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謝罪  作者: 藤原蒼未
4/8

崩壊

宗治行きつけ煮売り酒屋も、今宵は時間が遅いせいか閑散としていた。おせんは、顔の前に差し出された盃を受け取ろうか、どうか思案している。

「一杯だけでも、どう?」

 この店に入ってから小半時がすぎようとしていた。宗治に幾度となく酒を進められていたが、「お酒はどうもね、苦手なの」と、断り続けてきた。先程、道端で宗治に肩を抱かれたせいか、それとも、子持ちの女が、酒場で男と差し向かっている環境がそう思わせるのか、いつもは子供っぽい笑顔を浮かべるだけの宗治が、見ず知らずの他人のようにしか見えなく、警戒していた。

「別に酔わせてどうこうしようってわけじゃないぜ、おせんちゃん」

「そっそりゃそうね。じゃあ、一杯だけ」

 あまり断るのも失礼だし、執拗な宗治の進めに飽き飽きしていたこともあって、おせんは宗治の酒を受けることにした。

ーこれ飲んだら帰ろう。

 自分の意思で酒場に来てはみたものの、おすえに預けた小梅のことが気に掛かる。早くこの場を立ち去りたい気持で、おせんは顔を仰向けて一気に飲み干した。

「へえ……」と宗治は、感心したように、眉を上げ、少し引いておせんを見つめた。

「あれ、大丈夫?」

 おせんは、拳で胸を叩いて咳き込んだ。酒が飲めないわけではない。急いで飲んで、器官に入ってしまったのだ。

「おせんちゃん」

 宗治は慌てたように立ちあがると、二人が腰掛ける長床几の反対側からおせんの背を擦った。

「大丈夫よ宗治さん、ちょっと」

 言葉にならないほど咳が出た。背中に気安く触る宗治の手を潰すように、壁に背をふっつけ、手を上下に振って、「もう、いい」と、宗治を座らせた。

「おい、ちょっと水を頼むよ」

 すぐに女中が水を運んで来た。草履を引き摺るように、だらしのない歩き方をする十七、八の女だった。どうぞ、と気怠そうに言うと、おせんに水の入った湯飲みを手渡した。

「ありがとう」

 おせんは咳き込みながらも、女が去り際に、宗治の腕をつねっていくのを眼の端で認めた。

「あーっごめんね、もう大丈夫だから」

「良かった……顔が真赤ですぜ」

「あらあら」

 おせんは両手で頬を覆った。ぽんぽんと頬を打って、額の汗を掌で押さえると、目尻に堪った涙を拭った。ほっと溜息をつくと、なんだか急に可笑しくなり、おせんは弾けるように、けらけらと笑い出した。宗治もつられて笑った。

 家に帰りたくないと言ったおせんを、宗治はこの門前町の酒屋に連れてきた。天ぷらを腹いっぱい食べたあとだったが、泣いて走ったせいもあり、小腹が空いていた。酒を注文する宗治の横で、おせんは枝豆や、焼き魚をつまみながら、長吉と、お鶴のこと、宗治に洗いざらい話して聞かせた。宗治は終始、相槌を打つだけで、自分の意見を述べようとはしなかった。

ーもしかしたらこの人、うちの人とお鶴のこと、知っていたんじゃないかしら。

 おせんに思わせたほど、宗治に動揺や、驚愕の色は見えなかった。

「もう一杯だけいただこうかしら」

「もう一杯とは言わずに、どんどん飲んで。こういうくしゃくしゃした時はね、飲んで忘れるのがいちばんだよ」

 宗治はおせんの杯を満たすと、自分にも酒もついだ。おせんが手を伸ばしたが、手酌の方が気楽でいいからと、宗治はおせんの酌を断った。

「お正月以来でしょう、お酒を飲んだの。なんだか胸が熱くなってきた」

「おせんちゃん、酒は嫌いだったね」

「そうね」と、おせんはうなずいた。実のところ酒は嫌いではないが、亭主が一升徳利を抱えてる姿を始終眼にしていると、酒の存在事態が悪のように思えてきてしまう。それに、長吉と所帯を持つ前に、酒なら厭というほど飲まされた。

