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謝罪  作者: 藤原蒼未
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女狐

 おせんの元に、とんでもない相手から仕事の依頼が迷い込んできた。深川西町に住む三味線の師匠、お鶴の元へ行ってくれと、髪結いを始めたころからの馴染みの客、おこうに頼まれたのだ。

ーお鶴?

 すぐにぴんときた。おせんは彼女の名を知らなかったが、住んでいる場所といい、三味線の師匠といい、飛び込みの客が、あの女狐だということをすぐに察した。念の為に容姿や年令を聞いてみた。何もかもぴったり一致する。

ー亭主と変なことしてる女の髪を結うなんてとんでもない。

 おせんは物憂いに断った。だが、もう引き受けてしまったのだと、おこうは手を摺り合わせて懇願してきた。おこうとは、相生町でつき屋を営むおかみで、十三年前に亭主が病死すると、息子を抱え、女手一つで商いを切り盛りしてきた遣り手である。歳は三十後半といったところか、なかなかの美人だが、持ち前の気の強さが災いして、ここ何年も男日照りだと、恥ずかしいことを平気で言うような、男勝りな女だ。

 おこうには随分と可愛がって貰ってきた。新規の客もたくさん紹介してくれた。もう、承諾してしまったという仕事を、無下に断る訳にはいかなかったし、事情も事情だった。その鶴という女は、ふだん自分で髪を結うらしいのだが、先日から肩の調子がおかしく、昨日、今日と上手く上げ下げができないらしい。「あんた引っ張りだこだからさ、忙しいとは思うけどさ、息子の手習いのお師匠さんなんだよ。頼まれてくれないかね、明日、一日だけでいいからさ」と頭を下げられては、仕様がない。渋々ながら、受けてしまった。


―やはり間違いだった。

道具箱をみぞおちの前で抱え、思い煩っていたら格子戸が開いた。

「あら、髪結いさん?」

 お鶴が突然、顔を突き出したので驚いた。その拍子に道具箱を危うく落としそうになった。空いてる方の手で、黒半襟を掛けた衿をささっと直していると、お鶴の立つ方から、強い沈香が漂ってきた。長吉の胸から香ったのと同じ匂いである。

「突然なことでごめんなさいね」

「はい」

 うつむき加減で眼だけを上げた。近くで見ると、お鶴の肌は、絹のようにするっと光っていた。

ーふれたらきっとやわらかいんだろう。

 おせんは心で溜息をつくと、つき屋のおかみさんから紹介を受けたおせんですと、頭を下げた。

「おせんさん、あたしは鶴よ」

 お鶴はぺろっと舌を出し、招き猫のような手招きでおせんを家の中へ誘った。大年増なのに、することが娘のようでいて、またそんな仕草にふしぎと違和感を感じなかった。見るからに高級そうな黒紗の小袖が、妙な色気を出していた。おせんは髪を撫でつけた。

ー紅くらいひいてくれば良かった。似合ってたのに。

 お鶴の家は独立した二階造で、一階は二間に分かれており、土間を入ってすぐの間が、稽古場として使われているのだろう。三味線や、ふ譜面台が置かれている。眼にも鮮やかな小紋が掛けられた衣桁の前で、香が焚きしめられていた。他に人の気配はしなかった。

「なにか珍しいものでもありましたか?」

「あっいいえ……」

「気に入った物でもあれば、三味線以外はなんでも持って帰って下さいな、うちは物が多くて仕様がない。貰いものばかりだけどね」

「とっとんでもありません」

 おせんは道具箱を下に置くと、両手で煙りでも払うように手を振った。物欲しそうに見えたのだろうかと首を竦め、恥ずかしさに頬を染めた。

 お鶴はホホと笑い、襖の開け放った居間へおせんを通した。おせんは、つま先だけを見るようにして歩き、もう室内を見渡さないように努めた。物欲しそうに見られることと、長吉の足跡を眼にするのはいやだと思ったからなのだが、すぐにその考えを打ち消した。

 おこうから、お鶴の檀那の話しを聞いている。お鶴は、おせんの予想通り囲い者だった。旦那は柳原町にある大野屋という煙管屋で、店舗は小さいが、上級武士や商家の主、遊郭などに多く顧客を持ち、繁盛している店だ。大野屋に囲われている家に、長吉の私物などある訳がないのだ。おせんはほっと胸を撫で下ろす思いで安心すると、鏡台の前に座るお鶴の後ろに膝を折った。

「無理言って頼んでしまって。運が悪いことに、手伝いの娘が帰郷していてね、何をするにも、腕が上がらなくて困っているのよ……」

 お鶴は、その艶やかな印象の顔には似合わないしゃがれた声で話した。後ろから見ていても、首の細さと、しなやかな撫で肩が女らしかった。躰だけは丈夫で骨太のおせんとは対照的であった。

「おせんさん、聞いてる?」

 お鶴が鏡越しに聞いた。おせんは、はっと我に返りうなずいた。たすきの端を口に加えた顔を上げ、鏡に映るお鶴を見た。だがすぐに目線を落とした。並んでみると、器量の差は歴然だった。いじけたように下を向いて、たすきを掛けると、道具箱を広げた。心臓がばくばくと音を立てているのが分かる。お鶴は、薄いが、整った唇をしていた。あらぬ想像が、おせんの胸を掻き乱した。

