来るところじゃないと、無下に追い返されるかも知れない。もしかしたら、もう新しい女がいる可能性だって充分ある。馬鹿みたいにはしゃいだ自分が急に惨めになった。
―小梅。
心でつぶやき、小名木川の向こう岸を見つめた。渡りたい、しかし、この緩やかな勾配は、渡ってはいけない気がしてきた。川の向こう岸に見える町並みは、おせんが入ってはいけない領域なのかも知れない。呑気な長吉も、三行半のことなどすっかり忘れていただけで、おせんに会えば、「おうおう、しまったな忘れてた。すぐに書くから待ってな」なんてあっけらかんと言うんじゃないか。
ーあり得ない話しではないな。
迷子のように、小さな橋の、欄干もない橋板に蹲って川面も眺めていた。時折、通りすぎりる人に奇怪な眼で見られていることは気付いていたが、人が自分をどう思うことなど気にしている心境ではなかった。川の流れは緩やかで、翡翠色の水草が川底で揺れていた。柳や、桜の梢が水面に映り込み、さらさらととした水の流れに反射して、鮮やかに光り輝いて見えた。眼を上げると、大川を行き交う数隻の舟が、煌めくしぶきを上げている。夕暮れ時になれば、両国の花火を見に行く人々を乗せる舟が通るのだと思うと、昨年の悪夢のような出来事が鮮明に、おせんの瞼に浮かんできた。
「おばちゃん道具箱が落ちるぞ」
馴れ馴れしく話しかける声がある。おせんの躰が石のように固まった。
「聞こえねえのかな?」
「……」
親しんだ声だった。懐かしさに、おせんの心が温まっていった。膝をきつく抱き込み、瞼を閉じた。
「しばらく会わねえ間に、顔だけじゃなくて耳まで悪くなったか?」
「……」
相変わらず、口の減らない男だと思いながらも、腹は立たなかった。もっとそうやって憎たらしいことを言い、一年の空白を埋めて欲しいと思っていた。
「顔、頭、耳、悪いのが三拍子揃っちまったな」
嬉しさが込み上げたが、おせんはこの一年で後ろ向きな性格が身についてしまったらしい。再会の嬉しさよりも、長吉の、いまの生活を覗くことへの恐さが先立って、なかなか顔を上げられないでいた。
「おせんさんよう、久しぶりだな」
隣りに腰を屈めた長吉が、肩を軽くぶつけてきた。違和感と、喪失感に襲われた。長吉が、おかめではなく、おせんと呼び、しかもおせんさんと敬称までつけてくれたからだ。「少し痩せたか、ん?」
前を向いたまま膝を抱いて固まるおせんの後れ毛を、長吉は、馴れた手付きで撫でつけた。ふと袂から白粉の匂いが香ってきた。おせんは泣き笑いをして顔を、膝と胸の間に押しこんだ。
「どうしたおせん、小梅に会いに来たんじゃないのかい?」
「ええ」おかめと呼んで欲しいと思ったのは初めてだ。
殆ど消え入りそうな声でおせんは答えたが、首は横にふっていた。
「どっちだよ、一体、会いに来たのか、そうじゃねえのか?」
長吉は笑いながら言った。
「どっちもよ」
おせんはうつむいたままで答えた。やっと目を開けることができた。横目で、隣りを見ると、長吉の足の先が見えた。見覚えのある雪駄を履いていた。お鶴の部屋にあった雪駄だと、すぐに分かった。絶望という言葉が、おせんの頭に取り憑いた。
「そうか……」
「小梅はどうしてる?」
小梅の名を口にした途端、胸が苦しくなり、涙で水面が滲んで見えた。泣くのを堪えようとして、喉の奥が痛くなった。
「元気だぜ、お前に会いたがって大変だったが、ようやく最近は夜泣きもしなくなった」
「……」
「おっかあに会いてえとよ、一年たってもしつこい女だぜ、小梅は」
「あたしも小梅に会いたい……」
とうとう嗚咽を漏らして泣き崩れるおせんを、長吉は胸の中に抱き入れた。噎せるような白粉の匂いも、おせんは気にしないで泣いた。
「悪かったな、お前と小梅を引き離すようなことをしちまってよ。でも、あのとき、俺はああするしかななかったんだ」
「もういいの」
「それでよ、お前のとこに行かなきゃなんねえと思ってたところだ」
小刻みに震えていたおせんの躰がまた地蔵のように固まった。
ー去り状だ。
やはり来なければ良かったと、そうすれば、あと少しの間だけでも復縁の夢を見れたのにと、放心するおせんの肩を、長吉は何度も揺すり、大丈夫か?と聞いていた。
一年前おせんを残してすずめ長屋を出た長吉は、唐木職の親方の家を間借りさせて貰っていた。親方には子供がなく、狸のような風貌には似合わない、美人のおかみさんと二人暮らしだった。共に五十は優に超えた老夫婦だが、長らく不仲だった長吉の訪れを喜び、厚遇してくれた。おかみさんなんかは、小梅の小袖の布地を買い込んだでは、一月という短い期間に四着も縫いあげてしまったほどだ。
「遠慮をせずに、もう少し居ればいいのに」という言葉をはね除けて、親方の家を出て来た理由は、親方のおせんに対する酷評を聞いていられなかったからだ。おせんとは、嫌いで別れたわけじゃない。最初は堪えてきたものの、
「俺のいうことを聞いてれば、こんなことにならなかったんだと」