「でもたまには酒もいいよ。いやなことも一時的になら忘れられるしね」

「そう……でも、お酒にあまりいい想い出がないのよ」

 長吉も、宗治も、すずめ長屋の誰も知らない苦い過去を思いながら、おせんはそう言った。言ってすぐ、邪気を振り払うように大きく首を振った。

「おせんちゃん」

 宗治が窺うような表情で顔を覗き込んできた。眼が細いせいか、間近で見ると、意外と黒眼勝ちだった。この数日間の夏日で焼けたのだろう。色白の肌が褐色になり、男らしさが増していた。一瞬だが、異性として意識してしまい、おせんは宗治から視線を外した。

「どうかした?」

「ううん、なんでもないの」

 おせんは首を振って唇に杯を持って行った。飲み干すと、顔がぽっと熱くなった。

「馬鹿亭主のことを思い出しただけよ」

「もう、長吉のことはいいよ」

 宗治は嫉妬したような粘りのある言い方をすると、斜に向いて脚を組み、酒を呷った。

―雲行きが怪しい。「宗治さん」帰ろうと、促すつもりで声を掛けた。しかし宗治は、腰を据えて動かないつもりだ。振り向く前に、酒と肴を追加で注文した。

「おせんちゃん飲んで」

 宗治は手にしていた銚子を傾けて、おせんの杯に酒をつぐと、自分も杯を口にあて、上目遣いにおせんを見た。おせんは、酒は嫌いじゃないが、強くない。顔から首、白い胸元に、耳たぶまでが桃色に染まり、熱を持っていた。

ーこの人、本当にわたしに気があるのかしら?

 酒がまわったせいか、ふと、そんなことを考えた。が、すぐに打ち消し

「亭主のこと意外、話すこともないでしょう」

 敢えて、そっけない風に言った。

「そんな意地悪なことを言って……今夜は、好色な長吉のことは忘れよう、ねっ、おせんちゃん」

「そうね、あんな男のことなんて考えてたら、せっかくのお酒がまずくなっちゃうもんね」

 二人は声を揃えて笑った。おせんもたいぶ酔いが回って心地がいい。

「おなみ、熱燗もう二本つけて」

 宗治が片手を上げて、おなみと呼ばれた先程の女を呼んだ。おなみは、はーいと気の抜けた返事をすると、きっとおせんを睨んで板場に入った。

ーなんだありゃ。

 おせんはむかついた。板場の方を睨み返してから、改めて店内を見渡してみた。小さいが、こざっぱりとした店内には、五、六人の男の客が、静かに酒を飲んでいた。板場にいるのが、たぶん店主だろう。割腹の良い無愛想な顔付きである。額には、まるで傷のような深い皺が、川の字に三本並んでいた。他に給仕女が二人、合わせて三人で今宵は切り盛りしているらしい。店主が料理をこさえ、女は接客と、膳の上げ下げ、それに酒を温める仕事をしているようだった。時に、客の席に座り、酌婦の真似のようなことをして、二言、三言、言葉を交わしてはいるが、客も女も、互いの躰に触れるようなことはない。変な言い方だが、女を置いてる店にしては、健全な商売のようだと思った。おなみの外の、もう一人の女は、少し肥えた色白の娘だった。

「ねえ、宗治さんはこの店、良く来るの?」

「そんなこともないよ、三日に1遍くらいかな」

「うちの人も来るんでしょう?」

「また長吉の話か……」

 今度、宗治はおもむろに厭な顔をした。その態度に、おせんは、思わずごめんと片手拝みで謝っていたがすぐに、これはおかしいぞと思いはじめた。これではまるで宗治が、自分の情夫のようだ。

「おせんちゃん」

 宗治の声が甘えていた。先程まではっきり開いていた眼が、一瞬のうちに半開きになり、白目の部分が、赤く染まってきていた。それだけではない。長床几に座る二人の間に置かれた酒肴の幅が狭まり、宗治の顔がぐっと近くに感じた。

