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謝罪  作者: 藤原蒼未
3/8

悋気

「しかしこう暑いと堪らないね、おせんちゃん」

「これからが夏の盛りよね」

 おせんは、おすえに笑いかけると、石鹸のついた手を振って、甲の方で額の汗を拭った。五日振りの休日である。家のことは、今日中にできるだけしておきたいと思った。

「しっかしうるさい蝉だね」

「生きるのに必死なんですよ、あたしたちと一緒」

 さっきから文句ばかり言うおすえが可笑しくて、おせんはくすくすと笑い声を立てると、肩に力を入れて汚れ物を擦った。蝉が競うようにして鳴いていた。その中で、時折聞こえてくる(ひぐらし)の、流れるような響きに、おせんは夏の美と、命の儚さを感じずにはいられなかった。。

 冷たい井戸水に両手を浸して洗い物をしていても、額際や首筋には汗がどんどん噴き出してくる。

「最近、仲が良いねあんたち夫婦」

「そう」

 おせんは上目遣いにおすえを見ると、すぐに眼を伏せ、所帯を持ったばかりの娘のように、頬を赤らめた。

「女関係が一段落したんだね?」

「えっ?」

「長吉さん、また女遊びしていたんだろう。知らない女と一緒のところを見たわけじゃないけどさ、木戸を出て行く姿で、なんとなく分かるんだよね、浮き足立ってるっていうかさ」

「ああ……」

 おせんはふーっと息を吐きながら背筋を伸ばした。おすえは勘が鋭い。これまでの長吉の浮気の殆どは、おすえに見つけて貰っていたようなものだ。

「まあ、良かったじゃないか」

「……」

「今夜は花火を見に行くんだってね、小梅がはしゃいでたよ」

「ええ、そうなんですよ、花火は毎晩のことですからね、明日にしよう、明日にしようと先延ばしにしている間に川開きが終わっちゃうことが多いでしょう。だから今年はぜひにと思いましてね。亭主も賛成してくれましたし、小梅も喜んで、喜んで」

 おすえがようやく話題を変えてくれて、お、せんは、ほっとしていた。

「近すぎて、ついついね、行きそびれちゃうんだよね、分かるよ」

「おすえさんも行きませんか、ご亭主殿と一緒に」

「ああ、うちはいいわ、亭主とじゃあ色気もないしね、ぎゃはははははは」

 おすえは笑っていたが、ふと手元を見ると、洗い終わったおせんの家の洗濯物が搾られて、大きな芋虫みたいなって、駕籠の中にいくつも治められていた。

ーいい人だな、おすえさん。


 湯屋から、すずめ長屋に戻った三人は、こざっぱりと浴衣を着こなして、夜の両国橋広小路に向かった。おせんと、小梅は同じ絵柄の浴衣。長吉には、藍染めの浴衣を、昨夜ほとんど不眠で仕立てた。

「相変わらずすごい賑わいだね、お前さん。小梅の手を離さないで下さいよ」

「おう」

 長吉は威勢のいい返事をすると、小梅の腰を持って、ひょいと肩に乗せた。

「あっ、落ちない、大丈夫?」

「お前は心配しすぎなんだよ、なっ小梅」

「うん」

 肩車された小梅は喜んで、長吉の眼元を抱え込んだ。

「おい小梅、それじゃあ、ちゃんが何にも見えねえぞ」

「あら、本当だ」

 おせんは前に回り込み、小梅の両手を長吉の顎の下にずらさせた。ついでに下駄も脱がせ、おせんがぶら下げて歩いた。空いた手は、小梅の足首を掴む長吉の腕の輪に潜らせた。

ーしあわせ。

 涙が出る思いでおせんは歩いていた。廻りを見渡すと、家族連れも多かったが、何よりも若い男女の姿が目立った。人目も憚らず寄り添い歩く十代の若者。空に上がる流星(花火)に歓声を上げる子供達。誰もが皆、しあわせそうに見えたが、この世で、あたしほど恵まれた女はいないと、おせんは、沸き上がる歓声よりも大きな声で叫びたい気分だった。それほど嬉しかった。長吉の浮気の苦悩など、すっかり消えていた。