「髪も結えないみすぼらしい恰好じゃ稽古もつけれないでしょう。昨日は悪いけど、お弟子さんらには帰ってもらったのよ。でも、ほら、そのあと急の来客があってね、(びん)が乱れちゃって、分かるでしょう?」

「さあ……」

「こういう話しは苦手かしら、ごめんなさいね」

 と、お鶴は振り返り、また舌を出した。お鶴が急に動いたことで手元が狂い、おせんは櫛を落としてしまった。お鶴が何を伝えようとしているのかは、おせんも小娘ではないので分かる。お鶴の鬢を乱した相手が、大野屋の檀那でないと勘ぐり、おせんは動揺した。

 昨日、長吉は昼前に家を出た。戻ったのは夕暮れ時だが、湯へ行ってきたのだと、やさしい目をして笑っていた。脱いだ縞の単衣から、シャムの香が匂っていた。

「そう乱れてませんよ」

 こう言うのが精一杯だった。ふだん接客のときの活発な物言いはできず、暗く沈んだ声になっているのが自分でもわかったが、どうすることも出来なかった。

 お鶴の元結いを(はさみ)で切りながら、刃先をお鶴の細い首に突き刺す想像をした。血が噴き出し、お鶴の美貌が醜く歪んでいく妄想は心地良かった。唇を内側に隠し、心の中で小梅の名を何度も称えて冷静を保った。おせんは膝立ちから腰を落とし、悋気に殺気立つ自分の姿が鏡に映らないようにした。

「おせんさん、ご亭主は江戸の人?」

「えっええ」

 いきなり長吉の話題になるとは思わなかった。指先が震えるので、見えないように何度も結んだり、開いたりを繰り返しながら髪の毛を梳いた。

「何をなさってる方?」

「職人ですの……大工です」

 まさか以前は唐木職人で、今は髪結いの亭主を気取り、だらだらと日を過ごしていますとは言えない。気が付いたらおすえの亭主の職業を言っていた。へえ、大工ねえと、お鶴の肩が笑った。

「お子さんは?」

「一人」

「女の子、それとも男の子、ちょっと待って当ててみよう。女の子でしょう」

 お鶴は、指先を鏡に投げて言った。良く動く人だと、おせんは、小さな溜息をついた。

「ええ、あたり……」

「当たった、当たった!」

 と、お鶴は手を叩いて喜んだ。腰を浮かせて微かに飛んだので、おせんは手の動きを、しばし止めなければならなかった。膝の上で櫛を持った手を揃えて、お鶴が鎮まるのを待った。

「名は、なんていうの?」

「小梅といいます」

 間をおかずに答えてしまったことを、おせんはすぐに後悔した。決して珍しい名ではないが、お鶴に、自分の亭主が長吉だということを悟られやしないかと不安に思った。

「小梅ちゃん」

 お鶴が振り返ったので、おせんの手から梳き櫛がぽろりと落ちた。これで二度目である。

「かわいい名ね、名付けたのはご亭主?」

「……えっ、ええ」

 おせんは慌てて櫛を拾い、お鶴の髪を丁寧に梳きだした。小梅というのは、長吉の死んだ祖母の名だと聞いている。長吉はばあちゃん子で三文安いと、義母はいつも笑いながら話してくれる。長吉は、義母が十五の年に産んだ子らしく、十近くも年上の義父と並ぶと、義母は娘にしか見えないほど若々しかった。

「いいご亭主なんでしょうね?」

「そうでしょうか……」

 振り向いたとき、ちらと見たお鶴の目が頭に残っていた。切れ長で色っぽいが、どこか幼いような輝きがあった。完敗だと思った。器量では、このお鶴の方が数段、上をいっていた。

 おせんはそうは思わないが、世間で長吉は、男ぶりのいいと言われる。その長吉と、美貌のお鶴は良く似合う。これまでだって、長吉の浮気相手はみんな美人だった。自分のような十人並みの女と、長吉が所帯を持つ気になったこと事態が奇怪な出来事なのかも知れない。

 おせんはまるで、風のない日に、全速力で走って、どうにかこうにか飛ばした凧が、急降下していくように気力を失っていた。

「いくつ?」

「三つです」

「あら、いやだ。お子さんじゃなくておせんさんよ」

 お鶴は鼻で笑った。

ー今までの流れだと、娘のことだと思うじゃないのさ。

 心でむっと舌打ちしながら、おせんは、二十五になりますと答えた。

「へーっ二十五、若くていいわね。あたしはもう三十の大年増よホホホ……ッ」

 お鶴は、声をあげて愉快そうに笑った。口では自分を大年増と蔑みながらも、言葉尻から漏れる高慢さを感じた。人様の亭主である、大野屋や、長吉から愛されているという実感からくる自信なのか?お鶴は、女の目からも輝いていた。おせんの中に、嫉妬と悔しさが渦巻いた。

 ふいにその時、もしかしたら、お鶴は、自分を長吉の女房だと知っていて、わざわざ指名したのではないかとう疑念を抱いた。だとしたら赦せる話しではない。しかし、どうやって、おこうとおせん、長吉が結びついたのかがわからない。

「どのように結い上げますか?」とおせんは聞いた。そして、お鶴の心理を覗き見ようと、少々、試すような言を言ってみた。

「うちの亭主は、丸まげが好きなんですけどね、ほら、あたしのような」

 おせんは大胆にも、比較的大きな髷の自分の髪を鏡に映し、お鶴に見せつけた。おせんの年令ともなると、小さめの髷を結うのが常だが、長吉は、嫁いだばかりの娘のような、大きな髷を好んだ。