「俺ね、前からずっと、おせんさんのこと……」

「宗治さん」

 おせんは咄嗟に立ちあがっていた。その瞬間、店内にちらほらいた客と、女中二人、板場の店主までもが顔を覗かせたが、おせんが酒で赤くなった顔を、更に赤くして会釈すると、みんな元の通りに酒を飲み出したり、持ち場に戻ったりしていた。

「やはりだめか……」

 首をうなだれる宗治の肩を、おせんはぽんと叩いて腰を下ろした。帰ろうと言いたかったが、財布を持っているのは宗治である。言い難かった。

「宗治さん」

「えっ」

 宗治は虚ろに赤く滲んだ眼をおせんに向けた。

「あの人、ほら、おなみさんって言ったかね」

 おせんはちらとおなみの方を見やると、声をひそめて尋ねた。

「ああ、そうそう」

 宗治は首を振り子人形のように振ってうなずいた。拍子に、首が落ちてしまうんじゃないかと思うほど首はだらりと下に伸びている。急に酔いが廻ったようだ。

ーこれじゃ男前も台無しね。

 おせんは宗治を、奇怪な生き物でも見るように眺めた。

「あの、おなみさんと宗治さん、なんかあった?」

「いいや、ねえよ」

 酔ってるせいだろ。宗治はぞんざいな言い方をした。惚けたような眼を向けると、馴れ馴れししい手付きで、おせんの顎の下を撫でた。おせんは、その手をぴしゃりと払った。

「こら、宗治さん……人の女房に触っちゃだめじゃない」

「冷たいな、おせんちゃん」

 泣きべそをかくふりをする宗治の口におせんは、水の入った湯飲みをあてた。宗治はその手を押し退けると、酒の入ってない杯を拾った。

「もう飲まない方がいいよ宗治さん」

「飲まないよ、これはおせんちゃんの、いま入れるね」

 宗治がするままに、仕方なく酒を飲んだおせんは、喉にしたたり落ちた酒のしずくを拭いながらもう一度、おなみのことを聞いた。

「本当に何もないの、あのおなみって子と」

「ないよ」

「だってね、さっきから睨まれてる気がするのよね、あたし……」

「俺はないよ」

「俺はないよってなに?含んだ言い方をするわね」

 こう話してる最中でも、おなみの刺すよな目が気になる。凄みにある視線は、嫉妬以外に考えられなかった。それくらい、鈍感なおせんにだって分かる。

「おなみは、おせんちゃんが長吉のおかみさんだって知って、苛ついてるんじゃないかな、さっき聞かれたからそう答えたんだ」

「それ、どういう意味?」

 厭な予感がした。もう子細を聞かなくても、次に宗治の口から出て来る言葉はおよそ想像がついた。身体を丸める宗治の胸から銚子を奪い取ると、自分で注いで飲んだ。立て続けに三杯飲んだ。

「長吉と、あのおなみって娘に何かあったのかい?」

 ゆらゆら身体を前後に揺らす宗治の肩を掴んで、背筋をしゃんと伸ばさせた。

「ああ見えても酌取り女だからねおなみは……、金を払えばさせてくれるんだが、おなみは自分から長吉を気に入って、それで唯で何度か……」

「……どこで、あの女の家で?」

「とか、神社の境内……」

「罰当たり……」

「これ、内緒……ねっ」

 宗治は人差し指を唇に当てた。躰はまだゆらゆらと揺れだした。じっと見ていると、こちらの気分が悪くなりそうだった。おせんは、宗治から目を逸らせて手酌で飲んだ。勢い余って 噯気(おくび)を漏らしても気にしなかった。

「そうかい、そうかい、あんたたちはそうやって、いつも二人であたしを騙してたんだね」

 おせんは宗治の額を軽く叩くと、ふん、もうどうでもいいや、あんの野郎と口汚く長吉を罵った。

「宗治」

 酔いに任せ、おせんは宗治を呼び捨てにしていた。宗治がはいと顔を上げた。上げた顔をおせんに近づけ、今にも口を吸おうと首を少し傾けている。おせんはその宗治の頬を両手で包んで固定した。宗治のゆらゆらとした動きが止まった。