 あの夜、湯屋の外で汗を拭きながら待っていてくれた長吉が眼に入った時、おせんは思わず長吉の胸に飛び込んで泣いてしまった。お鶴のところへ行ってしまったとばかり思っていたから、尚更、会えたことに感動した。

ーあの夜から一度もお鶴の元へは行ってない様子だ。

 長吉に、お鶴のことを問いただすことはしないので、確信はなかったが、この五日間、確かな愛情を受けている実感はあった。きっと大丈夫と、おせんは長吉を信じ始めていた。

「ほら小梅、見えるか。お舟がいっぱいだろう、あれが屋根舟、あれが猪牙舟(ちよき)だ」

 両国橋のほぼ中央で足を止めた長吉は、橋の下を行き交う舟を、一つ、一つ指さしながら、小梅に説明している。おせんは興奮する小梅の背をおさえ、自分も欄干に身を乗り出して舟を眺めた。橋の下を、何隻もの舟が行き交う様子は、子供の小梅でなくとも心を踊らせた。小梅がどんな表情をしてるの見たくて、おせんは顔を上げた。

「小梅、よかったね」

「うん、おふね」

「そうそうお舟……。あれ、お前さんどうしたんだい?」

 小梅は片手を振り上げてきゃっきゃと叫んでいたが、長吉は蒼白い顔になっている。空に舞い上がった流星の火花が開いても、長吉の横顔は険しいままで、どこか一点を見下ろしていた。例えようもない不安が、おせんを覆った。怖る怖る、長吉の視線の先を辿ってみた。

「行くよっ」

 きつい口調で言ったので、長吉は我に返ったように振り返っておせんを見たが、視界の中に、もはやおせんは映されていないように感じた。長吉の瞼の中にあるのは、屋形船で、大野屋の檀那と戯れるお鶴の姿である。

「おい、待たねえか」

「やだね、ぼーっとしちゃって」

 早歩きで先立つおせんの後ろを、人の群れに押されながら長吉は追い掛けてきた。

「なんだってんだよ」

「うるさい。小梅、ちゃんと掴まってなね」

 おせんの腕の中には、剥ぎ取るようにして奪った小梅がいる。

ーどうしようもないね、あいつは。

 涙が自然に溢れ出た。遊びならまだ我慢はできたが、さっき見た長吉の顔は、間違いなく嫉妬の炎に燃えていた。その嫉妬の先にいた女は、おせんではなく、最近ひょっこり現れた女狐である。長吉はあの女に惚れている。堪れない気持は悋気という言葉では、どうにも収まりきれなくなっていた。

ー別れちまうか。

 涙を拭ったとき、腕をもぎ取られるかと思う強さで引っ張られた。

「おい、待たねえか。とことことこ先に行きやがって……ん?」

 苛立つ声の長吉が、腰を少し屈めておせんの顔を見つめた。おせんは凄いような眼で長吉を睨んだ。人混みで立ち止まったので、行き交う人に舌打ちされたり、躰をぶつけられたりしたが、長吉は、きっと相手を睨むだけで、手も口も出さなかった。普段とは明らかに様子が違う。

「お前、どうした?涙が流れてるぜ……眼ん玉にゴミでも入ったのか?」

「ばかっ」

 もういやだと、長吉の胸を力いっぱい押して、おせんは足早に橋を下りると、そのまま猪のように、突っ走って正面に掛けられた芝居小屋に入った。

ー何やってんだろうね、あたしは。

 芝居小屋の桟敷は満杯だったので、人に揉まれながら立ち見をしていた。と言っても芝居を見ているわけではない。汗だくの小梅に、手で風を送りながらぼんやり、さっき見た光景を思い返していた。芝居は、季節外れの赤穂浪士が演じられていること以外、頭に入らなかった。そのうち小梅がぐずりだし、おせんと自分の躰を引き離すように、両手をつっぱって、暑いと泣き出した。廻りの客に文句を言われたので、仕方なく、芝居小屋を出た。