と、おせんが生んだ小梅を、まるで、でき物のように一瞥したのには憤った。親方が、一体、何処で、どういう風におせんを知ったのか、おかみさんの前で、ぶちまけてやりたい気持にさえなった。しかしそれは、おせんを尚更、汚すことになる。「ご高慮に感謝します」とだけ言って、親方の家を出た。新しい住み家が決まっていたわけじゃない。親方を通して請け負った注文が多く、それらを仕上げるのに手間取い、思うように家捜しが出来なかった。
家なしの父子が当てもなくふらふらと町を歩いていると、相生町のあたりで、ある女に出会した。秋だというのに、夏日のような強い日の照りつける日だった。その女は無地の舞踊傘を日傘代わりに差し、白い呂の着物を粋に着こなしていた。緋色の手巾で額の汗を拭いながら、瀬戸物屋の軒先で、ありとあらゆる商品を手に取って眺めていた。女はお鶴である。長吉はそっと、廻れ右をして逃げようとした。が、後ろから、「長吉さ~ん」と背筋も凍る声が追い掛けてきた。それでも無視して歩いていたら、「もう、待ってよ長吉さん」と大声で呼び掛けるものだから、人目を気にし、仕方なく振り返った。
「よっ」
「うん、もう、つれないんだから」
お鶴は派手な手巾をひらひらと揺らして駆け寄ってきた。知らない仲じゃあるまいしと、と、芸者のような手付きで長吉の袂の端を掴んで躰ごとくねくね揺らし、それに飽きると今度は、長吉の手を取って弄び、日傘を小脇に抱えると、指先で長吉の胸に何かをなぞり、「もう、どうして会いに来てくれなかった」と、若い娘がするように足を踏みならして、頬をふくらませた。これをものの一分足らずで全て遣って退けるのだから、長吉も、幼い小梅もあんぐりだ。
「家を出たんだって、嬉しい」
仕草とは異なる酒焼けの声を甲高く上げて喜んだと思ったら、腰をかがめて小梅に挨拶をした。忙しい女だ。
「ここじゃ暑いわよね、ささ、どこかで心太でも食べましょう」
小梅はお鶴を酷く警戒したように長吉の脚を抱き込んだ。その脇から顔だけひょっこり付きだして、見知らぬおばさんを睨むような目付きで覗き見た。
「小梅ちゃんでしょう。おばちゃんを怖がらないで」
お鶴は、いやがる小梅の手をむりやり引っ張って歩き出そうとした。
「おいおい、そんなことしたら、こいつはもっと怖がるぜ」
そう言いながら、長吉はどうにかこうにか、小梅を助け出し腕に抱いた。
「それよりお鶴さんよ、俺が家を出たこと、それに、こいつが小梅って名、何で知ってるんだ?」
「風の噂だよ、気にしないで……」
「風……うわさ?」
ー気にしないでって言われてもな。
疑念に思っていたことを、やっと聞き出した時、長吉たちは、回向院境内の水茶屋にいた。お鶴がどうしても回向院でと言うので仕方なく寄ったのだが、回向院は、おせんの暮らすすずめ長屋と、土壁ひとつ隔てただけの場所にあり、まだ一緒に暮らしているとき、小梅を連れておせんはしょっちゅうここに参詣に来ていた。
ーここは良くねえな。
漸くその事に気付いたのは、小梅が、心太ではなく、みたらし団子の餡で、顔中べとべとにした時だった。おせんはこれがいやで、串から団子を全部取って、皿から一つづつ小梅に突きさせて食べさせていたことも思い出した。
お鶴の無駄口を聞きながら甘酒を飲み、ふと小梅に眼を落とした時はぎょっとした。どういう食べ方をしたらこうなるのかと、首を傾げたくなる程、小梅の顔が汚れていたからだ。餡のついた皿を舐めている小梅を叱り、後ろから抱きかかえ、小梅を手水舎まで運んだ。手と顔、それに前髪までもがべとべとに汚れていたので丁寧に洗っていると、その背後から、お鶴が話しかけてきた。娘の前で、しかも回向院で、お鶴に寄り添って欲しくない。かなりうっとうしい気分になりながらも、お鶴の話しに耳を傾けたのは、お鶴が、「実は、あんたの女房と会ったことがあるんだ」と悪ぶれた風もなく言ったからだ。
お鶴の家で女中をいている若い娘がいるのだが、その娘に指示して、長吉のことを調べさせると、おせんという名の女髪結いが長吉の女房だということがわかり、おせんが、つき屋のおかみと昵懇だとも知り、好奇心の湧いたお鶴は、悲しい小芝居をしてまで、おせんを自分の家に呼びつけた。その後の詳細を聞きながら、長吉はお鶴を殴りたい衝動を必死に抑えた。そんな長吉の心情はお鶴に通じたらしく、お鶴は珍しく萎れたような顔になっていた。元もと小柄で細身のお鶴がしょんぼりと頭を落としたのを見た時、悪人はお鶴ではなく自分なんだと悟った。別れ際、お鶴は、
「長吉さんとはもう二度と会うことはないね、身勝手なようだけど、あたしのことはきっぱり忘れておくれな」
と、さっぱりとした口調で言った。お鶴とは、それきり会っていないが、しばらくして、お鶴の元で働く娘が、親方の店まで雪駄を届けにきた。それを親方から受け取った時、気の強いまなこを伏せ、強張った笑顔を見せたお鶴の去り際の姿が思い出され、長吉は、物悲しさを覚えた。涙が落ちる前に躰を翻し、手に下げた舞踊傘を差すことも忘れたように、小走りに、まだ日差しの強い町中へと去って行ったお鶴の哀愁が、痛い想い出となって、長吉の心に突き刺さった。
回向院でお鶴を見送ると、長吉はとてつもない罪悪感に襲われた。二人の女が、長吉の知らない空間で、涙を流していたことに、全く気付くことなく、一人戯れていた大馬鹿者