「あたし決めたよ。長吉とは離縁する」

「ほんとう?」

 宗治は、頬を押さえるおせんの手を取って、帯の下で握りしめた。

「う、うん……」宗治の真剣な眼に戸惑いながらもおせんは、うなずいた。

「だったらおせんちゃん、小梅と、俺と、おせんちゃんの三人で暮らそうか……」

 宗治は泣き出しそうな声で言った。おせんちゃんが好きだ、ずっと昔から……そう付け加えると、肩を抱いて引き寄せた。おせんは抗わなかった。胸の上で銚子と杯を抱え、宗治の肩に顔を乗せた。もうどうにでもなれと思った。

「宗治、……今夜は、あたしを、あんたの好きにしていいんだよ」

「へ?」

 宗治はおせんを引き離すと、間抜けた顔で見つめた。眼をパチクリさせ、背の方に置いてあった水を後ろ手で取ると、一気に飲み干した。

「すっすきにしてって……」

「分かるでしょう、子供じゃあるまいし。あたしはね、亭主にはほとほと愛想が尽きたんだ。もうこれからはあんな浮気野郎に縋らずに、あらっ縋られてるのはあたしだね、ハハハ。……とにかく、小梅と二人で生きて行くんだ。今夜は新しい生活への船出だよ、あんたに身を任せるからね」

 自分で言って恥ずかしくなったのか、おせんは袂を顔に押し当てて笑った。

「おせんちゃん、さっきも言ったけど、俺、本気だから……酔って言ってるんじゃねえ、小梅と三人でどこか遠くで暮らそう、ねっ」

 宗治はおせんの袂を下ろすと、心の中を探るように見つめ、

「前々から、ずっと考えていた。おせんちゃんと夫婦になって、小梅と三人で暮らせたらどんなにいいだろうと……」

「そうだったの?」

「気がおかしくなってしまうんじゃないかと思うほど、おせんちゃんのこと……」

「でも、あたしなんて、若くないし、顔も美人じゃないし……」

 おせんは言うと、また酒を注いで顎を仰向けた。完全に酔っていた。うつむくたびに頭がぐらぐらした。宗治に本気に身を任せてしまおうかとまで考えた。

「おせんちゃんは、かわいいよ、肌だってこんなにきれいだ」

ーまた、肌か……。

 いつも肌ばかり褒められる。憤って、もう一杯飲んだ。その間に宗治は水を何杯もおかわりしていた。酔いを覚まそうとしているのがわかる。

「亭主にはいつも、おかめ、おかめって……あたしの顔は泣きべそ顔だと笑うんだよ、あの人」

「確かに悲しそうな顔をしているが、それは長吉が浮気ばかりするからだよ、俺はおせんちゃんを、一生、泣かせない」

「ほんと?」

「本当だとも」

「女も買わない?」

 おせんが見つめ返すと、宗治はごくりと喉を鳴らした。

「おせんちゃんと、小梅がいてくれれば、他の女の肌はいらねえ」

「嬉しい」

「おせんちゃん」

 宗治は人目を憚らずおせんの肩を掴んで引き寄せた。おせんも宗治に寄り添った。だが二人の間には、おせんの抱える銚子と杯がある。

 そのとき、ごめんよと長身の、懐手をした男が石鹸の香りをぷんぷんさせて入ってきた。暖簾を潜ったのと同時に、

「よっ、おなみ。お前、まだここで働いてたのか?一杯だけ飲ませて貰うよ」

 と言い、人差し指でおなみの胸をつついた。もう一人の女に向かっても

「お前、なんて名だったかしら?それにしても臼のような体格しちゃってよ、また肥えたな?この狭い店がお前のせいで余計暑苦しくなるんだよ、痩せな、ねっ」

 と尻を打った。女中はふんと、鼻を仰向けて長吉の前から店の奥の方へと銚子を運んで行った。長吉は懲りもせずに、その肥り気味の女に向かい、地響きがするぜと、からかった。刹那、店内にいる客が笑い、長吉も笑ったが、その直後、