 出口で長吉の姿を探したが見当たらない。背の高い長吉は、人より頭ひとつ抜き出ているので、探すのは容易の筈だった。まさか、間男が阿呆面下げて、お鶴のところに行って、大野屋と喧嘩沙汰になってるんじゃないかと一抹の不安も抱いたが、そうなりゃなったで仕方のないこと。自分には女髪結いという仕事がある。手に職がある限り、生活に困ることはないし、長吉という、どうしよもない食い扶持が一人減ったと思えば、この別れもそう惜しんだものじゃない気がしてきた。

「小梅、お腹すいたか?」

「うん」

 元気に返事をする小梅のおかっぱの髪は、湯屋帰りのように汗で濡れていた。

ー親の勝手で悪いことをした。

 小梅を愉しませるために来た祭りなのに、両親の痴話喧嘩の板挟みになり、鮨詰めの芝居小屋で悶えていた小梅が不憫でならなかった。小梅を下ろし、ありったけの笑顔で言った。

「小梅、今夜は何でも好きなもの食べていいんだよ、ささどこに行こうか?」

「うーん?」

 暑さで上気した頬に、小指を突きさして考える小梅の顔を見ていたら、ふとあることを思い出した。

ー財布がない。

「あーっ」

「えっ、おっかあ?」

 いきなり声を上げる母親を、小梅は驚いて見上げた。

「ごめんよ、小梅、おっかあ財布持ってないんだよ」

「……かね、ない?」

 小梅はおせんの両手を掴んだ。そして大きく横にゆらしたり、上下に振ったりしている。

「財布は、ちゃんに持たせたんだった。ありゃりゃ、失敗しちゃったね」

「どうしゅる?」

 小梅はかなり不安気だ。眉を寄せたしかめっ面になると、おせんの手を振り回すのをやめた。

「どうしようかね、小梅」

「おうちにかえる?かねもってくる?」

「んーっなんだか面倒だね」

 おせんは両国橋の人混みに眼をやって項垂れた。あの橋を渡って帰って、また、ここへ戻って来る体力が自分に残っているだろうかと疑問だった。しかも小梅を抱いていた腕は、今でも感覚を無くすほど痺れている。

「そうだ」

ー思い付いた。

 おせんは俄に少女のような顔になると、不安顔の小梅を抱き上げた。

「宗治おじさんのところでスイカを御馳走になろうかね?」

「うんうん」

 小梅は何度もうなずいた。


 宗治の店のある河岸は今夜も混んでいたが、おせんの足取りは軽かった。もしかしたら、いやっ、十中八九長吉はそこにいる筈だと思ったのだ。あの時は頭がかーっとなって長吉を振り払って芝居小屋に駆け込んでしまったが、よくよく考えたら、長吉のあの視線は、ただ不思議な物を見たといった類のものだったかも知れない。それを色眼鏡で見てしまった自分の方に責任があるのだとおせんは解釈しようとしている。というのも、この五日間の長吉といえば、常におせんに気を遣っているように思えたし、溢れんばかりとはいかなくても、情熱的な夜もすごした。秘め事を思い出してる自分が恥ずかしくて、おせんは袂を顔に押し当てて、くすくす笑った。そんな母親を、小梅が眉をしかめて見ていた。

「やだ、小梅……」

 照れていると、おせんちゃんと声を掛けられた。聞き慣れた声である。心がすーっと落ち着いた。

「あらっ」

 気が付いたら、宗治の屋台の前まで来ていた。

「宗治さん」

「何、一人で笑ってるんだい」

「いやいや何でもないのよ」

 馬鹿な姿を見られたと、おせんは手をひらひら振って、身体を左右に揺らした。宗治は他の客の相手をしながら、ちらちらとおせんを見ては、首をひねっている。

「さあ小梅、食べていいんだよ」

 切り分けられたスイカの載った台の前に小梅を下ろすと、おせんは腰に手を当てて、あーっ疲れたと躰を大きく反らせた。

 宗治には貸しがある。おせんはそう思っていた。長吉と所帯を持ってから最初の五年間というもの、宗治はほぼ毎晩、長吉とおせんの暮らすすずめ長屋に立ち寄っては、唯飯を喰らい、唯酒を飲み、唯泊まりをしていた男である。その頃はいまのような二階屋ではなく、同じすずめ長屋でも、棟割りの九尺二間の狭い方の家に住んでいた。