だと、自分を散々罵った。回向院から小泉町へ出て、武家屋敷の下見板張りを望みながら歩いていると、右手に、かつておせんと暮らしたすずめ長屋の粗末な板壁がある。長吉は、首が左にしか廻らない人のようにして、小梅にいろいろと話しかけていたが、板壁の向こうから、聞き慣れた子供達の笑い声や、掛け声が聞こえてくると、それまで、若く凛々しい容姿を持った武家屋敷の門番に眼を釘付けにしていた小梅がふっと板壁に振り向き、長吉の手を強く引いた。
「なんだ、小梅つかれたか?」
長吉はわざと小梅の訴えに気付かぬふりをして、手をこちらに引き戻して歩こうとしが
「ちゃん……おっかあ……」
小梅は両手で長吉の手を握りしめ、足を踏ん張って首を振っている。その手が熱かった。そろそろ昼寝の時刻なのだ。眠くなると小梅はぐずりだす。長吉は、小梅の要求には答えず歩き出した。すると小梅が手を離し
「おっかあ……おまんま……」
と、叫び出した。小梅は三つだが、言葉の発達が少し遅いような気がする。こましゃっくれた同年代の女の子に比べ、発する単語の数が極めて少ない。長吉は速度を緩めずに歩き続けた。
「うっ……うっ……おっかあ、おまんま」
長吉が、小走りで追い掛けてくる小梅の声に振り向く刹那、小梅が転んだ。運悪く、昨夜、降った雨でぬかるんだ水溜まりの手前で転んでしまったようだ。両手を差し出して走ってきたのだろう。地に手を付くこともなく、小梅は腹から水の中に落ちていた。
「小梅、大丈夫か?」
駆け寄ると、ぶはーっと息を吐いて小梅が顔を上げた。口から泥水が流れ出し、凄い顔になってる。
「なんで、わざわざ水溜まりの手前で転ぶかねえ」
小梅は当然、火が付いたように泣きだしたが、抱き上げた長吉ではなく、おっかあと、と、すずめ長屋の傷んだ板壁を指さして泣き叫ぶものだから、惨めな長吉の眼も潤んできた。住むところどころか、小梅に昼寝をさせる場所も探せないでいる己の不甲斐なさと、泥だらけになった娘が不憫だったし、生まれ育った江戸を、こうも寂しく、無情に感じたことはない。しかし長吉にはまだ実家という最後の砦がある。身寄りのないおせんは、然も、心細い思いで暮らしているのだろうと思うと、小梅と一緒に、声を出して泣きたいくらいであった。
ーいま引き返せばまだ間に合う。
そう思ったとき、人の良い風采をした男に声を掛けられた。亀沢町の裏店に住む魚屋の佐介だった。その縁で、長吉は亀沢町に住むこととなったのだ。
すずめ長屋と眼と鼻の先の亀沢町に住み始めてから、長吉は、たびたびおせんの姿を眼にしていた。といっても偶然ではなく、雨降りを狙っては、おせんが仕事に出掛ける時刻を計って待ち伏せた。蛇の目傘で顔を隠し、相生町の角で、道具箱を抱えたおせんが通り過ぎるのを待つのである。そういう時、小梅は、佐介の女房のお吉に預けて出た。貧乏所帯なのに、二十二を頭に子供を十一人も産んだお吉は、四十すぎの痩せた女だが、亭主同様、人が良くて子供好きだ。安心して預けられたし、小梅も喜んでお吉の二歳になる末子と遊んだ。
これまでおせんが、長吉の待ち伏せに気付いて振り返ることは一度もなかった。理由はおせんの段取りの悪さである。出掛ける寸前になるとおせんは決まって、あれがない、これがないと騒ぎ出す。なのでいつも刻限ぎりぎりになって、慌てて家を出るという始末だ。雨の日などは傘を片手に高く持ち、短めの丈に着付けた小袖の裾を蹴るようにして、脇目を触れず走って行く。長吉は、おせんの下駄が遠くなるまで、じっとおせんに背を向けていた。通り過ぎたのを確認してからそっと傘を上げて快活な、おせんの後ろ姿を見送り以前と変わらない様子に安堵するのだ。
所帯を持つ前のおせんは、長吉にとって、その名を聞くだけで動悸が高まり、食事もできず、痩せ細るほど胸を焦がした女なのである。そんな憧れのおせんと一緒になってからも、好色な長吉は浮気を度々繰り返した。だからといって、おせんに飽きるわけではない。時たま、他の女の肌に触れるからこそ、おせんへの愛情は絶えないのだと、長吉は身勝手な持論を持っている。歪んではいるが、長吉はおせんを愛していた。そして母となった女は聖母だと崇めた。その聖母か、菩薩か知らないが、心の広い女房は、長吉の浮気は必ず赦す。母となった女は、妻と母、この二つの顔しか持ってはならないと信じ込んでいた。ゆえに、宗治とのことが赦せないのだ。
長吉は、おせんの過去を探ったことがある。それは昨年の夏、おせんを置いて家を出てから二月ほど経ったある日のことである。長吉は、小梅の手をひき、時には抱いたり、おんぶったりして、自分と出会う以前のおせんの生活を追ってみた。いずれ夫婦が遣り直すとしても、その前に、おせんのことを、充分に知っておきたいという気持が働いたからだ。おまず手初めに、長吉が訪れたのは、おせんが努めていたという花町の料理屋だ。大店ではないが、派手な造りの店で、裏では女中に淫売をさせているという噂の店だった。親方からこの店の名を聞いただけで、長吉は親方を殴るべく拳を堅くしていたので、この店の裏家業は有名で、殆ど淫売宿と変わらない店だということを知っていた。