「あら、そうご亭主は、大きな丸まげが好きなの……」

 お鶴の顔に初めて嫉妬の色が出た。笑顔が引きつり、唇の端が小さく痙攣した。おせんはこの時、お鶴が、自分を長吉の女房と知って指名したのだと確信した。お鶴の表情や態度からは、先程までの自信が消え、白粉の下に隠していた無数の皺が、目尻や額に浮き上がった醜い顔をしている。いい気になったおせんは更にお鶴を追い詰めた。

「お鶴さんでしたら、銀杏返しにでもしときますかね、ご亭主はいらっしゃらないようですし、年令的にもその方が、ねっ?」

「そっそうね」

 三十すぎの女の結う髪型を言うと、お鶴の美貌は、怒りとも、嫉妬とも取れない険しい顔に変貌した。それからしばらく二人は口を噤んだ。陰湿な空気が、異様な緊張を醸し出していている中、お鶴が口を開いた。

「おせんさん、ちょっと頼まれてくれない?」

「なんでしょう?」

「腕が痛くてね、二階への梯子を上がるのが、おっくうなんだけど、良かったら、二階に行李(こうり)があるから、その中から、雪駄(せった)を持って下りてきて欲しいのよ、いい人に買っておいた物でね。昨日、うちに来てくれた時にあげ忘れたからさ、今夜、両国広小路で会う約束をしているんだけど、その時に渡したいのよ。まあ別に、その後、うちに来てくれると思うからね。それまで持っていてもいいんだけど」

「よござんすよ」

 おせんは返事と同時に立ち上がり、台所脇にある二階への梯子をばたばたと駆け上がった。いい人というのは、もしかしたら長吉のことかと思った。だとしたら、雪駄欲しさn長吉をこの家へ寄らせたくない。それにお客様であるお鶴に対し、意地悪なことばかり言ってしまったという悔恨があったので、おせんは二つ返事でお鶴の指図に従ったのだ。

「あっ」

 二階に顔を突き出したとき、おせんの視界にはまず、敷かれたままの夜具が飛び込んできた。すぐに目を伏せたが、人が出て行った形を留めた搔巻と、枕がふたつ。使用して、ぐしゃぐしゃと、握り潰した無数の懐紙が散乱している様子がしっかりと眼の裏に焼きついてしまった。

ーこれを見せたかったんだ、あの人は。あたしを、あの人の女房だと、端から知っていて呼んだんだから。

 疑念が確証へと変わると、悔しさで涙が溢れた。

ーここでもたもたすると負けだ。

 おせんは袂を上げて手荒に顔を拭き、畳に這い上がった。お鶴の言った行李はすぐ目の前にあった。膝でいざなって行李の蓋を開け、雪駄を取り出した。支奈染めが粋な雪駄で、いかにも長吉好みという感じがした。

ーうち人にあげるんだね。

 大野屋の檀那は六十近いはずだった。太って狸みたいな爺だ。そんな年寄りに、この雪駄が合うわけがない。下に降りる前に、笑顔を作る練習をしてみたが、どうやっても卑屈に歪んでいるように思えてならなかった。


 「やはりつぶし島田にしておくれ」と、殆ど結い終わってから、お鶴は髪型の変更を訴えた。そのため、予定よりも余計に時間がかかってしまい。おせんがすずめ長屋へ戻ったのは、すでにお天道様が天辺に登ったころだった。裏店の隣りが回向院ということもあり、蝉の音が、人の会話を遮るほどうるさく響いていた。

「随分と遅かったじゃねえか」

 小梅と並んで昼寝をしていた長吉が、顔だけあげて、ふて腐れた声を出した。蚊遣りの煙が、眼に染みるほど、もくもくと渦を巻いていた。

「うん、ごめんね。お昼食べるかい」

 殆ど駆けるようにして戻ってきたので、おせんの久留米絣は、雨に打たれたように汗でべっとり濡れていた。衣が肌に張り付いて、気持が悪いほどである。長吉は、唇の端で不服そうにせせら笑っただけで、何も答えず天上を向いた。

「時間がかかった分、お足をたくさん貰ったからさ、途中で鮨を買ってきたんだ」

 おせんは、ほれ、水菓子もあるよと、片手に鮨の折詰、片手に笊に乗せたスイカを持った手を、顔の位置まで上げて微笑んだ。

「おお、いいね、いいね。笊はどうしたんだい?」

「切ったすいかをそのまま持ってこれないだろう。店主に貸して貰ったんだ。後で返しに行かなくちゃ」

「店主って宗治か?」

 長吉が上擦った声を出した。

「そうだよ……」

 長吉は起き上がり、妙に張り切った声を出した。宗治は夏の間だけ、両国広小路で水菓子の屋台を出している。お鶴の雪駄が、おせんの脳裡にぴんと浮かんだ。今夜、長吉は、宗治に笊を返すことを口実に、お鶴に会いに出掛ける気だと、おせんは睨んだ。

「だったら最初から宗治って言えよ、何だよわざわざ店主って……そうか宗治の店か、だったら仕方ねえ、俺があとで笊を返しに行ってきてやるよ」

「……うんお願いね」おせんはうなずくと、長吉に背を向け、半分のスイカを三等分に切りだした。心なしか、包丁を握る手に力が入るが、おせんは努めて冷静を装った。しかしどうしても肩が怒る。