「なっ……」

 おせんと目が合った。長吉の表情がみるみる険しくなっていった。先程の、おちゃらけた気配は微塵もない。

「お前さん……」

「おい、なんだそりゃ……」

 長吉の目には、はっきりと、長床几で躰を寄せ合うおせんと宗治の姿が映っていた。

「てめえ、……おいこら宗治、お前なんでうちのかかあの肩を掴んでんだ」

 一歩、一歩、踏みしめるように長吉は二人に近づいた。狭い店内である。五歩ほどで、長吉は二人を見下ろす位置へきた。宗治はおせんへ廻した手を、そろそろっと下げて、膝の上に重ねた。

「おい、おかめ」

 じっと宗治を見据えていた鋭い視線は、今度おせんに向けられた。おせんは動けなかった。

「おめえ、小梅はどうした。おい、小梅はどうしたって聞いてんだよっ」 

 長床几を思いっきり蹴り上げられ、おせんは飛び上がって店の隅に逃げた。銚子や杯はおせんが抱えているが、長床几にあった食べ残しの乗ってる皿などが落ち、無残な音を立てて割れた。客達もみんな席を立って成り行きを愉しげに眺めている。面白いものが見られると、にやにやと笑う者もいた。泥酔している宗治は、素早い行動が取れず、惨めにも床に尻をついて、長吉を怖々と見上げていた。

「宗治」

 長吉は宗治の前に腰を下ろして、煙たそうに細めた眼で、宗治の頭の天辺から、尻餅をついた腰の辺りまで眺め下ろした。宗治は後ろ手に付いた手をじりじりと引いて躰を長吉から遠ざけようとしている。腕っ節では、ひ弱な宗治は到底、喧嘩馴れしている長吉に勝てない。それは宗治自身が良く知っている。

「お前さん、やめて」

 店の壁に、躰を隠すように押しつけていたおせんが、銚子と杯を近くにあった飯台に置き、長吉の後ろに駆け寄った。

「なにっ」

 長吉は、首だけねじ曲げておせんを見上げた。所帯を持ってからこれまで、見たこともないような凶暴な目で、おせんを睨んでいる。

「おかめ、お前、いつからこいつとできてやがった」

「できてたなんて、変なこと言わないで。勘違いなんだから。まずは大人しく話しを聞いておくれな」

「嘘つくんじゃねえ」

 長吉は立ちあがったついでに、宗治の腹を蹴っていた。ううっと唸り、宗治が身を丸めた。

「宗治さん」

 走り寄ろうとするおせんの帯を掴んだ長吉は、手の甲でおせんの頬を張り倒した。躰を大きく翻して、床に叩き付けられたおせんが飯台の脚にぶつかった。勢いで、上に積んであった箸や、小物がばたばたと床へ落ちた。

「おいおい、喧嘩なら表でやってくれよ」

 店主が厳つい顔で出て来たが、長吉は一瞥しただけで、気にしていない。倒れたおせんの前に屈むと、衿を掴んでねじり上げた。

「前にお前に言った筈だぜ。浮気したらぶっ殺すとよ」

「ふん」

 おせんは不適な笑い声を立てて顔を上げた。鬢が乱れ、唇が切れて、凄惨な感じがした。肥えた酌婦は床に散らばった瀬戸物の欠片を集めていたが、おなみの方は腕組みをして成り行きを傍観している。宗治は、蹴られた腹を押さえ、躰を折って苦しそうな嗚咽を漏らしている。

「何がおかしい」

 長吉は、おせんの頬を二度、張った。おせんは黙って泣く玉じゃない。片手で長吉の衿を掴み抵抗し、もう片方の手では、長吉の首筋に鋭く爪を立てたが、すぐに手首を折られるほどの力でねじ曲げられた。