長吉は店の裏手に回ると、勝手口の外で、大きなたらいの前に屈み込み、一抱えもありそうな菜を洗う年寄りの女中に手招きした。最初、女中は怪訝な目付で長吉の上から下まで眺めていたが、小粒を握らせると、躊躇はさっさと捨て、梅干しのようにしぼんだ口を開きだした。
長吉は、人目を避けるように路地の奥まで女中を連れて行くと、おせんが働いていたと思われる時期、年格好などを説明した。
「ああ、お夕ちゃんね、間違いない、それはお夕ちゃんだよ。確かあの子がここへ連れられてきたときの名はおせんだったと思うよ」
「本当か、婆さん。人違いじゃねえな?」
「あたしゃ、歳はくってるけど、記憶だけは自信があるんだよ。そうそう……」
女中は長吉の足に絡みつく小梅に眼を落とした。
「この子のような、大きな切れ長の目をしていたよ。ほらっ、こうやって、初めて会った人を睨むように見るんだよねえ。娘かい、お夕の?それじゃあ、あんたはご亭主かい?」
女中は皺だらけの顔に薄気味悪い笑みを浮かべると、親指を立てて見せた。
「あっああ……そうだよ」
長吉は小梅に飴を渡し、近くにあった酒樽に乗せた。
「お夕のことならなんでも聞いとくれ」
と、前のめりに曲がった背をむりに仰に反らせて、自信ありげに言った女中は、いまでこそ老いぼれだが、昔は売れっ子の酌婦だったと自慢気に語った。そのあと、漸くおせんの話しをしてくれた。
女中によると、おせんは、十五の時、この料理屋に奉公に上がった。おせんは多くを語るのを嫌がるが、店のおかみから伝え聞いた話しによると、おせんの実家は神田。親は裏店で草履屋を営んでいたらしい。おせんは四人弟妹の長女で、弟の誕生までは一家の暮らし向きは悪くなかったらしい。贅沢こそはできないが、親子は慎ましく、笑い声が絶えなかったと、裏店の中でも評判が良かった。しかし弟が、二つころから胸を患い、時に発作を起こすほどの病弱で、暮らしは一転、苦しくなるばかり。医者にかかるたびに借金が嵩んでいった。
悪いことは続くもので、働き頭の父親が卒中で呆気なく逝ってしまうと、次女、三女の二人が疱瘡を煩い続けて死んだ。残ったのは母親と病身の弟だけだったが、高利貸しの取り立ては容赦なかった。弟や、妹たちの薬代や、往診代で、莫大な金を借金していたので、もう首でも括ろうかと、神経衰弱になった母親が、常にそう漏らす有様だ。そんな時、高利貸しから、長女のおせんを本所花町の一倉という店で働かせたらどうかと、殆ど脅しに近い態度で説得された。おせんの母親は、一倉のよからぬ風聞を耳にしていたので、凄い剣幕で断ったが、居間と寝部屋を隔てる襖に、耳を側立てていた当のおせんが、親と弟のためならと、母の居ぬ間を狙って来た高利貸しに、一倉へ行くことを承諾したのである。もちろん当時のおせんには、一倉がどの様な裏家業の店なのかは知らないが、十五にもなれば奉公に出される友達も多い中、自分だけ着物の仕立てや家事だけして、のうのうと暮らすのは、どうにも不孝であると考えた。おせんは自分を可哀想だなどと思わなかった。果たして十五の春に、一倉で働き出したおせんであったが、始めは当初の約束通り、洗い物や仕込みの手伝い、店の掃除などをするのが仕事だった。鼠の這う狭い女中部屋や、辛辣な労働も苦と感じなかった。しかし三月が過ぎた頃、「良い人だから」と、先代から一倉で馴染みの呉服問屋の主、美濃屋甚兵衛という五十代の男の相手をさせられたのだ。
「その時、お夕は生娘ではなくなったのよね、かわいそうに、まだ十五だよ。激しい雨の音さえ掻き消してしまうような大騒ぎでね、部屋の中で、ばたばたと逃げ惑うお夕の足音や、衣桁が倒れ、物の壊れる音、それにね、いちばん耳を塞ぎたくなったのは、おかみさん助けてと泣き叫ぶ声だよ。あの子まだ、自分の立場を理解していなかったんだろうね。ずっと泣いてたらしくてね、眼を真赤に腫らして、美濃屋の寝ている部屋から這い出て、帳場のおかみさんの膝に顔を埋めて、美濃屋の檀那に痛いことされたと訴えていたよ。あの娘の処女を売ったのは、何を隠そう、おかみさんなのにさ。湿った雨が降っていてね、薄暗い、いやな感じの朝だったよ」
「……」
そう言って女中は身震いすると、莨をふかし、鼻から思い切り煙りを出した。
おせんを一晩で気に入った美濃屋は、おせんに他の男の相手をさせるのを惜しがり、数ヶ月後には、百両という大枚を叩いて身請けした。
「入江町に家を借りて囲ったんだよ。あの子、美人じゃないけど、妙な色気があるだろう。肌なんて雪のように白くて、きめ細かくて、素人臭さがいいと、客の評判だったからさ、身請けの話しを、おかみさんは随分いやな顔をしてたけどね。美濃屋は上客だしさ、眼の前の金にも未練があるしで承諾したんだけど、金を受け取ってからも。あんた、引き取られるまでの五日ほど、商用で江戸を出た美濃屋に内緒で客の相手をさせていたんだから、がめつい人だよ。まあ、その時にはお夕も諦めて、文句も言わずに、客の自由になっていたけどね……あら、あんたお夕の亭主だったね、ごめんなさい」