「他に用事でもあるのかい?随分と嬉しそうじゃないか、お前さん」

 おせんは背を向けたままで言った。低く、胃に響くような、怖い声になってしまった。

「いや、ねえよ。だけどよ、宗治とも暫く会ってなかったからさ……」

「そうだったかい。宗治さんとは湯屋の二階で、いつも二人で女湯を覗いているとばかり思っていたけどね、お前さんもそう言ってたし、この間だって、門前町に一緒に飲みに行ったんじゃなかったかね。それともあたしの聞き違いかしら」

 おせんは、なるべく感情を表に出さないようにして言ったつもりだったが、振り返ると、長吉が青い顔をしていた。これ以上、追い込むことはやめといた。もし素直に認められたらどうしようと怯えたからだ。おせん強張る頬を膨らませ、むりやり笑顔を作った。

「宗治さん、いい人いないのかね?」

「ああ、女か?」長吉の声がほっとしている。

「なかなかの男前なのにね」

 まな板の上で、きれいに三つに切られたスイカが、そのまま長吉の前に出された。折詰めにされた鮨の存在は、忘れてしまっていた。

「あいつは昔からお前のことが好きだかならな」

「そうかしら」

「そうだよ」

 胡座をかき、眼を半分だけ開けた長吉が、早速、スイカに手を伸ばした。

「あらあら、それは大変ね」

「なにが大変なんだよ、おい、鮨は?」

「あっ、お前さんお願い。小梅、汗だくじゃないの」

 おせんは寝ている小梅の汗を手拭いで拭いてやると、「小梅、スイカだよ」と起こし、小袖を脱がしてやった。暑いので、湯文字一枚だけの恰好にすると、背中と胸に、一カ所づつ、蚊に刺された跡があった。「さあさあ、宗治おじちゃんのスイカだよ、お食べ」スイカを取ってやると、汗で濡れた髪を、頭の天辺で括った。小梅はまだ、ぼーっとしかめっ面でスイカを睨んでいる。おせんは小梅の背中と首を丹念に拭いてから、小梅の背に、団扇で風を送った。

「おいおい小梅だけかよ。亭主も大切にして欲しいもんだね」

 長吉は妬ましい顔で言ったが、すぐに思い出したように膝を打つと台所へ立って、(かまど)の上に、無造作に置かれた鮨の折詰めを持って来た。

「やさしい女房が欲しいな」

「お前さんには使える手が二つあるでしょう。小梅は両手でなくちゃ、スイカを持てないんだよ」

「ちぇっ、女は年月が経つとこうも変わるもんかね。昔はかわいかったのによ」

 長吉は子供のように口を尖らすと、スイカの種をおせんに吹き飛ばした。おせんは当然、いやな顔をしたが、小梅はけたけたと幼児らしい笑い声を立て、父親を真似た。しかし思うようには飛ばせず、ぶっと、よだれと共に畳に落とした。

「もう汚いね、小梅、やめないと叩くよ」

 おせんが手を上げて叩くふりをしたので、小梅が、亀の子のように首をひっこめた。

「おっかあ、めっ。たたかないでちょうだいね」

 母親似の、黒目の大きな、それでいて少し埴輪(はにわ)を思わせる眼を、ぱちくりさせて小梅が怒った。

「大袈裟だね小梅は、それじゃ、まるでおっかあが、しょっちゅうあんたを叩いているように見えるじゃないか」

「坊主ならともかくよ、娘は折檻すんじゃねえぞ」

 手拭いを、おせんの頭から剥ぎ取った長吉は、荒っぽく口を拭うと、またごろり横になった。

「だから、折檻なんてしてませんよ。変なこと言わないで欲しいね。ねえ小梅」

 意味も分からず小梅は、ねえとうなずいた。どんなに遊びに夢中になっていても、ねえ小梅と、同調を求めると、小梅は必ず、ねえと、愉しそうに返してくれる。意味を理解していなくとも、軽やかな小梅のねえを聞くだけで、時に鬱屈したおせんの気分も晴れるのだ。

「ところでよ、おかめ」

 長吉は寝転んだ恰好で言った。そして、桃色の湯文字を巻いた尻の下からちょこんと覗いている、小梅の足の親指の裏をぺろんと舐めた。小梅がひゃっと言って長吉に振り向いた。顔から胸にかけて、スイカの汁で汚れていた。

「なんだいお前さん」

 おせんは、小梅の胸に張り付いた、スイカの種を取ってやって、それをついつい飯粒と間違えて口に運んでしまい、あらいやだと言って、ぺっと掌に吐き出した。

「その気前のいい客って誰なんだよ、まさかすけべなヒヒ爺じゃねえだろうな」

 長吉は肘枕で片膝を上げ、小袖の合わせ目から丸出しになった脚をぼりぼりと掻いている。おせんは最初、答えなかった。無言で長吉の食べ散らかした鮨を片付けた。

「なあ、どうなんだよおかめ」

「さあね」

 そっけない返事をしたが、内心、慌てていた。まさか客のことを聞かれると思っていなかったのだ。スイカの皮の乗ったまな板を台所に運びながら、どんな人物をでっちあげようかと必死で考えた。