「ふふふ……っ勝手なことばかり言ってさ、あんた自分の浮気を棚に上げて、よくそんな大口が聞けるね」

「なんだとこのあまっ」

 長吉はおせんの衿を握り込んだまま立ちあがると、なかなか立てないでいるおせんを引き摺るようにして店の戸口へ向かった。

「ちょっと待て」

 起き上がった宗治が、長吉の脇腹に体当たりをして止めようとしたが、片手で払われ、反対に顔を蹴り上げられた。鼻をおさえ、蹲った宗治は、大量の血を床いっぱいに流した。唸るように、鼻が折れたと言っている。長吉が宗治に気を取られている少しの隙におせんは立ち上がり、長吉の衿を掴んで揺らした。

「あんたね、お鶴とかいう女狐と、今まで一緒にいたんだろう、そうだろうっ、働きもしないで女遊びばかりしやがって、このろくでなし」

「何を言ってやがる……」

 初めて長吉に狼狽えの色が現れた。目線を外し、可笑しくもないのに唇の端を緩めている。

「それに、あのおなみとかいうばか娘ともできてたっていうじゃないか、わたしは何もかも知ってんだよ」

 おせんはおなみを睨んで言った。おなみに動じた様子はなく、袂で口を隠して、婆アにばか娘だって言われちゃったと、けらけら笑っている。

「どうなのさ?」

 おせんが顎をしゃくると、長吉は苦笑いをして宗治に向いた。

「宗治……この野郎、てめえだけは赦せねえ」

 衿を握り込むおせんを押し倒すと、長吉は、苦しそうに悶える宗治に掴みかかろうとした。おせんは素早い動きで長吉に立ち塞がると平手を喰らわせた。

「ばか亭主っ」

「なにしやがだ、このあま」

 すぐに平手は返され、長吉はおせんの鬢を掴んで羽目板に押しつけた。急所を蹴ろうと足をばたつかせ、泣きじゃくるおせんを、長吉は狂気なまでに冷酷に見つめた。

「おせんさんよう、いいか、良く聞きやがれ」

 凍り付くような冷たい声を出した長吉は、鬢から手を離し、おせんの大きく開いた衿を合わせてやると、荒い呼吸を整え、唇の端を噛んでうなずいてから、おせんを鋭く睨んだ。

「前にも言ったが、男と女は心も体も全く違う生き物なんだよ。勝手なように聞こえるかも知れねえが、女はな、特に女房って立場の人間は浮気しちゃあなんねえ」

 長吉の語尾は泣き声になってた。大きな溜息を吐くと、洟をすすった。

「お前は、小梅の母親だからよ、殺しはしねえが、だが……、おせん、お前とはもう、おしめえだ……」

 おせんは、何度も殴られて、赤く腫れ上がった顔を上げた。口を開こうとしたが、長吉の方が早かった。

「今まで、お前に苦労ばかり掛けてきた俺だけどよ、まだ腕の方は衰えていない。三日ほど前、親方に頭を下げて、また働かせて貰うことになったんだ。そのとき、試しに櫛を彫ってみたんだが、親方に揉められたよ。お前の腕は天下一だってね」