十年前のおせんの泣き声が、この大層、派手な店の奥から聞こえてきそうで、長吉は無意識に耳を覆っていた。女中が一倉のおかみから聞いたおせんに関する情報はここまでだった。そこで長吉は今度、おせんが囲われていたという入江町を訪れた。驚いたことに、おせんの暮らした家は表店にあった。外から眺めただけなので内部は分からないが、外観からすると、二階の縁側から見て、往来を越えた真向かいに流れる大横川を眺められると思われる。向かって左の堀沿いには、大河内、織田、岡部土佐守のお屋敷が建ち並んでいた。日差しが燦々と差し込む明るい妾宅だった。
長吉は周囲を見渡した。そしておせんの暮らした表店が軒を連ねる隙間にひっそり建つ、割長屋の木戸から路地の奥へ眼を細めた。表店の連中は口が堅い。ここは一つ、路地裏の人間に話しを聞く方が容易いと思ったのである。
「おっ、あれがいいや」
奇声を上げて横切る子供達の群れに、転ぶんじゃねえぞと声を掛け、少し進むと、目星を付けた女を遠くから眺めた。その女は、路地の、突き当たりに設けられた物干し場にいた。痩せた白い腕を伸ばして洗濯物を干している。長吉は、女房衆が固まる井戸端を、ここは珍しく美人揃いだなあと、愛想を振りまいて通り過ぎた。女房たちも悪い気がしないようで、初対面の長吉を目で追い、互いに見つめ合ってくすくす笑った。陽当たりの良い、その物干し場で小梅を下ろした長吉は、
「小梅、あのおばちゃんのところまで走りな、飴をくれるぜきっと」と、背中を押したので案の定、勢い余った小梅はすっ転んだ。
「あらあら、大丈夫。どこの子だろうね?」
緋色の湯文字を干す手を休めず、女はちらと小梅と長吉を見た。
「あんた、この子の父親かい?」
「ああ、そうさ」
泣きべそを掻く小梅の膝小僧の砂を払ってやり、袂から出した飴を舐めさせると、、長吉は、とびきりの笑顔をその女に向けた。それまで、日の光りが眩しいのか、眼を細めていただけの女も笑顔になった。前垂れを外し、後れ毛を撫でつけながら、長吉の膝に尻を乗せて座る小梅の前に屈んだ。年増だが、腰のくびれた色っぽい女だった。
「見掛けない顔だけど、空き家でも探しているのかい?うちの隣り、空いてるよ」
女は品を作り流し目を送った。長吉は慌てて手を振って、
「いやっ、そうじゃねえんだ。ちょいと尋ねたいことがあってね。あんた、ここは長いのかい?」
長吉が、家を探してないと知って、その女は少し気落ちした表情を見せたが、すぐに、そうだよ、もう十年は住んでるねえと言った。長吉は、友達のかみさんの話しだということにして、おせんの話しを聞き出した。
おつゆは、表店のおせんのことを良く知っていた。なんでも子供好きなおせんは、暇を見つけては裏店の子供たちと遊んでいたらしい。おつゆの子供も良く遊んで貰っていたと言っていた。おつゆは声を弾ませながら、おせんに関して知ってる限りを話しだした。そこでもやはり名はお夕だった。
その頃、おせんは、美濃屋からの手当の、その殆どを実家に送っていたらしい。日当たりの良い二階造の家や、鮮やかな小袖、頭の上の飾りなどを美濃屋に買って貰っていても、おせんが、自分のために散財するような素振りはなかったと言う。美濃屋は年寄りだが優しい人だと、おせんは常々話していたらしい。美濃屋は、40も歳の離れたおせんを宝物のように扱い、体調の悪い時などは、一流の医者を呼んで、全快するまで、足繁く、日に何度も通い、自ら看病した。
だが、そんな穏やかな日々も、たった半年で幕を下ろす。本家と若い妾の家を往復する生活が祟ったのか、おせんの家で晩酌を愉しんでいる時に、美濃屋は心の臓の発作で倒れ、そのまま帰らぬ人となったのだ。
ーやくざもんに身請けされたんじゃなかったのか。
先程からの疑問に、長吉は首をかしげた。おせんの檀那、美濃屋甚兵衛の葬儀が終わると、おせんを、一刻も早く放り出したい美濃屋の本妻や、跡継ぎ息子が、時を移さず押し掛けてきて、早く出て行けとおせんに詰め寄った。引越の期限を一月と定められ、美濃屋との関わりを一切断つという証文に、血判付きの署名をさせられたおせんが、神田の実家に帰ろうか、それとも次の働き口を探そうかと思案していたところに、神田に住む親戚から一通の手紙が届いた。訃報だった。これまでどんなに困っていても、何の助けもしてくれなかった母親方の叔父の手紙には、半月前、母親が弟の首を絞めて殺し、自身も居間の天上の梁に引っ掛けた紐で、首を括って死んだと書いてあった。遺書らしきものは見当たらないが、一向に回復の兆しを見せない息子の行く末と、囲い者として暮らす、おせんの負担を考え、生きることに悲観したのだろうと、叔父の文は推測していた。
ー遅すぎる。報告が遅いじゃないかと、泣き喚くおせんの声は、裏店にまで響いてきたらしい。
葬儀も済ませてあると、墓の場所だけ報せてきた手紙を、行燈の火で燃やしたおせんは、それから三日後、美濃屋と過ごした家を出た。
その後一月ほどして、おせんがひょっこりおつゆを訪ねて来たらしく、入江町を出たのちの生活も、おつゆは知っていた。
おつゆによると、家を出たおせんは、柳原町の旅籠で二日ほど寝泊まりしていたらしい。そこで、彦五郎とかいう男と知り合った。
ー彦五郎?それがやくざもんか?