「さあね、だと」

 長吉が、半身を起こしてこちらを凝視しているのが気配で分かった。生ゴミを分け、水桶にまな板を浸すと、前垂れで手を拭きながら、おせんは嘘を吟味した。

「おい、こっち向け」

「もうっ」

 両手で頬を挟み、笑顔を作ってから、振り返った。「あれっ」驚いたことに、長吉はおせんの背後に突っ立ってた。片手を鴨居にあて、少し腰をかがめておせんを覗き込んだ。

「なに笑ってんだよ、薄気味悪いな。おい、客は誰で、どこの町に住んでるのか言いな」

ーこの人、自分が浮気者だから、あたしを心配してんだ。馬鹿だよ、ほんと。

 いつものことだった。疑わしそうに女房を眺める長吉を、おせんは睨むように見据えた。

「言えねえのか、えっ?」

「ばか」

「ばか?」

 長吉は、首筋に止まった蚊をぱしりとやって掌を眺めて、打ち損じたとつぶやくと、刺された首を掻いた。すると諦めたように背中を向け、さっさと茶の間に入っていった。

「まあ、おかめが浮気するとは思えねえけどよ。ぶすだしな。だけどよお前、馴染みだといって、客に尻を触らせんのもだめだぞ、そういう小さな切欠から、どんどん深みにはまっていくんだからな。誘惑されそうになったら、俺と小梅のことを思い出せ」

ー何を偉そうに減らず口。

 いつもなら口に出し、小さな小競り合いなるところだが、今日は、お鶴のことがある。とんでもない喧嘩に発展しそうな気がしたので、言葉を呑んで、おせんは未だ喋り続ける長吉を見ていた。

「男というのはよう、どうしようもない生き物だから仕方がねえが、女はだめだ。特に女房の浮気は笑えねえ。お前も覚えてるだろう、二間隣りに住んでいた錺職(かざりしょく)の彦六と、その女房、なんて言ったかな?」

「お北さん?」

「そうそうお北。小股の切れ上がったいい女だったなあ」

 長吉は、おせんがげんなりするほどの間抜け面で虚空を見上げた。


 絹を引き裂くような女の悲鳴を、回向院が突く除夜の鐘の合間に聞いたのは、二年前の大晦日だった。

 底冷えのする寒い夜で、酒でも飲まなきゃ年が越せねえと、いい加減なことを言いながら、長吉は手酌で飲んでいた。長火鉢の脇には、おせんが朝からこさえた、正月の祝い肴が重箱を満たしている。

「正月だ、おかめ、お前も飲みな」

 酒がだいぶ回ったのか、長吉は、真綿の詰まった半纏(はんてん)の上から前垂れを巻くという、着ぶくれしたおせんの肩を抱いて引き寄せた。あたしはいいよと言うおせんの唇に、むりやり盃をつけ、おせんが飲むのに合わせて仰向けた。

「いい飲みっぷりじゃなえか、おかめ」

「あたしなんか酔わしたって愉しくないでしょう」

 前垂れの端で口を拭ったおせんは、長吉の股をぴしゃりと打ち、火鉢の灰を掻き馴らした。

「いや、酔った女房もなかなか色気があるのよ。おかめ、何か食べるか?」 

 水を飲もうと膝を浮かしたおせんの肩を抱き込んだ長吉は、たたき牛蒡(ごぼう)を取っておせんの口に運んだ。その時である、大きな叫び声が、新年を迎える裏店に響き渡った。

「なんでえ、ありゃ?」

 長吉は、一瞬の間も置かずに、箸を投げ出して外へ飛び出して行った。

「お前さん、ちょっと待ってよ」

 身体を突き放されたおせんは、眠っている小梅に、隙間ないように布団を掛けなおすと、長吉の後を追って外へでた。叫び声は二軒隣りから発せられたようだった。軒先には、既に人集りが出来ていた。隣りのおすえが、大きな躰をつま先立ちで支えて、隣家の様子を窺っていた。おせんは、おすえの体重を支える鼻緒が気になったが、いまはそんなことを言ってる場合じゃない。頭をぶるぶる振って

「何があったの?」

「ああおせんちゃん、なんだか分からないんんだけどね、彦六さんが包丁を振り回しているらしいんだよ」

「彦六さんが包丁を……うちの人が……」

「おせんちゃん危ないよ」

 袂を掴むおすえの手を振り払い、おせんは人垣を分けていた。彦六が包丁を持ってると聞いて、駆けだして行った長吉のことが心配になった。彦六は無口で大人しい男だが、包丁と、女の叫び声の組み合わせは尋常じゃない。

 長吉は酒飲みの昼行灯だ。しかし正義感だけは強いし、腕っ節には自信があるらしく、弱い立場の人間を見掛けると、見て見ぬふりのできない性分だ。理不尽な振る舞いをする相手と喧嘩をし、自身番にしょっぴかれたことも二度、三度じゃあきかない。長吉はきっと家の中に踏み込み、騒動に巻き込まれているという確信があった。

ーお前さん。

 心で叫びながら、長吉を探した。やっとのことで、灯りが伸びた土間に足を踏み入れると、茶の間の端に、首を垂れて蹲る彦六と、奪い取ったのだろう包丁を手に、茫然と彦六を見下ろす長吉の姿があった。

包丁には、血がべっとりとついており、長吉の足元や、彦六の座る畳の廻り、障子の所々に血の跡が見えた。首を伸ばして茶の間を覗くと、夜具にも血が染み込んでいた。だが肝心の彦六の女房の姿は見当たらない。長吉と同じ様に駆け込んで来た数名の男衆の以外、他に女の気配は感じなかった。