 宗治の飲み食いが、余計に家計を火の車にした一つの原因なのだから、スイカのひとつや、ふたつ、ただで貰っても罰は当たらないと、おせんはにんまり微笑んだ。

「宗治さん、うちの人、来なかった?」

「いいや、今夜は来てないよ。おせんちゃんと一緒じゃなかったのかい?」

 宗治は客に釣り銭を渡しながらそう言った。

「一緒だったんだけどね、さっきまでは……はぐれちまったんっだよ」

 おせんの声は力を無くしていた。眼を懲らしたり、背伸びをしたりして周囲を見渡すが、長吉の姿はどこにも見当たらなかった。

「先に帰ったんじゃない?」

「そうかもね、そう、きっとそうね」

 自分を納得させるように言うと、宗治から与えられた椅子に腰掛け、屋台の内側でちゃっかりスイカと瓜を交互に頬張っている小梅に微笑みかけた。

「水菓子代として手伝っちゃおうかねえ」

 と言いながら、おせんは、待っている客に注文を聞き出した。最初は、いいよ、いいよと恐縮していた宗治も、忙しさにそうも言ってられなくなり、接客はおせんに任せ、自分はスイカや瓜を切りだした。

「おっ、随分と別品なおかみさんだね、子供もいるのかい、かわいいな」

 などと冷やかす客も多く、そのたびにおせんは、

「いやだよお客さん、うちの亭主の幼馴染みなんだよ、この人は」

 と弁解したが、宗治は否定もしなければ、肯定もせず、にこにこと嬉しそうだ。その顔を見ると、長吉がいつも言うように、宗治が自分に気があるような気がしてきた。宗治は、白皙の美男子とまではいかないが、背丈もあり、優しい顔で、女に良くもてる。長吉と並んで歩くと、若い娘に限らず、よぼよぼの婆さんまで眼を留めるほど目立った。

 そんな宗治が、女と浮いた話しがないのをおせんは気に掛けている。一時は真剣に相手を見つけてあげようと、良い頃合いの娘がいる親に、片っ端から声を掛けてみたが、娘や親が宗治を気に入っても、宗治はまるで娘に興味を示さなかった。

「ねえ、お前さん。宗治さんてもしやこれかい?」と、片手を頬に当て、品を作ってみたことがあるが、「馬鹿かお前は、宗治は岡場所に週に一度は通ってる助平な男だぜ、男が好きってことはねえだろうよ。現に俺と一緒に行った時もよ、あの娘は気にいらねえ、もそっと乳の大きなのはいねえかと、うるせえんだよ。俺なんてね、顔がついてりゃいいんだけどな」と、口をすべらせた長吉が、おせんに組み伏せられ、顔に猫にされたような引っ掻き傷を作ったことがある。

「いい男なのにね」

 売り物の水菓子も少なくなり、客足が途絶えたところでおせんは、ぼんやりそう言った。

「えっ何か言ったかい?」

「あっううん、何でもないんだよ」

 おせんは慌てて首を振った。

「おせんちゃんのお陰で、今日は売れ行きが良かったな」

「そんな、あたしのお陰なんて」

「いや、そうだよ。おせんちゃん美人だから、客がわんさか集まってくる」

「そうかしら」

 おせんは無意識に後れ毛を撫でつけていた。そういえば、久しく異性から褒められたことなどなかったような気がする。長吉にはいつもおかめ、おかめと蔑まれ、最後にいつ、おせんという名で呼ばれたかさえ覚えていない。おせんは心なしか、浮き立つような心地でいた。

「そろそろ行こうか?」

 店の後片付けをした宗治が、片腕に小梅を乗せてそう言った。

「どこへ?」

「腹が減ったでしょう。飯を御馳走するよ」

「そんな悪いわ……」

 長吉と屋台で夕飯を食べようと考えていたので、正直さっきから腹が鳴りっぱなしだった。しかしスイカや瓜もいただいたことだし、その上、食事まで馳走になっては浅ましい。夕餉の誘いは断るべきだと考えた。