長吉は顎に出来た吹き出物に触れながら考えた。
「それ、あんまり触んない方がいいよ」
おつゆは細い眉をしかめると、話しを続けた。美濃屋が五十代の年寄りだったのに比べ、彦五郎は、二十代の優男である。おせんとは五つほど歳が離れていたが、背が高く、胸板の薄い体型が、どこかおせんを可愛がったあの美濃屋を彷彿させたらしい。半年、美濃屋に通い詰められているうちに、おせんの中にも美濃屋への情のようなものが芽生えたのだろう。親、弟妹を失った悲愴の渦に飲み込まれていたおせんは、そう迷うこともせずに彦五郎を受け入れた。
「それがね」
おつゆは長吉に茶を差し出しながら、手招きのように手を振った。話しが長くなり、いつの間にか長吉は、おつゆの家に上がり込んでいた。外は日差しがきついからと誘われたのだが、井戸端の女房衆が怪訝な目付きで長吉やおつゆを見ているというのに、おつゆは気にしていない様子だった。表店に囲われていたおせんとは気が合うが、裏店の女房衆とは、上手くいってないように見受けられた。おつゆもまた、人には言えない過去を抱えて生きているような気がした。
小梅に、貰い物だという饅頭をあげたおつゆは、満足そうな顔で長吉に向かい合った。
「彦五郎とかいう男と一緒に住み始めてから知ったらしいんだけどさ、その彦五郎、前の、ほれ、死んだ檀那の次男だったっていうから驚きだよ」
「次男、……っていうと……檀那とは親子かい?実の?」
長吉は言葉を失い固まった。おせんが、躰を売っていたという事実を知った時は絶望したが、まさか親と子で交わるとは。あまりにも衝撃的だった。
「そういうことになるね、お夕ちゃんもその点は悩んでたよ」
「……」
「家業を継いだしっかり者の長男に比べて、次男はごろつきでね、職にもつかず、遊興に耽り、賭場にも出入りして性質の悪い連中との付き合いがあったっていうから、どうしようもないね」
「それが、なんでおせん、あっいや、お夕と知り合いに」
「檀那の親父さんが存命の頃から、お夕ちゃんを囲ってることは、家では相当、問題になってたらしくてね、大変な騒動になったらしいのよ。それでも、お夕はかわいい、手放したくない。女房はきついで、意固地になった檀那は、お夕ちゃんと別れようとしないでしょう。父親が見初めた女を一目、見てみたいと、ある日、彦五郎がね、出掛けた親父の跡を付けたらしいのよ」
一気に話して口が乾いたのか、そこまで言うと、おつゆは茶をすすった。長吉も湯飲みを取ったが、飲まずに掌で温めている。おせんの男が登場するたび、胸を鉛のようなもので叩かれる思いがしていた。おつゆは大きな溜息をついてから、肩の力を抜いた。
「檀那を見送りに、玄関まで出てきたお夕ちゃんに岡惚れした彦五郎はさ、ほれ、お夕ちゃんて肌がきれいでさ、男好きする顔だろう、。なんか弱々しいっていうか、顔が寂しそうな……」
「泣きべそ顔」
「そうそう、それ、泣きべそ顔。あんた上手いこと言うねえ」
「いやあ……」
長吉は褒められたことに満足し、おつゆは手を叩いて笑った。
「それから何度となくお夕ちゃんの姿を陰から見ていたらしいよ。機会を窺ってたんだね、きっと、あたしはぜんぜん気付かなかったけどさ」
おつゆはひらひらと手を振って笑った。何が可笑しいのか、長吉にはちっとも分からなかった。
「なんの機会を窺ってたんだい?おせん、……」
長吉は首を振った。見ると、おつゆが意味深な笑みを浮かべている。長吉が嘘を言ってることが知れたのだろう。そんな目付きをしている。しかしおせんの名を出すわけにはいかない。三歳といえども、母親の名くらい、小梅だって知っている。
「お夕と知り合う機会かい?」
「そうじゃないよ」
おつゆはまたひらひら手を振った。身振り手振りの大きな女で、さっきから長吉は、何度となく瞬きをしている。
「親父が死ぬ機会さ。お夕ちゃんも言ってたけど、檀那は元もと酒飲みのだったらしいから、そう寿命は長くないと思っていたんじゃないの、彦五郎も」
「……」
饅頭を食べ終えた小梅が、長吉の肩に縋りながら、茶が欲しいのと、耳にささやいた。その時、小梅の口についてた饅頭の皮が、長吉の耳についた。それを、眉をしかめて掌で拭き取っていると
「あらあら小梅ちゃんすごい顔」おつゆが、すぐに台所に下がって、濡らした手拭いを持ってきた。それで小梅の顔中を吹いてやると、長吉は小梅を、自分の隣りにきちんと座らせた。
「熱いからな」
おつゆが変な具合に気を利かせ、入れ換えた茶を、長吉は口で吹いてぬるくし、こぼさないようにそっと小梅の口に含ませてやった。
「いい、お父つっあんだね、あんた」
「そうでもないよ」
母親から奪い取って、母と子、二人に悲しい思いをさせている。良い父親でなんかあるもんかと、顔を伏せた。
「そうそう、それでね……」
おつゆはちろちろっと二間だけの家の中を見渡した。
「誰かいるんですかい?」
長吉は閉ざされた障子の方へ眼をやったが、おつゆは、誰もいないよ、壁に耳あり、障子に眼ありっていうだろう、用心しただけさと、大口を開けて笑った。
「そっか……」
長吉は、自分の背中を背もたれにして寛ぐ小梅から感じる温かさに安堵していた。自分の指先だけで遊ぶ小梅の手を、後ろ手で握りしめながら、おつゆに視線を戻した。