「そんな話、聞いてないよ……」

「手間を稼いでから、話そうと思ってたんだがな……」

 長吉は自分の不甲斐なさを思い出したのか、大きく息を吐き出すと苦悶に顔を歪めた。大袈裟に言えば泣き出しそうな顔になっている。

「明日、早朝にでも、あの家を出て行く。俺には一分なんて店賃を払える甲斐性はないからな」

 おせんはもう答えなかった。静かな歔欷の声を上げ、長吉を見つめている。長吉は、そんなおせんの目をまっすぐ見据えた。

「小梅のことだがな」

「うん」

 小梅の名を聞いた途端、おせんはしゃくり上げる様にして泣いた。

「小梅は、俺は引き取って育てる。浮気をするような薄汚い女の元には置いてけねえからな、しかもお前は昔……いや、なんでもねえ」

 長吉は顔を逸らせ、言い掛けた言葉を飲み込んだ。おせんは驚愕に震える目を上げ、長吉の袖を掴んだ。

「お前さん、何言ってるんだい」

 小さく首を振り、懇願の表情を浮かべている。

「何ってお前……」

「小梅を引き取るって馬鹿なことを言うんじゃないよ。小梅はね、女の子なんだよ、母親がいないとこれから苦労するんだよ」

 おせんは血だらけの口を、腕で手荒に拭って長吉に掴み掛かった。

「あんたと別れてもいい。けど小梅と引き離されるのだけは堪えられない」

「……」

「お前さん、聞いとくれ、あたしと宗治さんはなんでもないんだよ、本当だよ」

 長吉は顔を逸らせ、おせんを見ようとしない。懐のあたりを握り込まれ、揺らされるままになっている。他の客からも、店主からも、そう簡単に離縁なんてするもんじゃねえ、もっと女房と話し合え、後添えなんてそう簡単に見つからねえぞ、子供が可哀想だと思わないのかと、野次が飛んだ。

「嘘じゃない。ねえ、お前さん、あたしを見て、あたしがそんな女に見えるかい」

「……悪いがなおせん……」

「いやっ、お前さん、ねえ信じておくれよ……」


小鳥がさえずりはじめた。朝日が、茶の間で寝ている小梅の瞼を射したとき、小梅は、ぐずるように口をへの字にして眼を掻いた。

「お前、なんであんなこと言ったんだ。あんなことさえ言いださなけりゃ、俺たち、やり直せた筈なんだぜ」

 身支度をしながら長吉は言った。背を向けて、胡座をかいて、小梅の小袖を風呂敷に包んでいる。今朝、長吉は小梅を連れて出て行くらしい。しばらくは親方の家を間借りし、暇を見て住む家を探すと言っていた。

「どうせ無理だとわかったからさ、あんたの言う通りだもん、躰で金を稼いでいたあたしなんて、小梅の傍にいない方がいいんだ」

「……」

「宗治に抱かれようと思ったなんて、なんで言ったんだ。それさえ聞かなければ、かっとなって別れようとは言ったけど、俺だって、……黙って元の暮らしに戻れたぞ」

「……あたし、こんな女だもん」

 おせんの覇気のない声が虚しくひびいた。

あの夜、長吉に店を連れ出され、すずめ長屋に帰る道すがら、蹌踉とした足取りで着いて来た宗治が、おせんと酒場で飲むに至った経緯を長吉に訴えた。もちろん、両国橋で、お鶴と一緒のところを見たことも話した。それでも長吉は納得しなかった。自分のことは棚に上げ、疑いを寧ろ、女房のおせんに向けた。長吉は、おせんが昔、長吉と所帯を持つ以前、いかがわしい料理屋で働いていたことや、身請けされたやくざもんと淫らな生活を送っていたことなどを喋った。

「知っていたの」と泣くおせんに、親方との喧嘩別れの理由はそれだと言い放った。あの日、親方はうつむきながら、自分も昔、おせんを買ったから確かだと言った。どこかで見た顔だと思っていたが、祝言の日に思い出し、ずっと言えずにきたのだと途切れ、途切れに教えてくれた。こうなったら、どこの誰がお前の女房と関わりがあったか知れたもんじゃない。おせんとは、子供ができる前に別れちまえと長吉を説得した。嘘だと反対に怒鳴りつけ、激怒した長吉は、気が付いたら親方を殴り飛ばしていた。しかしそのころの長吉に、おせんと別れる気はどうしても起きなかった。過去は過去だと割り切って、二人で生きて行こうと一人誓った。だがいまになって思えば、長吉がおせんの過去を忘れたことなど一度もなかったのだ。おせんは悋気の強い女だが、ぶらぶらと仕事もしないで女遊びに耽る長吉を、頭ごなしに叱りつけたり、癇癪を起こすなどということは殆どなく、いつもどちらかと言うと、穏やかに冷静に、ことの次第を見守ってくれた。それは、おせんの中にある、長吉への後ろめたい、懺悔の気持だろうと薄々感づいていたし、またそういうおせんに対し、騙しやがってと咎める心が長吉に無かったとは言えない。