「家に冷や飯が残っているかも知れないし、ねっ小梅」

 宗治に抱っこされている小梅は、宗治の首に小さな腕を廻すと、激しく首をふった。

「小梅も、外でおまんまが食いたいよな」

「うん、うん。湯漬けはいやなのよ、おっかあ」

 宗治の腕の中で、小梅は自分の腹をぽんぽんたたいた。

「もう、小梅……恥ずかしい」

「あそこの天ぷら屋が旨いんだよ、行こうっ」

 宗治は十軒ほど先の天麩羅の看板を指さして言うと

「小梅は天ぷらが好きだもんな」

 とおせんの返事を待たずに歩き出していた。


「ご馳走様でした」

 おせんは、小梅の頭を下げさせて、自分も丁寧にお辞儀した。

 天ぷらを食べている最中も、天ぷらを食べ終えてからも宗治は上機嫌だった。他の客から親子連れと間違われるたびに、宗治は赤く染まった首をさすって照れていた。誤解を解こうとは、いちどもしなかった。屋台の店主は宗治と顔見知りだから、おせんを女房と間違うことはなかったが、元来、無口な性質なのだろう、じっとおし黙ったままで、時折、宗治に眼をやっては、口元をやんわり緩めていた。おせんもそんな宗治の態度に流されるように、否定も肯定もせず、勘違いする客の言いたいようにさせていた。宗治が何も言わないのに、慌てて否定するものどうかと考えたからだ。 

 遠慮もあり、腹七分目に抑えたおせんは、進められた酒には口をつけなかった。宗治は少し酔っているようだった。橋の方へ歩いて行く途中、人に揉まれ、何度も宗治と躰をぶつけたが、そのたびに濃い酒の香がただよい、そうすると長吉のことが思い出され、気持が塞いだ。

 腹を満たした小梅は、宗治の腕の中ですやすや寝ている。行き交う人々は、自分達を間違いなく家族と見るだろうし、知り合いにでも見られでもしたら、それはそれで厄介な弁明をしなければならないと負担に思ったけれど、長吉との夫婦生活をこの先も続けていけるのか定かではないいま、些細なことに神経を尖らせるのはやめようと考えた。

 橋を渡り終え、東詰の広小路に下り立ったとき、宗治が急に立ち止まった。

「どうしたの宗治さん」

 宗治は振り返ると、おせんを躰で庇うようにして、あっちから行こうと、家とは別の方向を顎で差した。

「えっ、なんで。遠回りになるじゃないの」

 おせんが宗治の大きな肩越しに顔を突き出そうとしたが、宗治は、小梅を抱いてない方の腕でおせんを抱え込むようにして押し歩いた。

ーまさか。

 宗治は嘘が下手だと思った。さっきまで酔ってにやけていた顔が、あまりに神妙になりすぎた。駒止橋のたもとまで背を押されて歩いてきたとき、おせんは不意打ちのように後ろを振り返った。

「あらっ……」

「おせんちゃん、さっ行こう」

 そこに居る宗治の声が遠くに聞こえた。いくら人混みの中とはいえ、こんなにも自宅から近い広場で、自分の亭主とお鶴が、囁くような距離でいちゃついているではないか。

「人を馬鹿にして……」

 ふしぎなことに、人の押し合う雑踏にいても、長吉とお鶴の輪郭だけは、そこだけ妙な色を帯びて浮かび上がり、まわりの人々は、時が停止したように灰色に見えた。もちろん長吉と、お鶴の話す声は聞こえない。だが、伏し目がちにうつむく長吉に、腰をくねらせながらお鶴が、何かを必死で伝えようとしているのが分かる。その様子は、恋仲の男女が、何やら揉めているようにも映った。お鶴は大胆だった。長吉の袖を振り回し、時に頬を寄せて顔を覗き込んでいる。長吉はというと、片手がお鶴の腰から下の辺りを擦っていた。