「ん……」

 おせんはふいに顔を歪め、袂を持って鼻を覆った。室内は、おせんがこれまで嗅いだことのない異様に濃い血の臭いで充満していた。

「お前さん」

 呼び掛けると、長吉ははっと顔を上げておせんを見た。険しく鋭い目は、なぜ入って来たと咎めていた。その心情は、すぐに言葉や行動で表された。

「女がしゃしゃり出て来るんじゃねえ、ひっこんでろっ」

 凄まじい剣幕で怒鳴ると、ずかずかと近づき、おせんの帯を掴んで人混みに押し倒した。おせんはそのとき変な転び方をして、足首を捻挫したのをいまでも恨みに思っている。


「あのとき、あんたに押されて足を痛くしちゃったんだから」

 おせんは恨み節で言うと、いまはちっとも痛くない足首をさすって長吉を睨んだ。

「お前はしつこい女だね」

 そう言うと長吉は、物干し場に洗濯物を取り込みに行くというおせんの後を、母恋しと追いかけ回す幼子のようについて歩いた。小梅は近所の子たちと遊びに出掛けた。小梅の方が、長吉よりも随分と、おせん離れをしているようだ。

 途中、井戸端で、おすえや、裏店の女房衆に会うと、長吉は片手を上げて、よっと気安く挨拶をした。そんなところが意外と女房たちにはうけが良く、二、三たわいのない掛け合いをしては、大声で笑ったりしていた。

「結局、お北さんは命を落とさなかったんだよね、不幸中の幸いだったよね」

「不幸中の幸いなもんか、最愛の女房に浮気されてよ、まあ、不貞を働いたのは女房の方だがら、お上の寛大なご処置で彦六は不問となったが、結局、江戸には住めねえと、播州の田舎に引き揚げてしまったじゃねえか。だからって向こうに親兄弟がいるわけじゃないんだよ。彦六は身寄りのない男だったんだ。いい職人だったのに勿体ねえ……奴はあんときまだ、俺と同じ二十七だぜ」

 物悲しく言う長吉の横顔を、おせんは洗濯物を胸に抱え込んだ恰好で見つめた。確かに長吉の言う通り、彦六は女房のお北を宝物のように可愛がっていた。決して醜男ではない錺職の彦六が、どこの馬の骨かわからないお北なんかに骨抜きになっちまって情けないと、口の悪い人々に陰口を叩かれても彦六は、一向に気にした素振りを見せずに、真冬なんかは、お北に水仕事をさせないほど慈しんだのだ。血の上で項垂れた、彦六の姿が思い起こされ、おせんの胸は、寂寥でいっぱいになった。

 陽射しは傾き始めていたが、じりじりと灼きつける太陽の輝きは健在で、細面の長吉の額際や、首筋は玉のような汗を吹きだしていた。

「お前さん納得がいかないんだろう。お北ちゃんが江戸十里追放で済んだことが」

「したってよ、ふつう不義密通は死罪じゃないのか?」

「そういうけど、お北ちゃんはまだ十七だったんだよ。浮気はさ、気の迷いってこともあるんじゃないかな。きれいな娘だったしさ、……そういうところを考慮されたんだよ、きっと」

「だったら相手の男はどうなんだ、お咎めなしはおかしいだろう」

「相手は、お北ちゃんとは一緒に酒を飲んだだけだと言い張るんだもん、お北ちゃんも口を割らないし、仕方ないさ、不倫の現場を見つけない限りどうしようもないだろう。お武家じゃあるまいしね」

「なんでそうお北なんて娘を庇うんだよ。お前。言っとくけどな、おせん、浮気なんかしやがったらぶっ殺すぞ」

「はいはい、そうでしたね。でもね、いつも浮気をしてんのは、あたしじゃなくて、あんただろう」

 強めに言い切って、家に戻ろとするおせんの後を、長吉は、せっせと追いながら話し続けた。井戸端を通るとき、また女房衆に会った。その中の一人で、おとせという二十代後半の女が、

「金魚の糞みたいに女房について廻るんだったらさ、他の女と悪さするんじゃないよ」

 と、からかうように声を張り上げたので、他の女房や、家の軒先で寛ぐ老人らから、どっと笑いが起きた。長吉は不服そうに唇を尖らせながら辺りを見渡した。

「なんだいなんだい、おかちめんこの女房連中や、死に損ないのばばあらが寄って集って人をバカにしやがって。よう、おとせ」

 長吉は、おとせの丸い肩に手を乗せた。最近、肥えすぎじゃねえかと肩を揉んでから

「亭主にかまって貰えねえときは、いつでも俺の家の戸を叩きな、自慰(じい)の仕方を教えてやるからよ」

 おとせを挑発した。

「あーら、長吉さん」

 おとせは、洗っていた大根を片手にぶらさげて立ちあがり、

「おあいにくだけどね、うちの亭主は、毎晩しつこいくらいなんだよ、自慰なんて必用ないね」

「へっ、どうだか」

「それとも長吉さん、あんたが慰めてくれるとでも言うのかい。それならあたしゃ構わないよ、いい男だしさ、前から好みだったんだよ、ハハハハハハ」

 おとせが大笑いしながら、丸顔に、線をひいたような細い眼を、長吉に近づけてきた。長吉が思わず後ずさる姿に、みんな笑いを堪えた顔で、おとせ、長吉、おせんを順々に見ている。おせんは、どちらかというと背丈もあり細身だが、胸や腰には色っぽい丸みのある女である。おとせよりは器量も良かった。大量の洗濯物を抱えたままの恰好で突っ立って、成り行きを見守っている。