「行ってしまうんだね」

 おせんは泣き出しそうなのをじっと堪えてそう言った。決めた事だからなと言うと長吉は立ち上がり、まだ寝ている小梅を抱いた。小梅の首が後ろにだらりと垂れ、抱き直したとき、前のめりになって長吉の肩に鼻を打った。「うっう~」と言って泣き出す小梅を、長吉はあやしたが、目覚めで鼻を痛くし、機嫌の悪い小梅は、両手をおせんに投げ出した。

「おっかあがいい」

 おせんは小梅に背を向けた。台所に立ち、米を洗い出した。水桶の中には、今朝、長吉が汲んできてくれた水がぎりぎりまで張ってある。建て付けの悪い戸も、今まで何度、お願いしても直してくれなかったのに、今朝は日が昇ると同時に、カンナを片手に修理をしてくれた。

「もう行って……」

「ああ……」

「あっ、でもお前さん……」

 米を磨ぐ手を止め、小梅の小袖を掴もうと手を延ばしたが、裾はひらりと翻り、おせんの指先をかすっただけだった。振り返り、長吉はおせんを見下ろした。いつもの縞の着流しに、風呂敷を斜に結び、片手に小梅、もう片方で、長吉お手製の小さな行李を抱えていた。小梅はまだ、口の端を下げた泣きべそ顔で、長吉がどっちを向いても、おせんにきっと振り返り手を伸ばしている。声は出ていなかったが、さっきから涙が際限なく流れている。家の中の異様な雰囲気を、小さな体で感じているようだった。その証拠に、長吉の首に廻した右腕は、衿を、手が変色するほど硬く掴んでいるのに、もう片方はおせんに伸ばし、この世で大切な人をもう一人、掴まなくちゃと、必死に藻掻いていた。

「やっぱり……お前さん」

 おせんの言葉を、長吉は首を振って遮った。昨夜から、長吉のことを、どこか他人のように感じていた。七年も夫婦でありながら、目の前の男は、おせんとは全く繋がりのない人物のように思えてならない。

「小梅のことは心配するな、達者で暮らせ」

 長吉は、こちらが拍子抜けするほどあっさりとそう言い捨てた。長吉の顔を、おせんは見ることができなかった。未練もなく背を向けた長吉が足で戸を開けたとき、おせんは、つい手を伸ばして長吉の袂を引いた。

「このまま、本当に別れてもいいの。ほんとにほんとなの?あたし誰かと所帯を持っちゃうよ、……ねえ、お前さん答えて」

 長吉に縋り付くおせんの肩を小梅が掴んだ。泣き顔が本格的になってきている。おせんは小梅の手を握りしめた。

「くどい」

 長吉は顔を傾けて、微かにうなずきながらそう言った。小梅の小さな指をおせんの手から引き契った時、火がついたように小梅が泣きだした。

「じゃあな」

 玄関の鴨居に頭を打たないように首を曲げて出て行くいつもの背中は、もう二度とこの家の敷居を跨ぐことはないのだ。おせんは土間の柱に躰を預け、魂の抜けた屍のように、そのままするすると腰を落とした。

「どうしたんだいおせんちゃん」

 泣き喚く小梅を抱えて出て行く長吉を見たおすえが、草履を散らかして這い上がってきた。

「ねえ、あんた、どうしたんだよ」

 土間の柱に身体を凭せ掛けたおせんの目は、うつろに宙を向いていた。

「いいんですよ、おすえさん、酌婦上がりのあたしが、人並みのしあわせなんて望んじゃいけなかったんだから……」

「えっ、なんだって?」

 おすえも泣いていた。太い指先でおせんの紬を掴むと、何があったか知らないけど、いやだよ、小梅と離れるのはいやだよあたしと、泣き崩れた。

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