ーいやらしい……知り合いに見られても構わないというの。

 全身に戦慄が駆け抜けた。機嫌を損ねて駆け出した女房と、その胸に抱かれている娘を追わず、お鶴とべたべたする長吉が赦せなかった。

「おせんちゃん、見ちゃいけねえ」

 宗治が怯えたような声を出しておせんの肩を抱いた。

「きっとなんかの誤解でさあ」

「いい加減なことを言わないでっ」

 おせんは怒鳴っていた。宗治の手を振り払い、悪人でも見るような目で宗治を睨んだ。おせんの怒鳴り声で、廻りの人間がいっせいに振り向き、訝しげな目を投げてきた。くすくすと笑って通り過ぎてゆく人たちのことは気にならなかった。声に驚き、うとうとしていた小梅の肩がぴくりと動いたのに、ふっつき虫のようにいやらしい、長吉やお鶴には聞こえなかったようだ。

「おせんちゃん行こう。いま怒鳴り込むなんてことはしない方がいい、……おせんちゃんが惨めになるだけだ」

「なぜ、なぜあたしが惨めになるの、あの人が、あたしじゃなくて、あの女を庇うとでも言いたいの?」

「いや……」

「宗治さん、なんか知ってるんだね、あの二人が、あれと昵懇なのを知ってたんだね……知ってて、三人であたしを笑ってたんだろう。いままで、あの人が浮気するたびに、あたしを宥め梳かしてくれたのも、あたしのことを考えてではなく、あの人のためにしていたことなんでしょう」

 全てを言い終わらないうちに、おせんは駆けだしていた。走り寄る足音はなかった。涙を手の甲で拭いながら、どこまでもどこまでも、川縁を走り続け、吾妻橋まで来たところで、周囲の暗さに気が付いた。無我夢中で注意してなかったが、人通りのない、薄暗い所まで来てしまっていたらしい。武家屋敷の外灯を仰ぎ見て、ふっと深い溜息を漏らすと、おせんはいま来た道を戻りはじめた。横綱町の路地を左に曲がり、回向院の前を通り抜けたけれど、その裏手にあるすずめ長屋には帰る気がしなかった。長吉の帰宅を、寒々とした心で待つのがいやだった。

ー小梅。

 小梅のことが気に掛かり、一つ目橋のところでうろうろしていると、数人の男に声を掛けられた。夜鷹だと間違われたらしい。顔を伏せて、小走りに相生町一丁目と二丁目の路地にさしかかったところでまた足を止めた。酔っぱらいに顔を覗き込まれたり、しなだれ掛かってくるのを除けたりしながら立ち竦んでいると、

「おせんちゃん」

 と、やさしい声が背中をつついた。

「宗治さん、小梅は?」

「小梅なら、おすえに預けてきたよ」

「うちの人は、家に戻ってないんだね……」

「……」

「そう……」

 べそを掻いてうつむいていると、宗治が肩を抱いてきた。長吉で嗅ぎ馴れた酒の匂いがしたが、いやだとは思わなかった。暖かい愛情のようなものが、宗治の掌から伝わってきた。

「行こう」

「いやよ帰るのは、……寂しいもん、あたし死んじゃうかも知れない」

 小梅がするように大きく首を振って躰を堅くするおせんに、宗治はやさしく微笑んだ。酒の香は残っているが、顔は、いつもの涼しい宗治に戻っている。夜の町と、宗治から香る酒の匂いが、おせんを開放的にしているようだった。母親とは、別の顔になっている気がした。おせんは躰を翻し、家とは反対の方向に向かって歩いた。

「どこに行くんだい、おせんちゃん」

「……」

「仕様がないな、飲みにでも行くか?」

 宗治は笑って、指先で杯を煽る仕草をして見せた。


 同じ頃、長吉はお鶴の部屋にいた。二階の寝部屋の縁側から、外の景色を眺めている。といっても、昼間なら翡翠色の川が広がる風景も、夜は漆黒の中に、ぽちゃりとした水音と、桟橋に繋がれた舟がぎしぎし軋む音が聞こえるだけである。