 「いいや、悪いがおとせ、うちはうちの山の神で間に合ってる。おとせはな、この大根で我慢しなよ」

 長吉は、おとせがぶら下げている大根を取り上げて、おとせの胸にぽんと押し付けた。(この場合の山の神とは、貧乏所帯に嫁いできてくれる女を有り難い存在と崇めた言葉であり、当時は裏長屋の女房をそう呼んだ)

「もう、いやだよ長吉さんたら、こんなの大きすぎるに決まってるじゃないか」

「ほいよ、だったら干して沢庵にしてからでどうだい?おめえんとこの亭主の萎びたのよりは、ずっとましだと思うぜ」

 まだ懲りずに喋り続ける二人を尻目に、おせんは、ばかばかしいとつぶやき、家の方へ向かった。おせんの隣りはおすえの家、その反対側は稲荷祠になっており、祠と道を挟んだ斜向かいが厠だ。

 祠の辺りから子供達の歌う手鞠歌が聞こえてきた。小梅もいるのかしらと、家の角から首だけ覗かせると、大きなお姉ちゃんに交じって小梅が遊んでいた。しゃがんで、地面に絵を書いている。 

「小梅」

 他の子の邪魔にならない声で呼び掛けた。小梅はいつものように顔だけ向けて母親を見た。

「かわいい」

 思わず声に出して言っていた。小梅が、丸い尻を向けた恰好で首を捻る姿を見るたび、おせんは、ミツバチがしゃんがんで振り向いたらこんな感じかしらと想像する。それほど愛しい仕草であった。


 夕餉の最中から、うとうとしていた小梅を早めに寝かせ付けたおせんは、夫婦の夜具を敷き述べていた。時折、ちらちらと眼をあげて、肘枕をついて爪を噛む長吉を見ている。

ー今日は出掛けなかった。

 両国橋のたもと、広小路まで、宗治に借りた笊を届けに行った長吉は、寄り道もせず、湯屋にも行かず、ものの小半時足らずで戻ってきた。お鶴から受け取ると思われた雪駄も手にしていなかった。

「お前さん、昼間の話しだけどさ」

「彦六のことか?」

 気怠そうに答える長吉の前に膝を揃えたおせんは、真面目な話しなんだけど、と、神妙な声を出した。長吉が身構えたのが可笑しかった。

「不義密通は死罪だと言ったでしょう。だったら、男の人も同じだと思うのよ」

「なんのことだよ」

 長吉は鼻で笑ったが、おせんの目を見ようとしない。堅くした躰をおせんとは反対の方に向け、また爪を噛みはじめた。

「岡場所の遊女や、酌婦となら、……ほんとはいやだけど目を瞑るよ。でもね、他はやめとくれな」

「下らないことを言ってるんじゃないよお前は。なんの話しか、皆目見当がつかねえや」

 長吉は言うと、躰を捻っておせんの額を小突き、立ちあがった。

「どこに行くの?」

「湯だよ」

「えっ!」

 急いで長吉を追って下に下りて行くと、土間に立った長吉は、ぬか袋と手拭いを両手に掲げていた。

「行ってくるよ」

「待って、ならあたしも行く」

ーあの女狐のところに行く気だ。行かせてなるものかと、おせんは長吉の袂を握り込んだ。

「お前さん……」

「小梅はどうすんだよ」

 長吉は苦笑いをした。ぬか袋と手拭いを片手に持ち直し、泣き顔になっているおせんの背に手を廻して抱き寄せた。さっき見た時、小梅は、すやすやと穏やかな寝息を立てて眠っていた。口が微かに開いているのは、疲れている証拠だろう。しかし、置いていくわけにはいかなかった。もし何かの拍子に眼を覚ましたりでもしたら、小梅は、まるで身を切り裂かれたような声で泣き出す。以前にもそういうことがあった。小梅が寝ているからと、親だけで湯屋に行った。すると小梅が起き出し、二階の寝間で泣き出した。万が一小梅が落ちないようにと梯子を外し、天上板を填め込んでいたので二階から落ちるという危険性はなかったが、泣き声が聞こえたら行ってくれと、おすえに声を掛けておいた。小梅の泣き声で隣家に駆け付けたおすえが、いつものように抱いてゆすり、なかなか泣き止まないので下に降りてあやしたが、いくら落ち着けようとしても、躰を反らせて嫌がり、戸口に手を伸ばして、おっかあ、おっかあと、まるで憑き物でもついた様だったと汗を掻いていた。たった半年前のことである。それ以来、寝ている小梅を置いて出掛けることは避けてきた。

「小梅が寝てるじゃねえか」

「そうね……」

 長吉の袂から手を離し、すとんと上がり框に膝を折ると、おせんはうつむいた。抜いた衿から、清潔な襦袢が見えるほど、首を下に垂れている。

「お前さん、湯銭は?」

「持ってるよ」

「そう……」

「じゃあ、行ってくるよ」

 躊躇うような、弱々しい口調で長吉は言った。

「やだ」

「ん……?」

「お前さん、行かないで」

 おせんの、長吉を見上げる目に涙が膨らんだ。

「なっ何を言ってやがる、湯屋くらいで」

 縋り付くような目から逃げるように、視線を逸らした長吉は斜を向き、口元を手で覆って困惑している。しばらく黙ってそうしていたが、やがて大きな溜息を吐くと、行って来るよと、振り向きもせず、急ぎ足で出て行ってしまった。