「旅籠に寝泊まりしていたお夕を、彦五郎は誘ったのよ。あたかも偶然を装ってね、しかし彦五郎は遊び馴れた見た目も良い男だろ、お夕ちゃんもころっと騙されてしまったんだね、寂しかったんだよ、きっと」
「二人はどこで暮らしたんだい、どんな風に?」
返事は、長吉が耳を塞ぎたくなるようなものだった。彦五郎は、着の身着のままのおせんを、入江町からほど近い、清水町の自分の借りている長屋に住まわせた。二人は昼も夜も殆ど戸を締めきったままで半月ほど過ごしたらしい。
五十代の父親の方も優しくて良い人だったが、その息子の彦五郎は、巧みな話術と若さで、十六になったばかりのおせんを虜にした。。吸ったことのない煙草も吸うようになり、酒も飲んだ。
「夜具にくるまったまま煙管を煙草盆に叩き付ける仕草など、堂に入ってた」と話してくれたのは、当時のおせんを知る、清水町裏店の家主だった。
あまり長くなる前にと、眠る小梅を抱いて入江町を出たのは、昼過ぎ、名残惜しそうなおつゆに礼を述べ、二町ほど先の清水町を訪れていた。
「お夕ちゃんは彦五郎さんに惚れていたわね。いつも彦五郎さんの腕にぶら下がるようにして寄り添っていたもんだわよ」
それを聞いた長吉は気落ちした。確かにおせんは、その外見から想像できないほど多感な女だ。情も深く小梅ができるまで、長吉と二人、彦五郎とおせんのように、戸を閉めきって過ごした日々がある。小梅を授かり、母親という立場になってからは、そういうことも無くなったが。
「その二人はどうして別れたんですかい?」
「それがね」
家主は、肥りすぎのヒヒのような風貌である。眼の下から頬が、何故か黒ずみ、秋口だというのに雪崩れのような汗を掻いている。長吉は、眼を見張って家主の首を探したが、肉に埋もれ、とうとう見あたらなかった。
自分の家は狭いからと、連れて行かれた自身番屋の茶の間には風が通らず、なんとも言えない汚物のような体臭と、噴き出る汗の匂いが、女っぽい話し口調の家主からじわりじわりと放出されていた。
「お茶、飲む」
片眼を瞑り、色目を使う家主の厚意を丁重に断った長吉は、眠る小梅を床にも置かず、腕の中で揺らしていた。置いたら、眼の前に座る巨漢の男に、取って食われそうな錯覚を覚えたのだ。
「ろくでなしっ!」
家主が急に嬌声を上げた。
「へっ……?」
「ああっ、ろくでなしって言うのは彦五郎さんのことでね」
「……」
自分も充分ろくでなしの長吉は、こういう言葉についつい反応してしまう。
「一緒に暮らしはじめて、三月しないうちに暴力を振るうようになったんだよあいつ」
「……暴力」
小梅を抱く手に力が入った。
「それが酷くてね、ある時なんて、お岩さんのような、お岩さんて知ってるう?あの四谷怪談の執念深い女?あらっいけない。こんなことを言ったら呪われちゃうわ。お岩さんごめんなさい。それでね、お夕ちゃん、片眼を蹴られて、お化けのような顔で青物を洗ってたわ、かわいそうに」
「暴力の原因はなんなんですかい?」
長吉は憤怒で、頭がどうにかなりそうになっていた。巨漢のおかまと一つ屋根の下に居るせいか、暑くて仕方がない。汗が、顔の輪郭を伝い、喉から胸元に流れているのがわかる。なぜわかるかというと、家主の目線がそこにあるからだ。長吉は衿を掻き合わせた。
ーおせんを殴りやがって……。
短気なところのある長吉も、おせんを叩いた覚えがしばしばある。あの夜の煮売り酒屋でも、かなり酷くおせんを折檻したが、そのことはいまでも悔いている。この話を聞いて、余計に懺悔の思いに苛まれるようだった。
「嫉妬よ」
家主は、茶を、音を立ててすすると、気の抜けた、尺八のような屁をこいた。
「……」
小梅の顔を覗くと、ちゃんと眠ってはいたが、屁が臭く、苦しそうに眉をしかめていた。
「彦五郎っていう男は悋気の激しい野郎でね、お夕ちゃんがちらっと、裏店の男と言葉を交わしただけでも殴るんだわよ。ある時には、洗濯中のお夕ちゃんが他の男の眼を見て話しただけで、あの男に色目を使いやがったな、このあまって、衿上を掴んで家中引き摺り廻して。でもね、どういう訳か、あたしと話すのは平気だったみたいよ」
「……」
「まあね、あたしもね、女よりも男の方が好きかな。どんな男が好みかと言うとね……」
「そんなに殴られてもお夕は逃げなかったんですかい?」長吉は、生真面目な顔で家主の話を遮った。
「逃げたわよ、何度も」
家主は、折り曲げた太い脚が鬱血したのか、どっこいしょと座り直した。座り直したのは、自身番屋に来て、これで十度目だ。
「でもね、血眼になって探し回られ、見つけられて家に連れ戻されると、また殴る、蹴るでしょう。そのうちお夕ちゃんも諦めたんじゃない、あの男からは逃げられないって」
「それで、二人が別れたのはいつのことで?」
「お夕ちゃんが、うちの裏店に越して来たのが、春先だから、別れたのは暮れのことだわよ、なんだか他に好きな人ができたんだって、職人らしくてね、彦五郎に殺されても、その人と一緒になるんだって、頬を赤らめて語ってくれたわよ」
「好きな人?職人……」
時期的に、おせんの好きな男は自分と重なった。大晦日も近い晴れた日、回向院の境内で、長吉はおせんと出会った。顔に痣のある記憶はないが、熱心に拝殿で祈りを捧げるおせんの、すらりと伸びた後ろ姿に、長吉は見とれたのを覚えている。