「気になるの?」

「ああ」

 お鶴が団扇で長吉に風を送っていた。それを邪険に払って長吉は首を振った。

「もう、いい」

「今更、悔やんだって仕方ないじゃないの」

「……」

 長吉は無言で部屋の奥に眼をやった。乱れた夜具が延べてある部屋に、お鶴の躰から剥ぎ取った、小袖や襦袢、湯文字などが散乱していた。

「あたしたちはきっと離れられないんだよ、ねっ長吉さん」

 長吉の腰に腕を絡みつけ、素肌の胸板に顔を寄せてきたが、その肩を抱き寄せる訳でもなく、意思のない、まるで人形のように長吉はただ、そこに座っていた。

 長吉の鬱屈は自分自身に向けられていた。五日前、湯屋の格子戸からおせんと小梅を覗き見て、親子三人で冷水を食べた夜は、真剣にお鶴と手を切ろうと決めていた。だからおせんを愛情を込めて扱ったし、今夜だって、行きたくもない祭りにも出掛けたのだ。喧嘩別れした親方にも詫びを入れ、もう一度一から唐木職人として出直すところまで話しが進んでいた。もう、おせんの情夫に似た生活をからは脱したかった。

 両国橋から下を覗いたとき、お鶴が、大野屋の肥えた躰に寄り添っているのが見えた。長吉は、表現しようのない嫉妬に駆られた。自分でも驚いたほどである。お鶴のことは好きだったが、捨てると決めた女だったし、お鶴が囲われの身だということは承知していたから、今日は檀那が来るから早く帰ってね、などと言われたときでも、後腐れがなくてこりゃいいや、くらいにしか思わなく、嫉妬に身を焦がしたことなど一度もない。それなのにいざ、お鶴と、大野屋の仲睦まじい姿を眼にすると、なんとなく惜しいような悔しいような、妬ましい気持になっていた。

 果たして、おせんが小梅を抱いて芝居小屋に駆け込んだのをいいことに、お鶴が大野屋と舟から上がる頃を見計らって、船着き場でお鶴を待ち構えた。待つこと半刻(一時間)大野屋から少し送れて、お鶴が舟から降りてきた。大野屋はまだ船着き場にいる。悟られては具合が悪い、長吉としても、ここで大野屋と揉め事になるのは御免だ。

 お鶴が大野屋と、完全に離れるまで遠巻きに観察した。お鶴が、お付きの女中と二人になったのを確認すると、駕籠に乗り込もうとするお鶴に目配せをして、橋の東詰に引き寄せた。そこまではよかったが、そこでお鶴は、長吉が思ってもなかった行動に出た。冷静な女だとばかり思っていたお鶴が、人目も憚らず突然泣きだしたと思ったら、家まで連れ帰ってくれなければ橋から飛び降りて死ぬるとまで言い出したのだ。困り果てた長吉は、いろいろな言葉でお鶴を宥めめた。しかしお鶴は生娘のように首を振り、全く聞き耳を持たない。そうしているうちにも何人もの知り合いが、脇を通り過ぎって行った。男の知り合いは、にやにやとからかうような目付きをしていたが、女の知り合いなどは、汚物でも見るように、長吉とお鶴を眺め、けっ、と息を吐いて過ぎて言った。この時点でもう、おせんの耳に、お鶴とのことが入るのは確実である。裏店の女房衆などは、人の噂話しか、愉しみがないような生き物だ。どんな尾ひれが付くか知れたもんじゃない。口を吸い合ってたなんて嘘も、序の口のような気がした。しかし、それよりも何よりも、この現場をおせんに押さえられたりしたら修羅場だ。それだけは避けたかった。

 憔悴し、疲労も困憊していた長吉は、もうどうにでもなれと、殆ど投げ遣りに、お鶴を家まで連れ帰った。玄関先で見送るつもりだったが、ここでも長吉の予期せぬことが起こる。

 腹が痛いとお鶴が躰をねじ曲げ、土間に蹲ったのだ。始めは芝居かしらと怪しんだが、お鶴は額に脂汗を掻いていた。艶やかで薄い唇からは、ほの甘い吐息を漏らしている。お鶴の小柄な躰を支え、居間まで運んだ長吉は、ちょっと待ってな布団を持ってくると言って二階への梯子をよじ登った。