「今夜は年増婆ばかりだな」

 水菓子売りをしている青物屋の宗治が、湯屋の二階座敷の床に取り付けてある格子窓から女湯を覗いている。

「ふん、好きだねえお前も」

 長吉は、菓子を口に放り込んで仰向けに寝転んだ。両掌を枕にして、天上を向いて考え込んでいる。おせんを振り切って家を出て来たのはいいが、予定していたお鶴の家に行く気にもなれなかった。おせんの涙を見た後では、どうも気分が萎えて、立ち直れない。

 何時、何処から、おせんに漏れたのか、それともただの疑いなのか、どちらにしても、お鶴との関係を断ち切る時期にきているのだと思った。これまでの浮気の中で、お鶴はいちばん長続きした女だった。お鶴は、道を歩けば、人が振り返るような美貌の持ち主で、性格もさっぱりしていて気持がいい。長吉は、お鶴と別れることを惜しんだ。しかしこのまま情に絆され、お鶴と別れる時期を逃せば、待っているのは地獄である。おせんは美人でないが、良く尽くしてくれているし、料理の味もいい。それになんと言っても娘が可愛い。家庭を壊す気など、さらさら無かった。

「いい女だったんだけどな」

「えっなんて?」

「いいや」

 長吉は溜息交じりの返事をした。行く所がないので湯に入り、そのまま帰るのも気が引けたので、湯屋の二階に上がったが、そこでばったり宗治に会った。いつもは商人や武士で賑わう二階も、今夜は二人以外に、将棋をさしている武士が数人、それ以外に客はいなかった。

「おおっ!」

 宗治が大声を出したので、長吉に限らず、武士の面々も手を止めて、格子窓に、いやらしそうに張り付く宗治を見た。

「なんだよ」

「うわっ見ちゃった」

 宗治は女のように両手で口を隠して恥じらっている。

「なんだ、なんだ、そんなにいい女か」

 だらしのない顔になった長吉は、四つん這いで格子窓に近づいた。お武家も気になるようで、ちらちらと格子窓の方を窺っているが、やはり体面があるらしく、腰を上げるまでには至らなかった。

「だめだめ、お前はだめ」

「なんでだよ」

 躰を突っ伏して、格子窓を覆い隠す宗治を、長吉は押しやって女湯を覗いた。そしてすぐに顔を上げ、胡座を掻くと、どこまで見たと、低い声を出した。さっきまでのにやけ顔は消え、どこか険しい怒りの色を含んでいた。

「あっ……頭、顔、乳房に、尻……」

 身振り手振りで身体の部位を表現する宗治の頭を思いきりひっぱたいた長吉は、もう一度、格子から階下を見下ろした。小さな格子窓のすぐ真下には、目をこすり、寝ぼけたように立つ小梅と、その小さな躰を洗うおせんの姿があった。

ーいい身体をしてるな……おせん。

 本気でそう思った。白い肌は磁器のようにつやつやと輝き、手に余るほど膨らんだ乳房は、触れるとずしりと重くて弾力がある。腰はくびれているが、少し出た下腹は、小梅を生んだ母の証だ。尻から股にかけての膨らみも、小梅を生む以前は骨っぽかった。そこにあるのはまさしく、長吉が慣れ親しんだ躰だった。

 何度も欠伸を繰り返す小梅に、おせんはしきりに話しかけていた。すると長吉は思い出した。その昔、父親と喧嘩して家を飛び出した母親が、寝ている長吉を人質変わりにおぶり、夜の町に出て行った時のことである。一つ歳年上の姉は、母親に手を引かれていたが、いまの小梅のように何度も欠伸をし、目を擦り擦り、擦り着いてきた。時折、足を絡めて転びそうになるのを、母親に手を大きくひっぱり上げられて釣り下がり無事だったが、母の実家がある深川北松代町まであと、もう少しという新辻橋の辺りまで来ると、さすがに母の手を振り払い、行く手に立ち塞がり、大きく手を広げて、だっこ、だっこと飛び跳ねた。

「長吉をおぶってるんだから、ねっ、もう少しがんばろう」

 そう言って長吉をゆすり上げた母の背の温もりと、姉をなだめる母の自責のようなものが、今のおせんと重なった。

「悪かったな」

 今度は声に出してつぶやいた。

 翌朝、母親を実家まで迎えに来た父親が言った言葉だ。両親の喧嘩の理由は聞いてないが、母親の放った「何よあんな尻軽女」という言葉が耳に焼きついて残っていた。当時五歳の長吉には意味が分からない、「しりがるおんな」に、このところ大変、お世話になっているような気がする。とにかく、両親の夫婦喧嘩の原因が朧気(おぼろげ)に見えて来たのは十歳の頃だった。

 おせんが洗い場を出たのを確認した長吉は、もう一度、強く宗治の頭を張ると、脱衣所から出て来るおせんと小梅を迎えようと、ゆっくりとした足取りで梯子を下りて行った。

ー親子三人、広小路で冷水でも食うか。

 湯屋の暖簾を開けて外に出ると、生暖かい風が肌をじっとりと湿らせた。空を見上げると満月だった。どうりで明るいやと、長吉は微笑むと、手拭いを首にかけ、額と鼻の下の汗を拭った。

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