おせんは、桃割れに、可愛らしい色の根掛を掛けていたが、それとは少し不釣り合いの、唐桟の羽織を着ていた。祈り終え、振り向いたその姿に、長吉は心を奪われた。美人ではないが、人恋しそうな、憂いを含んだ表情に惹かれた。このまま別れたら、一生この娘をを見失うと思った長吉は、満を持して、話しかける機会を窺った。
運命の悪戯か、境内の水茶屋を横目で見ながら歩くおせんの下駄の鼻緒が切れた。他の男に盗まれてはなんねえと、急いで駆け寄り、「お嬢さん」と話しかけ、懐から出した手巾を歯で裂いて、肩を貸した。緊張し、鼻緒を結ぶ指先が震えた。
想い出に耽ける長吉に、家主は続けた。
「女って現金よね、あんなに彦五郎と別れた方がいいと進めていたときは、普段はやさしい人なんですと庇うこともあったお夕ちゃんがよ、そのなんとかっていう職人とすぐに夫婦約束して、彦五郎さんが賭場に行ってる間に、彦五郎さんが犯した恐喝などの罪を、自身番に洗いざらいぶちまけて、風呂敷袋一つ胸に抱えて飛び出して行っちゃったんだから」
「っていうと、彦五郎は」
「すぐに捕まったわよ。怒鳴ってたわよお、気が狂ったように、お夕の奴、ぶっ殺してやるってね、怖かったわ」
「……」
家主は大きな身体を揺らして身震いをした。神棚の榊が、風もないのにゆらゆら揺れた。物が落ちてきやしないかと、長吉は頭上の神棚を見上げ、躰を戸口の方へずらした。小梅はすやすやと寝息を立てている。
「それで、そいつは?」
「彦五郎さんが犯した罪って、微罪が多くてね、実家からも金が出たようで、小伝馬町の牢屋敷にちょっと入っただけで、江戸払いで済んだんだわよ。地獄の沙汰も金次第って言うじゃないのさ。だけど、彦五郎さん、法を破ってお夕ちゃんを探しに江戸に戻ってきちまってね、痩せこけた顔であたしのところに来て、お夕はどこに行った、あのあまあ、他に男ができたんだろうって必死の形相で聞くんだからあ、あーっ怖かった、怖かった。ほんとだよお、本当に怖かったんだからあ……」
「それで……?」
「捕まっちまったわよ。今度は遠島。躰に繩をかけられて引っ張ってかれるときは泣いてたわよ」
「……」
「実家が、放蕩息子のためにかなり金を積んだらしいから、彦五郎さんもじきに戻って来るんじゃないかしらね、そうしたら、お夕ちゃんも地獄だわね、ありゃ執念深い男だよ、ほんと」
「彦五郎は、お夕を忘れてないということかい?」
「忘れるなんてあるもんか、あの彦五郎って奴はね、お夕ちゃんを殴るたびに、ああして謝って泣くんだよ、もうしないから許してくれとね。今頃、島で、お夕をどう片付けようか考えてる筈だわよ」
怖ろしい話しを聞いたような気がした。島流しになった彦五郎が戻ってくるのは、多分来年頃ではないかと、あのおかまの家主は言っていた。目覚めたばかりの小梅を背負い、清水町を後にした長吉は、堅川沿いを、ゆっくりした足取りでぼんやり歩いた。時折、小梅をゆすり上げては後ろを向いて、腹は空いてないか、喉は渇いてないか、飴は欲しくないかと尋ねた。三歳にもなって、でんでん太鼓が欲しいとねだる小梅に、願いの品を買い与え、黄昏色に染まりつつある、見慣れた町並みを見とれて歩いた。
彦五郎とおせんの暮らしぶり、美濃屋との、案外仕合わせだったおせん。いままで知らなかった女房の素顔を垣間見た長吉であったが、気持はどんより曇っていた。長吉の実家はさして裕福ではないが、食う物がなくて困るという経験もない。これまで何度となく身を売って生きる女を、長吉は躊躇いも無く買ってきた。そういった女の境遇に心を痛めたり、労った記憶もない。ただの性欲のはけ口に過ぎない女達として彼らを扱ってきたような気がする。だが、悲しい女達の現実を、おせんを通して見てみると、あんな地獄もあるのだと、改めて思い知らされた気がしていた。
薄闇の中、長吉はおせんの住む、住み慣れたすずめ長屋の木戸に立っていた。都合の良いことに、背中の小梅は眠っている。起きていたら、おっかあ、おっかあと騒ぐところだ。まだ母親と離れて二月しか経っていないのだから仕方がない。顔見知りの木戸番に、おつゆや、おかまから聞き出した彦五郎の容姿を説明して聞かせ、こういう野郎が来たら、すぐに自身番に届け、同時に俺にも急ぎ報せてくれと、いま住んでる場所の絵図を書いて渡した。くれぐれも、おせんがここに住んでることを、この野郎に言っちゃいけねえと念を押しといた。一応、お夕という名も教えたが、詳しい内容は伝えなかった。木戸番の男は、神妙な顔で絵図を受け取った。
ついでに長吉は、宗治のことを聞いてみた。おせんが多情な女だと変に疑われては情けないので、引っ越したことを宗治には教えてない、だから宗治が俺を訪ねて来てしまったんではないかと、周囲に眼を配りながら、殆どひそひそ話しに近い声で聞いた。木戸番は、自分が番をしている時に二度ほど宗治を見掛けたと言った。「それはいつだっ」と、長吉に首を絞め上げられながら、息も絶え絶え木戸番は、宗治は立ち寄っただけで、すぐに帰ったと思うと曖昧なことを言った。顔を真赤に腫らす木戸番を離し、小梅をゆすり上げて夜の町を、月明かりだけを頼りに帰路につくと、煮炊きの匂いがどこからともなく香ってきた。とてつもなく悲しくなった長吉は、おっかあ、ごめんと、自分の頭の堅さを謝り、道に迷った子供のように、べそ掻きながら歩いた。