 布団を抱えて振り返ると、そこにお鶴がいたから驚いた。お鶴さん、もう大丈夫なのかいと額に手をあててみると、やはり熱があるようだった。頬も上気して赤い。さっき丸めたばかりの夜具を延ばして敷いて、お鶴を横に倒すと、帯を解いてくれと頼まれた。知らない躰じゃないので、なんの躊躇もなく帯揚げ外して帯を緩めると、お鶴が首に絡みついてきた。病人とは思えない凄い力で引き寄せられ、少し恐怖を感じたほどだ。それからは、いつものように淫楽を味わったのだが、今夜に限っては後味が悪かった。おせんのことは気に掛かるし、自分の不甲斐なさにもほとほと愛想が尽きた。

 お鶴は普段、凛と構えた隙のない女だったが、褥の中では別人となった。そこがお鶴の魅力でもあった。

 お鶴との出会いは昨年の夏のことである。日雇いの肉体労働は、夏場は疲労が身に染みてきつい。昼食時、食欲もなく路地で座り込んでいた長吉に、沈香の香を漂わせたお鶴が話しかけてきた。家の格子戸の建て付けが悪いから直してくれないかと、突然頼まれたのだ。自分の家の建て付けも直さないくせに、報酬は弾むという、美人のお鶴の家にいそいそと出掛け、躰の関係を持つようになったのは、ほんの二月ほど前のことである。

 それまでは月に、一度の約束で出掛けて行っては、箪笥や鏡台、縁側などといった類の修理をしていただけである。長吉は、浮気の常習犯だ。浮気をすることでの罪悪感など殆どなかった。そんな気持が、辛うじてあったとしたら、所帯を持って一年もしたころに、酔った勢いで、宗治と岡場所に行った時くらいであろう。あの夜は、家に入ることも憚られ、冬の寒空の下、早朝おせんに気付かれるまで、酔いつぶれて外で寝てしまった風を装った。

 濃密な情交で果てて眠るお鶴の脇を這い出て縁側に座った長吉は、これまでのことと、これからのおせんとの生活のことを考えていた。しかしいくら悩んでも、おせんと別れるという二文字は浮かばなかった。おせんは器量はまあまあだが、働き者で、気持のやさしい女だ。それに、この世でたった一人の小梅の母親でもある。家族離散など、想像するだけでぞっとした。

「あんたも堪え性のない人ね」

「お鶴さんに言われたくないねえ……」

 緋色の襦袢に腰紐ひとつ巻き付けただけの姿で、胸などは、乳房がこぼれそうなほど開いていたが、お鶴は構わない様子で長吉に甘えてきた。濃い沈香の香が、今宵はいやに鼻についた。胸が悪くなる思いである。

「今夜、泊まっていって」

「いや、それはだめだ……」

「どうして?」

「どうしてって……」

 冗談じゃないと長吉は思っていた。両国橋の上では気付かなかったが、ここに来て漸くおせんがぷりぷり怒った理由が分かった気がする。女の勘というか、霊力のようなもので、、長吉の見つめる先の女を見咎め、それが自分の亭主となんらかの関わりを持つだろうと感じ取ったに違いなかった。これで無断外泊などしたら、今度こそお仕舞いだ。長吉は顔をあげた。

「お鶴さん、いま何時かな?」

「さあ、夜五つくらいかしらね?」

「そりゃいけねえや」

「なによ、いきなり、いやだよ帰らないで」

 長吉の袖を引っ張る指を一本、一本、解いてから、やさしくお鶴を抱き寄せた。お鶴が満足そうな溜息を吐くと、ごめんよと言って、脱ぎ捨てた着物や帯を拾い集める、長吉は足早に梯子を降りて行った。

「ちきしょう、湯に入らないと帰れねえぜ」

 通り縋る人を除け、時には除けすぎて転びそうになりながら、長吉は松原町の湯屋まで駆けて行った。

「閉まってたら、扉を蹴り破ってでも入ってやるぞ、もうろく爺待ってろよ」

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